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'''マリリン・モンロー'''(''Marilyn Monroe''、[[1926年]][[6月1日]] - [[1962年]][[8月5日]])は、[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]出身の[[俳優|女優]]。旧名、'''ノーマ・ジーン・モーテンセン'''(''Norma Jeane Mortensen'')。本名、'''ノーマ・ジーン・ベイカー'''(''Norma Jeane Baker'')。現在に至るまで、[[セックスシンボル]]の代名詞的存在として広く認知されている。
  

2012年9月8日 (土) 17:35時点における版

マリリン・モンロー

マリリン・モンローMarilyn Monroe1926年6月1日 - 1962年8月5日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女優。旧名、ノーマ・ジーン・モーテンセンNorma Jeane Mortensen)。本名、ノーマ・ジーン・ベイカーNorma Jeane Baker)。現在に至るまで、セックスシンボルの代名詞的存在として広く認知されている。

概要

身長166.4cm体重53.5kgスリーサイズB94 W61 H86。トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。フェラガモに作らせたのサイズは、24.5cm。ノルウェー人の血を引いているといわれるが、本当の髪の色はブロンドではなく褐色(ブルネット)であった。モンローというステージネームは彼女の母親の姓である。

経歴

生い立ち

ノーマは片親家庭に生まれた。アメリカ合衆国には戸籍がないので、出産直後に医者が書く出生証明書が法的な意味をもつことになっている。彼女の出生証明書には、父:エドワード・モーテンセン、母:グラディス・モンロー・ベイカー、氏名:ノーマ・ジーン・モーテンセンと記載されていて、彼女の本名がノーマ・ジーン・モーテンセンであることに異論はないが、母と同じアパートに住んでいたスタンリー・ギフォードという男性が本当の父親であるという説もある。後年大人になったノーマがギフォードに電話したことがあるが、会うことは拒否されている。モンローは正式な書類にサインするときはモーテンセンの姓を使ったが、そうでないときは母親の姓を使ってノーマ・ジーン・ベイカーと名乗ることが多かった。

ノーマという本名の由来は、映画好きな母グラディスが当時好きだった女優ノーマ・タルマッジからとったとされる。ジーンは1930年代のセックス・シンボル、ジーン・ハーロウに由来する。母グラディス・ベイカー(旧姓モンロー)は「モンロー宣言」で知られるジェームズ・モンロー大統領が先祖であると周囲にもらしていたが、娘のモンロー自身は一笑に付したとされる。

日本語訳されている評伝のなかには、モンローは孤児だったと記されているが、母親がいたのだから日本語では孤児と呼ぶことは出来ない。これは彼女が孤児院(orphanage)や養子として育てられたために受けた誤解である。またモンローには父親違いの7つ年上の姉が居る。姉とは女優になってからも気にかけていて、手紙をやりとりし互いに訪ね合うほど親交があった。その姉はモンローの葬儀に参列している。ジョー・ディマジオと共に葬儀の準備にあたり、マリリンの死装束を選んだのも他ならぬこの姉であった[1]

モンローの母親は大手映画製作会社のRKOでフィルムカッターの仕事をしていたが、精神病を患っていて職場の同僚グレース・マッキー(後に結婚してGoddard「ゴダード」)が彼女の保護者になった。マッキーが1935年に結婚した後、モンローはロサンゼルス孤児院へ、その後伝えられるところでは性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られ、そのせいか吃音症を患うようになってしまった。当時の大統領の政策で、里親には支給された援助金目当てで子供を引き取る家もあったとされ、モンローもいくつもの家をたらい回しにされるなど大事に扱われたとは言えなかった。

最初の結婚

第二次世界大戦下の1942年、16歳のときに半年で高校を中退しグレース・ゴダードの叔母で母の友人アナ・ロウアーのすすめで、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をする。ジムはロッキード航空機製造会社に整備工として勤務していたが、その後海軍に徴兵され輸送船団に乗り組むことになった。独りになったノーマは航空機部品工場レイディオ・プレーン社に就職し、自活の道を歩き始めた。

ハリウッドへ

19歳の頃の雑誌『YANK』に掲載されたもの

第二次世界大戦末期の1945年の19歳の誕生日を迎えて間もなくのこと、工場で働いていた時に陸軍から取材に派遣された報道部員デビッド・コノバー一等兵に見出され、写真を撮られる。この写真が陸軍の機関誌『ヤンク』に掲載されたことを機にハリウッドへの道をたどることになる。コノバーにそのネガを見せられた商業写真家のポッター・ヒューズにカバーガールになることをすすめられ、モンローは工場を辞めてハリウッドのモデルクラブ「ブルーブックス・モデルズ・エージェンシー」の専属モデルに応募した。モデルの基礎教程を終えたノーマの初仕事は、ロサンゼルス博覧会場でのイベントコンパニオンであった。

やがて新進の写真家アンドレ・ド・ディーンズと知り合い、モデルとしての才能を発見される。この年、二人で長い撮影旅行に出かけている。ド・ディーンズはマリリンがモンローになる前のノーマ・ジーンの初々しい姿をカメラに収めた。その後、髪をゴールデン・ブロンドに染めたセクシーなピンナップが売りものの雑誌に写真が掲載されるようになる。

女優になる

1946年20世紀フォックスのスクリーン・テストに合格し「マリリン・モンロー」という芸名で契約を結んだ。マリリンの名は1920年代のブロードウェイの美貌の舞台女優マリリン・ミラーに由来している。なお夫のジムはモデル業に理解を示さず結婚から4年で離婚した。

1947年に20世紀フォックスの『嵐の園』という映画に端役で初出演するが、あまりぱっとせずに契約を切られてしまったが、彼女は女優への夢を諦めきれずコロムビア映画に移籍、『コーラスのレディたち』で準主役となる。コロムビア映画とはその映画一本のみで終わってしまったために、その後は再びヌードモデルなどをしながら演技の勉強をし、エージェント(交渉代理業者)を探し続けた。生活が苦しく家賃や車の月賦が払えなかったためにカレンダーのヌードモデルになった(写真家トム・ケリー撮影の「ゴールデン・ドリーム」と呼ばれる作品で有名)。しかしこのことが後にスキャンダルを巻き起こすことになる。

トップスターになる

ナイアガラ』(1953年)の一場面
紳士は金髪がお好き』(1953年)の一場面

1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で準主役。1953年ナイアガラ』では不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。

1954年1月14日、野球選手のジョー・ディマジオサンフランシスコ市庁舎で結婚。2月1日、読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねてパンアメリカン航空ボーイング377日本を訪れ、東京国際空港で大歓迎を受けた。

野球の仕事を兼ねていたディマジオは、滞在中忙しく外へ出かけることが多かった。野球に興味のなかったモンローは宿泊先の帝国ホテルで待つ日々が続いた。そんな折、朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込む。暇を持て余していたモンローに断る理由はなかった。行くなと反対するディマジオと喧嘩するようにして韓国へ向かった。モンローはヘリコプターに乗り、ジープや戦車を乗り継いで駐屯地を回り、多くの兵士たちを前にして歌った。

1955年に、関係が悪化していたディマジオと離婚した。結婚生活は9か月しか続かなかった。その後、セックスシンボルを脱したかった彼女は、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けている。『アンナ・クリスティ』、『欲望という名の電車』を演じ好評を博したことは彼女に自信を取り戻させた。

1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。カリフォルニア大学ロサンゼルス校UCLA)教授のラルフ・グリーンソンによる精神分析を受け続けた。また、アンナ・フロイトジークムント・フロイトの娘)には境界性パーソナリティ障害と診断されたが、正確なところは分からない。この頃流産を経験した。

ケネディ兄弟との不倫

ケネディ大統領の誕生日祝賀会の後にケネディ兄弟と話すモンロー(1962年5月)
右奥は歌手のハリー・ベラフォンテ夫妻。話しているのはコメディアンのジャック・ベニー。右最手前は大統領補佐官アーサー・シュレジンジャー

1961年にミラーと離婚。この前後から、ケネディの妹の夫のピーター・ローフォードフランク・シナトラの紹介で前年に大統領となったジョン・F・ケネディと肉体関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどにより証言されている[2]。 また、ジョンの弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディとも関係があったとも囁かれたことがある。

同年に封切られた映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演したクラーク・ゲイブルが撮影終了後に急死したことも重なり、不安定になり再び精神病院に入院。この時、よりを戻した元夫ディマジオが彼女を支えた。翌1962年に、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まなかった。『女房は生きていた』の主役は結局降ろされた(のちにドリス・デイ主演で公開)。

なおジョン・F・ケネディとモンローとの関係は、ケネディがサム・ジアンカーナらマフィアと関係の深いシナトラを介してモンローと知り合った上に、ジアンカーナが2人の関係を知っており、このことをマフィアの取り締まりを強化しようとしていたケネディ政権に対する取引に使おうとしていたことを憂慮したFBIジョン・エドガー・フーヴァー長官が、ロバートに忠告したことでこの年に終焉を迎えた。

しかしながらモンローは、その関係が終焉を迎えた直後の1962年5月19日に、ニューヨーク市マディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの45歳の誕生日パーティ(司会はローフォード)に、体の線が露わになったドレス姿で赴き、『ハッピーバースデートゥーユー』を歌い、「いつ引退しても悔いはない」とケネディに言わしめた(ハッピーバースデー・ミスタープレジデントも参照。なお、ケネディは翌年凶弾に倒れている)。

なお、この際にケネディとモンローの性的関係を快く思っていなかったジャクリーン夫人は、誕生日パーティーにモンローが来ると知ってあえて欠席した。

死と波紋

遺体が発見されたモンローの家(1992)

1962年8月5日、自宅の寝室で全裸で死んでいるのが発見された。没年36歳。死の直後、マスコミでは「死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様」と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡った。

ただのドラッグ・オーバードースであるとの声もある上、「『女房は生きていた』の主役を降ろされたことを悲観して」との根拠に欠ける仮説も唱えられたが、2000年代に入りFOXニュースが20世紀フォックスの倉庫から発見した資料によると、FOX首脳部との会談で、モンローとそりの合わなかった監督を降板させ、モンローを復帰させる契約が交わされていたことが分かった。さらに、「何という行き方!」というミュージカル大作への出演も決まっており、「モンローが配給会社から見捨てられ、失意の中で死んでいった」という仮説は成立しなくなることが分かった。

1980年前後以降は自殺説は影を潜め、何者かによる謀殺説が根強く叫ばれ続けている(謀殺説はモンローの死後間もない時期から存在していた)。現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、また彼女が遺体で発見されたとき、手には受話器が握られていたものの、FBIが押収したモンローが死亡した前日と死亡した夜の電話の通話記録には電話局からは同時刻の通話記録はなく、部屋からは彼女の日記(赤い手帳)が消えていた。そのため電話の通話記録の改ざん・隠蔽を行うことができる政治力の持ち主がモンローの死に関わっていたとする主張がある(「急性バルビツール中毒による体の不調を受けて救急車を自ら呼ぶために受話器を取ったものの、ダイヤルする前にこと切れた」という説もある。

なお、ケネディ大統領と1950年代より不倫関係にあったことが、上記のように死後複数の証言から暴露された上、お互いを紹介したのが、ケネディの大統領選挙の際の支援者でマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナと関係の深いシナトラであったことが、この謀殺説を後押ししている。また、ケネディ大統領の弟であり当時の司法長官だったロバートとも不倫関係にあったことがあきらかになっており、これらの不倫の事実が死後に公にならないように、モンローが常に会話の内容をメモしていた赤い手帳が表に出るのを避けたという話もある。

葬儀

モンローの墓

モンローを司法解剖した監察医は、トーマス野口こと野口恒富である。葬儀は元夫ジョー・ディマジオが取り仕切った。映画界からの参列はすべて固辞された。

その墓所は故郷ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパークにある。彼女の死後、ディマジオの計らいで、定期的に赤いバラ(品種:アメリカン・ビューティー)が供えられていた。ディマジオの亡き後は、ファンクラブなどのボランティアの手で続けられている。

ゴールデングローブ賞

受賞
1954年 ヘンリエッタ賞:
1960年 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『お熱いのがお好き
1962年 ヘンリエッタ賞:
ノミネート
1957年 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『バス停留所

エピソード

帝国ホテルに滞在中のジョー・ディマジオ(左)とモンローを案内する犬丸一郎(後方)(1954年2月)
手型を残すモンローとジェーン・ラッセル
百万長者と結婚する方法』(1953年)の一場面
  • 記者に「夜は何を着て寝るのか?」との質問に「シャネルの5番よ」と答えたエピソードはあまりにも有名である。
  • 最初の夫ジム・ドハティが、ロッキード航空の製造会社で整備工をしていたとき、同僚に、後に俳優になったロバート・ミッチャムがいた。ミッチャムは映画「帰らざる河」でモンローと共演。ドハティがノーマ・ジーンの作った愛妻弁当を職場に持ってきたことがある、とミッチャムは2人の新婚当時の様子を証言している。
  • 陸軍報道部員デビッド・コノバーを取材に派遣した当時の上司は、ロナルド・レーガンであった。後年モンローは、ディナーの席でたまたま隣に座った俳優レーガンと言葉を交わしている。
  • モンローのデビューにあたり20世紀フォックスは、モンローのプロフィールで年齢を2歳サバを読んで発表していた。そのため映画解説者の淀川長治も、「彼女は34歳で亡くなりました」と、日曜洋画劇場の解説で言ったことがある。
  • グローマンズ・チャイニーズ・シアターの前庭に、「紳士は金髪がお好き」で共演したジェーン・ラッセルと共に、手型・靴型・サインを残したのは、1953年6月26日のことであった。ジェーンがうつぶせになって胸を、モンローが座ってお尻の跡をつけようとのモンローの提案は受け入れられなかった。サインのMarilynのiの点にダイヤモンドを使ったらどうかとの提案には、結局模造ダイヤを使うことになったが、観光客が削っていってしまった。
  • 1954年2月1日、新婚旅行で来日したモンローであったが体調をくずしてしまう。予定されていた記者会見も顔見せ程度でキャンセルされ(翌日に延期された)、早々と帝国ホテル2階244号室にひきこもった。長旅で疲労困憊、胃痙攣もおこしていた。医者が呼ばれ、痛み止めの注射をしようとしたがモンローはこれを拒否。それではと治療のために呼ばれたのが、「指圧の心は母心」で有名な浪越徳治郎であった。浪越は全裸のモンローに指圧を施した。指圧のおかげで生気を取り戻したモンローは、ホテルの外で、顔を一目みるまでは帰らないぞと待っている群衆の期待にこたえ、バルコニーから手を振った。
  • モンローに戒名をつけた人がいる。1973年8月5日に東京都世田谷区の大吉寺本堂で、住職で作家寺内大吉(当時はキックボクシングの解説でも知られた)が、モンロー13回忌の法要が営まれた。経をあげモンローに「鞠利院不滅美色悶浪大姉(まりりいんふめつびしょくもんろうだいし)」という戒名を捧げた。
  • モンローが眠る墓所ウエストウッド・メモリアルパークには、モンローと関係のあった人たちも眠っている。モンローの葬儀を取り仕切っていたジョー・ディマジオが、ノーマ・ジーンの育ての親であるグレース・ゴダードとアナ・ロウアーがこの墓地に埋葬されていることを知って、モンローの墓所にこの墓地を選んだといわれている。これを機にこれ以降多くの芸能人の墓所としてこの墓地が選ばれるようになった。
  • 1985年9月23日ロサンゼルス市警は、当時の捜査資料を公表した。この中で、他殺説を裏付ける証拠はなく、ダリル・ゲイツ署長も記者会見で「明らかに自殺といえる」と述べた。この日、公表された捜査資料は全132ページ、厚さにして1cm強。モンローの関係捜査資料は死亡時から約10年間、非公開書類として保管された後、1973年に廃棄されたが、当時の捜査担当官故タッド・ブラウンが個人的にその写しを保管していた。今回の公表資料はそれをコピーしたものという。資料はトーマス・ノグチ・ロサンゼルス郡検視局検視官(当時)による解剖所見のほか、関係者の事情聴取記録やモンローの死亡前後の電話通話記録など。モンローの死については一時、他殺説が流れたことから、同市警も再捜査した。この再捜査記録も今回含まれているが、他殺説を証拠立てる資料は見当たらない、と結論づけた。
  • イギリスの大衆紙「ピープル」は、1990年7月2日の紙面で、モンローに隠し子がいたと報じた。同紙は1面に「マリリン・モンローに英国育ちの隠された子がいた!」と大見出し、中面の1ページ全体を使ってこの情報を伝えた。同紙によれば、モンローの元恋人で米国人作家のテッド・ジョーダンが出版する著書『マリリン・モンローの秘められた生活』の中で記しているもので、モンローが1947年、21歳のときに生んだ子で、相手は当時交際のあったミュージシャンとのこと。子どもの名はナンシーといい、すぐ養女にだされ、養父が英国人だったため、イギリスのサウサンプトンに移され育てられた。虐待を受けたため17歳で家出。豪州に渡り、南太平洋の島々を転々とし、現在は豪州タスマニア島で、地道に宗教活動をしていて、苦心の末ナンシーに会ったというジョーダンによれば、唇と脚線美は母親そっくりだという。
    (モンローは、「十代のときに子どもを産んだことがある」と親しかった友人ジーン・カーメンに打ち明けている。
    一方で、検死を行ったトーマス野口は、モンローが「出産した痕跡はない」と証言している)。
  • 「生まれつき左足が6本指で、手術で治した」という俗説があるが、これは誤りである。詳細は多指症#多指(趾)症の人物の項を参照。
  • モンローと親交のあった作家トルーマン・カポーティの小説『ティファニーで朝食を』のヒロインは、カポーティがモンローをイメージして書いたものといわれる。しかしオードリー・ヘップバーンを主役に映画化された。
  • 2004年には希少万年筆ブランドとして知られるクローネから、彼女をモチーフとした万年筆『マリリン・モンロー』が世界限定288本、税込808,000円で発売された。
  • 2008年3月31日ロサンゼルス連邦地方裁判所は、マリリン・モンローの写真を使用したTシャツを製造販売した企業と、彼女の遺産管理団体の間で争われていた彼女の肖像権についての裁判で、マリリン・モンローはカリフォルニア州民ではなくニューヨーク州民であり、同州の法律によって1962年の死亡と同時に彼女の肖像権は消滅したと判決を下した。彼女はニューヨーク市内にアパートを所有しており、そこを永住先としていたのが判決の理由となった。なお彼女の出生地であるカリフォルニア州の法律では肖像権は本人の死後100年は残る。
  • モンローの埋葬室の真上の区画が2009年8月24日にオークションにかけられ、一旦は4,600万2,100ドル(約4億3000万円)で落札されたが、落札者(日本人)がすぐに辞退を申し出たため、新たにインターネットオークションにかけられたが、入札者なしで、現在も買い手は見つかっていない[3]。2009年時点で、モンローの「上にいる」のは、23年前に81歳で亡くなった実業家リチャード・ポンチャー(Richard Poncher)だが、夫人のエルシー・ポンチャー(Elsie Poncher)が夫を別の区画に移すためオークションに出した。理由は、ビバリーヒルズにある160万ドル(約1億5000万円)相当の自宅のローンを完済したいからだという。この墓は、実業家として成功していたリチャードが、モンローの夫だったジョー・ディマジオから1954年に買い取ったもので、リチャードはもうひとつ上の区画も購入してあったため、エルシーはそこに夫を移すという。成人向け娯楽雑誌『PLAYBOY』の創始者ヒュー・ヘフナーは「モンローのそばで永眠したい」と1992年に7万5,000ドル(約710万円)でモンローの左真横の区画を購入している。その上の区画もまだ空いており、25万ドル(約2,400万円)で販売中だという。
  • モンローの胸部を含むエックス線写真3枚が、2010年6月27日、ラスベガスのホテル「プラネット・ハリウッド・リゾート・アンド・カジノ」でオークションにかけられ、胸部エックス線写真は2万5,000ドル、横から写したものなど2枚はそれぞれ1万ドルで落札された。写真はモンローが1954年11月に、フロリダ州のシーダーズ・オブ・レバノン病院で診察を受けた際に撮影されたもので、担当した医師の夫人が保管していたもの。モンローは当時、子宮内膜症に苦しんでおり、この治療のために通っていた。子宮の状態を検査するため、胸部や骨盤を撮影した際のもの。またこの時期は、夫のジョー・ディマジオと離婚して2週間後の時期でもあった。
  • 映画「七年目の浮気」で着用した白いホルターネックのドレスが、2011年6月18日オークションにかけられ、460万ドル(約3億7000万円)で落札された。他に「紳士は金髪がお好き」の真っ赤なスパンコールのドレスが120万ドル(約9600万円)、「帰らざる河」の酒場の衣装が51万ドル(約4000万円)で落札された。

モンロー・ウォーク

マリリン・モンローはお尻を通常よりも大きく左右に振ってセクシーに見える歩き方をすることで有名で、これを指して「モンロー・ウォーク」と呼ぶ。この独特な歩き方の秘密は、彼女が意図的に左右のヒールの長さを変えていることにあると言われている。おおよそ、左のヒールよりも右のヒールを4分の1インチ(6mm強)程度短くしているとされる。このことは、彼女の友人である女優が証言している。

モンロースマイル

親の愛情に恵まれていない子供ほど、周囲の大人に気に入られようとして魅力的な笑顔を振りまく傾向があることを示す心理学用語。マリリン・モンローは、チャーミングな笑顔で多くの人々を魅了したが、その笑顔は不遇な子供時代に周囲の大人たちの歓心を買うため自然と身に付いたものだと言われている。オーディションなどで笑顔の印象的な子役を選んでみると、両親の離婚など家庭に複雑な事情を抱えている子供が多いことから、モンローにちなんで名づけられた。

出演作品

  • 1947年:『嵐の園』でスクリーンデビュー。カヌーを漕ぐシーンはカットされる。主役に、ハローと声をかけるシーンだけ残った。
Dangerous Years』公開はこちらが先。実質的なデビュー作

歌手として

映画の中で歌う
  • 『Ladies of the Chorus』より
    • Every Baby Needs a Da-Da-Daddy(ベビーにはパパが必要)
    • Anyone Can See I Love You(私の恋はどなたにもお見通し)
  • 『ナイアガラ』より
    • Kiss(キス)
  • 『紳士は金髪がお好き』より
    • Diamonds Are a Girl's Best Friend(ダイヤは女の最良の友)
    • Two Little Girls from Little Rock(リトルロックから来た娘)
    • When Love Goes Wrong(恋にしくじったら)
    • Bye Bye Baby(バイ・バイ・ベイビー)
  • 『帰らざる河』より
    • The River of No Return(帰らざる河)
    • I'm Gonna File My Claim(請求書にためとくわ ※素訳 登記しとくわ)
    • One Silver Dollar(一枚の銀貨)
    • Down in the Meadow(牧場で)
  • 『ショウほど素敵な商売はない』より
    • After You Get What You Want, You Don't Want It(気ままなあなた)
    • Heat Wave(ヒート・ウェーブ)
    • Lazy(もの憂さ)
    • A Man Chases a Girl(男は女を追いかける)
  • 『バス停留所』より
    • That Old Black Magic(恋という魔術)
  • 『お熱いのがお好き』より
    • I'm Through with Love(恋はおしまい)
    • I Wanna Be Loved by You(あなたに愛されたいの)
    • Running Wild(ランニング・ワイルド)
  • 『恋をしましょう』より
    • Let's Make Love(恋をしましょう)
    • Incurably Romantic(とってもロマンティック)
    • Specialization(スペシャリゼイション)
    • My Heart Belongs to Daddy(私の心はパパのもの)
その他の歌(映画以外で歌う)
  • Do It Again(ドゥ・イット・アゲイン)
  • A Fine Romance(ファイン・ロマンス)
  • You'd be Surprised(驚かないでね)
  • She Acts Like a Woman Should(女のお手本)
  • Some Like It Hot(お熱いのがお好き)
    映画の中ではインストルメント・バージョンが使われていて歌はない。これは同映画公開時にPR用に歌ったもの。
  • Happy Birthday,Mr.President
    1962年5月19日、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたジョン・F・ケネディ大統領誕生パーティで歌ったもの。

関連作品

ノンフィクション『マリリン・モンローの真実』(アンソニー・サマーズ)

マリリン・モンローの再来といわれている人物

セクシーなブロンド美女が現れるとその人物を「マリリン・モンローの再来」ということがある。

脚注・出典

  1. 『マリリン・モンロー わが妹マリリン』バーニース・ベイカー・ミラクル/モナ・ラエ・ミラクル共、大沢満里子訳、メディアックス、初版1997年8月
  2. 『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』 348頁、ジェイムズ スパダ、広瀬順弘訳、読売新聞社1992年
  3. 2009年11月3日米国メディア報道・AFP等配信

参考文献

  • 亀井俊介 『マリリン・モンロー』 岩波新書、初版1987年7月。ISBN 4004203813
  • 亀井俊介 『アメリカでいちばん美しい人―マリリン・モンローの文化史』 岩波書店、2004年12月。ISBN 400022025X
  • 亀井俊介編 『「セックス・シンボル」から「女神」へ―マリリン・モンローの世界』 昭和堂、2010年1月。ISBN 4812209560、写真多数
  • アンソニー・サマーズ 『マリリン・モンローの真実 (上下)』 中田耕治訳、扶桑社<扶桑社ミステリー>、1988年7月
  • 中田耕治コレクション1. マリリン・モンロー論考』、青弓社、1991年
  • ドナルド・スポト 『マリリン・モンロー最後の真実』 小沢瑞穂真崎義博訳、光文社 1993年10月。ISBN 4334960707&ISBN 4334960715

関連項目

外部リンク

先代:
なし
プレイメイト
1953年12月
次代:
マージー・ハリソン