日本占領下の西ボルネオ
日本占領下の西ボルネオ(にほんせんりょうかのにしぼるねお、1942年 - 1945年)
初期
占領
1942年1月11日、日本海軍は、石油資源を求めて、蘭領ボルネオ・タラカンに進駐[1]。西ボルネオ地方は同月29日に完全に占領された[1]。
海軍は南方占領地の各島に「民政部」、各州に「知事庁」を設置して軍政を敷き[2]。カリマンタン島にはボルネオ民政部が置かれ、バンジェルマシン州を中心に、北部のタラカン州、西ボルネオのポンチアナク州に行政区分が分割され、当初の陸軍による軍政は、1942年5月頃から海軍による占領地行政に交代した[3]。
ボルネオ民政部ポンチアナク州知事庁はポンティアナク市に置かれ、同市には海軍の警備隊が駐屯していたほか、日本の商社も多数進出していた[4]。
陸軍から占領後警備の任務を引き継いだ海軍陸戦隊は、掃討作戦のためカプアス河を大発艇で遡行、シンタンを経てポトシバウに至り、1ヶ月間掃討作戦を続けた後、警備の任務についた[5]。
当時、西ボルネオにはインドネシア人と華人が住み、大小のスルタンが各地を領有していた[1]。占領後、軍務や民政行政、商社勤務のために日本人が同地に赴任[1]。州内の各県に日本人の監理官が派遣され、警察権、裁判権、自治領の監督その他のあらゆる地方行政を所管した[6]。
赤道標
ポンチアナク州の州都・ポンチアナク市は、ボルネオ島の西端、カプアス河に面した都市で、赤道直下にある都市として知られ、市内のカプアス河畔に赤道標が建てられていた[7]。ポンチアナク市にやってきた日本人は、よく赤道標の附近で赤道を跨いで立小便をした[8]。
同市の市街地は整然と区画されていて、オランダ統治時代の官庁や官舎があり、州庁とその職員は官庁・官舎を接収して利用した[9]。1943年4月頃のポンチアナクは、地理的には僻遠の地で、当初は飛行場もなく交通不便だったが、戦場から遠く離れていた[9]。赴任した日本の官吏は、広々とした官舎で、現地住民を使用人にして生活の世話をしてもらっており、食料も同時期の日本の内地に比べると豊富で、平和で楽園のような場所だった、という[9]。
資源とダイヤモンド
ボルネオ島は、鉄鉱石、石炭、石油、マンガン、水銀鉱、ボーキサイトなどの地下資源が埋蔵されており、森林資源やゴム、コプラなども豊富で、アジアでは唯一といわれるダイヤモンドの原石を産出した[10]。西ボルネオのランダック河流域は、南ボルネオ・マルタプーラのプレハリー地域とならぶダイヤモンドの産地(砂鉱床)だった[11]。
戦時中、ダイヤモンドは戦時用物資の中の必需品の1つとされ、野村東印度殖産が採取命令を受けて西ボルネオに展開し、ランダック河流域の砂鉱床におけるインドネシア人や華人による採取グループからの買付を独占し、また自社で砂鉱床の探査を行って直営採取を行った[11]。
造船所の建設
1943年1月頃、ポンティアナクにはSKK昭和組工作所によって造船所が建設され、5ヵ月後に海務院型機帆船(100トン型)・興海丸が完成して興南海運に引き渡されるなど、1年間で3隻を建造した[12]。 1944年にSKK昭和組は船台の数を増設して8ヵ所とし、バトゥアンパルにも工場が建設され、設備が整い、人員も増員されて、200トン船の建造も行われた[13]。
コプラの集荷
1943年初に、海軍省から南洋興発に、西ボルネオ全域でコプラを集荷してほしいと要請があり、南洋興発はポンチアナクに事務所を開設して、既に同地でコプラの集荷事業に携わっていた野村東印度殖産や住友ボルネオ殖産から事業の引き渡しを受け、プマンカット、シンカワン、クタパンに倉庫を設置して駐在員を派遣、海軍の指令により夏蜜(ヘメス)公司とコンファードックを買収し、椰子油を生産しながら、コプラの集荷に携わった[14]。
中期
飛行場の建設
1943年7月頃から、ボルネオ民政部の交通土木局は、ポンチアナクで飛行場(スンガイ・ドリアン飛行場)の建設にあたった[15]。町から16kmの川上に候補地を選定して作業を開始し、労務者2,000人の使役を想定して労務者用ハウスと事務所や倉庫、炊事場を準備し、各村に労務者の供出を割り当てて、村民を使役した[15]。工事は6ヵ月以上(1944年1月以降まで)続けられた[16]。
戦争中後期には、在留日本人の官民が軍の指示で勤労奉仕として何日か土運びをしたことがあった[17]。
独立の陰謀
1944年1月前後から、ポンチアナク市やその周辺で、現地住民の官吏や商社員、商工業者やスルタンなど多数が、独立の陰謀や日本人を謀殺しようとする計画に荷担し、それが実行前に露顕した、などとして海軍特別警察隊によって逮捕・連行され、そのまま行方不明となる事件が断続的に続いた[18]。
事件の発生や戦局の悪化によって、軍による市中の警備も厳しくなった[18]。
同年6月28日に、軍法会議で独立の陰謀を主謀したとして47人に死刑が宣告され、47人は即日銃殺された[19]。
同年7月1日に、海軍当局が現地駐屯軍発表として『ボルネオ新聞』に"事件の全貌"を発表[20]。クーデターは、ポンティアナク市を中心とする西ボルネオ地域のインドネシア人・華人・アラブ人が結託し、州知事庁・裁判所等の役人はじめ商社員・商工業者などで構成された反乱軍が、1944年1月3日を期して一斉に蜂起し、同地域在住の日本人(約700人と言われた)を皆殺しにする計画だった、とされていた。新聞は、夥しい銃火器が用意されており、それらを根こそぎ押収出来た、と写真入りで報じていた。[21]
全くの風声鶴唳だったのか、それともかなり事実があったのか未だに私は真相が判らない数次のポンチアナク反乱事件は矢張り重苦しかった(事件の主謀者の1人といわれた郡長パナギアンの息子フィルマン君が私の科に属していた。仕事も出来たし、またテニスの巧い好青年だったが、遂に朗らかに笑いきれない彼の面影に同情しやり切れない思いがした。(…))。
日本式教育
教育行政は、戦前「歴史、地理がなく大部分が自然科学に類するもの」で「属領統治の容易なように」する内容から、「民族意識昂揚の教育」で「独立の気運を促進する」内容に切替えられたというが[23]、1944年5月頃、ポンチアナク中学校では生徒が日本語をよく話し、吉田松陰のことを尊敬するようになっていた[23]。寮生活を通じた精神教育にも重点が置かれていた[23]。
(…)しかしその間にも上部機関からの通達はどんどんやってくる。原地住民の戦争協力意識を高めよとか、現地教員の再教育の実施等々である。これらを、表面的に形の上で行うことはある程度可能でもあり、また大きな困難もなかったので、一応の訓練や再教育、また日本語の学習等を内地から赴任された現場の文教要員諸賢の熱意と、現地教員の幹部の人々の協力を得て実施できた。しかし、現地の人々がそれだけで心からわれわれに協力する態度が定着するだろうかと考えると、私には何の自信もなかったのである。(…)そこへ発生したのが、例のポンチアナク事件である。それまで信頼して共に仕事をして来た現地の教育関係の幹部や職員が次々と捕えられて消えて行った。私達の手足となって働いてくれた人々を失って私の役所の部屋はガランとなり、仕事は半身否全身不随の状態に追いこまれたのである。その後の私達の状況は、いなくなった現地の人達の家族が子供を連れて現われ、私達に窮状を訴えるのに耳を傾け、われわれで可能な援助と慰めを工夫をこらして与えるということに時間の大半を費やしたというのが実情である。(…)
– 村井忠一 ポンチアナク州知事庁第4科(文教課)長時代の回想 [24]
水銀鉱床の調査・採掘
野村東印度殖産は、1942年の占領当初から水銀鉱床の調査を行い、1943年5月から1年間かけて西カリマンタン奥地のマディ高原に日本人1人と現地住民約100人から成る調査隊を派遣、隊員のほぼ全員がマラリヤに罹患し、1/3がアメーバ赤痢を併発して多数の罹患者・死者を出したが、鉱床を発見、採掘を開始した。しかし、連合軍に制海権があったため、採鉱に必要な資材を日本から移送できず、原始的な方法での採掘、選鉱による生産体制のまま生産を続けた。1945年5月に戦況の悪化を受けて鉱業所は閉鎖された。[25]
後期
戦況の悪化
1944年頃から空襲によって興南海運の所有船は次々に沈没し、同年4月には同社の所有船3隻がカプアス河の河口から200kmほどの所でアメリカの潜水艦によって撃没された[26]。日本人の船員は助かったが、現地人の乗組員数人が死亡し、事件後、同社は乗組員の募集に苦慮した[26]。
1944年6月に国際電気通信の社員11人がバンジェルマシンからポンチアナクに着任し、民政部や軍の電話の開設、無線通信施設の開設等を行った[27]。(市外電話回線や地方電話局の復旧開通工事などを要するため)復旧整備工事には困難が伴った[27]。軍からの要請で作戦上必要な陣地や監視所へ電話回線を通すため、資材が不足していたので、既設の電話回線を撤去して新設区間に充てることになり、空襲を避けて夜間に撤去・移送して架線工事をした[28]。
1944年の夏頃からは、空襲に備えて防空壕を掘る作業なども日常的に行われるようになった[18]。
1944年9月頃に空襲があり、SKK昭和組工作所がバトゥアンパルで造船後、ポンティアナクで艤装中だった200トン船に積まれていた重油の入ったドラム缶30本ほどが機銃掃射を受けて炎上、船は沈没した[29]。
戦況が日本に不利になってくると、同盟通信ポンチアナク支局では、警備隊が現地人のオペレーターを監視するようになった。また支局も散在して生活していた独身者のために宿舎を立て、社員を自主的に監視するようになった。通信設備の大部分を埠頭に近い支局から、埠頭から1kmほど離れた部落の華人の家を借りて移転し、オペレーターが6時から22時まで交代で通勤し、夜間は日本人の職員が寝泊まりして不審な出入りがないよう見張っていた。[31]
第2次事件
1944年9月17-24日に、現地の華人を中心に有力者約130人が検挙された[19]。検挙は翌年まで断続的に続けられ、1945年3月1日になって、「華僑団体が首謀者となって武装蜂起し、海軍警備隊300人や海軍民政部、商社関係者300人の殺戮を計画していたが、特警隊の検挙によって未遂に終わった」と発表された[32][19]。
私が赴任してからも、新しい華僑総会が成立して、我々を賓客として宴会が行われた日毒殺が計画されたが、偶々特警隊の前の人の出入りが激しかったため、毒を溝に流して計画は未遂に終ったという事件があった。これも真相は判らない。「トッケイタイ」といえば鬼兵曹が何人かいて、現地人はもとより民政部や商社の方々も随分イタイ目に合わされたようだ。
– 宮沢弘 ポンチアナク州知事庁第3科長時代の回想 [22]
現地入営
1944年10月、現地の在留日本人は、現地入営のためサラワクのクチンに終結し、ブルネイ、アピを経て、キナバル山麓・ラナウの教育隊に入隊した[33]。ボルネオ全島からの現地入営者は750人だった。現地入営者たちは、教育終了後にクチンに配属となり、移動中にミリで戦闘を経験。終戦までに320人が戦死した。[33]
ダイヤモンドの「献上」
1945年4月初旬、ポンチアナク州の知事室で、スルタンが日本国に、ダイヤモンドをちりばめた王冠や、その他多数のダイヤモンドを「献上」する儀式が執り行われた[23]。現地人から買い上げたダイヤモンド(かなりの量が入った1箱)は、日本の内地へ飛んだ最後の飛行機に乗せて海軍省へ送られた[34]。
栄養失調
1945年4月頃、ムンパワ農業学校の生徒にはフランペシヤ(熱帯潰瘍)やマラリヤの患者が出るようになり、手に負えない状態となった[35]。
末期
定期的な空襲
1945年4月29日の天長節を期して連合軍による空襲が始まり、以後、終戦まで定期的に空襲が行われた[29]。
- 空襲は、毎日おおよそ11時半から1時半までの間に行われ、SKK昭和組工作所の造船工場を機銃掃射して焼夷弾を落とした後、日南造船を空襲し、戻ってきて再び焼夷弾を落とし、終わると帰っていくのが常だった[13]。同年6月30日の空襲では警報が鳴らず、機銃掃射を受けた昭和組工作所の責任者・井上光夫が即死した[36]。
- 昭和組で艤装中の機帆船が3隻あり、カムフラージュして河岸に繋留してあったが、うち2隻は空襲によって焼失・沈没した[37]。
- 同年4月頃、ムンパワ農業学校では、空襲を警戒したのか欠席者が多くなり、帰宅を申し出る寄宿生が出るようになった[35]。
- 市街地に対する爆撃はなく、1機か2機で、主に機銃掃射のみの威嚇的な空襲だったため[38]、(市街地での)死傷者は皆無だった[39]。
- 空襲のとき、州知事庁では知事や職員を近郊の森の中へ避難させ、課長が(地下室では水が出るため)地上に露出した丸太と土で出来た防空壕に残って事務所を守衛していた[22]。防空壕にB17の機関砲弾がプスプスと刺さってくるのは気持ちの悪いものだった、という[22]。
- 同年5月にPasal街に空襲があり、大火災となった[28]。
- 市の郊外にあったスンゲイ・ドリアン飛行場からは、重爆撃機・呑龍も飛んだが[39]、連合軍の偵察機に発見され[39]、同年6月に連合軍機18機による空襲があって[28]、爆撃を受けて飛行場は使用できなくなった[17]。
同年5月29日、空襲が続いていた頃に、カプアス河でサンパンが転覆し、石井正生・州知事庁第3科(警法務)長が死亡した[40]。
最終決戦の準備
この頃、戦況の悪化に伴って、北ボルネオから陸軍の部隊が海軍地区のボンティアナクへ南下してきていたが、人員が少なく、武器も持っていないなど陣容は乱れており[41]、「決戦」に備えるため、海軍は海軍でサンガウ方面に疎開地を設営して物資を貯蔵し[22]、空襲が始まった頃から、現地の在留日本人を現地召集して、守備隊による軍事訓練を受けさせるようになった[38]。
同年6月下旬に軍はポンチアナクの在留日本人を官・民の最小限の人員を残して召集することにした[42]。翌7月1日付で現地召集が行われ、入隊式が催された[43]。
終戦の準備
1945年5月頃から、ポンチアナク州知事庁は、現地語を話すことができ、民情に明るい人物4人を選んで「仁政官」に任命し、ポンチアナク事件で殺害された地元有力者の遺族の援護(物品の特配、身上相談等)にあたらせるようになった[46]。
州政庁の第4科(文教科)は、ポンチアナク事件の被害者遺族へ扶助金(学費15円、公学校の場合、月5円)を補助し、商社と連携して遺族女性の就労支援をした[47]。ただし、インドネシア人に対しては援助を行ったが、華人に対しては援助をしなかった[47]。
ダイヤ族騒擾事件
1945年4月頃から、タヤンムリアウ分県では、戦況が不利だとの報道が頻りに伝えられるようになり、それとともに管内のダイヤ族や現地住民による暴動が激しくなった。県事務所の官吏は、身の危険を感じて海軍特別攻撃部隊の派遣を要請。同年7月1日に、県事務所近くまで来たダイヤ族数百人を派遣部隊が機関銃で銃撃する事件が起きた。[48]
空襲による被害
1945年7月頃、ポンチアナクとバンジェルマシンの間の連絡船だった日東丸がポンチアナクに来なくなった[45]。
この頃、日本人社員が少なくなった南洋倉庫ポンチアナク支店では、現地人の従業員を兵補にして、防火・消防の訓練(焼夷弾が落下したときに火叩きや砂等で消火する訓練)や、連合軍の上陸を想定した銃剣術の訓練などを毎日全員で実施していた[45]。
同年7月末頃、パシルパンジャンから砂を運び、カプアス河を遡上してスンガイドリアン飛行場に荷揚げするのに使っていた南洋倉庫の所有船・報国丸ともう1隻の曳船が、それぞれ空襲によって焼失し、報国丸の船長は銃撃で即死した[45]。
同年8月3日に南洋倉庫ポンチアナク支店で、社員が連合軍の不発弾を使って防火・消防訓練をした後で、不発弾が爆発し、平山支店長とインドネシア人の従業員・サクラニーが死亡した。[49]
終戦前後
ポンチアナクの現地軍は連合軍の上陸奪還作戦に備えて奥地での陣地構築を進め、同盟通信ポンチアナク支局は要請を受けて通信機材を搬入することになったが、作業をする前に終戦を迎えた[50]。
終戦の日、ポンチアナク市役所では、現地住民の所有するダイヤモンドの買い上げが行われていた[51]。一升枡ほどの箱にダイヤモンドがいっぱいに入っていたり、スルタンの王冠用の、ずっしりと重い、すかし模様の金の台座にちりばめた指頭大のアイルラウトのダイヤなど、見事な品だったという[51]。持ち主のスルタンは、ポンチアナク事件で日本軍によって全員、殺害されていた[51]。遺族となったスルタン夫人やその娘、孫たちは、しばしば市役所を訪問して主要な食料品の特配を願い出ることがあり、ポンチアナク市は、彼女たちの世話をして、遺族から宝石類を買い上げていた[52]。
ポ土侯の1号、2号、3号の各未亡人が、美しい衣装をまとった娘たちに囲まれて、ゾロリゾロリと官舎を訪ねて、米、塩、唐辛子など主要食糧品の特配を願い出る機会もしばしばだったが、行政責任者としては、できるだけの便宜を図った。また華僑関係の書記とも仲よくして、その案内で本格的中華料理の馳走に舌鼓をうつチャンスにも恵まれた。スンガイ・カプァスをモーター・ボートで遡航して、中流の分県監理官の宿舎で南方に来てから始めて、ドラム缶の温湯に浸って爽快を覚えたこと、ポトシバウ付近のダイヤ族酋長の家に案内されて、内地の味と変わらぬドブロクを痛飲したこと、野村ブランデーと中華料理で仲間と歓談の時間を楽しんだことなど、8月15日の終戦の放送を耳にするまでは、さして身近の不安も感ぜずに、またとえがたい快適な日々を送ることを許されたことを感謝している。
– 平塚道雄 ポンチアナク市長時代の回想 [53]
1945年8月15日のポツダム宣言受諾声明によって占領地行政は終了した[1]。
- 同日早朝から現地軍は、デマ放送を受信していることを疑い、同盟通信ポンチアナク支局の現地人オペレーターを厳重に監視し、2,3日間、監視を続けた。やがて事実であることがわかってきて、兵士の興奮も覚めたようだった、という。[50]
- 同月12日にポンチアナクで特務機関スリンボウ(Serimbu)支部長としての任務を与えられた住友ボルネオ殖産の土持則雄は、同月15日、ジャタに設置予定の機関本部へ出発しようとしていたときに玉音放送に接したが、そのままゲリラとして活動を継続することを主張して現地住民の機関員2人と蒸気船でポンチアナクを離れ、翌日ナバン(Ngabang)に到着、同月21日にジャタに到着した。同地で、陸路で先に到着していた村川某機関長らに、ポンチアナクへ戻るよう説得されたが、その翌日以降、命令に反してゲリラ活動のため奥地に入った。しかし後にナバンでオランダ軍に投降し、ポンチアナク刑務所に収監された。[54]
シンカワンで警備の任務についていた海軍陸戦隊の兵士は、現地人が持ってきておそるおそる見せてくれたアメリカの飛行機がばら撒いたというビラで日本が降伏したことを知った。見たときには信じなかったが、やがて本当だとわかり、しかししばらくはそのまま平常と変わりなく勤務していた。[55]
ポンチアナク州知事庁が現地住民に公式に終戦を発表したのは8月25日だった[56]。州知事庁は現地住民の自治による治安維持会を発足させ、同月31日に行政権を委任した[56]。翌9月2日に新しいスルタン・ポンティアナクの就任式が行われた[56]。
バラバイ分県の監理官在任中の1945年5月にポンチアナク州知事庁勤務を命ぜられた伊藤彦十は、船の航行には危険が伴い、破壊されたウーリン飛行場の滑走路の修復の見通しがつかなかったため、カリマンタン島を陸路横断して赴任することになり、同年6月3日にカンダカンを出発、ポンチアナクに到着したのは終戦後の同年9月5日になってからだった[57]。
戦後
逃避行
1945年9月、西ボルネオの在留日本人は、ポンチアナク市の南方数十kmのカプアス河の河口の地・バトゥアンパルのバタンチカル(Padang Tikar)に集結してジャワ島へ向かうことになった[58]。
同月8日にバタンチカルで2隻の船に分乗して出向し、軍人を乗せた船はジャワ島へ向かったが、民間人を乗せた船は故障のためバタンチカルに引き返し、同年10月10日までバトゥアンパルのトロアエル(Teluk Air)で過ごすことになった[59]。
- ジャワ島から興南海運の船が西ボルネオの在留日本人を迎えに来たが、この船は「軍にとられ」、民間人はそれまで運航したことのない昭和組[60]の船に乗船するよう軍から命令された[61]。
- 民間人約200人の乗船した船は出航後まもなく浅瀬に乗り上げ、軍人を乗せた船は、座礁した民間人の船の側を素通りしてジャワへ向かった[62]。
- その後、民間人を乗せた船は、満潮で浅瀬を離れることができたが、波が高く、エンジンも不調だったため、同月13日にバトゥアンパルのバタンチカルに引き返し[63]、同月15日にトロアエル(Teluk Air)へ移動[48]。日本人の避難場所として建設してあった住宅でしばらく過ごすことになった[64]。
船長の不馴れな航路だったためでしたが、座礁したわれわれの船のそばを軍人を乗せた船が通り過ぎて行った時は、何とも複雑な心境でした。もっとも現今でも、会社が倒産したら社長が逸早く行方不明ということがよくありますから、昔の軍人ばかりを責める訳にもいきませんが。
– 高橋清忠 興南海運ポンチアナク支店時代の想い出 [65]
- ポンチアナク州知事庁の三ツ井卯三男らは同月10日にバタンチカルへ移動したが、オーストラリア軍から引継ぎ事務のためポンチアナクへ代表を派遣するよう訓電を受け、同月21日にポンチアナクへ出向した[66]。
9月22日民政部の現地職員がわれわれを送る会合を開いてくれたが、今敗者として引き揚げる者に対して、強い友情で慰め激励してくれたこの人々の純真な心情に対して永久に感謝を捧げる次第である。日本の施政に大きな不満のあった華僑の黄思食君が、会合の最後に自ら作った詩を朗読してくれたときは涙が出そうになった。すなわち「坤城夜雨樹木青々……遥かに東京に還る人を思う」その夜は雨であった。
ポンポン船でジャワ島のスラバヤに到着した海軍陸戦隊の兵士は、1946年5月までマラン県プジョン村で過ごし、その後一時レンパン島に滞在してから、宇品に復員した[67]。
リンタン収容所
バトゥアンパルのトロアエルに残留していた民間人の在留日本人は、同年10月10日に同地を出発[48]。同月21日にバタンチカルからオーストラリアの軍艦・バルコー号に乗船し、サラワクのクチンへ連行された[68]。途中、プマンカットでLST船に乗り換えて、同月23日にクチンに到着し、同市郊外にあったバトゥ・リンタン収容所に収容された[69]。
- 赤道会 (1975 31,78)は、バルコー号乗船中に日本人の荷物が破壊され、金品を没収された、とし、赤道会 (1975 7)は、リンタン収容所到着後に所持品検査があり、目星いものを没収された、としている。
在留日本人は、同収容所で3ヶ月余を過ごした後、大多数は1946年の始めに日本に帰国した[70]。
- リンタン収容所で、収容者は、マラリア蚊の駆除や、ドブの除草・汚泥の処理、防空壕の取り壊し、教会の修理・清掃などに使役された[71]。
- オランダ軍の食べ残しの残飯をもらってきて皆で分けて食べたりしたこともあった[35]。
日本軍の連絡将校の役をしていた私は、ひどい強制労働や少い食糧に、国際法違反ではないかと相手の将校に文句をいったところ、日本軍が戦時中行った北ボルネオの「死の行進」を思い出せという言葉だけがかえってきた。
– 宮沢弘 ポンチアナク州知事庁第3科長時代の回想 [22]
- 1946年2月10日にリンタン収容所を出発し、リンタンから約12kmのクチン市外「弁天岬」から帰還船・輝山丸(約6,800トン[72]、「オンボロの戦標船」[73])に乗船して同月13日に出航、途中マニラ沖で1ヵ月ほど停泊し、燃料水等の補給を受けて同月27日に出航、同年3月8日に広島県の大竹港に到着し、翌9日に上陸、元大竹海兵団舎屋内の復員事務所宿舎に入り、翌10日に復員事務を済ませて大竹駅から国鉄の列車に乗った人が多かった[74]。
再びポンチアナクへ
一部の軍や行政府・商社の関係者約200人[75]ないし114人[76]は、戦犯容疑者ないし関連部門の責任者として各地からポンチアナク市へ連れ戻され、ポンチアナク刑務所に収監された[77]。
- 1945年12月24日に、リンタン収容所に収容されていた民政部幹部と商社代表者全員は、戦犯容疑者として別棟に隔離され、約50人が飛行機でポンチアナクに連行された[78]。ポンチアナクに到着したときには、大勢の現地住民から罵声を浴びるなどしたという[78]。
ポンチアナク刑務所に入所して間もなく、平塚道雄・元ポンチアナク市長は、海軍の警備隊長、特警隊長と3人でポンチアナクのスルタンの宮殿へ連行され、ポンチアナク事件の難を逃れて帰還していた新しいスルタンに、階段の下に平伏(して謝罪を)させられた[53]。
ポンチアナク刑務所の収監者は、刑務所の内外で、毎日草取りや「バスコン作業」と呼ばれた刑務所の裏の水路をせき止め、汚泥を洗面器などで浚う作業などをさせられた[79]。下水の掃除などをさせられたこともあった[80]。またポンチアナク刑務所の番兵には、戦時中、北海道や九州の炭坑など、日本の内地の収容所で捕虜として過ごしたために「鬼と化した」人が多く、収容者は番兵の暴行に怯えていたという[81]。
- 長崎の捕虜収容所に収容されていた「マルス」という黒人の兵士は、収監者同士でビンタをさせる、鞭で尻を打つなどの日本式の虐待を「よく真似て、かつ数倍上回る残虐さ」で実行したといい、収監者みなに恐れられていた[82]。井本某警部は収監中に鞭で打たれたり蹴られたりして病院へ運ばれ、その後、死去した[83]。
- たまたま看守になった元捕虜の妻やその姉妹の再就職の世話をしていたので、看守に色々と助けてもらった[84]。
- インドネシア人の兵士からパンをもらっていた[83]。
不起訴となった人は、1946年1月に収監を解かれ、戦犯容疑者やその弁護人、戦犯裁判関係者の世話係・雑用係として少数の収監者が現地に残された[85]。
戦犯裁判
戦犯裁判の審理の大半が終わった後の1947年3月の始めないし28日に、刑死者・服役者以外で無罪となった者やその他の残留者はジャワ・ジャカルタの収容所に移され[86]、同年5月15日に熊野丸に乗船し佐世保に到着[87]ないし同月末に日本への帰国船に乗船[42]した。
- 戦犯容疑者114人の取り調べが一通り終わった後、土持則雄は三沢某、益子某とともにインドネシア人の衛兵の当番(世話係)を言い付けられ、食事を運ぶ係をして食事を回してもらったり、また住み込みで働いていた看守の使用人になり、家族の衣類の洗濯をさせられたりした[76]。
略奪品の返還
1946年中から、GHQ/SCAPが発出した指令により、日本政府は略奪財産の目録と査定金額をGHQに提出し、略奪財産は没収され、同年から略奪元への返還が実施された。1946年8月15日に東京で「ポンティアナクのスルタンのダイヤモンドを散りばめた王冠」が蘭領東インド政府に返還されたほか、同政府には宝石類多数が返還された。[88]
- 戦時中、ポンチアナク州知事庁に勤務していた松永祥甫は、回想録の中で、1948年頃に『朝日新聞』が「第1回略奪品ポンチアナク王冠返還式挙行」を伝えたとし、スルタンに王冠やダイヤモンドを献上させた後、(占領中に欠乏していた)布地・薬品や食料品などを返礼に与えて喜ばれたので「絶対に略奪品ではない。献上品である」と述べている[23]。
付録
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 赤道会 1975 序
- ↑ 赤道会 1975 4
- ↑ 赤道会 1975 序,21
- ↑ 赤道会 1975 37
- ↑ 赤道会 1975 78-79
- ↑ 赤道会 1975 10
- ↑ 赤道会 1975 1,12
- ↑ 赤道会 1975 1,12,74
- ↑ 9.0 9.1 9.2 赤道会 1975 4-5
- ↑ 赤道会 1975 2,12
- ↑ 11.0 11.1 赤道会 1975 2
- ↑ 赤道会 1975 34-35
- ↑ 13.0 13.1 13.2 赤道会 1975 35
- ↑ 赤道会 1975 51
- ↑ 15.0 15.1 赤道会 1975 49
- ↑ 赤道会 1975 50
- ↑ 17.0 17.1 赤道会 1975 27
- ↑ 18.0 18.1 18.2 赤道会 1975 5
- ↑ 19.0 19.1 19.2 井関 1987 249
- ↑ 井関 1987 6,249
- ↑ 赤道会 1975 30
- ↑ 22.0 22.1 22.2 22.3 22.4 22.5 22.6 赤道会 1975 70
- ↑ 23.0 23.1 23.2 23.3 23.4 赤道会 1975 66
- ↑ 赤道会 1975 72
- ↑ 赤道会 1975 55-56
- ↑ 26.0 26.1 赤道会 1975 41
- ↑ 27.0 27.1 赤道会 1975 63-64
- ↑ 28.0 28.1 28.2 赤道会 1975 64
- ↑ 29.0 29.1 赤道会 1975 31,35
- ↑ 赤道会 1975 39は、1945年に至るまで、ポンチアナク市は空襲を受けたことがなかった、としている。
- ↑ 赤道会 1975 39
- ↑ 後藤 1983 32-33
- ↑ 33.0 33.1 赤道会 1975 33
- ↑ 赤道会 1975 70。「今から考えると相当な金額、一財産だったがどこへいったのだろうか」(同)。
- ↑ 35.0 35.1 35.2 赤道会 1975 6
- ↑ 赤道会 1975 35-36
- ↑ 赤道会 1975 31,35-36
- ↑ 38.0 38.1 赤道会 1975 31,39
- ↑ 39.0 39.1 39.2 39.3 赤道会 1975 31
- ↑ 赤道会 1975 69,74
- ↑ 赤道会 1975 44,70
- ↑ 42.0 42.1 赤道会 1975 44
- ↑ 赤道会 1975 36,44
- ↑ 赤道会 1975 36
- ↑ 45.0 45.1 45.2 45.3 赤道会 1975 59
- ↑ 赤道会 1975 19
- ↑ 47.0 47.1 赤道会 1975 5-6
- ↑ 48.0 48.1 48.2 48.3 赤道会 1975 24
- ↑ 赤道会 1975 60
- ↑ 50.0 50.1 赤道会 1975 40
- ↑ 51.0 51.1 51.2 赤道会 1975 54-55
- ↑ 赤道会 1975 54-55,58
- ↑ 53.0 53.1 赤道会 1975 58
- ↑ 赤道会 1975 45-46
- ↑ 赤道会 1975 79
- ↑ 56.0 56.1 56.2 赤道会 1975 68
- ↑ 赤道会 1975 17
- ↑ 赤道会 1975 6-7,24,36,42,51
- ↑ 赤道会 1975 6,7,24,36,42-43,51
- ↑ 赤道会 1975 42は、「昭和造船」としている。
- ↑ 赤道会 1975 36,42,51
- ↑ 赤道会 1975 42-43
- ↑ 赤道会 1975 6,42-43,51
- ↑ 赤道会 1975 24,31,42-43。同書 p.7は、バトゥアンパルに戻ってから数日後に再度出航したように記している。
- ↑ 赤道会 1975 42
- ↑ 66.0 66.1 赤道会 1975 69
- ↑ 赤道会 1975 79-80
- ↑ 赤道会 1975 24,31,64。同書p.43は、出航を同年12月としている。
- ↑ 赤道会 1975 序,7,24,31,43
- ↑ 赤道会 1975 序,9
- ↑ 赤道会 1975 8
- ↑ 赤道会 1975 74
- ↑ 赤道会 1975 71
- ↑ 赤道会 1975 9,16,24-25,31,36-37,40,64,67,74
- ↑ 赤道会 1975 14
- ↑ 76.0 76.1 赤道会 1975 48
- ↑ 赤道会 1975 序,8,14,51
- ↑ 78.0 78.1 赤道会 1975 14-15,43
- ↑ 赤道会 1975 61
- ↑ 赤道会 1975 62-63
- ↑ 赤道会 1975 14-15,43,61
- ↑ 赤道会 1975 47,61-62
- ↑ 83.0 83.1 赤道会 1975 47
- ↑ 赤道会 1975 25-26
- ↑ 赤道会 1975 43,47-48
- ↑ 赤道会 1975 序,44,51
- ↑ 赤道会 1975 49,51
- ↑ 竹前 2015 155-157,160,182
参考文献
- 竹前 (2015) 竹前榮治「略奪財産とくに略奪貴金属・宝石類の処理」『東京経済大学 人文自然科学論集』No.136、pp.153-185
- 井関 (1987) 井関恒夫『西ボルネオ住民虐殺事件 - 検証「ポンテアナ事件」』不二出版、JPNO 87053283
- 後藤 (1983) 後藤乾一「ポンチァナック事件の史的考察」田中宏『日本軍政とアジアの民族運動』アジア経済研究所、JPNO 84011223、pp.21-40
- 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073