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*久秀は美男子で立振舞の優雅なうえ、連歌や茶湯にも長けた教養人であったと伝えられ、領国では善政を敷いたとされており、今も[[信貴山城]]近郊では名君として慕われている。 | *久秀は美男子で立振舞の優雅なうえ、連歌や茶湯にも長けた教養人であったと伝えられ、領国では善政を敷いたとされており、今も[[信貴山城]]近郊では名君として慕われている。 | ||
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*織田信長は、家臣に対して厳しい人物という評が通説となっているが、その中で久秀だけは例外的に許している。また二度目の反逆でも平蜘蛛と引き換えに助命を考えていた節がある。このことから、信長が一目置くほどの器量を持った武将であったとの見方もある。 | *織田信長は、家臣に対して厳しい人物という評が通説となっているが、その中で久秀だけは例外的に許している。また二度目の反逆でも平蜘蛛と引き換えに助命を考えていた節がある。このことから、信長が一目置くほどの器量を持った武将であったとの見方もある。 | ||
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*実は信貴山で死なず逃げおおせて、[[古天明平蜘蛛|平蜘蛛茶釜]]を葛城山に隠し、自身は、秀吉の御伽衆になったという説もある。 | *実は信貴山で死なず逃げおおせて、[[古天明平蜘蛛|平蜘蛛茶釜]]を葛城山に隠し、自身は、秀吉の御伽衆になったという説もある。 | ||
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==ドラマ・小説・その他創作等== | ==ドラマ・小説・その他創作等== |
2014年7月19日 (土) 23:29時点における最新版
松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。大和の戦国大名。
目次
略歴[編集]
父は不明。嫡男に松永久通、養子に松永永種、また弟に松永長頼がいる。
出身については、阿波国・山城国西岡・摂津国五百住の土豪出身など諸説がある。始め藤原氏を称したが、永禄4年(1561年)から源氏を称した。霜台は久秀の官位である弾正忠の唐名である。
はじめ三好長慶に仕えたが、やがて三好氏内部で実力をつけ、長慶の死後は三好家を凌ぐ実力をもって第13代将軍・足利義輝を殺害し、畿内を支配した。しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、爆死という文献上では日本初となる自殺方法を行なって死去した。
下克上を体現した典型的な戦国武将で、第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者と伝えられ、陣中にあっては女色にふけるなど、狡猾で傲慢不遜の乱世の梟雄として悪名を轟かせている。一方、美男子で立ち振る舞いの優雅な連歌や茶道に長けた教養人でもあり、領国に善政を敷いた名君としても知られ、信貴山城近郊の人々に現在でも慕われている。
生涯[編集]
出自[編集]
永正7年(1510年)に生まれる。久秀の前半生には不明な点が多い。出身説にも阿波国・山城国西岡・摂津国五百住の土豪出身、もしくは商人という説がある。ただ、この商人であったという説は、久秀と同世代の斉藤道三も久秀と同じような人生を歩んでいることから可能性があるとして出てきている説でもある。俗説では久秀と道三は旧知の仲だったともいわれる。
三好長慶時代[編集]
天文9年(1540年)から細川氏の被官三好長慶の右筆として仕える。
天文18年(1549年)、長慶が細川晴元、足利義輝らを追放して京都を支配すると、長慶に従って上洛し、三好家の家宰に任じられ、弾正忠に任官され、霜台と称する。長慶は久秀の才能を早くから見抜いていたようで、のちには自分の娘を久秀に嫁がせている。
その後は長慶に従って幕政に関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城主に任ぜられ、永禄2年(1559年)、大和国信貴山城に移って居城とする。永禄3年(1560年)には興福寺を破って大和一国を統一する一方で、長慶の嫡男・三好義興と共に第13代将軍・足利義輝から相判衆に任じられ、従四位下、弾正少弼に叙位・任官する。永禄5年(1562年)、多聞山城を築城して移り住んだ。
このように久秀は長慶の信頼を得て勢力を増加させていくが、主君・長慶は弟の十河一存や実休(義賢)の相次ぐ不慮の死、さらに嫡男・三好義興の死去などの不幸が重なって、年々、気力を失くしていった。十河一存や三好義興については久秀による暗殺とも伝えられているが、これらは推測の域を出ない(通説の死因は、一存は落馬による負傷、義興は病死とされる)。
このように長慶の統率力の低下は久秀の勢力拡大をさらに助長し、久秀は主家の実権をめぐって対立する安宅冬康(長慶の弟)を長慶に讒言して、謀殺させた。冬康の死去により三好家では久秀に並ぶ実力者はいなくなり、久秀は主家を凌駕する実力を持つに至った。永禄7年(1564年)に長慶は没すると、久秀は長慶の養子・三好義継を傀儡として三好三人衆と共に三好家を専断するようになった。
畿内の覇権をめざして[編集]
長慶の死後、三好三人衆とともに長慶の後嗣・三好義継の後見人となり、永禄8年(1565年)には幕政を牛耳るために将軍・足利義輝を攻め殺した(永禄の変)。さらに義輝の死後、キリシタン宣教師を追放した。
こうして畿内に君臨するようになったが、同年に弟・松永長頼が丹波で敗死している。さらに永禄9年(1566年)に入ると、畿内の主導権をめぐって三好三人衆と対立するようになる。この三人衆との戦いにおいては、久秀は劣勢に立たされていたが、永禄10年(1567年)には三好三人衆とその同盟者の筒井城主・筒井順慶と上芝で戦い、両者の挟撃を受けて敗退した(上芝の合戦)。
10月、三好三人衆が立てこもった東大寺を攻撃して大仏殿を焼き払った。ただし、フロイスの「日本史」には三好方のキリシタンが放火したと記述されている(一説には、久秀軍の将兵が三人衆の軍勢と戦っているとき、勝利の勢いのあまりに焼き払ったともいわれる)。
織田信長時代[編集]
永禄11年(1568年)9月、織田信長が上洛してくると、いちはやく降伏して名茶器といわれる「九十九髪茄子」を差し出して恭順の意を示したため、大和一国を安堵された。元亀元年(1570年)、信長の朝倉義景討伐に参加し、信長が妹婿・浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされると、信長と行動を共にし、近江朽木谷の領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている。
その後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するなどしたが、次第に信長包囲網が結成されてゆくにつれて信長が不利になると、第15代将軍・足利義昭の誘いに応じて信長を裏切り、信長包囲網の一角に加わった。元亀4年(1573年)3月には将軍・足利義昭と同盟して信長に背いたが、4月に信長最大の強敵・武田信玄が病死して武田軍が甲斐に撤退。織田軍の反攻が開始され、7月には義昭が追放されて幕府が滅亡し、天正元年(1573年)11月には三好義継が河内若江城で敗死すると、多聞山城を差し出すことで再び信長に降伏した。
最期[編集]
その後は信長に従って石山本願寺攻めに参加していたが、天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して信長の命令に背いて本願寺攻めから勝手に離脱し、大和信貴山城に立て籠もってそのまま反逆に及んだ。
信長は嫡男・織田信忠を総大将とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させた。このとき所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば信長は助命すると述べたが、久秀は拒絶する。このため、信長のもとに差し出していた2人の息子は、京都六条河原で処刑された。そして織田軍の攻撃が始まると、平蜘蛛を天守閣で叩き割り、10月10日に爆死した。享年68。
奇しくも、この日は10年前に東大寺大仏殿を焼き払った日と同日であった。
法名:妙久寺殿祐雪大居士。墓所:京都市下京区の妙恵会総墓地。奈良県北葛城郡王子町本町の片岡山達磨寺。奈良県三郷町に供養塔。
官歴[編集]
※日付=旧暦
- 年月日不詳、弾正少忠に任官。
- 年月日不詳、従五位下に叙す。
- 1560年(永禄3年)2月4日、弾正少弼に転任。
- 1561年(永禄4年)2月4日、従四位下に昇叙。弾正少弼如元。
- 1569年(永禄12年)3月28日、言継卿記に山城守の記事あり。同年4月3日、多聞院日記では、松少(松永弾正少弼の略)の記事あり。また、同年8月20日、多聞院日記では、松城州(松永城州=松永山城守)の記事あり。
人物・逸話[編集]
- 久秀は乱世の梟雄として悪名を轟かせている。将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者、また、陣中にあっては女色にふけったともいい、狡猾で意地汚いイメージが付き纏う。信長は徳川家康に、「この老人は全く油断ができない。彼の三悪事は天下に名を轟かせた。一つ目は三好氏への暗殺と謀略。二つ目は将軍暗殺。三つ目は東大寺大仏の焼討である。」と言って久秀を紹介したと伝えられている。侮辱による紹介とも、一定の評価をしていたともとれる。
- 三好一族の十河一存、三好義興、安宅冬康らが相次いで死去した理由は、久秀の暗殺と言われている。このうち、一存と義興については病死説もあり、定かではない。ただし冬康に関しては、久秀が長慶に讒言して殺させたという説が有力である。
- 義輝暗殺について首謀者ではなかったという説もあり(ただし、嫡男の久通は義輝暗殺の実行犯である)、大仏殿焼失についても失火説がある。ただし、このような一連の暴虐ともいえる行為は、長慶没後の畿内では諸大名の分裂による勢力分散化が進んでいたため、久秀が畿内で覇権を握るためにはやむを得ない行為であったともされている。
- 久秀は美男子で立振舞の優雅なうえ、連歌や茶湯にも長けた教養人であったと伝えられ、領国では善政を敷いたとされており、今も信貴山城近郊では名君として慕われている。
- 医師の曲直瀬道三とは、親交が深かった(閨房術などの師であるという)。
- 武将としての力量は当時高く評価され、宿敵筒井氏の家老であった島左近が関ヶ原の戦いの際に、「今時の諸侯には明智光秀や松永久秀のような果断にかけている」とぼやいたといわれる。このことから宿敵からも名将と一目置かれる存在であったことが伺える(ただ、松永氏旧臣に島氏が所属していたという説もある)。
- 織田信長は、家臣に対して厳しい人物という評が通説となっているが、その中で久秀だけは例外的に許している。また二度目の反逆でも平蜘蛛と引き換えに助命を考えていた節がある。このことから、信長が一目置くほどの器量を持った武将であったとの見方もある。
- 実像と評価は様々であるが、久秀が戦国時代に生きた武将として下克上を体現したことに変わりはない。
- 城郭建築の第一人者であり、天守閣の雛形といわれる「多聞作り」を創始した人物でもある。
- 信長に降伏し、その強大な軍事力を背景にして大和における国人衆を討伐するなど、政略にはかなり長けていた。
- 戦国時代の武将の中で、決して久秀は人気のある方ではないため、時代劇などで彼が登場することは滅多になかったが、平成18年(2006年)放送の大河ドラマ「功名が辻」において1話のみながら登場し、山内一豊をあざ笑ったり、信貴山城もろとも爆死を遂げるシーンが放送され、熱狂的なファンや歴史マニアを大いに喜ばせた。(品川徹が久秀を演じた)。
- 伊賀忍法帖(昭和58年(1983年)公開)では、真田広之扮する伊賀者と対決する悪役、松永弾正として登場。中尾彬が演じる。
茶人としての松永久秀[編集]
- 武野紹鴎に師事しており、茶人として交友関係は広かった。
- 平蜘蛛茶釜の所持者として有名だが、他にも九十九髪茄子(現在静嘉堂文庫所蔵)を一時所持していた。
- その他にも名物を多数所持しており、当時の茶人としての位置づけは高いものであった。
- 古くから三千家の祖である千少庵の父とする説がある。
子孫[編集]
- 俳人の松永貞徳は久秀の孫という。儒学者の松永尺五は彼の曾孫に当たる。
- 実は信貴山で死なず逃げおおせて、平蜘蛛茶釜を葛城山に隠し、自身は、秀吉の御伽衆になったという説もある。
- 爆笑問題の太田光の妻である太田光代は彼の子孫である。