モハメド・アリ
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モハメド・アリ | ||||||
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基礎データ | ||||||
本名 | ||||||
通称 | The Greatest | |||||
階級 | ヘビー級 | |||||
身長 | ||||||
リーチ | ||||||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||||
生年月日 | 1942年1月17日((2024-1942)+((11-1)*100+(24-17)>=0)-1歳) | |||||
出生地 | アメリカ合衆国 ケンタッキー州ルイビル | |||||
没年月日 | ||||||
死没地 | ||||||
所属 | ||||||
構え | オーソドックス | |||||
入場曲 | ||||||
アマチュアボクシング戦績 | ||||||
総試合数 | 108 | |||||
勝 | ||||||
KO・RSC勝 | ||||||
敗 | ||||||
分 | ||||||
無効試合 | ||||||
獲得メダル | ||||||
金 | 銀 | 銅 | ||||
オリンピック | 1 | 0 | 0 | |||
世界選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
ヨーロッパ選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
アジア選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界ユース選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界ジュニア選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界女子選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
獲得タイトル | ||||||
全日本選手権優勝 | 0 | |||||
全日本社会人選手権優勝 | 0 | |||||
全日本女子選手権優勝 | 0 | |||||
全国高校総体優勝 | 0 | |||||
全国高校選抜優勝 | 0 | |||||
国民体育大会優勝 | 0 | |||||
プロボクシング戦績 | ||||||
総試合数 | 61 | |||||
勝 | 56 | |||||
KO勝 | 37 | |||||
敗 | 5 | |||||
分 | ||||||
無効試合 | ||||||
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モハメド・アリ(Muhammad Ali、1942年1月17日生まれ)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。アフリカ系アメリカ人。ケンタッキー州ルイビル出身。本名は同じで、旧名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア (Cassius Marcellus Clay Jr.)。アフリカ系の他に、イングランドとアイルランドの血を引いている[1]。 デビュー当初「カシアス・クレイ」と呼ばれていたが、後にイスラム教へ改宗したのを機に、リングネームのみならず本名自体を「モハメド・アリ」に改名した。1960年のローマオリンピックライトヘビー級で金メダルを獲得。プロに転向後は世界ヘビー級タイトルを4度獲得し、通算19度の防衛を果たした。露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返し、後に黒人解放運動などの貢献が称えられ、ドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞した。娘のレイラ・アリは、WBC女子スーパーミドル級の初代チャンピオン。
華麗なフットワークと鋭い左ジャブを活用するアウトボクシングを持ち込んだアリのボクシングスタイルは、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」(Float like a butterfly, sting like a bee) と形容された。これは、精神的にアリを支えたスタッフのドゥルー・バンディーニ・ブラウンが言ったもので、彼らはこのフレーズを一緒に叫ぶパフォーマンスを見せていた。また、アリを指導したトレーナーのアンジェロ・ダンディーは、後にはシュガー・レイ・レナードを育てた。
来歴
1942年1月17日にアメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアスと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイとして生まれた。父親と同じ名前であるため、名前の最後にジュニアがついていた。
ジムに入門後、アリは8週間でアマチュアボクサーとしてデビューした。対戦相手は、アリ同様にデビューしたてのロニー・オキーフだった。試合は3分3Rで行われ、スプリットデシジョンで判定勝ちした。アリが通っていたジムには、後にWBA世界ヘビー級チャンピオンになるジミー・エリスも通っており、アリはアマチュア時代にエリスと2度対戦し、1勝1敗の戦績を残した。この間に、アリはヴァージニア大通り小学校とデゥヴァル中学校を卒業。セントラル高校に進学した。その後、ケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝した。さらに、AAUボクシング競技のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技ライトヘビー級に出場し、前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドのピトロシュコスキーを判定で破って優勝した。
1960年、ローマオリンピックで金メダルを獲得。その後、黒人差別を受け金メダルを川に投げ捨てた[2]。同年10月29日にプロデビュー。タニー・ハンセイカーと対戦し、6R判定勝ちを収める。また、プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であることを公表し、リング名を現在の本名であるムスリム(イスラム教徒)名のモハメド・アリに改めた。この名前は預言者のムハンマド・イブン=アブドゥッラーフと指導者(イマーム)のアリー・イブン=アビー=ターリブに由来する。
1962年11月15日に元世界ライトヘビー級チャンピオンのアーチー・ムーアと対戦。試合前に、控え室の黒板に「ムーアを4RにKOする」という予言を書いてリングに向かい、その4Rに3度ダウンを奪ってKO勝ちした。1963年3月13日に、元世界ライトベビー級タイトル挑戦者のダグ・ジョーンズと対戦し、10R判定で勝利。この試合は The Ring 年間最高試合賞に選出されたが、アリは試合前にジョーンズを6RでKOすると公言していたため、試合後に新聞からバッシングを浴びた。
1964年2月25日、ソニー・リストンに7回TKO勝ちでWBA世界ヘビー級タイトルを獲得。この試合は The Ring 年間最高試合賞に選出された(2度目)。しかし1967年、ベトナム戦争への徴兵を拒否したため、禁固5年と罰金1万ドルを科せられ(1971年7月に合衆国最高裁で無罪となった)[3]、無敗のままWBA世界ヘビー級タイトルを剥奪された。ボクサーライセンスも剥奪され、3年7か月間のブランクを作った。
1970年10月26日、世界ヘビー級1位、ジェリー・クォーリーと3年ぶりの試合を行い、3回TKO勝ちして再起を果たした。 1971年3月8日、ジョー・フレージャーの持つWBA世界ヘビー級タイトルに挑戦するが、15回に左フックでダウンを奪われるなどして判定負け。この試合は The Ring 年間最高試合賞に選出された(3度目)。1972年4月1日、日本武道館でマック・フォスターと対戦し、15回判定勝ち。1973年3月31日、ケン・ノートンに判定負け、生涯2度目の敗北。さらに試合後、顎を骨折していたことが分かる。同年9月10日、ケン・ノートンに判定勝ちし、雪辱を果たした。1974年1月28日、前チャンピオンのジョー・フレージャーと3年越しの再戦を行い、15回判定勝ち。ここでも雪辱を果たすとともにチャンピオンジョージ・フォアマンへの挑戦権を得た。この試合は The Ring 年間最高試合賞に選出された(4度目)。
1974年10月30日、ジョージ・フォアマンに8回KO勝ちでWBA・WBC世界ヘビー級タイトルを獲得。この試合はアフリカのザイールで行われ、"Rumble in the jungle" と名付けられていた。当時、一般には全盛を過ぎたと見られていたアリが史上最高のハードパンチャーと目されたフォアマンを破ったため、「キンシャサの奇跡」とも呼ばれる。この試合でアリは、ロープにもたれながら相手のパンチを腕でブロックし、自分では打ち返さずに、防戦一方になっていたが、一見劣勢に見えながらも、フォアマンの体力を消耗させて、最後の一発で逆転するというクレバーな作戦をとり、見事な勝利を収めた。アリはこの戦法を "rope a dope" と名づけた。以後の10度の防衛戦でこの戦法を多用する一方、対戦相手のパンチを被弾することも増加していった。
1975年3月24日、無名のチャック・ウェプナーと初防衛戦を行い、15回KO勝ちするが、ダウン(実はウェプナーがアリの足を踏んだため)を喫するなど、ウェプナーが善戦する。この試合を見たシルヴェスター・スタローンは、映画「ロッキー」のストーリーを思い付いた。同年10月1日、フィリピンのアラネタ・コロシアムで行われた4度目の防衛戦でジョー・フレージャーと対戦し、14回TKO勝利を収めた。終生のライバルとなったフレージャーとは3度対戦して、2勝1敗であった。興行名を "The Thrilla in Manila" としたこの対戦は両者死力を尽くして形勢が何度も逆転した名試合であり、この試合も The Ring 年間最高試合賞に選出された(5度目)。この年にはイスラム教スンナ派に改宗した。1976年6月26日に来日し、日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を行う。特別ルールで戦い結果は3分15回を戦い時間切れ引き分けとなった。この試合で執拗に蹴られた足は慢性の血栓症になり、入退院を繰り返した。1978年2月15日、レオン・スピンクスにニューヨークのヒルトンスポーツパビリオンでの試合で判定負けしてタイトルを失った。この試合も The Ring 年間最高試合賞に選出された(6度目)。この後、スピンクスはWBCからタイトルを剥奪され、WBAタイトルのみとなった。WBCタイトルには、ケン・ノートンが認定された。
1978年9月15日、レオン・スピンクスに判定勝ちし、WBAタイトルを奪回。このタイトルはすぐに返上して一時リングを去ったが、1980年10月2日にカムバック。かつてスパーリング・パートナーだったラリー・ホームズのWBC世界ヘビー級タイトルに挑戦するが、11RTKOで敗れ、奪取ならず。1981年12月11日、トレバー・バービックに判定負けし、引退した。
引退後
引退後にパーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入った。1990年に湾岸危機に際し、イラク・フセイン大統領との直接対話のため、病をおしてバグダッドに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。開放された多くの人が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国した。
1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火。金メダルを再授与された。この開会式では聖火台の点火者は当日まで秘密にされていたが、女子水泳選手のジャネット・エバンスが、点火台まで聖火のトーチを運び上げた時、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(火が点くと同時にそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで火が点くしかけだった)。2003年のMLBオールスターゲームで始球式を務め、久し振りに公の場に姿を見せた。
2005年11月9日、アメリカ合衆国ホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。2009年にはアイルランド・クレア郡エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われた[4]。
獲得タイトル
アマチュアボクシング
- ケンタッキー州ゴールデングローブ優勝(6度)
- 全米ゴールデングローブミドル級優勝(1959年)
- 全米ゴールデングローブミドル級優勝(1960年)
- AAUボクシング競技ライトヘビー級優勝(1959年)
- AAUボクシング競技ライトヘビー級優勝(1960年)
- ローマオリンピックボクシング競技ライトヘビー級優勝
プロボクシング
- NABFヘビー級タイトル(5度防衛)
- NABFヘビー級タイトル(1度防衛)
- 世界ヘビー級タイトル
- WBA世界ヘビー級タイトル
- WBC世界ヘビー級タイトル
受賞歴
- オットー・ハーン平和メダル
- 金メダル再授与(1996年)
- 大統領自由勲章
- The Ring 年間最優秀選手賞 – 1963年、1972年、1974年、1975年、1978年(5度受賞)
- The Ring 年間最高試合賞 – 1963年、1964年、1971年、1974年、1975年、1978年(6度受賞)
関連映画
- アリ/ザ・グレーテスト(トム・グライス監督)
- モハメド・アリ かけがえのない日々(レオン・ギャスト監督)
- モハメド・アリ/チャンピオンへの道(ジム・ジェーコブス監督)
- モハメド・アリ 世界が見た王者(フィル・グラブスキー監督)
- ALI アリ(マイケル・マン監督、ウィル・スミス主演)
関連書籍
- ホセ・トレス 『カシアス・クレイ』 和田俊訳 朝日新聞出版 1972年
- 田原八郎 『モハメド・アリ―合衆国と闘った輝ける魂』 燃焼社、2003年8月
- ハワード・L. ビンガム 『モハメド・アリ 聖者』 岩本正恵訳、リトルモア、1997年11月
- マイク・マークシー 『モハメド・アリとその時代―グローバル・ヒーローの肖像』 藤永康政訳、未來社、2001年10月
- デイビッド・レムニック 『モハメド・アリ―その闘いのすべて』 佐々木純子訳、阪急コミュニケーションズ、2001年9月
- デイヴィス・ミラー 『モハメド・アリの道』 田栗美奈子訳、青山出版社、1997年9月
- 田中茂朗 『モハメド・アリ〜リングを降りた黒い戦士』 メディアファクトリー、1992年6月20日
- トマス・ハウザー 『シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション14 モハメド・アリ – その生と時代』小林勇次訳、東京書籍、1993年7月2日
- ハナ・アリ 『私の父モハメド・アリ』 北沢あかね訳、愛育社、2001年9月
脚注
- ↑ (2002-02-09) Ali has Irish ancestry BBC News [ arch. ] 2009-08-05
- ↑ スポーツのココロ 第1回 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
- ↑ デイビッド・レムニック 『モハメド・アリ―その闘いのすべて』 佐々木純子訳、阪急コミュニケーションズ、2001年9月
- ↑ モハメド・アリ、曾祖父の故郷アイルランドで名誉市民に AFPBB News 2009年9月2日閲覧
関連項目
外部リンク
前チャンピオン ソニー・リストン |
第25代WBA世界ヘビー級チャンピオン 1964年2月25日 – 1964年6月19日(剥奪) |
空位 次タイトルホルダー アーニー・テレル |
前チャンピオン ソニー・リストン |
第2代WBC世界ヘビー級チャンピオン 1964年2月25日 – 1967年(剥奪) |
空位 次タイトルホルダー ジョー・フレージャー |
前チャンピオン アーニー・テレル |
第27代WBA世界ヘビー級チャンピオン 1967年2月6日 – 1967年5月9日(剥奪) |
空位 次タイトルホルダー ジミー・エリス |
前王者 ジョージ・フォアマン |
第31代WBA世界ヘビー級王者 1974年10月30日 – 1978年2月15日 |
次王者 レオン・スピンクス |
前王者 ジョージ・フォアマン |
第5代WBC世界ヘビー級王者 1974年10月30日 – 1978年2月15日 |
次王者 レオン・スピンクス |
前チャンピオン レオン・スピンクス |
第33代WBA世界ヘビー級チャンピオン 1978年9月15日 – 1979年4月27日(返上) |
空位 次タイトルホルダー ジョン・テート |
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