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八島 昭一(やしま しょういち、1896年6月13日 - 1989年12月19日)は、日本の政治家。戸川猪佐武の実名政治小説『政客よ舞え』(のちに『党人の群れ』と改題)の2人いる主人公の1人で架空の政治家・沖信治郎のモデルである(ちなみにもう1人の主人公は実在の政治家・犬養健である)。
来歴・人物[編集]
八島良兵衛の長男として長野県下伊那郡飯田町(現・長野県飯田市)に生まれた。6人兄弟であり、7歳年下の弟・良二の他2歳年上の姉、2歳、5歳、9歳年下の3人の妹がいる。なお4人の姉妹は全て他家に嫁いでいる。八島家は江戸時代からの素封家であり、昭一の父・良兵衛は私鉄の伊那電気鉄道(のちに日本国有鉄道に買収され、現在のJR飯田線となる)の設立発起人であり、株主・取締役でもあった。
旧制中学卒業後、政治家を志し早稲田大学予科に進学。1919年早大政治経済学部政治学科卒業後、東京市在住の父の知人の紹介で森恪の事務所に入所。1923年に結婚。翌1924年、立憲政友会所属の代議士だった森が落選した直後に森の命令により政友会院外団常任幹事に就任した。給与は森事務所から受けていながらそちらの勤務は休職で、八島は政友会院外団の1人となった。院外団時代に大野伴睦(のち政友会代議士、戦後衆議院議長)、鬼丸弥市、保田一太郎らと交友関係を持つ。
1929年6月中旬、下関市の山陽ホテルで犬養健と出会う。それ以来犬養は八島の無二の親友となる。翌1930年の第17回衆議院議員総選挙に旧長野県第3区から政友会公認で立候補し初当選、政治家としての一歩を踏み出す。八島は同期の政友会代議士である大野・犬養・井上知治・太田正孝・大石倫治・土倉宗明・中島知久平・林譲治・船田中・松岡洋右らと「昭午会」を結成する。当初は森の子飼いだったが、後に親軍派の森と訣別し鳩山一郎と行動をともにする。
1937年、第1次近衛内閣の外務参与官に就任。1939年の政友会分裂に際しては鳩山・大野・浜田国松・砂田重政・深沢豊太郎・河野一郎らとともに正統派に与するが、正統派の総裁となった親軍派の久原房之助とは激しく対立した。
政党解消後は鳩山・大野・安藤正純らとともに同交会を結成。1942年の翼賛選挙(第21回衆議院議員総選挙)では非推薦候補として立候補し当選。同交会のメンバーの立候補者は全員非推薦候補で、そのうち当選したのは八島・鳩山・安藤・芦田均・星島二郎・田中亮一・尾崎行雄・坂東幸太郎・北昤吉・川崎克の10名だけだった。
戦後は日本自由党の結党に参加したが、近衛内閣で外務参与官をしていたことから公職追放。追放中は弟の良二が身代わりとなって代議士を2期務めた。1948年に追放が解除され、翌1949年の第24回衆議院議員総選挙で民主自由党の公認候補として立候補し当選、政界に返り咲いた。自由党結党後は大野派の客分となり、衆議院大蔵委員長を務める。
保守合同で自由民主党が結党されてからは犬養を大野派に迎えることに尽力。その後第1次岸内閣の改造に伴い科学技術庁長官として初入閣。第2次岸内閣退陣直前に自治省の発足に伴い初代自治大臣として2度目の入閣。第1次池田内閣発足に伴い横滑りで通商産業大臣として入閣。
1963年の第30回衆議院議員総選挙には出馬せず、系列長野県議の向山一人を後継者に指名して政界から引退。向山が初当選したのは6年後の第32回衆議院議員総選挙であった。
家族・親族[編集]
邦江夫人との間に1924年生まれの長男・良一、1926年生まれの次男・昭二の2男がいる。良一は早大在学中に学徒出陣で海軍予備学生として入隊、1945年に出征先で戦死した。