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== 来歴 ==
 
== 来歴 ==
 
=== 新入幕まで ===
 
=== 新入幕まで ===
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幼少の頃に父を亡くし弟の昭二(元十両13・[[梅の里昭二|梅の里]])とともに母1人の手で育てられた。[[水戸市立飯富中学校|茨城県水戸市立飯富中学]]時代には母の勧めで[[柔道]]に打ち込み初段になる腕前の持ち主だった。[[1977年]]の暮に[[力士]]のサイン会に行った。本人は[[貴ノ花健士|貴ノ花]]のサイン会だと思っていたそうだったが実は[[高見山大五郎|高見山]]と[[富士櫻栄守|富士櫻]]のサイン会だった。この時髙見山に「大きねーお相撲さんにならないかい」と勧誘される。数日後には[[朝潮太郎 (3代)|高砂]]親方からも勧誘され、入手困難だった29cmの靴をもらって入門を決めた。水戸泉の[[四股名]]は出身地の水戸、本名小泉、そして「枯れることなき泉のごとく出世を」という願いを込めて髙砂が命名した。
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部屋の同期生に長岡(のち[[大関]]・4代[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]、[[幕下付出]])がおり、彼から手ごろな稽古相手と目をつけられていた。二度の[[学生横綱]]を獲得した朝潮との稽古は、中学卒業間もない少年にはつらいものだったが、これが後々の財産にもなった。朝潮とのエピソードは数多く残り、洗濯して干していた朝潮のパンツを神社に置き忘れて叱られた逸話などが伝わっている。1979年9月ごろに大相撲での挫折に耐えかね相撲に見切りをつけようとした朝潮に対し、「今日稽古はどうしたんですか?」とさりげなく声を掛けて立ち直らせたとも伝わっている。
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新十両の場所の8日目から付人の奄美富士の「勝ち星に恵まれないときはせめて塩だけでも景気よくまいたらどうですか」という進言により、大量の塩を撒くようになった。初めの頃は1回目から大きく撒いていたが、後に制限時間いっぱいの時にのみ大きく撒くようになった。1回にとる塩の量は何と600gにもなったという。[[イギリス]]巡業で「ソルトシェイカー」と紹介され、日本でも「水戸泉といえば豪快な塩まき」として定着した。同時代で同様に大量の塩を撒く力士には[[朝乃若武彦|朝乃若]]がおり、対戦した際には豪快に撒き上げる水戸泉と叩きつける朝乃若の両者の塩撒きに観客が沸いた。また、両者はどちらも黄色系の回しを締めていた時期がありその興味でも沸いた。
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塩を撒いた後に顔、まわしを強く叩いて気合を入れる仕草も特徴である。これはいつごろからか無意識に始めていたもので、ある時飲み屋で居合わせたファンから指摘されて自分でも初めて気づいたという。イベントなどでやってみせてくれと頼まれることも多かったが、意識してやろうとするとうまくいかず苦労したと語っている。
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一方で、これは制限時間まで立つ気がない仕切りを繰り返していることでもあって、(当時すでに時間いっぱいまで立とうとしない力士が大半だったが、水戸泉の場合はそれがあまりに露骨だという意味で)一部の好角家からも批判されることも多かった。[[貴闘力忠茂|貴闘力]]、[[浪乃花教天|浪ノ花]]ら時間前でも度々立つ力士との対戦で興をそぐことも多かった。
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=== 新入幕〜三役定着 ===
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[[1984年]]9月場所新入幕、しかし[[1985年]]5月場所前に交通事故を起こして負傷し、2場所連続負け越して十両に陥落。この事故がきっかけで十両以上の力士の自動車運転が禁止され、現在に至る(ただし免許の更新は禁止されていない)。
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[[1986年]]3月場所再入幕、12勝3敗で敢闘賞、5月場所は負け越したが7月は10勝5敗、9月場所は[[関脇]]になった。しかしこの場所[[大乃国康|大乃国]]との対戦で左膝そく側副靭帯を断裂する重傷を負い、3場所連続休場で十両に落ちた。[[1988年]]3月場所再入幕。9月場所には[[小結]]で10勝5敗。当然大きな飛躍が期待されたがまたしても大乃国との対戦で左足首に負傷。十両には落ちなかったがこれら2度の負傷には最後まで苦しむことになった。その後も平幕上位から関脇での活躍が続くが[[1990年]]後半は低迷。
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その後[[1991年]]3月場所から7場所連続で勝ち越し。うち6場所が8勝7敗で、さらにそのうち4場所が7勝7敗で千秋楽に勝ち越しをかけるという復調というには厳しい星取りだったが、ともかくも三役復帰を果たす。[[1992年]]3月場所には、千秋楽2敗で優勝を争っていた小結[[栃乃和歌清隆|栃乃和歌]]を倒して同部屋の大関[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]の3回目の優勝をアシストした。
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つづく1992年5月場所は10日目まで7勝3敗と好調だったが、腰痛の悪化の影響でその後5連敗して7勝8敗と8場所ぶりに負け越した。
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1986年9月場所での負傷は、医師からも「相撲はもう諦めるしかない」と言われたほどで、はじめて[[ギプス]]をはずされて自分の青ざめた膝を見た時には、絶望的な思いになったという。一時期は引退も考えたが、療養に訪れたリハビリ施設で自分より若くして重度の障害を負った人たちの前向きな姿に励まされたのと、やはり「親孝行したい」という思いとで土俵に上がり続けた。
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=== 史上24人目の平幕優勝者 ===
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続く1992年7月場所、西[[前頭]]筆頭に下がった水戸泉は、幕内昇進後初日から自身初の7連勝の快進撃で白星をどんどん積み重ねていく。中日で小結・[[貴乃花光司|貴花田(当時、のち貴乃花)]]に初黒星、10日目に大関・[[霧島一博|霧島]]に敗れ2敗はしたものの、それ以降も優勝争いの単独首位を走っていた。終盤戦、13日目の関脇・[[琴錦功宗|琴錦]]戦では立合いの頭突き一発で[[突き落とし]]、14日目には前頭12枚目の[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]]にも勝って12勝2敗とした。その後10勝3敗と1差で追っていた小結の[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]、大関の[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]と霧島の3力士全員が負けて、その瞬間水戸泉初めての平幕優勝が決まった。水戸泉は支度部屋で、14日目で優勝が決まる可能性があったため待機はしていたが、まさかその3敗陣の3人が総崩れとは自身全く想像もしなかったため、3敗勢最後の1人である霧島が負けた瞬間には思わず'''「ウソーっ!?」'''と驚いた後、弟の[[梅の里昭二|梅の里]]と二人して抱き合って涙ぐんだ。奇しくも当時の高砂親方である[[富士錦猛光|富士錦]]が現役時代、[[1964年]]に平幕優勝した時と同じ名古屋の土俵だった。千秋楽も勝って13勝2敗の成績を収めた。なお平幕優勝者は、1909年に優勝制度が確立して以降水戸泉が史上24人目であるが、前年の1991年7月場所に[[琴富士孝也|琴富士]]、同年9月場所に[[琴錦功宗|琴錦]]、同1992年1月場所には貴花田と、わずか1年の間に4人もの平幕優勝者が出るという非常に珍しい出来事となった。
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優勝パレードでは当時[[大関]]だった小錦が優勝旗の旗手を務めた。大関力士が下位の力士の優勝で旗手をつとめることは珍しく、小錦は一部から「天下の大関が、平幕力士の旗手をするとは何事か」と批判を浴びたという。しかし高砂部屋入門時から小錦にとって水戸泉は共に下積み生活を送った間柄でよき相談相手で兄貴分でもあり、また入門時から長く稽古相手をしていた仲でもあった。小錦は「僕の3回の優勝の他、先場所(1992年5月場所)では[[曙太郎|曙]]の旗手までさせてしまった。水戸関は僕の恩人だから、誰がなんと言おうと僕が旗を持つ」と小錦が「[[恩返し (相撲)|恩返し]]」の意味で自分から願い出たことだった、という。小錦の人情味とともに水戸泉の人柄を物語る逸話といえよう。
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=== 優勝後~現役引退 ===
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翌1992年9月場所は西張出関脇に昇進、ここでも8勝7敗と勝ち越して7月場所の優勝がまぐれではなかったことを印象付けた。1992年11月場所は成績次第では大関取りだったが、またしても左足の負傷で1勝12敗2休に終わり平幕に下がる。[[1993年]]より、「政人では政治家みたいで力士としてしっくりこない」と、四股名を水戸泉眞幸と改名する。しかし膝の故障が多発してそれ以降は三役に復帰できなかった。[[1999年]]5月場所で十両に陥落し、その後幕内に戻ることはなかった。その後もしばらく現役を続け、[[蔵前国技館]]で幕内を務めた力士の最後の生き残りとして38歳まで現役を続けたが、[[2000年]]9月場所を最後に引退、年寄・錦戸を襲名した。幕内在位79場所で休場が99回は、[[横綱]]・大関を除けば当時過去最多の休場数であった(横綱大関を含めた最高は貴乃花の201)ため、「怪我のデパート」などと言われた。断髪式の際には470人もの参列者が鋏を入れたが、雑誌『相撲』によるとこれは史上最多の人数とされている。なお近年では2015年1月31日に国技館で行われた[[若荒雄匡也|若荒雄]]の断髪式で450人の参列者が鋏を入れた記録が残っている。
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=== 引退後 ===
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協会内では長く[[勝負審判|審判委員]]を務めている。一時は高砂部屋の後継者に指名されたが、婚約破棄問題で辞退した。相手の女性は伊藤史生の前妻であり、伊藤と離婚した後は結婚詐欺まがいの挙動で一時期ワイドショーをにぎわせた。また、錦戸と婚約破棄した後に[[追風海英飛人|追風海]]と結婚(後に離婚)し、追風海はこれが問題となって師匠に破門される形で協会を去った(詳細は[[伊藤史生]]の項を参照されたい)。[[2002年]]に高砂部屋から分家独立して[[錦戸部屋]]を創設した。部屋の玄関の横には本人の[[優勝額]]が掲げられている。
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2014年4月には協会役員以外の親方で構成する年寄会の会長に選出された。会長就任に当たり、形式的になっていた総会の在り方を見直す意向を示し「連絡網をしっかりして、何かあった時にすぐ集まれるようにしたい。相撲協会のために皆さんの意見を取り入れながら、いい年寄会にしていきたい」と表明した。
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2016年2月12日、22歳年下のソプラノ歌手の[[小野友葵子]]と結婚したことを発表した。
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== エピソード ==

2016年10月30日 (日) 19:19時点における版

水戸泉 政人(みといずみ まさと、1962年9月2日 - )は、茨城県水戸市出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は東関脇。本名は小泉 政人(こいずみ まさと)。

身長194cm、体重192kg(最高200kg、1996年1月場所)、現在は年寄錦戸、得意手は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ。愛称は「水戸ちゃん」、「イズミちゃん」など、趣味は油彩画。

元「水戸泉」部屋の崩壊、親方夫妻に悪評が噴出。怒りの元後援会長が明かす

水戸泉と言えば、「塩」。取組前、片手に余るそれを投げ上げ、気合を入れる姿で人気の名物力士であった。しかし、部屋を持って14年、その錦戸親方に「しょっぱい」なんて言葉じゃ済まない大騒動が。結婚したばかりの若妻を巡って、部屋が崩壊してしまったのだ。

大関豪栄道が全勝優勝を飾った大相撲秋場所。モンゴル勢ばかりが目立つ近年において、稀な日本人力士の優勝であるから、普段とは違う熱気が国技館を包んだことは間違いあるまい。

千秋楽の後、角界では、各部屋が後援者などを招いて打ち上げパーティーを行うのが通例となっている。元水戸泉の「錦戸部屋」も、2016年9月25日の夕刻、部屋から程近い墨田区内のホテルで会を催していた。

出席者の一人は言う。

「参加者は170人ほどでした。中でも視線を浴びていたのは、親方が春に結婚式を挙げた、22歳年下のおかみさん。桃色の着物に金の帯を締めて綺麗でしたね。おかみさんは実はソプラノ歌手と二足の草鞋を履いている。カラオケで親方とデュエットで『泣きながら夢を見て』という曲を歌いましたが、やっぱり上手でした。会場にはテレビ制作会社のカメラもありましたから、メディアもあの夫婦に注目なんでしょう」

錦戸親方は現在54歳。親方として脂の乗り切った年齢だが、これまで独身を貫いてきた。そこへ生まれた、待望のおかみさんだから、2人でマイクを握る姿に部屋の隆盛を祈る出席者も少なくなかったであろう。

しかし一方で、部屋の未来に“暗い影”を感じ取った向きもいたはず。

この日、力士として、後援者の前に立ったのはたったの3名。半年前は8名だったから、その数は半分以下になっている。また、いつもこのパーティーに仲間を引き連れて出席し、親方の苦労をねぎらってきた「大物後援会長」の姿も見られなかったのだ。

「内実、うちの部屋は崩壊したと言っても良い」

と言うのは、錦戸部屋のさる関係者である。

「春以降、親方への反発で弟子が相次いで辞めています。力士の数が少なく、普段はみな出稽古に出かけるため、部屋はいつもガランとしていて活気ゼロ。また、この6月には、親方の出身地・水戸の後援会『水戸錦戸会』の会長を務めてきた大関修右さんも親方に激怒し、辞任してしまった。大関さんは会社経営の傍ら、部屋の創設以来会長を務め、土俵や鉄砲柱もすべて手配してくれた人。それが辞めてしまったのですから後任も決まらず、解散すら囁かれています。譬えるなら、横綱白鵬のモンゴル後援会が消滅の危機にあるようなものですから、ありえない話ですよ」

錦戸親方は、最高位は関脇だが、平成4年の名古屋場所では、13勝2敗で見事平幕優勝を飾っている。身長190センチ超、体重も最高200キロ超と身体に恵まれ、怪我さえなければ大関と言われた実力派だった。12年に引退し、2年後に部屋を創設。「ソルトシェーカー」としての人気と、力士としての実績を引っさげる親方の身に、果たして何が起こっているのか。

三行半を突きつけた大関前会長に伺ってみると、

「部屋の内情を知ってしまった以上、応援なんか出来ない。もう解散して子供たちは違う部屋に引き取られた方が良いと思います。鉄砲柱だっていっそ鋸で切ってしまいたいくらいだよ」

そうはっきりと述べるのである。

一体、何があったのか。大関氏は言う。

「私がはじめに頭に血が上ったのは、結婚披露宴の翌日でした」

親方が披露宴を挙げたのは、この4月24日のこと。妻の小野友葵子(ゆきこ)さん(32)は北海道出身。昭和音大の声楽科を卒業後、リサイタルデビューし、ソプラノ歌手として各種コンサートに出演──というのが公式のプロフィールだ。

親方とは3年前に知人の紹介で出会い、翌年、交際、その半年後に同棲を始め、2016年2月に入籍した。披露宴は、港区内のホテルで1000人以上を集めて行われ、白鵬太田昭宏・前国交相石田純一氏など各界の著名人も顔を揃えた。その白鵬の隣、「主賓」とも言えるテーブルに着いていたのが大関氏である。

前会長が続ける。

「翌日、『式次第』を読み返していたら、親方の〈将来の目標〉という欄に、〈イタリアでゆきのオペラを観たい〉と書いてあった。それを見て頭に来たんだ。腹の中はともかく、そういう場では〈横綱を育てたい〉とか〈たくさんの関取を出したい〉とか書くでしょう。ただ、親方に電話をしたら反省めいた言葉があり、その時は矛を収めたんです」

しかし、その約ひと月後の6月頭、再びとんでもない話を耳にした。

「周りから、親方が人工透析を始めたって話が入ってきたんです。それを聞いて、俺は慌てて水戸から部屋へ走った。だって、透析なんて受けるようになっちゃ、弟子の指導なんて満足に出来っこない。あれだけ身体には気を付けるように言っていたのに……。それに嫁さんにも腹が立った。これも周囲から聞いたんだけど、あの嫁は毎日、ブログを更新していて、そこには〈今日は親方とこんなものを食べました〉と、度々天ぷらやら寿司やらの写真が載せられているんです。本来、透析なんてことにならないように親方の身体に気を付けるのが嫁の仕事なのに、一体、どういうつもりだと」(同)

車を走らす大関氏の頭にもうひとつあったのは、弟子たちの“窮状”だ。錦戸部屋は、その直前の5月場所で8名中6名が休場するという異常事態に陥っていた。

「もはや機能していないでしょ。だから部屋に着くなり飛び込んで、“何考えてるんだ!”と言ったんだ。“先々のことを考えなくちゃダメだろ!”“若い衆が大変な時に嫁がブログ書いている場合か!”とね。でも、親方は“いや~ほんとに参りました”という感じ。“嫁が言うこと聞かないんですよね”なんて危機感がまるでないんです。だから思わずカーッとなって、“もう俺は辞めるからな!”と言って出てきたんだ。それ以来、絶縁状態ですよ」(同)

いかがだろうか。主張はもっとも、しかし大関氏も厳格すぎるのでは――と思う向きもあるかもしれないが、さにあらず。こうした悪評はアチコチで渦巻いていて、

「親方夫婦が非常識なのは間違いありません」と言うのは、先の関係者である。

「例えば、結婚披露宴の時。普通、ああいう席ではみなさん一本(5万円)や二本(10万円)は包んでくださる。それなのに、親方夫婦が出した引き出物はプラスチックの皿とカステラですよ?出席者の皆さんもビックリして“これ以外にも後から何か届くんですよね?”と周囲に確認していた人もいたくらい。本当に恥ずかしかった。でも、後で周辺に聞いたら、親方もマズイと思っていたそうです。でも奥さんが譲らず、披露宴の2~3日前に2人は大喧嘩になり、最後は親方が奥さんにぶん殴られた、と。とにかく情けない話です」

もともと、錦戸親方はケチで知られるお人だそうだ。別の錦戸部屋関係者の話。

「毎年の九州場所のこと。協会から交通費の手当が出ますが、親方はこれを浮かすため、ワゴン車にみんなで乗って福岡へ移動するのが部屋の通例となっているんです。でも、力士たちが乗るものだから、重すぎて車の重心がぶれて大揺れ。危なくて仕方がない」

その吝嗇家の親方が一方で、若奥様に関する出費についてはフリーパス。前出の高価な食事に加え、

「ブログには、しょっちゅう〈ネイルを変えました!〉と写真が載りますが、あれだって1回1万円は下らないでしょう。また、親方は、奥さんの歌の練習用として、部屋兼自宅のビルの一室を改装し、防音の部屋を作りましたが、一体、いくらかかったのか。それに加えて、奥さんはイタリアにも部屋を借り、1年に3カ月間は本場で歌の練習にも励んでいるそうですが、これも費用は嵩むはずです」(同)

こんな有様だから、部屋の周辺では、「親方は結婚したんじゃない。パトロンになったんだ」

そんな陰口まで聞こえてくる始末なのである。

来歴

新入幕まで

幼少の頃に父を亡くし弟の昭二(元十両13・梅の里)とともに母1人の手で育てられた。茨城県水戸市立飯富中学時代には母の勧めで柔道に打ち込み初段になる腕前の持ち主だった。1977年の暮に力士のサイン会に行った。本人は貴ノ花のサイン会だと思っていたそうだったが実は高見山富士櫻のサイン会だった。この時髙見山に「大きねーお相撲さんにならないかい」と勧誘される。数日後には高砂親方からも勧誘され、入手困難だった29cmの靴をもらって入門を決めた。水戸泉の四股名は出身地の水戸、本名小泉、そして「枯れることなき泉のごとく出世を」という願いを込めて髙砂が命名した。

部屋の同期生に長岡(のち大関・4代朝潮幕下付出)がおり、彼から手ごろな稽古相手と目をつけられていた。二度の学生横綱を獲得した朝潮との稽古は、中学卒業間もない少年にはつらいものだったが、これが後々の財産にもなった。朝潮とのエピソードは数多く残り、洗濯して干していた朝潮のパンツを神社に置き忘れて叱られた逸話などが伝わっている。1979年9月ごろに大相撲での挫折に耐えかね相撲に見切りをつけようとした朝潮に対し、「今日稽古はどうしたんですか?」とさりげなく声を掛けて立ち直らせたとも伝わっている。

新十両の場所の8日目から付人の奄美富士の「勝ち星に恵まれないときはせめて塩だけでも景気よくまいたらどうですか」という進言により、大量の塩を撒くようになった。初めの頃は1回目から大きく撒いていたが、後に制限時間いっぱいの時にのみ大きく撒くようになった。1回にとる塩の量は何と600gにもなったという。イギリス巡業で「ソルトシェイカー」と紹介され、日本でも「水戸泉といえば豪快な塩まき」として定着した。同時代で同様に大量の塩を撒く力士には朝乃若がおり、対戦した際には豪快に撒き上げる水戸泉と叩きつける朝乃若の両者の塩撒きに観客が沸いた。また、両者はどちらも黄色系の回しを締めていた時期がありその興味でも沸いた。

塩を撒いた後に顔、まわしを強く叩いて気合を入れる仕草も特徴である。これはいつごろからか無意識に始めていたもので、ある時飲み屋で居合わせたファンから指摘されて自分でも初めて気づいたという。イベントなどでやってみせてくれと頼まれることも多かったが、意識してやろうとするとうまくいかず苦労したと語っている。

一方で、これは制限時間まで立つ気がない仕切りを繰り返していることでもあって、(当時すでに時間いっぱいまで立とうとしない力士が大半だったが、水戸泉の場合はそれがあまりに露骨だという意味で)一部の好角家からも批判されることも多かった。貴闘力浪ノ花ら時間前でも度々立つ力士との対戦で興をそぐことも多かった。

新入幕〜三役定着

1984年9月場所新入幕、しかし1985年5月場所前に交通事故を起こして負傷し、2場所連続負け越して十両に陥落。この事故がきっかけで十両以上の力士の自動車運転が禁止され、現在に至る(ただし免許の更新は禁止されていない)。

1986年3月場所再入幕、12勝3敗で敢闘賞、5月場所は負け越したが7月は10勝5敗、9月場所は関脇になった。しかしこの場所大乃国との対戦で左膝そく側副靭帯を断裂する重傷を負い、3場所連続休場で十両に落ちた。1988年3月場所再入幕。9月場所には小結で10勝5敗。当然大きな飛躍が期待されたがまたしても大乃国との対戦で左足首に負傷。十両には落ちなかったがこれら2度の負傷には最後まで苦しむことになった。その後も平幕上位から関脇での活躍が続くが1990年後半は低迷。

その後1991年3月場所から7場所連続で勝ち越し。うち6場所が8勝7敗で、さらにそのうち4場所が7勝7敗で千秋楽に勝ち越しをかけるという復調というには厳しい星取りだったが、ともかくも三役復帰を果たす。1992年3月場所には、千秋楽2敗で優勝を争っていた小結栃乃和歌を倒して同部屋の大関小錦の3回目の優勝をアシストした。

つづく1992年5月場所は10日目まで7勝3敗と好調だったが、腰痛の悪化の影響でその後5連敗して7勝8敗と8場所ぶりに負け越した。

1986年9月場所での負傷は、医師からも「相撲はもう諦めるしかない」と言われたほどで、はじめてギプスをはずされて自分の青ざめた膝を見た時には、絶望的な思いになったという。一時期は引退も考えたが、療養に訪れたリハビリ施設で自分より若くして重度の障害を負った人たちの前向きな姿に励まされたのと、やはり「親孝行したい」という思いとで土俵に上がり続けた。

史上24人目の平幕優勝者

続く1992年7月場所、西前頭筆頭に下がった水戸泉は、幕内昇進後初日から自身初の7連勝の快進撃で白星をどんどん積み重ねていく。中日で小結・貴花田(当時、のち貴乃花)に初黒星、10日目に大関・霧島に敗れ2敗はしたものの、それ以降も優勝争いの単独首位を走っていた。終盤戦、13日目の関脇・琴錦戦では立合いの頭突き一発で突き落とし、14日目には前頭12枚目の貴ノ浪にも勝って12勝2敗とした。その後10勝3敗と1差で追っていた小結の武蔵丸、大関の小錦と霧島の3力士全員が負けて、その瞬間水戸泉初めての平幕優勝が決まった。水戸泉は支度部屋で、14日目で優勝が決まる可能性があったため待機はしていたが、まさかその3敗陣の3人が総崩れとは自身全く想像もしなかったため、3敗勢最後の1人である霧島が負けた瞬間には思わず「ウソーっ!?」と驚いた後、弟の梅の里と二人して抱き合って涙ぐんだ。奇しくも当時の高砂親方である富士錦が現役時代、1964年に平幕優勝した時と同じ名古屋の土俵だった。千秋楽も勝って13勝2敗の成績を収めた。なお平幕優勝者は、1909年に優勝制度が確立して以降水戸泉が史上24人目であるが、前年の1991年7月場所に琴富士、同年9月場所に琴錦、同1992年1月場所には貴花田と、わずか1年の間に4人もの平幕優勝者が出るという非常に珍しい出来事となった。

優勝パレードでは当時大関だった小錦が優勝旗の旗手を務めた。大関力士が下位の力士の優勝で旗手をつとめることは珍しく、小錦は一部から「天下の大関が、平幕力士の旗手をするとは何事か」と批判を浴びたという。しかし高砂部屋入門時から小錦にとって水戸泉は共に下積み生活を送った間柄でよき相談相手で兄貴分でもあり、また入門時から長く稽古相手をしていた仲でもあった。小錦は「僕の3回の優勝の他、先場所(1992年5月場所)ではの旗手までさせてしまった。水戸関は僕の恩人だから、誰がなんと言おうと僕が旗を持つ」と小錦が「恩返し」の意味で自分から願い出たことだった、という。小錦の人情味とともに水戸泉の人柄を物語る逸話といえよう。

優勝後~現役引退

翌1992年9月場所は西張出関脇に昇進、ここでも8勝7敗と勝ち越して7月場所の優勝がまぐれではなかったことを印象付けた。1992年11月場所は成績次第では大関取りだったが、またしても左足の負傷で1勝12敗2休に終わり平幕に下がる。1993年より、「政人では政治家みたいで力士としてしっくりこない」と、四股名を水戸泉眞幸と改名する。しかし膝の故障が多発してそれ以降は三役に復帰できなかった。1999年5月場所で十両に陥落し、その後幕内に戻ることはなかった。その後もしばらく現役を続け、蔵前国技館で幕内を務めた力士の最後の生き残りとして38歳まで現役を続けたが、2000年9月場所を最後に引退、年寄・錦戸を襲名した。幕内在位79場所で休場が99回は、横綱・大関を除けば当時過去最多の休場数であった(横綱大関を含めた最高は貴乃花の201)ため、「怪我のデパート」などと言われた。断髪式の際には470人もの参列者が鋏を入れたが、雑誌『相撲』によるとこれは史上最多の人数とされている。なお近年では2015年1月31日に国技館で行われた若荒雄の断髪式で450人の参列者が鋏を入れた記録が残っている。

引退後

協会内では長く審判委員を務めている。一時は高砂部屋の後継者に指名されたが、婚約破棄問題で辞退した。相手の女性は伊藤史生の前妻であり、伊藤と離婚した後は結婚詐欺まがいの挙動で一時期ワイドショーをにぎわせた。また、錦戸と婚約破棄した後に追風海と結婚(後に離婚)し、追風海はこれが問題となって師匠に破門される形で協会を去った(詳細は伊藤史生の項を参照されたい)。2002年に高砂部屋から分家独立して錦戸部屋を創設した。部屋の玄関の横には本人の優勝額が掲げられている。

2014年4月には協会役員以外の親方で構成する年寄会の会長に選出された。会長就任に当たり、形式的になっていた総会の在り方を見直す意向を示し「連絡網をしっかりして、何かあった時にすぐ集まれるようにしたい。相撲協会のために皆さんの意見を取り入れながら、いい年寄会にしていきたい」と表明した。

2016年2月12日、22歳年下のソプラノ歌手の小野友葵子と結婚したことを発表した。

エピソード