「可愛かずみ」の版間の差分
(ページの作成:「{{Otheruses|女優の可愛'''かずみ'''|1970年代に活躍した歌手の可愛'''和美'''|可愛和美}} {{性的}} Image:Kazumi_Kazumi_00.jpg|thumb|right|300px|...」) |
|||
6行目: | 6行目: | ||
[[東京都]][[杉並区]][[高円寺]]出身<ref name="myojo8501">明星 1985年1月号 p.138</ref>。 | [[東京都]][[杉並区]][[高円寺]]出身<ref name="myojo8501">明星 1985年1月号 p.138</ref>。 | ||
+ | |||
+ | === 自殺 === | ||
+ | [[1995年]]、当時交際相手で、ヤクルトに在籍していた[[川崎憲次郎]]と結婚間近と噂されるが、その後川崎が「怪我の治療に専念したい」という理由から破局する。[[1996年]][[3月]]、[[志村けん]]とのツーショット写真を週刊誌に撮られる。この時期から過度の精神的ストレスにより、1996年[[12月]]・[[1997年]][[1月]]と[[リストカット]]の[[自殺]]未遂を繰り返す。1997年[[5月9日]]午前中に手首を切り3度目の自殺を図る。この時のためらい傷は3箇所に及んでいたという。縫合後、食事で出された[[ドリア]]を完食しており、周囲の者には落ち着きを取り戻したように見えたという。しかし午後6時30分頃、留守番の女性に「咳がでるから病院に行く」と言って出かけ、午後7時10分頃、川崎が住んでいた[[目黒区]][[駒場 (目黒区)|駒場]]のマンション7階から飛び降り、帰らぬ人となる。 | ||
+ | |||
+ | 午後7時14分頃マンションの前に人が倒れていると通報されるが、救急車が来た時には既に[[心肺停止]]状態であった。搬送された新宿の[[東京医科大学病院]]で、午後7時59分に死亡が確認された。自宅を出た時間から推測すると、真っ直ぐ自殺現場に向かったものと思われる。当初は事故としても調べられたが、すぐに自殺と断定される。飛び降りたマンションの共同廊下には、揃えられた靴と免許証やカード、そして現金約10万円が入った[[シャネル]]の財布が置かれていた。2階のエントランスに1度落下したらしく、2階部分には、落下痕と飛び降りた際にかけていたと思われるサングラスがあった。目撃者であるマンション1階のコンビニ店員の証言によると、可愛は青と白のストライプのシャツを着ており、自殺したとは思えないほど安らかな顔をしていたという。当時は遺書が見つかっていなかったこともあり様々な憶測を呼んだが、父親宛のメモを残していたことが[[2014年]][[4月11日]]に判明した<ref name="nikkan" />。 | ||
+ | |||
+ | 遺体が安置された東京医科大学病院には、川上麻衣子、岡本かおり、など、多くの友人が駆けつけ付き添っていた。通夜でも[[渡辺美奈代]]や[[渡辺めぐみ]]など、多くの友人が駆けつけ「もっと相談に乗っていれば良かった」「もっと頻繁に気持ちを確かめ合えば、こんなことには…」と口々に漏らし、涙に濡れた。また通夜には生き別れになっていた母親も参列し、可愛が亡くなった後、再会を果たしている。告別式では2年半ほど前に撮られた写真が遺影として使われた。父親が「人生で一番むなしい日」、所属事務所社長が「彼女が思っているよりもずっと彼女は愛されていた」と語っている。告別式の様子を放送したワイドショーでは芸能リポーターが「私の立場で言っていいのかは分かりませんが、もうそっとしてあげたいですね」と言っており、可愛の人柄が偲ばれるものであった。 | ||
+ | |||
+ | 亡くなった翌日の5月10日に、可愛は都内の自動車販売会社を経営する実業家と正式に婚約し、2ヵ月後に結婚する予定であったことが判明する。当初は可愛の誕生日である7月9日に入籍するつもりだったが、その日が仏滅だったため、七夕の7月7日に籍を入れる予定だった。棺には挙式で着用する予定だった白い[[ウェディングドレス]]がかけられた。 | ||
== 脚注 == | == 脚注 == |
2018年7月21日 (土) 11:22時点における版
この項目では、女優の可愛かずみについて説明しています。1970年代に活躍した歌手の可愛和美については「可愛和美」をご覧ください。 |
可愛 かずみ(かわい かずみ、1964年7月9日 - 1997年5月9日)は、日本の女優。本名、久我 知子(くが ともこ)[1]。
自殺
1995年、当時交際相手で、ヤクルトに在籍していた川崎憲次郎と結婚間近と噂されるが、その後川崎が「怪我の治療に専念したい」という理由から破局する。1996年3月、志村けんとのツーショット写真を週刊誌に撮られる。この時期から過度の精神的ストレスにより、1996年12月・1997年1月とリストカットの自殺未遂を繰り返す。1997年5月9日午前中に手首を切り3度目の自殺を図る。この時のためらい傷は3箇所に及んでいたという。縫合後、食事で出されたドリアを完食しており、周囲の者には落ち着きを取り戻したように見えたという。しかし午後6時30分頃、留守番の女性に「咳がでるから病院に行く」と言って出かけ、午後7時10分頃、川崎が住んでいた目黒区駒場のマンション7階から飛び降り、帰らぬ人となる。
午後7時14分頃マンションの前に人が倒れていると通報されるが、救急車が来た時には既に心肺停止状態であった。搬送された新宿の東京医科大学病院で、午後7時59分に死亡が確認された。自宅を出た時間から推測すると、真っ直ぐ自殺現場に向かったものと思われる。当初は事故としても調べられたが、すぐに自殺と断定される。飛び降りたマンションの共同廊下には、揃えられた靴と免許証やカード、そして現金約10万円が入ったシャネルの財布が置かれていた。2階のエントランスに1度落下したらしく、2階部分には、落下痕と飛び降りた際にかけていたと思われるサングラスがあった。目撃者であるマンション1階のコンビニ店員の証言によると、可愛は青と白のストライプのシャツを着ており、自殺したとは思えないほど安らかな顔をしていたという。当時は遺書が見つかっていなかったこともあり様々な憶測を呼んだが、父親宛のメモを残していたことが2014年4月11日に判明した[3]。
遺体が安置された東京医科大学病院には、川上麻衣子、岡本かおり、など、多くの友人が駆けつけ付き添っていた。通夜でも渡辺美奈代や渡辺めぐみなど、多くの友人が駆けつけ「もっと相談に乗っていれば良かった」「もっと頻繁に気持ちを確かめ合えば、こんなことには…」と口々に漏らし、涙に濡れた。また通夜には生き別れになっていた母親も参列し、可愛が亡くなった後、再会を果たしている。告別式では2年半ほど前に撮られた写真が遺影として使われた。父親が「人生で一番むなしい日」、所属事務所社長が「彼女が思っているよりもずっと彼女は愛されていた」と語っている。告別式の様子を放送したワイドショーでは芸能リポーターが「私の立場で言っていいのかは分かりませんが、もうそっとしてあげたいですね」と言っており、可愛の人柄が偲ばれるものであった。
亡くなった翌日の5月10日に、可愛は都内の自動車販売会社を経営する実業家と正式に婚約し、2ヵ月後に結婚する予定であったことが判明する。当初は可愛の誕生日である7月9日に入籍するつもりだったが、その日が仏滅だったため、七夕の7月7日に籍を入れる予定だった。棺には挙式で着用する予定だった白いウェディングドレスがかけられた。
脚注
- ↑ 明星 1985年1月号 p.138、週刊文春 1997年5月22日号 p.30 - 34 など。
- ↑ 明星 1985年1月号 p.138
- ↑ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「nikkan
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません