位階
位階(いかい)とは官吏における個人の地位を表す序列・等級である。また、国家に対して勲功・功績のあった者に授与される栄典の一つ。位階を授与することを「位階に叙する」または叙位(じょい)という[1]。
目次
日本の位階制度
沿革
日本における「位階」制度は律令制に基づく政治行政制度と共に中国から継受し、独自の発展を遂げた。
位階は603年(推古天皇11年)に冠位十二階の制度を定め、官人に対して冠を与えたのが初めとされる。この「冠位」制度はその後数度の変遷を経て、701年(大宝元年)の大宝令および718年(養老2年)の養老令により「位階」制度として整備された(→冠位・官位制度の変遷を参照)。律令制における位階は親王が4階(品位、ほんい)、諸王が15階、諸臣が30階あって明治維新まで変わらなかった。位階は功労に応じて昇進があり、位階に対応した官職に就くことを原則とした(官位相当制)。また原則として軍功に授けられた勲位(一等から十二等)とも連動し、あわせて位階勲等と称した。
なお、673年(天武天皇2年)以降は神道の神・神社にも位階が与えられた(→神階を参照)。後には、神社に対する勲位の授与も行われた。
明治時代の初期には新たに近代的な太政官制が敷かれ、多くの制度が再編整備された。この中で位階制は正一位から少初位まで18階に簡素化された(後に初位の上に九位を設けて20階とした)ものの、律令制での官位相当制に倣い新たに作り上げられた官職制と深く結びついて存在した[2][3]。
しかし1871年9月24日(明治4年8月10日)に出された明治4年太政官布告第400号により従来の官位相当制は廃止され新たに15階からなる「官等」が定められたことにより、位階制と官職制との関係は絶たれた。もっとも位階制が廃止されたわけではなく、その後も官吏をはじめとした諸人に位階は与えられ続けた。また1875年(明治8年)4月10日の詔により勲等賞牌制(勲等と功級からなる勲位制、勲章制度)が定められたことによりそれまで位階制が担っていた栄典としての役割を分有することとなった。
明治時代の半ば1887年(明治20年)5月に公布された叙位条例(明治20年勅令第10号)において「凡ソ位ハ華族勅奏任官及国家ニ勲功アル者又ハ表彰スヘキ勲績アル者ヲ叙ス」(1条)と定められたことにより、位階は栄典としてその役割を特化された。このとき位階数はやや簡素化され、正一位から従八位までの16階とされた。位階は、この少し前の1884年(明治17年)7月7日に出された華族令(明治17年宮内省達)により定められた爵位制(華族制度)と連動するものとされた。さらに位階奉宣事務が宮内省華族局の管轄となり、位階奉宣事務取扱手続・叙位進階内規があいついで定められ明治国家の位階制は一応完成した。位階別は、「華族・勅任官・奏任官・非職の有位者・効績者のそれぞれの内部序列の基準となるとともに、すべての階層の宮廷での朝班の基準として機能し、「官位勲爵」制の官職制・勲等制・爵位制を束ねるものとして、明治国家のなかに位置付けられた」[4]とされる。叙位条例は、1926年(大正15年)10月21日に公布された位階令(大正15年勅令第325号)により廃止された。
第二次世界大戦後、国家・社会の制度が大きく変革され従来の栄典制度や官吏制度も改革された。1946年(昭和21年)5月3日の閣議決定により、生存者に対する叙位・叙勲は停止された[5]。その後、1964年(昭和39年)に生存者叙勲が再開されたときも生存者に対する叙位は再開されなかった[6]。
故人に対する叙位は引き続き行われ、1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法の下では内閣の助言と承認により天皇の国事行為として行われる栄典の一つとされ改正位階令(大正15年勅令第325号。昭和22年5月3日政令第4号により改正)をその法的根拠とした。ただし、天皇に叙位の決定権があるわけではない。2001年(平成13年)の栄典制度改革においても、「我が国の歴史や文化にかかわりのある日本固有の制度として価値があるとともに、現在は、国家・公共に対して功績のある人が死亡した際に、生涯の功績を称え追悼の意を表するものとして運用されていることから、存続させることが適当である」[7]として大きな制度変更は行われなかった。
律令制における位階
序列 | 位階 |
---|---|
1 | 正一位 |
2 | 従一位 |
3 | 正二位 |
4 | 従二位 |
5 | 正三位 |
6 | 従三位 |
7 | 正四位上 |
8 | 正四位下 |
9 | 従四位上 |
10 | 従四位下 |
11 | 正五位上 |
12 | 正五位下 |
13 | 従五位上 |
14 | 従五位下 |
15 | 正六位上 |
16 | 正六位下 |
17 | 従六位上 |
18 | 従六位下 |
19 | 正七位上 |
20 | 正七位下 |
21 | 従七位上 |
22 | 従七位下 |
23 | 正八位上 |
24 | 正八位下 |
25 | 従八位上 |
26 | 従八位下 |
27 | 大初位上 |
28 | 大初位下 |
29 | 少初位上 |
30 | 少初位下 |
概要
位階制度は位階と官職を関連づけることにより(官位制)、血縁や勢力にとらわれず適材適所を配置し、職の世襲を防ぐと共に天皇が位階を授与することで全ての権威と権力を天皇に集中し、天皇を頂点とした国家体制の確立を目的とした。
大宝令・養老令のうち官位について定めた官位令によれば皇族の親王は一品(いっぽん)から四品(しほん)までの4階、諸王は正一位から従五位下まで14階、臣下は正一位から少初位下(しょうそいげ)まで30階の位階がある。位階によって就くことのできる官職が定まり、位階に応じて衣類などにも制限が加えられる。また、五位以上の者には位田が支給される規定となっていた。
なお律令制における「貴族」とは五位以上の者を指し、これには昇殿などの特権が与えられた。「貴族」に対し、六位以下無位までの者を「地下」(ぢげ)もしくは「地下人」と呼ぶ。
朝廷及び明治新政府では、故人に対して生前の功績を称え位階または官職を追贈がなされることがあった。位階を贈ることを贈位、官職を贈ることを贈官といった(例:贈正四位、贈内大臣)。
正○位の「正」は「しょう」、従○位の「従」は「じゅ」と読む。「せい」「じゅう」と読むのは誤り。
また三位は「さんみ」、四位は「しい」、七位は「しちい」と読む。それぞれ「さんい」「よんい」「なない」と読むのは誤り。
蔭位の制
蔭位の制(おんいのせい)とは、高位者の子孫を一定以上の位階に叙位する制度。父祖のお蔭で叙位するの意。令によれば子孫が21歳以上になったとき叙位され、蔭位資格者は皇親・五世王の子、諸臣三位以上の子と孫、五位以上の子である。勲位・贈位も蔭位の適用を受ける。蔭位の制は中国の律令制に倣った制度だが中国の制度よりも資格者の範囲は狭く、与えられる位階は高い。
(庶子は一階を降す)
(庶子は一階を降し、孫はまた一階を降す)
刑法上の特典
儒教の経典である『礼記』には「礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず」とされ、律令法では八虐などによる死罪(実際は流罪及び除名で代替される場合もあった)を例外として五位以上の官人には実刑を加えないことが原則とされていた。
日本では中国の八議(『周礼』では八辟)の制度を元にして名例律において六議の制が定められ、三位以上は6番目の「貴」とされて減刑の対象となり更に五位以上でも「請」の手続を経ることで準用が認められた。
流罪以下の刑に処せられた場合、罪一等を減じた上で官当により自らの位記を返上して罪を贖った。平安時代中期においては官職の重要性が高まったために左遷や解官(官職罷免)による換刑が行われ、散位や卑官の者に限って官当や贖銅で罪を贖うことで実刑を免れるのが一般的であった。
位階制度の形骸化
序列 | 位階 |
---|---|
1 | 正一位 |
2 | 従一位 |
3 | 正二位 |
4 | 従二位 |
5 | 正三位 |
6 | 従三位 |
7 | 正四位 |
8 | 従四位 |
9 | 正五位 |
10 | 従五位 |
11 | 正六位 |
12 | 従六位 |
13 | 正七位 |
14 | 従七位 |
15 | 正八位 |
16 | 従八位 |
序列 | 位階 |
---|---|
1 | 正一位 |
2 | 従一位 |
3 | 正二位 |
4 | 従二位 |
5 | 正三位 |
6 | 従三位 |
7 | 正四位 |
8 | 従四位 |
9 | 正五位 |
10 | 従五位 |
11 | 正六位 |
12 | 従六位 |
13 | 正七位 |
14 | 従七位 |
15 | 正八位 |
16 | 従八位 |
17 | 正九位 |
18 | 従九位 |
19 | 大初位 |
20 | 少初位 |
本来は能力によって位階を位置付け、その位階と能力に見合った官職に就けることで官職の世襲を妨げることを大きな目的としたが蔭位の制を設けるなど世襲制を許す条件を当初から含んでいた。そのため、平安朝の初期には形骸化して一部の上流貴族に世襲的な官職の独占を許すに到った。
明治時代の太政官制における位階
明治維新により律令法が廃された後も、太政官においては暫く続けられた。1869年8月15日(明治2年7月8日)に制定され同年9月27日(8月22日)[8]に定められた職員令により各位階の上下がなくされ、初位の上に九位(正九位、従九位)を設けて全20階とするなど[9]簡素化も図られた。1871年9月24日(明治4年8月10日)には官等の導入によって、職階と連動する位階制は廃止された。
叙位条例における位階
1887年(明治20年)5月には、「叙位条例」(明治20年勅令第10号)が制定されて位階制度の再編が行われた。これにより、位階は正一位から従八位までの16階とされた。そして、叙位対象者に関しては「凡ソ位ハ華族勅奏任官及国家ニ勲功アル者又ハ表彰スヘキ功績アル者ニ叙ス」とされた(叙位条例1条)。従四位以上は勅授(宮内大臣から伝達)、正五位以下は奏授(宮内大臣が天皇に奏して叙位)とされた。また位は従四位以上は華族に準じた礼遇を享けた。従一位は公爵、正二位は侯爵、正従三位は伯爵、正従四位は男爵に準じた。
位階令における位階(戦前)
1926年(大正15年)10月21日には「位階令」(大正15年勅令第325号)が制定された。これにより、勲章・褒章と並ぶ栄典制度の一つとして位階制度は維持されてきた。叙勲と異なり日本国籍を失ったときには位も失い、外国人を叙位することはない。また位階は臣民にのみ与えられ、皇族を叙位することはない(ただし、皇籍を離脱した者は叙位の対象となる)。所管は宮内省宗秩寮。
位階令では従来の叙位条例から叙爵対象の順序が変更され、「国家ニ勲功アリ又ハ表彰スヘキ功績アル者」・「有爵者及爵ヲ襲クコトヲ得ヘキ相続人」・「在官者及在職者」とされ栄典制度としての側面をより強調することとなった。
位階令によると正二位以下の授与形態に変更はなかったが、正従一位は特に親授(親授式で、天皇から位記を授与)とされた。
位階令における位階(戦後)
第二次世界大戦後、生存者に対する叙勲と叙位は一時停止された。その後、1964年(昭和39年)に生存者に対する叙勲が再開されたときも生存者に対する叙位は再開されなかった。
死亡者に対する叙位は引き続き行われ、1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法の下では内閣の助言と承認により天皇の国事行為として行われる栄典の一つとされ従来の位階令を法的根拠とした。現行の叙位は死亡者のみをその対象とするため故人の功績を称え、追悼する意味合いが強い。授与に当たっての選考基準は叙勲とほぼ同じだが細部で異なっており、功績種別によっても選考基準が異なる。叙勲の所管は内閣府賞勲局(中央省庁再編前は総理府賞勲局)、叙位の所管は内閣府大臣官房人事課(中央省庁再編前は内閣総理大臣官房人事課)である。長く公的な職にあった者(議員・官吏・消防吏員・消防団員・教員等々)に叙位される例が多い。
叙位された場合、それを証する位記が交付される。位記には縦書きで次のような記載がなされる。
- 従四位以上
氏名 従四位に敘する 御璽 年号 年 月 日 内閣総理大臣 氏名
- 正五位以下
氏名 正五位に敘する 年号 年 月 日 (内閣之印) 内閣総理大臣 氏名 宣
中国の位階制度
新羅の位階制度
琉球の位階制度
脚注
- ↑ 日本においては平安時代以後、宮中で例年正月5日頃に行われる五位以上の位階を授ける儀式のことも叙位(例の叙位)と言った。
- ↑ 1869年8月15日(明治2年7月8日)に公布された明治2年太政官布告第620号による。「九位」の設置は同年9月25日(8月20日)。
- ↑ なお1871年1月9日(明治3年11月19日)に出された明治3年太政官布告第845号により旧官人・諸大夫・侍などの位階も廃止され、近世の位階と明治の位階との間に明確な一線が引かれた。
- ↑ 藤井讓治「明治国家における位階について」、『人文學報』67巻、1990年(平成2年)。
- ↑ 「官吏任用叙級令施行に伴ふ官吏に対する叙位及び叙勲並びに貴族院及び衆議院の議長、副議長、議員又は市町村長及び市町村助役に対する叙勲の取扱に関する件」、1946年(昭和21年)5月3日閣議決定。
- ↑ 「生存者叙勲の開始について」、1963年(昭和38年)7月12日閣議決定。
- ↑ 栄典制度の在り方に関する懇談会「栄典制度の在り方に関する懇談会報告書」、2001年(平成13年)10月29日。
- ↑ 内閣記録局『単行書・明治職官沿革表・職官部・一』(国立公文書館(ref.A07090183000))では制定された日は同じだが、9月25日(8月20日)に改正とされている。
- ↑ 法令全書「明治2年」、国立国会図書館。
関連項目
- 官位
- 神階
- 品位
- 贈位
- 僧位
- 氏爵
- 年爵
- 栄爵
- 蓄銭叙位令
- 蔭位制
- 位階令
- 冠位・官位制度の変遷
- 栄典
- 階級
- 爵位
- 勲章 (日本)
- 勲等
- 功級
- 文化勲章
- 褒章
- 宮中席次
- 位、勲章等ノ返上ノ請願ニ関スル件