会津戦争

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会津戦争
戦争戊辰戦争
年月日慶応4年閏4月20日1868年6月10日
場所福島県栃木県新潟県
結果:新政府軍の勝利
交戦勢力
新政府軍 旧幕府軍
指揮官
板垣退助
(東山道先鋒総督府参謀)
西郷頼母(会津藩家老)
大鳥圭介(歩兵奉行)
山川大蔵(会津藩家老)
戦力
奥羽越列藩同盟、白虎隊
損害
二本松城落城、白虎隊自刃
会津藩減封及び転封
ファイル:ShirakawaKomineCastle.jpg
戊辰戦争の白河口の戦いで焼失した白河小峰城

会津戦争(あいづせんそう)とは慶応4年および明治元年(1868年)に起こった戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩長州藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いである。主に現在の福島県新潟県栃木県が戦場となった。なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として区別される場合が多い。

背景

文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保京都守護職に就任し、尊攘派志士の取り締まりや禁門の変において幕府方の中核となって奮闘した。このため尊攘派からは恨みを買うことになった。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いの後、容保は幕府方の首謀者として新政府から追討令を受ける。追討を命じられた仙台藩米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成し結束を強めた。だが新政府は会津藩の武装恭順を拒否し、戦争が不可避となった。

経過

白河口の戦い

白河口の戦いを参照

白河藩は当時国替えにより藩主不在となり幕府直轄領であった。旧幕府軍は会津藩家老の西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日(1868年6月10日)に白河城を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀伊地知正治の指揮のもと、閏4月25日6月15日)に白河への攻撃を開始し、5月1日6月20日)に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。

二本松の戦い

6月24日8月12日)に棚倉城が落城、7月16日9月2日)に三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、新政府軍はじりじりと北上した。7月29日9月15日)、新政府軍は二本松を攻撃。二本松城は落城し二本松藩主丹羽長国は米沢へ逃れた。このとき12歳から17歳の藩士子弟が多数犠牲となった。後世、彼らは二本松少年隊と呼ばれ、白虎隊と並ぶ悲劇として語り継がれた。

若松城下への侵攻

二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。8月21日10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロ余りを急進して8月23日(10月8日)朝に会津若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部は飯盛山で自刃した(最年少隊士の飯沼貞吉のみは蘇生し、昭和6年(1931年)まで生き抜いた)。

日光口の戦い

会津地方南方の日光街道沿いでは、大鳥圭介率いる幕府歩兵隊と会津藩家老の山川大蔵とが防衛に当たっていた。閏4月21日6月11日)と5月6日6月25日)の今市攻略戦では攻略に失敗したが、その後は一進一退の戦いを続けていた。だが二本松が陥落すると母成峠の防御に伝習隊を抽出し、新政府軍が若松城下に突入するに至って、山川大蔵は戦線を放棄して若松城へ駆けつけた。山川大蔵は、会津地方の伝統芸能である彼岸獅子のいでたちをすることで新政府軍の目を欺き、包囲下の若松城への入城に成功したと伝えられる。

降伏

ファイル:AizuCastle.jpg
損傷した若松城(降伏後に撮影)

会津藩は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛らは開城後も城外での遊撃戦を続けたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日11月6日)、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。

戦後処理

戊辰戦争を参照

会津藩主・松平容保は死一等を減じられ、江戸に禁固。本来であれば家老上席にあった西郷頼母田中土佐神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷は行方知れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していたため、次席の萱野権兵衛が戦争の責任を一身に負って切腹した。その後会津藩は陸奥斗南藩3万石に転封。奥羽越列藩同盟諸藩も多くが減封となった。

後世への影響

薩長軍(明治新政府)は会津戦争の戦死者を「賊徒」として埋葬を許さず、この為に長期間に渡って放置された死体は風雨に晒され、鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況だったと言われている。見かねた近所の村長が戦死者を埋葬した為に薩長軍に村長職を解かれた事もあった(飯盛山に彼を顕彰する碑が立てられている)。実際には疫病の要因になるという理由からようやく死体の処理が許されたのであった。又、薩摩・長州の藩兵による会津若松城下での略奪・強姦・虐殺も激しかった(特に、長州藩士は気性が荒いことで当時から有名であったが、これらの行動は気性よりも薩摩・長州の藩士が心酔していた儒教朱子学の思想が強く影響している。特に遺体に対する仕打ちは中国大陸朝鮮半島で古来行われる「仇敵の死体に鞭打つ」ものと同一である)。

この後も会津藩が下北半島にある斗南藩へ減封され、移住を命じられるなど冷酷な弾圧は続いた(ただし、転封先に旧領の猪苗代ではなく斗南を選択したのは会津側である)。更に山県有朋を筆頭にした長州閥が、明治期を通じて会津地方民や会津地方出身者を「朝敵風情が」と侮蔑し、学界や官界に進んだ会津藩出身者の登用について、徹底的な妨碍工作を行ったといわれてる。又、明治9年(1876年8月21日に現在の福島県が発足した時に、県庁が交通の要所である郡山に置かれず福島に置かれた理由も、会津地方から距離を引き離す為だったとも言われている。

これらの処置はかえって会津民衆の旧新政府軍側諸藩(=いわゆる薩長土など)に対する遺恨を増すことになった。西南戦争では多くの会津人が薩摩の巨魁である西郷隆盛への恨みを晴らす為に政府軍に志願したといわれる。また会津藩出身の軍人・柴五郎などは、西郷や大久保利通など薩摩藩出身政治家の非業の死に対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている。

さらに近年でも以下のようなエピソードがあり、半ば冗談ながら“現在でも会津若松市民にとって戦争と言えば第二次世界大戦ではなく戊辰戦争”とまでいわれている。

昭和61年(1986年)には長州藩の城下町である萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので・・・」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「”まだ”120年しか経っていない」とこれを拒絶した。福島県に龍馬会(坂本龍馬にちなむ会)が結成されたのも、47都道府県の中で最後である。

評価

新政府軍は北越戦争に大兵力を投入し、白河方面の兵力は小規模であった。だが指揮官の伊地知正治は寡兵を率いての白河城奪取とその後の防衛戦、また母成峠突破と若松城下への電撃侵攻と果敢な戦いぶりで終始旧幕府軍を圧倒した。これに対して旧幕府軍は日光口での山川大蔵の奮戦を除くと全く良いところがなかった。装備・軍制の面でも旧幕府軍は新政府軍に及ばなかった。白虎隊は鳥羽・伏見の戦いの後の軍制改革によって誕生したものであるが、身分別の編成を残すなど、近代化は不徹底に終わった。

参考

会津戦争を描いた作品

関連項目

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