「山形マット死事件」の版間の差分
細 (「山形マット死事件」を保護しました: 暫く先編集権を保護 ([move=sysop] (無期限))) |
|||
2行目: | 2行目: | ||
== 事件の概要 == | == 事件の概要 == | ||
− | 1993年(平成5年)[[1月13日]]夕方、山形県新庄市立明倫中学校1年生の男子生徒が、同中学校の体育館用具室内で遺体となって発見された。生徒の遺体は巻かれて縦に置かれた体育用[[マット]]の中に逆さの状態で入っており、死因は窒息死であった。[[山形県警察]]は[[傷害]]および[[監禁致死]]の容疑で、死亡した生徒をいじめていた当時14歳の上級生3人を[[逮捕]] | + | 1993年(平成5年)[[1月13日]]夕方、山形県新庄市立明倫中学校1年生の男子生徒が、同中学校の体育館用具室内で遺体となって発見された。生徒の遺体は巻かれて縦に置かれた体育用[[マット]]の中に逆さの状態で入っており、死因は窒息死であった。[[山形県警察]]は[[傷害]]および[[監禁致死]]の容疑で、死亡した生徒をいじめていた当時14歳の上級生3人を[[逮捕]]、当時13歳の同級生4人を[[補導]]した。警察の事情聴取ではこれら計7人の生徒は犯行を認めていた。 |
だが、その後[[児童相談所]]に送致された1人を除く6人の生徒は、犯行自供を撤回し、犯行の否認やアリバイの主張をし始めた。これに対して1993年[[8月23日]]、[[山形家庭裁判所]]は、逮捕された上級生3人に対し、刑事訴訟における無罪に相当する非行なしを理由とする不処分の決定をした。一方、補導された同級生3人に対しては同年[[9月14日]]、2人に初等[[少年院]]送致、1人に[[教護院]]送致の保護処分が決定された。これに対し3人は処分取り消しを求め[[仙台高等裁判所]]に[[特別抗告]]するが、「アリバイは認められない」として抗告は棄却された。それに対し[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]へ再抗告もしたが、再び棄却された。 | だが、その後[[児童相談所]]に送致された1人を除く6人の生徒は、犯行自供を撤回し、犯行の否認やアリバイの主張をし始めた。これに対して1993年[[8月23日]]、[[山形家庭裁判所]]は、逮捕された上級生3人に対し、刑事訴訟における無罪に相当する非行なしを理由とする不処分の決定をした。一方、補導された同級生3人に対しては同年[[9月14日]]、2人に初等[[少年院]]送致、1人に[[教護院]]送致の保護処分が決定された。これに対し3人は処分取り消しを求め[[仙台高等裁判所]]に[[特別抗告]]するが、「アリバイは認められない」として抗告は棄却された。それに対し[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]へ再抗告もしたが、再び棄却された。 | ||
18行目: | 18行目: | ||
== 地域性の問題 == | == 地域性の問題 == | ||
死亡した男子生徒の一家は事件の約15年前に新庄市に転入し、地元で[[幼稚園]]を経営する仲睦まじく裕福な一家であった。また一家全員が[[標準語]]を話すことも重なり、閉鎖的な地域性からこの一家に対しての劣等感や妬みで「よそ者」扱いにする、いわゆる[[村八分]]的な環境にあったとするTV、新聞等の報道がなされた<ref>小林よしのりも自身の著書「(旧)ゴーマニズム宣言3巻」で本事件を地域性の問題として取り上げている。</ref>。事件後も、「いろいろなつながりがあるせまい町に住む人たちにとって、表に出たら事件のことを一言も口にしないことが続」き、当事件の関連記事連載中、朝日新聞山形支局の記者たちは、取材現場で「『まだ取材しているのか』『そっとしておいてくれ』となんども追い返さ」れ、さらに「学校の関係者を名のる複数の人物から『いまさら騒ぎたてるな』と抗議をうけ」<ref>『マット死事件』p.220.</ref> たことを明らかにしている。また、社会学者の[[内藤朝雄]]は、明倫学区でのフィールドワークにて家族に対する様々な誹謗中傷を行う住民の声を聞いたと述べ、この地域に関する問題の根深さを指摘している<ref>『季刊 人間と教育』第7号、労働旬報社、1995年、内藤朝雄</ref>。 | 死亡した男子生徒の一家は事件の約15年前に新庄市に転入し、地元で[[幼稚園]]を経営する仲睦まじく裕福な一家であった。また一家全員が[[標準語]]を話すことも重なり、閉鎖的な地域性からこの一家に対しての劣等感や妬みで「よそ者」扱いにする、いわゆる[[村八分]]的な環境にあったとするTV、新聞等の報道がなされた<ref>小林よしのりも自身の著書「(旧)ゴーマニズム宣言3巻」で本事件を地域性の問題として取り上げている。</ref>。事件後も、「いろいろなつながりがあるせまい町に住む人たちにとって、表に出たら事件のことを一言も口にしないことが続」き、当事件の関連記事連載中、朝日新聞山形支局の記者たちは、取材現場で「『まだ取材しているのか』『そっとしておいてくれ』となんども追い返さ」れ、さらに「学校の関係者を名のる複数の人物から『いまさら騒ぎたてるな』と抗議をうけ」<ref>『マット死事件』p.220.</ref> たことを明らかにしている。また、社会学者の[[内藤朝雄]]は、明倫学区でのフィールドワークにて家族に対する様々な誹謗中傷を行う住民の声を聞いたと述べ、この地域に関する問題の根深さを指摘している<ref>『季刊 人間と教育』第7号、労働旬報社、1995年、内藤朝雄</ref>。 | ||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
− | |||
== 脚注 == | == 脚注 == |
2014年3月2日 (日) 21:52時点における版
山形マット死事件(やまがたマットしじけん)とは、1993年(平成5年)に山形県新庄市立明倫中学校で発生した男子中学生の死亡事件。俗に「マット死事件」・「マット事件」とも呼ばれ、学校現場におけるいじめの深刻さを明らかにし、少年法改正への気運を醸成した象徴的事件として、今日でも取り沙汰されている。
事件の概要
1993年(平成5年)1月13日夕方、山形県新庄市立明倫中学校1年生の男子生徒が、同中学校の体育館用具室内で遺体となって発見された。生徒の遺体は巻かれて縦に置かれた体育用マットの中に逆さの状態で入っており、死因は窒息死であった。山形県警察は傷害および監禁致死の容疑で、死亡した生徒をいじめていた当時14歳の上級生3人を逮捕、当時13歳の同級生4人を補導した。警察の事情聴取ではこれら計7人の生徒は犯行を認めていた。
だが、その後児童相談所に送致された1人を除く6人の生徒は、犯行自供を撤回し、犯行の否認やアリバイの主張をし始めた。これに対して1993年8月23日、山形家庭裁判所は、逮捕された上級生3人に対し、刑事訴訟における無罪に相当する非行なしを理由とする不処分の決定をした。一方、補導された同級生3人に対しては同年9月14日、2人に初等少年院送致、1人に教護院送致の保護処分が決定された。これに対し3人は処分取り消しを求め仙台高等裁判所に特別抗告するが、「アリバイは認められない」として抗告は棄却された。それに対し最高裁判所へ再抗告もしたが、再び棄却された。
そして翌1994年、7人全員に対し、刑事裁判の有罪に相当する保護処分が確定。これに対し少年は事故死を主張して山形地方裁判所に提訴。その後1995年に、死亡した生徒の両親が少年7人と新庄市に対し1億9400万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こす。この際、少年らは山形地裁への提訴を取り下げた。
2002年3月19日、民事訴訟に対し山形地裁は「事件性は無い」として原告側の訴えを退ける。両親は仙台高裁に控訴し、2004年5月28日、仙台高裁は一審判決を取り消し、少年7人に5760万円の支払いを命じる。少年らは上告するが、2005年9月6日に最高裁は上告を棄却し、高裁での有罪判決が確定した。
検視判断
本件の被害者は検死の結果、死因は窒息死と判断された。また被害者の顔面にはマットに圧迫されたことを示す赤紫色の腫れが見られたものの、顔面に擦過傷の痕跡は認められなかった。このため検視の上では、被害者が暴行を受けマットに押し込まれたとする決定的な証拠は発見されていない。後に本件の公判において、この擦過傷が無かった状況を重要な論拠として被告弁護側が『被害者が自らマットに入っていった』などと無罪を主張した。
自白の変容
上記の自白に頼った捜査により、取り調べ段階においての捜査関係者と容疑者少年との信頼形成に失敗したとされる。公判開始の後、被告少年側は「自白は強制されたもの」と供述を翻した。それに対し警察・検察側は、自白のみで物証が乏しかったため「事件当時に被告少年が確実に現場の体育館にいた証拠」などを提示することが困難となり、「被告少年側がかねてより被害者をいじめていた」といった状況証拠を積み重ねた法廷戦略を取らざるを得なくなった。また、被告側は冤罪を主張する人権派弁護士による大規模な弁護団を結成したことで、警察の捜査体制の不備を突いた法廷戦略を取った[1]。これらの経緯により、判決が有罪と無罪の間を揺れ動くこととなった。自白偏重という捜査上の問題のみならず、加害者の人権を重視するあまり、被害者の人権および遺族の心情を軽視するという側面が社会問題となる契機ともなった。
地域性の問題
死亡した男子生徒の一家は事件の約15年前に新庄市に転入し、地元で幼稚園を経営する仲睦まじく裕福な一家であった。また一家全員が標準語を話すことも重なり、閉鎖的な地域性からこの一家に対しての劣等感や妬みで「よそ者」扱いにする、いわゆる村八分的な環境にあったとするTV、新聞等の報道がなされた[2]。事件後も、「いろいろなつながりがあるせまい町に住む人たちにとって、表に出たら事件のことを一言も口にしないことが続」き、当事件の関連記事連載中、朝日新聞山形支局の記者たちは、取材現場で「『まだ取材しているのか』『そっとしておいてくれ』となんども追い返さ」れ、さらに「学校の関係者を名のる複数の人物から『いまさら騒ぎたてるな』と抗議をうけ」[3] たことを明らかにしている。また、社会学者の内藤朝雄は、明倫学区でのフィールドワークにて家族に対する様々な誹謗中傷を行う住民の声を聞いたと述べ、この地域に関する問題の根深さを指摘している[4]。
脚注
- ↑ 弁護団は何度がメンバーの入れ替えはあったが、最終的には東京都や山形県他市に事務所を構えるベテランの弁護士で構成された。
- ↑ 小林よしのりも自身の著書「(旧)ゴーマニズム宣言3巻」で本事件を地域性の問題として取り上げている。
- ↑ 『マット死事件』p.220.
- ↑ 『季刊 人間と教育』第7号、労働旬報社、1995年、内藤朝雄
参考文献
- 朝日新聞山形支局『マット死事件 見えない〝いじめ〟の構図』太郎次郎社、1994年 ISBN 4-8118-0631-X
- 児玉昭平 『被害者の人権』小学館、1999年 ISBN 4-09-404002-1
- 北澤毅、片桐隆嗣 『少年犯罪の社会的構築 「山形マット死事件」迷宮の構図』東洋館出版社、2002年 ISBN 4-491-01771-9
- 内藤朝雄『<いじめ学>の時代』柏書房、2007年 ISBN 978-4760132195
関連項目
- いじめ
- 光市母子殺害事件 - 本件同様に少年犯罪、被害者の人権、裁判時における加害者側の弁護姿勢が問題となった。テンプレート:Education-stub