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{{Otheruses|日本の志士である'''中岡慎太郎'''|日本の俳優|中岡慎太郎 (俳優)}}
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[[ファイル:遭難前の中岡慎太郎.jpg|thumb|遭難前の中岡慎太郎]]
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'''中岡 慎太郎'''(なかおか しんたろう、[[1838年]][[5月6日]] - [[1867年]][[12月12日]])は、[[幕末]][[日本]]の[[志士]]。1861年に[[土佐勤王党]]に加わり、[[尊王攘夷]]活動に参画。1863年に[[土佐藩]]内での弾圧を受けて脱藩し、[[長州藩]]で脱藩志士の連絡役・まとめ役として活動した。[[坂本龍馬]]らと共に1866年の[[薩長同盟]]、翌年の[[薩土密約]]締結に尽力し、同年、[[陸援隊]]を組織し隊長に就任したが、[[近江屋事件]]で殺害された。
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|説明=中岡慎太郎(1866年)
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|没年={{死亡年月日と没年齢|1838|05|06|1867|12|12}}
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[[画像:Sakamoto6656.JPG|thumb|220px|[[円山公園 (京都府)|円山公園]]の坂本龍馬と中岡慎太郎像(写真は戦後再建された2代目の像)]]
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'''中岡 慎太郎'''(なかおか しんたろう、[[天保]]9年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]([[新暦]]・[[1838年]][[5月6日]]- [[慶応]]3年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]][[新暦]]・[[1867年]][[12月12日]]))は、[[日本]]の[[志士]](活動家)。[[陸援隊]]隊長。[[諱|名]]は'''道正'''。[[仮名 (通称)|通称]]ははじめ'''福太郎'''('''福五郎'''とも)、'''光次'''、のち慎太郎。[[雅号|号]]は'''遠山'''・'''迂山'''など。[[変名]]は'''石川清之助'''('''誠之助''')など。坂本龍馬らと共に[[薩長同盟]]の斡旋に尽力するも[[近江屋事件]]で横死した。[[贈位|贈]][[正四位]]([[1891年]](明治24年)4月8日)。
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== 生涯 ==
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== 経歴 ==
[[土佐国]]安芸郡北川郷柏木村(現・[[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[北川村]]柏木)に北川郷の大[[庄屋]]・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれる。安政元年([[1854年]])、[[間崎哲馬]]に従い経史を学び、翌年には[[武市瑞山]](半平太)の道場に入門して剣術を学ぶ。安政4年([[1857年]])、[[北川村|野友村]]庄屋利岡彦次郎の長女・兼(かね)15歳と結婚。[[文久]]元年([[1861年]])には武市が結成した[[土佐勤皇党]]に加盟して、本格的に[[志士]]活動を展開し始める。
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=== 生い立ち ===
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[[天保]]9年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]](新暦1838年5月6日)、[[土佐国]]安芸郡北川郷柏木村(現・[[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[北川村]]柏木)に北川郷の大[[庄屋]]・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれる。
  
文久2年([[1862年]])、[[長州藩]][[久坂玄瑞]]・[[宍戸たまき|山県半蔵]]とともに、[[松代藩|松代]]に[[佐久間象山]]を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。
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安政元年(1854年)、[[間崎哲馬]]に従い[[経史]]を学び、翌年には[[武市瑞山]](半平太)の道場に入門して剣術を学ぶ。
  
文久3年([[1863年]])、京都での[[八月十八日の政変]]後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、速やかに脱藩し、同年9月、長州藩に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、[[周防国]][[三田尻]]に[[七卿落ち|都落ち]]していた[[三条実美]]の随臣(衛士)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となる。
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安政4年(1857年)、[[北川村|野友村]]の庄屋・利岡彦次郎の長女・兼(かね、当時15歳)と結婚。
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=== 土佐勤王党 ===
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[[文久]]元年(1861年)、武市が結成した[[土佐勤皇党]]に加盟して、本格的に[[志士]]活動を展開し始める。
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* (いつ?)武市瑞山の命令で板垣退助を斬りに来たが、退助に見透かされてしまった。しかし彼の為人を知り、逆に退助との交誼を結ぶ事となった。(出典?)
  
[[元治]]元年([[1864年]])、石川誠之助を名乗り上洛。[[薩摩藩]]の[[島津久光]]暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて[[禁門の変]][[下関戦争]]を長州側で戦い、負傷する。
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文久2年(1862年)、[[長州藩]][[久坂玄瑞]][[宍戸たまき|山県半蔵]]とともに、[[松代藩|松代]][[佐久間象山]]を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。
  
長州藩への冤罪・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧を目の当たりにして、活動方針を単なる[[尊皇攘夷]]論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させる(中岡慎太郎自身のこの頃の手紙による)。そして、長州藩の桂小五郎([[木戸孝允]])と薩摩藩の[[西郷隆盛|西郷吉之助]](隆盛)との会合による[[薩長同盟]]締結を志士たちの第一の悲願として活動し始める。三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士たちのまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、亀山社中(後の[[海援隊]])を結成した[[坂本龍馬]]や三条の随臣・土方楠左衛門([[土方久元]])をも説き伏せて巻き込んで行き、[[慶応]]2年1月21日([[1866年]][[3月2日]])(あるいは22日(3日))、京都二本松薩摩藩邸において薩長の和解および薩長同盟を結実させる。
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=== 脱藩 ===
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文久3年([[1863年]])、[[京都]]で起きた[[八月十八日の政変]]の後、[[土佐藩]]内でも[[尊王攘夷]]活動に対する弾圧が始まると、脱藩し、同年9月、長州藩に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、[[周防国]][[三田尻]][[七卿落ち|都落ち]]していた[[三条実美]]の随臣(衛士)となり、各地の志士たちとの連絡役となる。
  
慶応3年2月([[1867年]]3月)、龍馬ともども[[土佐藩]]から脱藩罪を赦免される。その後、薩土同盟についても同様に奔走し、まず、5月21日([[6月23日]])、土佐の乾退助([[板垣退助]])と薩摩の[[小松清廉]](小松帯刀)・西郷吉之助との間で武力倒幕のための'''[[薩土密約]]'''の締結に成功する。
+
[[元治]]元年([[1864年]])、'''石川誠之助'''を名乗り上洛。[[薩摩藩]][[島津久光]]暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて長州側として[[禁門の変]][[下関戦争]]を戦う。(いつ?)負傷。
  
更に土佐藩そのものを本格的に取り込むための運動を展開し、6月22日([[7月23日]])、京都三本木料亭「[[吉田屋]]」において、薩摩の小松帯刀・大久保一蔵([[大久保利通]])・西郷吉之助、土佐の[[寺村道成]]・[[後藤象二郎]]・福岡藤次([[福岡孝弟]])・石川誠之助(中岡)・才谷梅太郎(坂本龍馬)との間で、倒幕・王政復古実現のための[[薩土盟約]]が締結される。
+
=== 薩長同盟 ===
 +
この頃、長州藩への冤罪、雄藩同士の対立、志士たちへの弾圧を受けて、活動方針を尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させ、長州藩の桂小五郎([[木戸孝允]])、薩摩藩の[[西郷隆盛|西郷吉之助]](隆盛)との会合による[[薩長同盟]]締結を目標として活動するようになる<ref>中岡の書簡による。</ref>。
  
この薩土盟約は、更なる雄藩連合推進のため、同年6月26日([[7月27日]])、長州藩の隣の[[広島藩|安芸藩]]を加えた[[薩土芸三藩約定書]]に拡大発展する。しかし、これらの薩土同盟・薩土芸同盟は、土佐藩・安芸藩自身による[[大政奉還建白書]]や[[山内容堂]]の徳川宗家への強い恩顧意識のため、翌年1月の[[鳥羽・伏見の戦い]]において薩長官軍側の優勢が判明するまで実質的な威力には乏しかった。
+
連絡役・脱藩志士たちのまとめ役として、三条実美や薩摩・長州の志士たちの間を行き来し、亀山社中(後の[[海援隊]])を結成した[[坂本龍馬]]や三条の随臣・土方楠左衛門([[土方久元]])をも説き伏せて巻き込んで行った。
  
しかしながら、これらの慎太郎・龍馬の労苦の結晶である軍事同盟締結は、土佐藩内においては旧態依然とした兵制を改革させる決定的契機となり、土佐を[[戊辰戦争]]において薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力たらしめた。また同時に、倒幕後の政治ビジョンを描かざるを得ないことから[[封建制]][[幕藩体制]]をどう変えていかなければならないかという意識改革・藩政改革を他の諸藩よりも早めに進めざるを得なくなり、土佐出身者を長州・薩摩・肥前出身者同様に幕末・明治をリードする主要政治勢力たらしめた。
+
[[慶応]]2年1月21日([[1866年]][[3月2日]])<ref>あるいは22日(新暦3日)</ref>、京都・二本松の薩摩藩邸において、薩長の和解および薩長同盟を結実させる。
  
6月27日、かねてから長州で見聞していた[[奇兵隊]]を参考に[[陸援隊]]を組織し、自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。
+
慶応3年2月(1867年3月)、龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免される。
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=== 薩土密約 ===
 +
その後、薩土同盟についても同様に奔走し、慶応3年5月21日(1867年[[6月23日]])、土佐の乾退助([[板垣退助]])と薩摩の[[小松清廉]](小松帯刀)・西郷吉之助との間で武力倒幕のための[[薩土密約]]の締結に成功する。
  
7月8日、[[江戸]]から土佐へ帰藩する途中の[[真辺正精]]と京都で会い、互いに時勢を話し会う。
+
更に土佐藩全体を取込む運動を展開し、同年6月22日([[7月23日]])、京都・三本木の料亭「[[吉田屋]]」において、薩摩の小松帯刀・大久保一蔵([[大久保利通]])・西郷吉之助、土佐の[[寺村道成]]・[[後藤象二郎]]・福岡藤次([[福岡孝弟]])・石川誠之助(中岡)・才谷梅太郎(坂本龍馬)との間で、倒幕・王政復古実現のための[[薩土盟約]]が締結された。
  
11月15日([[12月10日]])、京都四条の[[近江屋]]に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され瀕死となる([[近江屋事件]])。龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが、慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について[[谷干城]]などに詳細に語ったという。11月17日に死去。享年30。
+
薩土盟約は、同年6月26日([[7月27日]])の[[広島藩|安芸藩]]を加えた[[薩土芸三藩約定書]]に発展した。
 +
*これらの同盟は、土佐藩・安芸藩自身による[[大政奉還建白書]]や[[山内容堂]]の徳川宗家への強い恩顧意識のため、翌年1月の[[鳥羽・伏見の戦い]]において薩長官軍側の優勢が判明するまで、実質的な効果には乏しかった(出典?)。
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*しかし、軍事同盟締結は、土佐藩内における兵制改革の契機となり、また[[封建制]]・[[幕藩体制]]に対する改革意識を高め、[[戊辰戦争]]において土佐藩(出身者)を薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力たらしめた(出典?)。
  
墓所は、[[京都市]][[東山区]]の[[京都霊山護国神社]]ほか。[[室戸岬]]に銅像が立つ<ref>[http://www.ryoma-kinenkan.jp/study/place/post-33.php 中岡慎太郎銅像] - 高知県立坂本龍馬記念館、2016年4月4日閲覧。</ref>。この銅像は[[本山白雲]]の製作で、[[桂浜]]にある龍馬の銅像が向かう先と同じ方向を見ていると噂されているが、両者の銅像の方向には全く関係はない。桂浜の龍馬の銅像と同様にこの像も[[第二次世界大戦中]]の金属供出を免れている<ref>[http://actland.jp/contents/kobako/09.html 龍馬の小箱(9) 龍馬の銅像] - 創造広場「アクトランド」、2016年4月4日閲覧。</ref>。
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=== 陸援隊 ===
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慶応3年(1867年)6月27日、長州で見聞していた[[奇兵隊]]を参考に、[[陸援隊]]を組織し、自ら隊長となり、京都・白川の土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定めた。この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。
  
死後、海援隊士らは[[いろは丸]]沈没事故で多額の賠償金を支払わされた[[紀州藩]]の報復であると考え、紀州藩士・[[三浦安|三浦休太郎]]を襲撃し、警護に当たっていた[[新選組]]と戦った([[天満屋事件]])。
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同年7月8日、[[江戸]]から土佐へ帰藩する途中の[[真辺正精]]と京都で会い、互いに時勢を話し会った。
  
== 評価 ==
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=== 死去 ===
* [[西郷隆盛]] 「倶に語るべき一種の人物なり」「節義の士なり」
+
慶応3年11月15日(1867年[[12月10日]])、京都・四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され瀕死となる([[近江屋事件]])。龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが、慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について[[谷干城]]などに詳細に語ったという<ref>近江屋で坂本龍馬と一緒に襲われたが、彼は即死せず二日間生き延びて、刺客が「こなくそ」([[松山弁]])と言いながら襲ってきたと話している。また、焼飯(焼きおにぎり)を食べたいとも話したらしい。(出典?)</ref>。同月17日(新暦12日)に死去、享年30。
  
* [[坂本龍馬]] 「我中岡と事を謀る往々論旨相協はざるを憂う。然れども之と謀らざれば、また他に謀るべきものなし」
+
近江屋事件の後、海援隊士らは[[いろは丸]]沈没事故で多額の賠償金を支払わされた[[紀州藩]]の報復であると考え、紀州藩士・[[三浦安|三浦休太郎]]を襲撃し、警護に当たっていた[[新選組]]と戦った([[天満屋事件]])。
  
* [[佐久間象山]] 「土州藩の使者(中岡)は頗る頑固な人で、これを辞したら殆ど刺違へぬばかりに議論をした」
+
墓所は、[[京都市]][[東山区]]の[[京都霊山護国神社]]ほかにある。[[明治維新]]後の1891年4月8日に[[正四位]]を追贈された。
  
* [[板垣退助]] 「世間で名高くなっている坂本龍馬よりは、ある面で優れていたかと私は思っている。中岡慎太郎という男は立派に西郷、木戸と肩を並べて参議になるだけの人格を備えていた」
+
== 家族 ==
 +
=== 名前 ===
 +
[[諱|名]]は'''道正'''。[[仮名 (通称)|通称]]ははじめ'''福太郎'''('''福五郎'''とも)、'''光次'''、のち慎太郎。[[雅号|号]]は'''遠山'''・'''迂山'''など。[[変名]]は'''石川清之助'''('''誠之助''')など。
 +
=== 中岡家 ===
 +
土佐藩では庄屋に転勤の制度があったため、中岡家のルーツは室戸ではない。なお、姓は[[藤原氏]]、家紋は「丸に綿の花」である。
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=== 劇団ひとり ===
 +
* [[劇団ひとり]]は、実姉の夫・川島総次の末裔にあたる。
  
* [[岩倉具視]] 「誼を条公(三条実美)に通じ、交を西郷、木戸、広沢、品川、五子に結びたるは中岡、坂本、二子の恵みなり」
+
== 題材とした作品 ==
 +
薩長連合、薩土密約、大政奉還等については、坂本龍馬を中心にして描いたテレビドラマや小説が多いが、その発想や行動の立案者が坂本だったか中岡だったかは意見が分かれる。中岡が坂本の西洋的な議会主義的思想にどの程度まで理解を示したのかも、今日まで不明な点が多い。
  
* [[大江卓]]
+
=== 小説 ===
**「元来、土佐の王政復古論の筆頭は坂本龍馬だということになってはいるが、或は中岡慎太郎の方ではないかと自分は思っている。一寸ここで坂本と中岡の人物を評して見るなれば、中岡は後の板垣(退助)、坂本は後藤(象二郎)という形である。中岡坂本両人共に(武市)瑞山の後継で二重鎮であった。ちょうど長州を例にとっていえば、松蔭門下の久坂玄瑞、高杉東行というところである。人物の風格も似ていないではない」
+
* 尾崎卓爾『中岡慎太郎』陽明社印刷所、1926年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020515 NDLJP:1020515]
**「中岡は台閣の器であり、坂本は広野の猛獣であった。一は宰相の風があり、一は豪傑の面影があった。此の二人を土佐が早くも失ったのは返す返すも惜しいことをしたものである」
+
** 再版?『中岡慎太郎先生』陽明社出版部、1927年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1225171 NDLJP:1225171] (閉)
 
+
* [[司馬遼太郎]]『[[竜馬がゆく]]』文芸春秋新社、1963年 - 1966年
* [[正親町三条実愛]] 「随分たしかなる人」
+
* 嶋岡晨『中岡慎太郎』光風社出版、1988年、ISBN 4875191642
 
+
** 再版 〈成美文庫〉成美堂出版、1996年、ISBN 4415064523
* [[尾崎卓爾|尾崎旦爾]] (熊吉)「才略と胆力と人格を有し、而して彼の如く刻苦し、彼の如く忍従し、克く結び、克く尽し、回天の大業を空挙に築き、維新の元勲として功績最も多く、稀世の英傑なり」
+
* 宮地佐一郎『中岡慎太郎』PHP研究所、1992年、ISBN 4569536816
 
+
* 堀和久『中岡慎太郎』講談社、1992年、上巻 ISBN 4062060876、下巻 ISBN 4062060884
* [[香川敬三]] 「略を好む、大志あり」
+
** 再版 〈講談社文庫〉講談社、1997年、ISBN 4062636743
 
+
** 再版 〈人物文庫〉学陽書房、2009年、上巻 ISBN 978-4313752511、下巻 ISBN 978-4313752528
* [[川北茂馬]] 「中岡先生は背筋をピンと伸ばして、はるかむこうに目をやり、両手を大きく振りながら、すっ、すっと歩く人であった。えろうなる人は、子供の時から違うちょったぞ」
+
* 福田善之『草莽無頼なり』上下巻、朝日新聞出版、2010年、上巻 ISBN 978-4022507655、下巻 ISBN 978-4022507662
 
+
=== テレビドラマ ===
* [[楢崎龍]] 「面白い人で、私を見ると『お龍さん、僕の顔に何か附いていますか』などと、何時もでがうて居りました」
+
* [[竜馬がゆく]]
 
+
** 1968年、[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|NHK大河ドラマ]]、演:新克利
* 縫 「中岡先生はひとときも無駄という時間のない人じゃった」「秋の刈入れの時、先生は所用から夕方烏ヶ森を越えて帰ってくると、百姓たちが稲の取り入れに追われている。先生は家に帰り着くなり稲ざすを持って、すっと手伝いにくるといった人じゃった」
+
** 1982年、[[テレビ東京]]、演:中村嘉葎雄
 
+
** 1997年、[[TBS]]大型時代劇スペシャル、演:岡本健一
* [[三宅謙四郎]] 「中岡は予と同年か一つ兄か位の人にて身丈も予と同様、五尺ばかりの男なりき。予と頗る馬合いにて極めて親密にしたり。剣は予と同じく武市先生に学びたるも、余り熱心にてもなく、どちらかといえば文学の人なりしが、それかといいて学問も深邃なりしとはいい難し。平生、大の議論好きなり。その風貌、写真の伝うのごとし。似たりとは愚か全くその儘なり。ただし眼光炯々として蒼鷹の羽ばたかんとするがごとき感なるも、実際の人となりは温和にして色白く、声音も尋常なりき」
+
** 2004年、テレビ東京[[新春ワイド時代劇]]、演:山田純大
 
+
* 『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』1974年、NHK大河ドラマ、演:[[高津住男]]
* [[早川養敬|早川勇]]
+
* [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]』1977年、NHK大河ドラマ、演:[[横光克彦]]
**「其誠心可感、其達見可嘉」
+
* [[白虎隊 (1986年のテレビドラマ)|白虎隊]]』1986年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]]、演:[[木之元亮]]
**「薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというも過言ではないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。中岡は、高杉がまだ長州の内訌を回復せぬ前、四境には兵がかこんでおる。ことに遊撃隊に身をおいて、その苦心は一方ならぬものがあった。坂本は私どもが五卿を迎えて国に帰った後に来た人であるから、どれだけ功労があったかは知らぬが、私は中岡の功労はよく知っている」
+
* 『[[坂本龍馬 (テレビドラマ)|坂本龍馬]]』1989年、[[TBS大型時代劇スペシャル]]、演:[[美木良介]]
**「長州における坂本と中岡の周旋を見るに、はでなことは坂本に属するが、中岡はどうかというに、この人ほど苦心した者はないと思う」
+
* 『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』1990年、NHK大河ドラマ、演:[[古山忠良]]
 
+
* 『[[新選組血風録]]』1998年、テレビ朝日、演:[[柴田善行]]
* [[田中光顕]]
+
* [[新選組!]]』(2004年、NHK大河ドラマ、演:[[増沢望]]
**「中岡氏は東群の大里正なり。その在群にあるや郷民皆その徳に伏す。其人となり深沈にして胆力あり。当時土州脱藩士五六十在せりと雖も、恐らくはその巨魁なるべし」
+
* 『[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]』2008年、NHK大河ドラマ、演:[[天原まさみち]]
**「中岡を以て策士と見做すは誤っている。彼は西郷南州と其型を一にする君子人であった」
+
* 『[[龍馬伝]]』2010年、NHK大河ドラマ、演:[[上川隆也]]
**「非常に真面目な男であっただけに、坂本が大ビラにお龍を連れて歩いたのに比し、彼は極めて秘密の裡に閑日月を楽しんだものである」
+
* 『[[大河ドラマが描かない坂本龍馬の真実]]』2010年、日本テレビ、演:柴田善行
**「何時か一人で外出して帰ってきて『今日、祇園で湯に入ったが、素的な代物が一緒に入っていて僕は湯から出られなくて困った』という笑い話をしたことがあった。中岡は大体謹厳な人であったけれども、一方のこともなかなか剛の者であった」
+
* 『[[JIN-仁-#テレビドラマ|JIN-仁- 完結編]]』2011年、 [[TBSテレビ|TBS]][[日曜劇場]]、演:[[市川猿之助 (4代目)|市川亀治郎]]
**「中岡先生は坂本先生と終始仕事を一緒に致しましたけれども、坂本先生の名が最も広く世界に伝わって居ります。しかし、私は其の識見に於て、其の手腕に於て、中岡先生の方が遥かに優って居ったと思います。維新の原動力が三条、岩倉両公にあることを達観して、両公を握手させたのも先生であります。坂本、後藤に先だって政権を朝廷に奉還せねばならんと言う意見を唱道したのも先生であります。こう言う活眼の人が維新後まで生残って居たなら、吾々土佐人の肩身も一層広かったであろうと誠に遺憾に堪えないのであります」
+
=== 映画 ===
**「先生は弁舌さわやかで、剣をもって坂本龍馬より上であったろう。障害になる人物が現れると、先生が行けば一時間の猶予も必要でなかった。一時間以内に意のままに説き伏せて帰って来た」
+
* 『[[幕末 (映画)|幕末]]』1970年、演:仲代達矢
**「頗る真面目な人で即ち精神家であった。精神家であるだけ、なかなか神経質な所があって、一時は脳を悪くし養生かたがた水戸の住谷寅之介を訪ねたり、信州に佐久間象山を訪ねたりした。品行なども絶対に酒色を遠ざけるという程に融通の利かぬ男ではなく、終始その起居を共にした自分としては天機漏らす可らざる事も知って居るが、大体に於いて謹厳な男で、その性格がよく西郷に似ていた。中岡は何時も西郷の人物を推賞し、西郷もまた中岡を賞賛して居た」
+
* 『[[竜馬暗殺]]』1974年、演:石橋蓮司
 
+
* 『[[ゴルフ夜明け前]]』1987年、演:武野功雄
== 系譜 ==
+
* 『[[竜馬を斬った男]]』1987年、演:片桐竜次
{{Quotation|
+
=== ゲーム ===
※実線は実子、点線は養子
+
* 『[[龍が如く 維新!]]』2014年、演:山路和弘
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+
=== 建築物 ===
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==== 室戸岬の銅像 ====
{{familytree |border=0| |||| |!| |}}
+
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実姉の夫 [[川島総次]]の末裔に[[劇団ひとり]]がいる。
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== 備考 ==
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[[画像:Nakaoka-Shintaro statue.jpg|thumb|200px|室戸岬の中岡慎太郎像]]
 
[[画像:Nakaoka-Shintaro statue.jpg|thumb|200px|室戸岬の中岡慎太郎像]]
[[画像:Nakaoka Shintaro Birthplace.jpg|thumb|200px|中岡慎太郎生家(安芸郡北川村柏木・{{ウィキ座標|33|27|23.4|N|134|03|25.1|E|region:JP-39_type:landmark|地図|name=中岡慎太郎生家}})]]
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[[室戸岬]]に銅像が立つ。(いつ建てられた?)[[本山白雲]]作。
[[画像:中岡5204.JPG|thumb|200px|中岡慎太郎寓居跡(京都市中京区四条河原町上ル・{{ウィキ座標|35|00|16.7|N|135|46|07.3|E|region:JP-26_type:landmark|地図|name=中岡慎太郎寓居跡}})]]
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*[[桂浜]]にある龍馬の銅像が向かう先と同じ方向を見ていると噂されているが、両者の銅像の方向には全く関係はない。
[[画像:Nakaoka Shintaro.jpg|thumb|160px|幕末では珍しい笑顔の写真。隣に女性がいると想定されているが、中岡の頬に当てられた手と膝にかかった着物を除いて塗りつぶされている。(1866年11月24日撮影)]]
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*桂浜の龍馬の銅像と同様にこの像も[[第二次世界大戦中]]の金属供出を免れている。
* [[土佐藩]]では庄屋は転勤の制度があったため、中岡家のルーツは室戸ではない。なお、[[姓]]は[[藤原氏]]、[[家紋]]は丸に[[綿]]の花である。
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*2000年にアメリカで発行された『JAPAN』という日本を紹介する本では、坂本龍馬の銅像として室戸にある中岡の銅像が紹介された。
* 生誕の地である高知県安芸郡北川村柏木地区に「'''[[中岡慎太郎館]]'''」が建てられている。[[土佐くろしお鉄道]][[土佐くろしお鉄道阿佐線|阿佐線(ごめん・なはり線)]][[奈半利駅]]より北川村営バスで約20分。
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==== 中岡慎太郎館 ====
* 武市瑞山の命令で板垣退助を斬りに来たが、退助に見透かされてしまった。しかし彼の為人を知り、逆に退助との交誼を結ぶ事となった。
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生誕の地である高知県安芸郡北川村柏木に「中岡慎太郎館」が建てられている。また隣接する旧宅跡地に邸宅が復元されている。
* 近江屋で坂本龍馬と一緒に襲われたが、彼は即死せず二日間生き延びて、刺客が「こなくそ」(松山弁)と言いながら襲ってきたと話している。また、焼飯(焼きおにぎり)を食べたいとも話したらしい。
+
* [http://www.nakaokashintarokan.net/ 中岡慎太郎館] - 公式サイト
*「''今日賎しいものが、明日には貴いかもしれない。小人か君子かは、人の心の中にある'' 」という言葉を残している。
+
* [[土佐くろしお鉄道]][[土佐くろしお鉄道阿佐線|阿佐線(ごめん・なはり線)]][[奈半利駅]]より北川村営バスで約20分。
* 薩長連合、薩土密約、大政奉還等は、坂本龍馬が中心に描かれたテレビドラマや小説が多いが、その発想や行動において真の立役者は本当はどちらであったかは議論が分かれるところである。実際は、中岡であったという歴史家の意見もある。また、中岡が龍馬の西洋的な議会主義的思想にどの程度まで理解を示したのかも今日まで不明な点が多い。
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* [[2000年]]にアメリカで発行された『JAPAN』という日本を紹介する本では、何故か坂本龍馬の銅像として室戸の中岡の銅像が紹介されている。
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== 全集 ==
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=== 関連文献 ===
*『中岡慎太郎全集』 [[宮地佐一郎]]編・解説、[[勁草書房]]、1991年
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* 中岡慎太郎先生銅像建設会(編)『中岡慎太郎先生伝』中岡慎太郎先生銅像建設会、1935年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1235148 NDLJP:1235148] (閉)
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* 宮地佐一郎『中岡慎太郎 - 維新の周旋家』〈中公新書〉中央公論社、1993年、ISBN 4121011465
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* 松岡司『中岡慎太郎伝 - 大輪の回天』新人物往来社、1999年、ISBN 4404026943
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* 平尾道雄『中岡慎太郎 - 陸援隊始末記』白竜社、1966年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2995390 NDLJP:2995390] (閉)
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** 再版 〈中公文庫〉中央公論社、1977年、{{全国書誌番号|77011970}}
 +
** 改版 〈中公文庫〉中央公論新社、2010年、ISBN 978-4122052741
  
== 伝記 ==
 
* [[尾崎卓爾]]著『中岡慎太郎』([[1926年]](大正15年)11月26日)
 
* 尾崎卓爾著『中岡慎太郎先生』([[1927年]](昭和2年)12月30日)
 
* 尾崎卓爾著『中岡慎太郎先生』(マツノ書店、復刻版、[[2010年]](平成22年)1月20日)
 
* 宮地佐一郎 『中岡慎太郎 <small>維新の周旋家</small>』([[中公新書]]、1993年) ISBN 4-121011465
 
* 松岡司 『中岡慎太郎伝 <small>大輪の回天</small>』(新人物往来社、1999年) 
 
* 平尾道雄 『中岡慎太郎 陸援隊始末記』([[中公文庫]]、1977年、新版2010年) ISBN 4-122052742
 
 
== 作品 ==
 
; 中岡慎太郎を描いた[[歴史小説]]
 
* 宮地佐一郎 『中岡慎太郎』([[PHP研究所]]、1992年)
 
* 嶋岡晨 『中岡慎太郎』 (光風社出版、1988年/成美文庫、1996年)
 
* [[堀和久]] 『中岡慎太郎』(上下巻:[[講談社]]、1992年/人物文庫:[[学陽書房]]、2009年)、ISBN 4-31375251X & ISBN 4-313752528
 
* [[福田善之]] 『草莽無頼なり』(上下巻:[[朝日新聞出版]]、2010年)、ISBN 4-02-250765-9 & ISBN 4-02-250766-7
 
 
; 中岡慎太郎が登場する作品
 
;; 小説とドラマ作品
 
:* 『[[司馬遼太郎]] [[竜馬がゆく]]』 [[文春文庫]]全8巻ほか
 
:** 『[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]』(1968年、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[新克利]])
 
:** 『[[竜馬がゆく#1982年版|竜馬がゆく]]』(1982年、テレビ東京、演:[[中村嘉葎雄]])
 
:** 『[[竜馬がゆく#1997年版|竜馬がゆく]]』(1997年、TBS大型時代劇スペシャル、演:[[岡本健一]])
 
:** 『[[竜馬がゆく#2004年版|竜馬がゆく]]』(2004年、テレビ東京[[新春ワイド時代劇]]、演:[[山田純大]])
 
;; 映画
 
:* 『[[幕末 (映画)|幕末]]』(1970年、演:[[仲代達矢]])
 
:* 『[[竜馬暗殺]]』(1974年、演:[[石橋蓮司]])
 
:* 『[[ゴルフ夜明け前]]』(1987年、演:[[武野功雄]])
 
:* 『[[竜馬を斬った男]]』(1987年、演:[[片桐竜次]])
 
;; テレビドラマ
 
:* 『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』(1974年、NHK大河ドラマ、演:[[高津住男]])
 
:* 『[[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]]』(1977年、NHK大河ドラマ、演:[[横光克彦]])
 
:* 『[[白虎隊 (1986年のテレビドラマ)|白虎隊]]』(1986年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]]、演:[[木之元亮]])
 
:* 『[[坂本龍馬 (テレビドラマ)|坂本龍馬]]』(1989年、[[TBS大型時代劇スペシャル]]、演:[[美木良介]])
 
:* 『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』(1990年、NHK大河ドラマ、演:[[古山忠良]])
 
:* 『[[新選組血風録]]』(1998年、テレビ朝日、演:[[柴田善行]])
 
:* 『[[新選組!]]』(2004年、NHK大河ドラマ、演:[[増沢望]])
 
:* 『[[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]』(2008年、NHK大河ドラマ、演:[[天原まさみち]])
 
:* 『[[龍馬伝]]』(2010年、NHK大河ドラマ、演:[[上川隆也]])
 
:* 『[[大河ドラマが描かない坂本龍馬の真実]]』(2010年、日本テレビ、演:柴田善行)
 
:* 『[[JIN-仁-#テレビドラマ|JIN-仁- 完結編]]』(2011年、 [[TBSテレビ|TBS]][[日曜劇場]]、演:[[市川猿之助 (4代目)|市川亀治郎]])
 
;; ゲーム
 
:* 『[[龍が如く 維新!]]』(2014年、演:[[山路和弘]])
 
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==
* 『中岡慎太郎全集』[[勁草書房]]、1991年 ISBN 978-4326300709
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* 宮地佐一郎(編)『中岡慎太郎全集』勁草書房、1991年、ISBN 978-4326300709
 
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== 関連項目 ==
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*[[薩土密約]]
+
*[[土佐勤王党]]
+
*[[陸援隊]]
+
*[[迅衝隊]]
+
*[[武市瑞山]]
+
*[[坂本龍馬]]
+
*[[板垣退助]]
+
*[[谷干城]]
+
*[[本山茂任]]
+
*[[中岡慎太郎館]]
+
 
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== 外部リンク ==
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{{Wikisource|中岡慎太郎|中岡慎太郎の著作}}
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{{Commons|Category:Nakaoka_Shintaro}}
+
* [http://www.nakaokashintarokan.net/ 中岡慎太郎館]
+
* [http://www.netwave.or.jp/rekishi/tosa/tosa.html 土佐維新歴史文化道]([[四国歴史文化道]])
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2018年4月1日 (日) 18:20時点における版

遭難前の中岡慎太郎

中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、1838年5月6日 - 1867年12月12日)は、幕末日本志士。1861年に土佐勤王党に加わり、尊王攘夷活動に参画。1863年に土佐藩内での弾圧を受けて脱藩し、長州藩で脱藩志士の連絡役・まとめ役として活動した。坂本龍馬らと共に1866年の薩長同盟、翌年の薩土密約締結に尽力し、同年、陸援隊を組織し隊長に就任したが、近江屋事件で殺害された。

経歴

生い立ち

天保9年4月13日(新暦1838年5月6日)、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれる。

安政元年(1854年)、間崎哲馬に従い経史を学び、翌年には武市瑞山(半平太)の道場に入門して剣術を学ぶ。

安政4年(1857年)、野友村の庄屋・利岡彦次郎の長女・兼(かね、当時15歳)と結婚。

土佐勤王党

文久元年(1861年)、武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。

  • (いつ?)武市瑞山の命令で板垣退助を斬りに来たが、退助に見透かされてしまった。しかし彼の為人を知り、逆に退助との交誼を結ぶ事となった。(出典?)

文久2年(1862年)、長州藩久坂玄瑞山県半蔵とともに、松代佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。

脱藩

文久3年(1863年)、京都で起きた八月十八日の政変の後、土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する弾圧が始まると、脱藩し、同年9月、長州藩に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、周防国三田尻都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり、各地の志士たちとの連絡役となる。

元治元年(1864年)、石川誠之助を名乗り上洛。薩摩藩島津久光暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて長州側として禁門の変下関戦争を戦う。(いつ?)負傷。

薩長同盟

この頃、長州藩への冤罪、雄藩同士の対立、志士たちへの弾圧を受けて、活動方針を尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させ、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会合による薩長同盟締結を目標として活動するようになる[1]

連絡役・脱藩志士たちのまとめ役として、三条実美や薩摩・長州の志士たちの間を行き来し、亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬や三条の随臣・土方楠左衛門(土方久元)をも説き伏せて巻き込んで行った。

慶応2年1月21日(1866年3月2日[2]、京都・二本松の薩摩藩邸において、薩長の和解および薩長同盟を結実させる。

慶応3年2月(1867年3月)、龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免される。

薩土密約

その後、薩土同盟についても同様に奔走し、慶応3年5月21日(1867年6月23日)、土佐の乾退助(板垣退助)と薩摩の小松清廉(小松帯刀)・西郷吉之助との間で武力倒幕のための薩土密約の締結に成功する。

更に土佐藩全体を取込む運動を展開し、同年6月22日(7月23日)、京都・三本木の料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀・大久保一蔵(大久保利通)・西郷吉之助、土佐の寺村道成後藤象二郎・福岡藤次(福岡孝弟)・石川誠之助(中岡)・才谷梅太郎(坂本龍馬)との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結された。

薩土盟約は、同年6月26日(7月27日)の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に発展した。

  • これらの同盟は、土佐藩・安芸藩自身による大政奉還建白書山内容堂の徳川宗家への強い恩顧意識のため、翌年1月の鳥羽・伏見の戦いにおいて薩長官軍側の優勢が判明するまで、実質的な効果には乏しかった(出典?)。
  • しかし、軍事同盟締結は、土佐藩内における兵制改革の契機となり、また封建制幕藩体制に対する改革意識を高め、戊辰戦争において土佐藩(出身者)を薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力たらしめた(出典?)。

陸援隊

慶応3年(1867年)6月27日、長州で見聞していた奇兵隊を参考に、陸援隊を組織し、自ら隊長となり、京都・白川の土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定めた。この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。

同年7月8日、江戸から土佐へ帰藩する途中の真辺正精と京都で会い、互いに時勢を話し会った。

死去

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、京都・四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され瀕死となる(近江屋事件)。龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが、慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語ったという[3]。同月17日(新暦12日)に死去、享年30。

近江屋事件の後、海援隊士らはいろは丸沈没事故で多額の賠償金を支払わされた紀州藩の報復であると考え、紀州藩士・三浦休太郎を襲撃し、警護に当たっていた新選組と戦った(天満屋事件)。

墓所は、京都市東山区京都霊山護国神社ほかにある。明治維新後の1891年4月8日に正四位を追贈された。

家族

名前

道正通称ははじめ福太郎福五郎とも)、光次、のち慎太郎。遠山迂山など。変名石川清之助誠之助)など。

中岡家

土佐藩では庄屋に転勤の制度があったため、中岡家のルーツは室戸ではない。なお、姓は藤原氏、家紋は「丸に綿の花」である。

劇団ひとり

題材とした作品

薩長連合、薩土密約、大政奉還等については、坂本龍馬を中心にして描いたテレビドラマや小説が多いが、その発想や行動の立案者が坂本だったか中岡だったかは意見が分かれる。中岡が坂本の西洋的な議会主義的思想にどの程度まで理解を示したのかも、今日まで不明な点が多い。

小説

テレビドラマ

映画

ゲーム

建築物

室戸岬の銅像

ファイル:Nakaoka-Shintaro statue.jpg
室戸岬の中岡慎太郎像

室戸岬に銅像が立つ。(いつ建てられた?)本山白雲作。

  • 桂浜にある龍馬の銅像が向かう先と同じ方向を見ていると噂されているが、両者の銅像の方向には全く関係はない。
  • 桂浜の龍馬の銅像と同様にこの像も第二次世界大戦中の金属供出を免れている。
  • 2000年にアメリカで発行された『JAPAN』という日本を紹介する本では、坂本龍馬の銅像として室戸にある中岡の銅像が紹介された。

中岡慎太郎館

生誕の地である高知県安芸郡北川村柏木に「中岡慎太郎館」が建てられている。また隣接する旧宅跡地に邸宅が復元されている。

関連文献

  • 中岡慎太郎先生銅像建設会(編)『中岡慎太郎先生伝』中岡慎太郎先生銅像建設会、1935年、NDLJP:1235148 (閉)
  • 宮地佐一郎『中岡慎太郎 - 維新の周旋家』〈中公新書〉中央公論社、1993年、ISBN 4121011465
  • 松岡司『中岡慎太郎伝 - 大輪の回天』新人物往来社、1999年、ISBN 4404026943
  • 平尾道雄『中岡慎太郎 - 陸援隊始末記』白竜社、1966年、NDLJP:2995390 (閉)
    • 再版 〈中公文庫〉中央公論社、1977年、全国書誌番号:77011970
    • 改版 〈中公文庫〉中央公論新社、2010年、ISBN 978-4122052741

脚注

  1. 中岡の書簡による。
  2. あるいは22日(新暦3日)
  3. 近江屋で坂本龍馬と一緒に襲われたが、彼は即死せず二日間生き延びて、刺客が「こなくそ」(松山弁)と言いながら襲ってきたと話している。また、焼飯(焼きおにぎり)を食べたいとも話したらしい。(出典?)

参考文献

  • 宮地佐一郎(編)『中岡慎太郎全集』勁草書房、1991年、ISBN 978-4326300709