三井財閥
三井財閥(みついざいばつ)は、三井高利の創業した三井越後屋(現在の三越・三井住友銀行)を元に始まった日本屈指の財閥。三菱財閥・住友財閥とともに日本三大財閥の一つとされる。
江戸時代
伊勢国松坂の商人、三井高利が創業した越後屋三井呉服店(三越)は、「現銀掛値なし、切売り」など当時としては画期的商法で、またたくまに成功した。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。
幕末は、他の商人同様経営は乱れるも、新政府に取り入り政商としての道を歩んでいく。
明治以後
三野村利左衛門、中上川彦次郎などの人物を採用し、経営の近代化を進めていく。
1876年、三井銀行・三井物産を創業。その後も、事業を拡大し紡績業、鉱業、機械などにも進出。多数の企業を傘下に加え、1909年三井合名会社を設立。日本最大の財閥へと発展を遂げる。
岩崎家の同族主義が強かった三菱財閥に対し、有能な人材を多く配したことから「組織の三菱、人の三井、結束の住友」と言われたり、三菱「独裁政治」三井「番頭政治」住友「法治主義」と言われている。
主な人物 益田孝、山本条太郎、井上馨、團琢磨、池田成彬、日比翁助、武藤山治、藤原銀次郎、馬越恭平、万代順四郎、向井忠晴、萩原吉太郎、小山五郎、江戸英雄
現在(財閥解体後~2024年現在)
戦後、他財閥と同様「三井グループ」としてグループ化をするも、相対的弱体化を余儀なくされる。その主な原因は、戦後第一銀行の分離により三井銀行が被った大きな損失で、三井銀行は資本金の約50%を失った。
そのため三井系会社が必要とするクレジットを提供することができなくなり、グループのいくつかに対する影響力を失い、他のグループの銀行がこれらの会社の主要な債権者になった。また三井系の生産会社間の有機的、生産的、金融的結びつきの弱さがもう1つの原因となり、一連の会社が三井との関係を弱めたり分離したりすることになった。
さらに三井グループの中核会社である三井物産の解体も大きく影響し、三井物産を基盤にしてすすめられた三井物産と第一物産の再合同は、第一物産が富士銀行の融資系列化にあったため手間取り難航した。
そのため三菱グループや住友グループなどと比べてもゆるやかな連合体となっており、グループ企業には独立色の強い企業(トヨタ自動車、東芝など)や他の企業グループに重複して加盟している企業もある。
2001年に三井グループの中核銀行であるさくら銀行が住友グループの中核銀行・住友銀行と合併して三井住友銀行が誕生したことに伴い金融面では三井住友フィナンシャルグループが誕生し、他業種でも三井系と住友系の企業の合併や業務提携が相次いだ。源流企業の三越は、三菱東京UFJ銀行との関係が深い伊勢丹と2008年4月に合併、経営統合する予定である。