熊野古道

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熊野古道(くまのこどう)は、熊野三山熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称。

概要

熊野古道とは、主に以下の5つの道を指す。多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録されたが、紀伊路は登録されていない。なお、これは「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」(スペイン)と共に珍しい道の世界遺産である。

紀伊半島は、日本でも有数の降雨量の多い地域である。このため、所々に石畳で舗装された道跡が残っている。また江戸時代、紀州藩により整備された一里塚が残っている個所もある。

しかし、熊野古道の中には、国道や市街地に吸収されてしまったものもある。たとえば、かつて十津川街道として知られていたルートは国道168号線に吸収されており、紀伊路(大阪-田辺)が登録外であるのも同様の事情による。また、登録されたルートでも、大辺路・伊勢路の大部分は国道42号線に吸収されている。

こうしたことが生じるのは、ひとつには紀伊半島の地理による。すなわち、紀伊半島の中央部は、際立った高山こそないものの、どこまでも続く山々と谷に覆われているため、古来より交通開発が困難であり、交通路が敷かれうる場所も限られていた。そのため、小辺路や大峯奥駈道のような例外はあるものの、古人の拓いた道と現在の主要な交通路が、並行(中辺路と国道311号線、JR紀勢本線国道42号線の紀伊半島部分と大辺路・伊勢路)していることや、重複(前述)していることが少なくないのである。また、熊野詣それ自体の盛衰もあって、正確なルートが不明になっている区間があること、歴史的な変遷から生じた派生ルートの扱いなどの問題もあり、世界遺産に登録されたものが熊野古道の全てではないことに留意する必要がある。また、そうした「忘れられた」ルートを再発見しようとする地元の動きもある。

歴史

熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。

907年宇多法皇の熊野行幸が最初と言われる。

熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年白河上皇の熊野行幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野行幸を行った。これにより京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野行幸を行っている。

江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようになったといわれている。一時は、熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が記録されたこともあったようだ。

明治維新後、神仏分離令により熊野古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。

熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけた。

九十九王子

熊野古道(特に紀伊路、中辺路)には大阪の基点であった淀川河口の渡辺津(窪津、九品津)から熊野三山までに100近くの熊野権現を祭祀した九十九王子があった。現存するものは少ない。

関連項目

熊野古道の地図

熊野古道の地図

外部リンク