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近藤 勇(こんどう いさみ)は、江戸時代末期の武士。新選組局長を務め後に幕臣に取り立てられた。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。家紋は丸に三つ引。
生涯[編集]
試衛館[編集]
武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に豪農・宮川久次郎の三男として生まれる。幼名は勝五郎。久次郎には勝五郎の他に、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎、次男・粂蔵(粂次郎)がいる。
嘉永元年(1849年)11月11日、勝五郎は天然理心流剣術道場・試衛館に入門する。盗人を退治するなどして師の近藤周助(近藤周斎)に認められ、周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る。のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。万延元年(1860年)に清水徳川家家臣・松井八十五郎の長女である松井つねと結婚。翌年8月には府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。また、文久2年(1862年)には、長女・たま(瓊子)が誕生した。
文久3年(1863年)、清河八郎の献策を容れ、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。斎藤一を除く試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、浪士組一行と共に京都に向けて出発した。中山道を進み、2月23日に京都に到着すると、壬生郷士の八木源之丞の邸に宿泊し、世話になった。
新選組局長[編集]
清河は朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案した。異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留する。京都守護職を務める会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。
結成当初の壬生浪士組は運営がスムーズに行かず、3月25日に壬生浪士組結成メンバーの一人である殿内義雄を暗殺した。根岸友山の一派と粕谷新五郎 は脱退し、阿比類鋭三郎は病死(暗殺説あり)し、家里次郎は切腹した。これにより壬生浪士組は近藤派と芹沢派の二派閥体制となった。
長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王(尹宮)、会津藩、薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となるが、目立った活躍もなく長州勢の残党狩りに出動する。その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。文久3年(1863年)9月16日(一説に18日)、芹沢一派を暗殺すると、近藤勇主導の新体制が構築された。
元治元年(1864年)6月、新選組は熊本藩士・宮部鼎蔵の同志である古高俊太郎を捕縛した。古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに探索を開始し、一味が潜伏していた池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた(池田屋事件)。この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷する。ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。慶応元年(1865年)、永井尚志の供として広島へ赴く。そして慶応3年(1867年)、新選組は幕臣となり、近藤は御目見得以上の格となる。これにより近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行い、そのなかには土佐藩の参政である後藤象二郎等も挙げられる。
そのころ、伊東甲子太郎は御陵衛士として分離し、藤堂平助・斎藤一(近藤派の間者との説あり)らがこれに加わった。伊東は近藤を暗殺しようと企むが(伊東には暗殺しようなどという気持ちはなかったという説もある)、慶応3年(1867年)11月18日、近藤は伊東を酔わせ、帰り際に大石鍬次郎等に暗殺させた。その後、他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、藤堂らを殺害した。その報復として近藤は12月18日、竹田街道・墨染で御陵衛士の残党に銃で撃たれて負傷する。そのため、慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができずに大坂城で療養している。近藤の治療は新選組の検診医でもあった幕府典医・松本良順が行った。
戊辰戦争[編集]
鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻る。3月、幕府の命を受けた近藤は大久保剛と改名し、甲陽鎮撫隊として隊を再編して甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走する。その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別した。その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、4月には下総国流山に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷の政府軍本営に出頭する。
しかし、大久保が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった加納鷲雄、清原清に近藤であると看破され、捕縛された。その後、土佐藩(谷干城)と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で横倉喜三次、石原甚五郎によって斬首された。享年35(満33歳没)。首は京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明である。
墓所[編集]
近藤の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したとされるが、一説に同志により奪還され、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれ、同寺に近藤の首塚がある。首塚に関しては様々な説があり、東山あたりに住んでいた非人・清常が埋葬した説、さる中国地方の大名が引き取った説などがある。また東京都三鷹市の龍源寺(先述の出身地、現・調布市野水のすぐ近く)や処刑場の近隣であるJR板橋駅前にも旧同士だった永倉新八により建立された墓所がある。福島県会津若松市の天寧寺には土方歳三が遺体の一部を葬ったとされる墓があり、山形県米沢市の高国寺にも近藤勇の従兄弟近藤金太郎が首をひそかに持ち帰り埋葬したとされる墓がある。毎年、民間団体が近藤勇を弔う為に「近藤勇忌」を流山市や会津若松市等で行っている。戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。
辞世の句は漢詩(七言律詩)で作られており、この句が刻まれた句碑が龍源寺境内の墓所にある。
子孫[編集]
娘たまは後に長男・久太郎を産むが、25歳で亡くなっている。その久太郎も明治38年(1905年)に日露戦争で戦死したため、近藤の直系の子孫は絶えている。子は娘たまの他に、妾の駒野との間に男子(後に僧籍)、同じく妾のお考との間に娘のお勇、同じく妾のおよしとの間に男子がいる。孫は久太郎の他に、お勇が韓国人の男性との間に儲けた男子3人がいる。宮川家は代々農家を続けており、現在の末裔も都内で農家を営んでいる。一族の宮川清蔵は天然理心流9代宗家となっている(近藤勇は4代宗家)。
逸話[編集]
- 口に拳骨を丸ごと咥えこむという珍妙な特技を持っていた。近藤が尊敬していた戦国武将・加藤清正も同様の特技を持っており、それにあやかってとのこと。
- 愛刀は長曽禰虎徹興里。講談などでの近藤の決め台詞「今宵の虎徹は血に餓えている」は有名。
- 暇があれば刀剣の話をしたという。「脇差は長いほうが良い」と書かれた手紙が残っている。
- 妻つねはあまり器量が良くなかった。(一説には兎唇とも)近藤には「醜女は貞淑。貞淑な女性を妻にしたい」という持論があったため。
- 軍書好きの父の久次郎に「三国志」や「水滸伝」などの英雄伝を読み聞かせてもらい、特に関羽に憧れていた。
- 大石内蔵助を尊敬していた。また新選組の隊服を製作する際、近藤は赤穂浪士の装束を真似た羽織、袴を発案したと言われている。
- 15歳の頃に父の留守に家に強盗が押し入った。日頃の剣術の腕を試さんと飛びだそうとした兄を「賊は、入ったばかりのときは気が立っているものです。むしろ立ち去るときの方が気が緩み、心が留守になるからその隙に乗じましょう」言って止めたという。そして賊がめぼしいものをひとまとめにして逃げ出すときに、勝太は兄と共に飛び出した。不意を付かれた賊は、まとめた盗品を投げ捨てて逃げたという。それを深追いしようとした兄に、勝太は「窮鼠猫を噛むということがあります。盗られたものは戻ったのだし、放っておきましょう」と言った。このことが世間に渡って評判となり、剣の師匠の周斎に養子を望まれるきっかけになった。
- 近藤の生家(現野川公園入口付近)は明治以降も現存していたが、太平洋戦争中の調布飛行場延長工事により取り壊され、井戸と近藤勇を祀った小さな神社がある。
- 平成23年(2011年)10月、頼山陽流の漢詩掛け軸が見つかり報道された。その句は「只應晦迹寓牆東、喋喋何隨世俗同。果識英雄心上事、不英雄處是英雄」である(画像)。
- 書き下せば「只だ應に迹を晦まして牆東に寓すべし、喋喋何ぞ世俗に隨って同じからん。果たして英雄の心の上の事を識らば、英雄ならざる處ぞ是れ英雄。」、現代語訳は、「ひたすら隠者生活を送るべきであり、喋喋と政治を議論する俗人と同じではない。もし英雄の心が理解されるならば、英雄らしからぬことこそ英雄(なのである)」となる[2]。
脚注[編集]
- ↑ ちなみに、清麿自身も稀代の名工と謳われた刀匠の一人であり、偽銘品ながら近藤の偽虎徹は本物に勝るとも劣らぬ切れ味を発揮したようである。
- ↑ 新発見!初公開の近藤勇詩書
関連項目[編集]
両津。新撰組で演じた