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*白井逸造{{Sfn|藤田|2010|p=63 - 1875年(明治8)1月付の政府密偵探索書から引用。}} | *白井逸造{{Sfn|藤田|2010|p=63 - 1875年(明治8)1月付の政府密偵探索書から引用。}} | ||
*[[小瀬新太郎]] 1875年(明治8)12月 - {{Sfn|片桐|安藤|1994|p=54}} | *[[小瀬新太郎]] 1875年(明治8)12月 - {{Sfn|片桐|安藤|1994|p=54}} |
2020年5月19日 (火) 00:53時点における最新版
テンプレート:日本の氏族 尾張徳川家(おわりとくがわけ)は、徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系。単に尾張家、尾州家とも言う。御三家の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。
目次
沿革[編集]
徳川家康の九男・徳川義直(五郎太、義俊、義利)を家祖とする。義直は慶長8年(1603年)に家康から甲斐国に封じられるが、甲斐統治は甲府城代平岩親吉によって担われており、五郎太自身は在国せず駿府城に在城した。元服後の慶長11年(1606年)に義直は、兄松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清須に移封された。その際に家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて尾張藩を治めた。徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代将軍の徳川家継没後、紀州徳川家出身の徳川吉宗が尾張家の徳川継友を制して8代将軍に就任した。その後には御三卿が創設された影響もあって、結局尾張家からは将軍は出なかった。
藩祖義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた勤皇家であった。このことや、将軍を出せなかったこと、将軍家から養子を押し付けられ続けたことなどにより、家中に将軍家への不満が貯まり続け、戊辰戦争では官軍についた。
尾張徳川家の支系(御連枝)として、美濃国高須藩を治めた高須松平家(四谷松平家)がある。しかし、共に短命の藩主が多く、1799年に尾張徳川家、1801年には高須松平家で、義直の男系子孫は断絶し[1]、19世紀以降の尾張徳川家は養子相続を繰り返して現在に至っている。10代から13代まで吉宗の血統の養子が藩主に押し付けられたが、これに反発した尾張派は14代慶勝を高須家から迎えることに成功し、幕府からの干渉を弱めた。
明治維新では、慶勝が佐幕から倒幕に転じ官軍についたことにより[2]、侯爵を授けられ、第16代・義宜が名古屋藩知事となった[3]。また秩禄処分後、約74万円という高額の金禄公債証書[4]を受領した[3]。資産のうち約43万円を第15国立銀行に出資して配当金を再投資し、また士族授産のため北海道・遊楽部原野の土地を開拓して八雲町を拓くなどして、維新後も高い政治的・経済的地位を維持した[5]。
明治以降の廃藩置県により旧大名家が東京に拠点を移し、旧藩地の財産を処分する中、第18代・義礼は名古屋市東区大曽根(現在の徳川園)に本邸を置き、1900年に明倫中学校を開設、家財の保存に努めるなどしていたが[6][7]、19代・義親のとき、尾張徳川家の事務所(1913年)と本籍(1920年)を名古屋から東京[8]へ移し、1910年代以降、明倫中学校を愛知県に譲渡、什器を競売に出し、墓地を集約するなどして名古屋の施設・什器等の整理を進め、建物や所有地を大々的に処分した[9]。義親は1931年に財団法人尾張徳川黎明会を設立し、処分した什宝の売却益等により[10]大曽根の義礼邸跡地に徳川美術館、目白に蓬左文庫・徳川生物学研究所を開設した[11]。
戦後、1946年に義親が戦争協力者として公職追放にあい、1947年に華族制度廃止により爵位を喪失[12]。財産税の適用により資産の約8割を喪失[12]、保有していた南満州鉄道の株券が無価値になり[13]、八雲町の徳川農場は農地法の適用を受け、一部の山林を残して解放された[14]。
財政難のため目白の邸宅は西武に売却され[15]、蓬左文庫は1950年に藩政資料などを徳川林政史研究所に残して名古屋市に売却され、徳川生物学研究所は1970年に閉鎖、施設はヤクルトに売却された[16][17][18]。
2016年現在、公益財団法人徳川黎明会が徳川美術館と徳川林政史研究所を運営[19]、株式会社八雲産業が目白の邸宅跡地に建設された外国人居留者向けの賃貸住宅と八雲町に残された山林を運営しており[20][21][22]、尾張徳川家の当主は黎明会会長、美術館館長、八雲産業社長に就任している[23][24]。
歴代当主と後嗣たち[編集]
- 初代(藩主) 徳川義直 - 敬公
- 光友(2代)
- 2代(藩主) 徳川光友 - 正公
- 3代(藩主) 徳川綱誠 - 誠公
- 4代(藩主) 徳川吉通 - 立公
- 五郎太(五代)
- 5代(藩主) 徳川五郎太 - 誉公
- (実子なし)
- 6代(藩主) 徳川継友(3代藩主綱誠の子) - 曜公
- (実子なし)
- 7代(藩主) 徳川宗春(3代藩主綱誠の子) - 逞公
- (実子なし)
- 8代(藩主) 徳川宗勝(支藩高須藩3代藩主から襲封、尾張藩2代藩主光友の孫) - 戴公
- 9代(藩主) 徳川宗睦 - 明公
- 10代(藩主) 徳川斉朝(一橋徳川家から養子) - 順公
- (実子なし)
- 11代(藩主) 徳川斉温(徳川将軍家から養子、11代将軍徳川家斉の実子) - 僖公
- (実子なし)
- 12代(藩主) 徳川斉荘(田安徳川家から養子、11代将軍徳川家斉の実子) - 懿公
- 昌丸(一橋徳川家8代当主、夭折)
- 13代(藩主) 徳川慶臧(田安徳川家から養子)- 欽公
- (実子なし)
- 14代(藩主) 徳川慶勝(初め慶恕/支藩高須藩から養子、水戸藩6代藩主徳川治保の曾孫)- 文公
- 義宜(16代)
- 15代(藩主) 徳川茂徳(支藩高須藩11代藩主から襲封、14代慶勝の実弟、のち一橋徳川家10代茂栄)
- 16代(藩主) 徳川義宜(養子、14代慶勝の実子) - 靖公
- (実子なし)
- 17代 徳川慶勝(14代慶勝の再勤)- 文公
尾張徳川侯爵家[編集]
当主[編集]
- 18代(侯爵) 徳川義礼(高松松平家から養子、夫人は17代慶勝の娘)
- 19代(侯爵) 徳川義親(越前松平家から養子、夫人は18代義礼の娘)
- 20代 徳川義知(義親の長男。義親の公職追放を期に家督を継承[25][26]、1947年5月、華族制度廃止により爵位喪失[15])
御相談人会[編集]
尾張徳川家との旧臣関係による家政の顧問会[27]。1908年に19代・義親が家督を相続したときには田中不二麿を御相談人長とし、加藤高明、永井久一郎、成瀬正雄、中村修、横井時儀、片桐助作の6人が御相談人となっていた[28][27]。のちに八代六郎、渡辺錠太郎、大角岑生、松井石根ら陸海軍の将校が御相談人となった[27]。
御相談人長[編集]
御相談人[編集]
- 加藤高明 1890年 - 1926在任[30]。
- 永井久一郎 1890年12月 - 1913年在任[31]
- 成瀬正雄[28]
- 中村修[28]
- 横井時儀[28]
- 片桐助作 1903年 - 1915年在任[32][33]
- 堀鉞之丞 1908年10月30日 - 1914年4月30日在任[34]。
- 海部昂蔵 1914年 - 在任[34]。
- 阪本釤之助 1920年 - 在任[31]
- 松井石根[27]
- 八代六郎[27]
- 渡辺錠太郎[27]
- 大角岑生[27]
- 佐藤鋼次郎[35]
- 間島弟彦[35]
家職[編集]
1874年(明治7)7-8月頃、田中不二麿、丹波賢、松本暢、間島冬道らが徳川慶勝に進言して家令・白井逸造を退職させ、宮内省で在官していた中村修を家令とした際に、角田弘業や長谷川惣蔵は中村を退職させ、白井を復職させた[36]。
1875年(明治8)11月に東京で第16代当主・徳川義宜が死去し、徳川義勝が再度家督を継ぐことになった際に、それまでの家職は職を免ぜられ、小瀬新太郎が家令に、内田文三郎と吉田知行が家扶を命ぜられた。このとき、維新前後に勤王派として知られ、その後北海道の八雲町の開拓に携わる人物が登用された。[37]
1908年(明治41)に19代・義親が家督を相続したとき、東京(別邸)には家扶・水野正則以下3人、名古屋・大曽根の本邸に家令・海部昂蔵以下、家扶4人、家従8名が勤務していた[38]。
家令[編集]
- 白井逸造 - 1874年(明治7)[36]
- 中村修 1874年(明治7)[36]
- 白井逸造[36]
- 小瀬新太郎 1875年(明治8)12月 - [39]
- 中村修 1882年(明治15)-1883年(明治16)頃[40]
- 吉田知行 1883年(明治16) - [41]
- 海部昂蔵 1885年(明治18)春 - [42]
家扶[編集]
戦後の尾張徳川宗家[編集]
系譜[編集]
凡例:太線は実子、破線は養子、太字は当主
宗勝は宗春の養子にはならず、藩領は一旦収公ののち宗勝に下す形がとられた。
関連項目[編集]
付録[編集]
関連文献[編集]
- 名古屋市教育委員会(編)『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 1』名古屋市教育委員会、1966、NDLJP 2972586
- ―『― 第18巻 ― 2』―、1967、NDLJP 2972587
- ―『― 第19巻 ― 3』―、1968、NDLJP 2972588
- ―『― 第20巻 ― 4』―、1968、NDLJP 2972669
- 徳川林政史研究所 > 史料の公開 > PDFファイル公開史料一覧(公開史料一覧へ進む) > 藩士名寄 旧蓬左文庫所蔵史料140-4
- 中村修(編)『勤王家履歴』〈名古屋市史編纂資料 和装本 市11-37〉、1910年
脚注[編集]
- ↑ 正確には、8代藩主宗勝の子で尾張藩付家老竹腰氏へ養子に入った竹腰勝起を経て高岡藩井上氏、櫛羅藩永井氏へと血統が連なり、永井氏の血統は現在も存続している。
- ↑ 青松葉事件の記事も参照。
- ↑ 3.0 3.1 小田部 1988 39-41
- ↑ 薩摩島津家、加賀前田家、長門毛利家、肥後細川家に次ぐ第5位の高禄だった(小田部 1988 39)
- ↑ 小田部 (1988 39-41)。1898(明治31)年当時、尾張徳川家の所得は約11万6千円で、所得番付の12位、華族の中で第7位だった(同)。なお、財務収支の改善は1890年から同家の御相談人となった加藤高明によるところが大きく、それ以前は収支がトントンだったが、加藤によって収支が大幅に改善し、資産が3倍-10倍になった、とされている(小田部 1988 42-43)。
- ↑ 香山 2015 30
- ↑ 香山 2014 17-18,28
- ↑ 麻布区富士見町、1932年から豊島区目白(香山 2016 124-125)
- ↑ 香山 2015 3,27-28,30-32
- ↑ 香山 2015 36
- ↑ 香山 2016 121
- ↑ 12.0 12.1 小田部 1988 209-210
- ↑ 徳川 1963 146
- ↑ 徳川 1963 110,146
- ↑ 15.0 15.1 小田部 1988 209
- ↑ 科学朝日 (1991) 科学朝日 科学朝日 [ 殿様生物学の系譜 ] 朝日新聞社 1991 ISBN 4022595213 200
- ↑ 中村 増田 (1996) 中村輝子 増田芳雄 [ 山口清三郎博士の戦中日記 ] 人間環境科学 5 帝塚山大学 1996 89 NAID 110000481506
- ↑ 小田部 1988 29
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- ↑ 小田部 1988 40-41
- ↑ 八雲産業 2016
- ↑ 徳川黎明会 (2016a) 徳川黎明会 平成27年度事業報告書 PDF 公益財団法人徳川黎明会 2016-07-04
- ↑ 徳川 2006 102-103
- ↑ 徳川 (1963 148)は、終戦を期に家督を譲った、としている。
- ↑ 27.0 27.1 27.2 27.3 27.4 27.5 27.6 27.7 小田部 1988 42
- ↑ 28.0 28.1 28.2 28.3 28.4 香山 2014 2-3
- ↑ 29.0 29.1 香山 2016 104
- ↑ 30.0 30.1 小田部 1988 42-43
- ↑ 31.0 31.1 香山 2016 122
- ↑ 香山 2015 27
- ↑ 香山 2014 2-3,25
- ↑ 34.0 34.1 34.2 34.3 香山 2015 1
- ↑ 35.0 35.1 香山 2015 33
- ↑ 36.0 36.1 36.2 36.3 藤田 2010 63 - 1875年(明治8)1月付の政府密偵探索書から引用。
- ↑ 37.0 37.1 37.2 片桐 安藤 1994 52-54
- ↑ 38.0 38.1 香山 2014 3
- ↑ 片桐 安藤 1994 54
- ↑ 片桐 安藤 1994 56
- ↑ 大石 1994 126 - 「八雲村徳川家農場沿革略」徳川林政史研究所所蔵『北海道八雲史料』による。
- ↑ 片桐 安藤 1994 59
- ↑ 香山 2016 103
参考文献[編集]
- 香山 (2016) 香山里絵「『尾張徳川美術館』設計懸賞」徳川美術館『金鯱叢書』v.43、2016年3月、pp.103-131
- 香山 (2015) 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月、pp.27-41
- 香山 (2014) 香山里絵「徳川義親の美術館設立想起」徳川美術館『金鯱叢書』v.41、2014年3月、pp.1-29
- 藤田 (2010) 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、NAID 40017129111
- 徳川 (2006) 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
- 大石 (1994) 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
- 片桐 安藤 (1994) 片桐寿(遺稿)・安藤慶六「片桐助作とその時代 - 頴川雑記」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.49 no.1、1994年8月、pp.43-60、NDLJP 6045201/23
- 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
- 徳川 (1963) 徳川義親(述)「私の履歴書 ‐ 徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年(初出は1963年12月)、pp.85-151、ISBN 4532030862