松平容保

提供: Yourpedia
2008年4月10日 (木) 22:11時点における220.99.39.164 (トーク)による版

移動: 案内検索
晩年の松平容保

松平 容保(まつだいら かたもり、天保6年12月29日1836年2月15日) - 明治26年(1893年12月5日)は江戸時代末期大名陸奥国会津藩の最後で9代藩主である。京都守護職でもある。美濃国高須藩主・松平義建の六男で母は側室古森氏。兄に徳川慶勝徳川茂徳、弟に松平定敬などがあり、高須四兄弟の1人。幼名は銈之丞。官は肥後守。号は祐堂、芳山。神号は忠誠霊神。正室は松平容敬の娘。子は松平容大(長男)、松平健雄(次男)、松平英夫(五男)、松平恒雄(六男)、松平保男(七男)。養子に松平喜徳

経歴

会津

弘化3年(1846年)に8代藩主・容敬の養子となり、嘉永5年(1852年)に会津藩を継ぐ。万延元年(1860年)に大老井伊直弼水戸藩浪士に殺害された桜田門外の変では、水戸藩討伐に反対する。井伊暗殺後に朝廷や薩摩藩の後援で将軍後継となった一橋慶喜(徳川慶喜)、政事総裁職となった福井藩主・松平慶永らが文久の改革を開始すると、文久2年(1862年)に新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推される。元々病弱な体質でこの当時も風邪をひき病臥していた容保は、はじめ家臣の西郷頼母らの反対により固辞するも、慶永らの強い勧めによりこの大役を引き受けることとなる。

京都守護職

京都守護職に就任した容保はさっそく会津藩兵を率いて京都へ上洛し、孝明天皇に拝謁して朝廷との交渉を行い、最初は倒幕派の者とも話し合っていく「言路洞開」の方針で治世をすすめた。最初の容保の動向に対しては慶喜たちは呆れていたという。その容保が激怒する徳川家に弓引く事件が起きた。足利三代将軍の晒し首事件(足利三代木像梟首事件)である。これが起因で容保は政局を180度変更して配下に壬生浪士組(後の新選組)などを使い上洛した14代将軍・徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたる。彼自身は公武合体派尊王倒幕派と敵対し、元治元年(1864年)の禁門の変などで、長州藩の勢力排除に動いた。慶応2年(1866年)に孝明天皇が崩御し、容保本人は守護職辞退を何度も申し立てるが幕府も朝廷も認めなかった。朝廷の命令により、容保は京都残留となる。翌慶応3年(1867年)に15代将軍・徳川慶喜大政奉還を行い江戸幕府が消滅すると京都守護職も廃止される。王政復古が行われ、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府の兵との衝突から鳥羽・伏見の戦いが起こると会津藩兵も戦うが、大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱すると従い、定敬らとともに幕府軍艦で江戸へ下る。慶喜が新政府に対して恭順を行うと、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内では武装恭順が大方の重臣の意見であった。

会津戦争

容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行う。西郷隆盛勝海舟の会談により江戸城の無血開城が行われたというが、実際にはイギリスからの攻撃停止の圧力に新政府軍は逆らえなかったのである。要出典新政府軍は上野戦争彰義隊を駆逐して江戸を制圧すると北陸地方へ進軍する。容保は幕府派の重鎮と見られて敵視され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津戦争を行い篭城し、降伏勧告に応じて佐川官兵衛らに降伏を呼びかける。

明治

その後は鳥取藩に預けられ東京に移されて蟄居するが、嫡男・容大(かたはる)が家名存続を許されて華族に立てられた。容保はそれからまもなく蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となった。正三位まで叙任し、明治26年(1893年)12月5日に東京・目黒の自宅にて肺炎のため死去する。享年59。死の前日には明治天皇から牛乳を賜った。なお、容保は禁門の変での働きを孝明天皇から認められその際書簡と御製(和歌)を賜ったのだが、彼はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。また幕末維新については周囲に何も語ることはなかった。

孝明天皇の宸翰の中には京都守護職である容保の職務精励を嘉する文章があり、如何に孝明天皇が容保を信頼していたかを物語っている。これは松平容保を乱臣賊子と決めつけた薩長主体の歴史観からは、甚だ都合の悪いもので、薩長側にとってはその存在を抹殺しなければならない程のものといえた。後に山県有朋はこの宸翰の内容を知って驚愕し、密かに2万円(現在の貨幣価値に換算すれば数億円以上の価値になる)で譲渡するように働きかけた。その勧誘の中には所詮会津松平は朝敵とばかり、半ば強談判に近いものもあったと言われるが、会津松平家からは一切黙殺されたという。

墓所は福島県会津若松市の松平家院内御廟及び東京都新宿区の正受院。

昭和

昭和3年(1928年・戊辰/明治維新から60年目の年)、秩父宮雍仁親王大正天皇第2皇子)と勢津子妃松平容保の六男・恒雄の長女=雍仁親王妃勢津子)の婚礼が執り行われた。会津松平家と皇族の結婚は、朝敵と汚名を着せられた会津藩の名誉が回復されたことを意味していた。また、同年には子母澤寛新選組始末記』、平尾道雄新選組史禄』が刊行されており、この年はこれまで逆賊とされてきた新選組再評価の転機となる年であった。

官職位階履歴

家系

正室は松平容敬の五女の敏姫で14歳で容保の正室となるが、19歳で死去した。その後、新たな正室として浦乃局を迎えている。側室は田代孫兵衛の娘の佐久(長男・容大、次男・健雄、五男・英夫、七男・保男の母)と川村源兵衛の娘の名賀(長女・美称、次女、三男、四男、六男・恒雄の母)の2人いた。佐久は容保が京都守護職の時代、身の周りの世話をしたらしい。

関連項目

参考文献

史料

  • 『松平容保公伝』(相田泰三、会津郷土史料研究所)
  • 『昔夢会筆記-徳川慶喜公回想談-』(渋沢栄一編、平凡社
  • 『松平容保のすべて』(綱淵謙錠編、新人物往来社)
  • 『会津藩士銘々伝 上』「倉澤右兵衛」(伊藤哲也著、新人物往来社
  • 『月刊歴史読本 幕末京都志士日録』「会津藩」(伊藤哲也著、新人物往来社)

小説

先代:
松平容敬
会津松平家歴代当主
1852年 - 1868年
次代:
松平喜徳
Wikipedia-logo.svg このページはウィキペディア日本語版のコンテンツ・松平容保を利用して作成されています。変更履歴はこちらです。