「ルキノ・ヴィスコンティ」の版間の差分
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[[1910年]]から[[1915年]]は家庭教師につき、小学校の課程を学んだ。父はミラノ芸術演劇座を興し、ミラノ[[スカラ座]]オペラのボックス席を所有していたため、定期的にスカラ座に通う。[[1914年]]、第一次世界大戦が起こると、父は陸軍に入隊した。チェリストで作曲家のロレンツォ・デ・パオリスからチェロを学び、[[ジャコモ・プッチーニ]]、指揮者の[[トスカニーニ]]、作家の[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]と知り合う。 | [[1910年]]から[[1915年]]は家庭教師につき、小学校の課程を学んだ。父はミラノ芸術演劇座を興し、ミラノ[[スカラ座]]オペラのボックス席を所有していたため、定期的にスカラ座に通う。[[1914年]]、第一次世界大戦が起こると、父は陸軍に入隊した。チェリストで作曲家のロレンツォ・デ・パオリスからチェロを学び、[[ジャコモ・プッチーニ]]、指揮者の[[トスカニーニ]]、作家の[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]と知り合う。 | ||
[[1920年]]、[[ミラノ音楽院]]で、チェロ独奏を行い、新聞に好意的な批評が掲載される。父に勧められてプルーストの長編小説『失われた時を求めて』を読み始める。 | [[1920年]]、[[ミラノ音楽院]]で、チェロ独奏を行い、新聞に好意的な批評が掲載される。父に勧められてプルーストの長編小説『失われた時を求めて』を読み始める。 | ||
− | + | [[1922年]]、16歳初恋の女性の後を追い、[[ローマ]]に家出する。 | |
− | + | [[1924年]]に両親が別居した後、18歳のルキノは母親につきミラノの家で育った([[1920年]]別居説もある)。モンテ・カッシーノのベネディクト修道院に家出する。 | |
− | + | [[1926年]]、20歳からピネロロの騎兵学校に2年間通う。特務曹長として、サヴォイ連隊に勤務し、除隊後は競走馬に飼育に没頭する。 | |
− | + | [[1927年]]12月 父の出資するテアトロ・ダルテ劇団が[[ゴルドーニ]]の『賢妻』を上演し、ルキノは小道具を手伝う。 | |
[[1928年]](22歳)、父の出資するテアトロ・ダルテ劇団の舞台「賢妻」の小道具を担当する。 | [[1928年]](22歳)、父の出資するテアトロ・ダルテ劇団の舞台「賢妻」の小道具を担当する。 | ||
− | + | [[1929年]]、23歳で[[リビア]]の砂漠を2ヵ月間旅行する。9月、ペアチャンツア付近で交通事故を起こし、同乗していた運転手が死亡する。12月には持ち馬のエストゥルゲオンが、モリッツの冬季レースで優勝する。 | |
− | + | [[1930年]]、24歳で、サン・シーロに厩舎を建設する。 | |
− | + | [[1931年]]、愛馬サンツィオは、翌年、ミラノとオステンダのレースで共に優勝。 | |
− | + | [[1933年]]から[[1934年]]、新規に7頭の競走馬を購入する。[[フランス]]・[[イギリス]]を旅行。パリの社交界で、[[ジャン・コクトー]]、[[クルト・ヴァイル]]、セルジュ・リファール、[[ココ・シャネル]]に出会う。[[スタンバーグ]]の『[[嘆きの天使]]』や[[シュトロハイム]]の『[[結婚行進曲]]』、[[レゴーシン]]の『孤帆は白む』などに感銘を受けた。 | |
− | + | [[1934年]]、28歳でイルマ・ヴィンディッシュ・グレーツ公爵令嬢と出あい、結婚を申し込む。イルマの父親の反対で断念する。 | |
===映画界へ=== | ===映画界へ=== | ||
− | + | 1936年、ココ・シャネルは自分の友人ジャン・ルノワールを紹介した。映画監督として巨匠となっていたルノワールは、当時はまだ無名のヴィスコンティを助監督に起用したほか、シャネルが協力した代表作『[[どん底]]』と『[[ピクニック]]』の2作品では衣装を担当させた。ヴィスコンティは、まだ将来の進路を決めていなかったが、この経験から映画製作を主軸とする決心をした。ルノワールとコッホを通じてコミュニストや政治活動の世界に触れる。 | |
− | + | [[1936年]]10月 コモのソチアーレ劇場でトラヴェルシの喜劇『世間の同情』の上演及び、翌月ミラノでのマロリーの喜劇『甘いアロエ』の上演で舞台装置を担当。 | |
− | + | [[1937年]]、8月 ギリシアに旅行。翌年にかけてアメリカに渡り、主にハリウッドで映画製作の状況について見学し、遠近法などを学んで後の舞台美術に応用する。 | |
− | + | [[1939年]]1月16日 コルティーナ・ダンペッツォで母親のカルラが他界。享年59歳。 | |
1939年4月、ジャン・ルノワールのイタリア映画『トスカ』の脚本と撮影に協力するためにローマに向かう。 | 1939年4月、ジャン・ルノワールのイタリア映画『トスカ』の脚本と撮影に協力するためにローマに向かう。 | ||
− | + | [[1940年]]、6月イタリアは枢軸国に加わり、参戦する。イタリアが枢軸国側に立って参戦したため、ルノワールは撮影数日にして帰国を余儀なくされる。その後、ヴィスコンティはチーフ助監督の[[カール・コッホ]]を補佐してこの作品を完成させる。 | |
− | + | [[1941年]]、ローマのコッホの家で、[[ダリオ・プッチーニ]]に出会い、映画評論誌『チネマ』の同人に迎えられる。6月『チネマ』誌に「屍体」と題した論文を発表。また、『スティーレ・イタリアーノ・ネル・チネマ』誌に「伝統と発明」記事を書く。12月父ジュセッペが他界。ローマのサラリア街の別荘を譲り受ける。 | |
===映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』=== | ===映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』=== | ||
− | + | [[1942年]](36歳)6月から12月に掛けて映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の撮影を行う。12月 脚本に協力したマリオ・アリカータとジャンニ・プッチーニが、反ファシストの容疑で警察に逮捕される。 | |
− | 1943年(37歳) | + | [[1943年]]5月(37歳)、映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』公開、数日で各地で上映禁止となる。9月8日「反ファシスト被害者救済委員会」に加わり、ローマのサラリア街の家で収容所や監獄からの脱走者を匿う。 |
10月28日、兄のグイドはエルアラメインで戦死する。 | 10月28日、兄のグイドはエルアラメインで戦死する。 | ||
9月~10月 『チネマ』誌に「チネマ・アントロポモルティコ」記事を発表する。 | 9月~10月 『チネマ』誌に「チネマ・アントロポモルティコ」記事を発表する。 | ||
1943年10月27日 アプルッツォに潜伏していたが、ヴィスコンティは、友人達と連合軍に合流するため南下する。 | 1943年10月27日 アプルッツォに潜伏していたが、ヴィスコンティは、友人達と連合軍に合流するため南下する。 | ||
− | + | [[1944年]]、2月 偽名で密かにローマに戻り、[[パルチザン]]を援助する。 | |
− | + | 4月15日 ヴィスコンティはローマで逮捕され[[ペンシオーネ・ヤッカリーノ収容所]]へ送られる。数日後、サン・ジョルジョ刑務所に移送される。 | |
6月3日、ヴィスコンティは処刑される前日に脱走し、九死に一生を得る。 | 6月3日、ヴィスコンティは処刑される前日に脱走し、九死に一生を得る。 | ||
6月4日、アメリカ第五軍によって、ローマが解放される。 | 6月4日、アメリカ第五軍によって、ローマが解放される。 | ||
− | + | 6月~7月、[[レジスタンス]]の経験を元に『ペンシオーネ・オルトレマーレ』の原案を執筆。秋に[[ミケランジェロ・アントニオーニ]]達とレジスタンス映画の企画を練る。 | |
===戦後の舞台演出家=== | ===戦後の舞台演出家=== | ||
− | + | [[1945年]]1月30日 [[コクトー]]の『[[恐るべき親たち]]』(ローマの[[エリゼオ劇場]])で舞台演出家としてデビューする。 | |
− | + | 3月、ローマのクイリーノ劇場で[[ヘミングウェイ]]『第五列』を上演。 | |
− | + | 10月2日 ローマのエリゼオ劇場で[[コクトー]]の『タイプライター』を上演。 | |
− | + | 10月18日 ローマのエリゼオ劇場でアヌーイの『アンチコ゜ーヌ』と[[サルトル]]の『[[出口なし]]』を上演。 | |
10月30日 ローマのクイリーノ劇場でアシャールの『アダム』上演。 | 10月30日 ローマのクイリーノ劇場でアシャールの『アダム』上演。 | ||
− | + | 12月4日 ミラノのオリンピア劇場で[[コールドウェル]]の『[[タバコ・ロード]]』上演。 | |
12月14日 ミラノでの『アダム』上演禁止を受ける。 | 12月14日 ミラノでの『アダム』上演禁止を受ける。 | ||
− | + | [[1946年]]、ローマのクイリーノ劇場でポーマルシェの『[[フィガロの結婚]]』上演。 | |
11月 ローマのエリゼオ劇場で新劇団『罪と罰』を上演。 | 11月 ローマのエリゼオ劇場で新劇団『罪と罰』を上演。 | ||
12月 ローマのエリゼオ劇場で『ガラスの動物園』上演。 | 12月 ローマのエリゼオ劇場で『ガラスの動物園』上演。 | ||
1月 ローマのエリゼオ劇場でヴィスコンティ監修の『父との生活』が上演される。 | 1月 ローマのエリゼオ劇場でヴィスコンティ監修の『父との生活』が上演される。 | ||
− | + | 2月 フィレンツェの[[デ・ベルゲラ劇場]]で[[アヌーイ]]の『ユリディース』を上演。 | |
===映画『揺れる大地』=== | ===映画『揺れる大地』=== | ||
− | 1947年(41歳) | + | [[1947年]](41歳)、イタリア共産党の要請により、南部同盟を扱ったドキュメンタリー映画を撮るため[[シチリア島]]に赴く。11月から翌年5月にかけて、シチリアのアーチ・トレッツアで『揺れる大地』を撮影する。 |
− | 1948年(42歳) | + | [[1948年]](42歳)5月、ヴェネチア映画祭で映画『[[揺れる大地]]』が上演され国際賞を受賞する。 |
11月、ローマのエリゼオ劇場でシェークスピアの『お気に召すまま』上演 | 11月、ローマのエリゼオ劇場でシェークスピアの『お気に召すまま』上演 | ||
− | + | [[1949年]]1月、ローマのエリゼオ劇場で『[[欲望という名の電車]]』を上演。 | |
− | + | 4月、ローマの[[クイリーノ劇場]]で『オレステ』上演。 | |
− | + | 6月、フィレンツェ五月音楽祭で[[シェークスピア]]の『[[トロイラスとクレシダ]]』上演。 | |
− | + | [[1951年]]2月、ローマのエリゼオ劇場で[[アーサー・ミラー]]『[[セールスマンの死]]』上演。 | |
− | + | 4月、ミラノのヌオーヴォ劇場で『[[欲望という名の電車]]』を新演出で上演。 | |
− | + | 10月 ヴェネチアの[[ラ・フェニーチェ劇場]]でファッブリの『誘惑者』上演。 | |
===映画『ベリッシマ』=== | ===映画『ベリッシマ』=== | ||
− | + | [[1951年]]12月、短編記録映画『ある三面記事についてのメモ』を撮影するが、イタリア国内では上映禁止になる。12月アンナ・マニャーニ主演の映画『ベリッシマ』公開。 | |
− | + | [[1952年]]10月、ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場で[[ゴルドーニ]]の『[[宿屋の女主人]]』を上演。 | |
− | + | 12月 ローマの[[エリゼオ劇場]]で[[チェーホフ]]の『[[三人姉妹]]』を上演。 | |
− | + | [[1953年]]、スーゾ・チェッキ・ダミーコと『結婚行進曲』の脚本を書く。 | |
− | + | 3月 ミラノのヴィア・マンゾーニ劇場でチェーホフの『[[煙草の害について]]』とエリビデスの『[[メディア]]』を上演。 | |
10月、オムニバス映画『われら女性』公開。 | 10月、オムニバス映画『われら女性』公開。 | ||
===映画『夏の嵐』=== | ===映画『夏の嵐』=== | ||
− | + | [[1954年]]9月、映画『夏の嵐』が[[ヴェネチア映画祭]]で上演。 | |
− | + | 1954年10月 ミラノの[[ヌオーヴォ劇場]]でレビュー『フェスティバル』、[[オリンピア劇場]]で[[ジャコーザ]]の『[[木の葉のように]]』を上演。 | |
12月 オペラ『ラ・ヴェスターレ』の演出でミラノのスカラ座デビューを実現。 | 12月 オペラ『ラ・ヴェスターレ』の演出でミラノのスカラ座デビューを実現。 | ||
− | + | [[1955年]]3月、[[スカラ座]]でオペラ『[[夢遊病の女]]』([[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ]]作曲)を上演。 | |
− | + | 5月、スカラ座でオペラ『[[椿姫]]』を上演。 | |
− | + | 11月、ローマの[[クイリーノ劇場]]でミラーの『るつぼ』を上演。 | |
− | + | 12月、ローマの[[エリゼオ劇場]]で[[チェーホフ]]の『[[ワーニャ叔父さん]]』の上演。 | |
− | + | [[1956年]]6月、パリの[[サラ・ベルナール劇場]]で『[[宿屋の女主人]]』を再演。 | |
===映画『白夜』=== | ===映画『白夜』=== | ||
− | + | [[1957年]]1月 ローマの[[アルティ劇場]]で[[ストリンドベリィ]]の『令嬢ジュリー』を上演。 | |
− | + | 1月から3月にかけてチネチッタ撮影所で『[[白夜]]』を撮影。 | |
− | + | 4月 ミラノのスカラ座でオペラ『[[アンナ・ボレーナ]]』を上演。 | |
6月 スカラ座でオペラ『トーリードのイフィジェニー』を上演。 | 6月 スカラ座でオペラ『トーリードのイフィジェニー』を上演。 | ||
8月、ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『スミルネの興行師』を上演。 | 8月、ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『スミルネの興行師』を上演。 | ||
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9月、西ベルリンの国立オペラ劇場でバレエ『ダンス・マラソン』を上演。 | 9月、西ベルリンの国立オペラ劇場でバレエ『ダンス・マラソン』を上演。 | ||
===映画『若者のすべて』=== | ===映画『若者のすべて』=== | ||
− | + | [[1958年]]1月、ローマのエリゼオ劇場でミラーの『[[橋からの眺め]]』を上演。 | |
4月、パリで『スミルネの興行師』を再演。 | 4月、パリで『スミルネの興行師』を再演。 | ||
− | + | 5月、ロンドンの[[コヴェント・ガーデン]]でオペラ『[[ドン・カルロ]]』を上演。 | |
− | + | 6月、スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『[[マクベス]]』を上演。 | |
夏、映画『若者のすべて』の脚本執筆。 | 夏、映画『若者のすべて』の脚本執筆。 | ||
10月、ローマのクイリーノ劇場でジェラルド・クェリエーリによる追憶の夕べ『エレオノーラ・ドゥーゼの面影と時代』に参加する。ローマのクイリーノ劇場で『天使よ故郷を見よ』を上演。 | 10月、ローマのクイリーノ劇場でジェラルド・クェリエーリによる追憶の夕べ『エレオノーラ・ドゥーゼの面影と時代』に参加する。ローマのクイリーノ劇場で『天使よ故郷を見よ』を上演。 | ||
− | + | 11月、パリの[[アンバサドゥール劇場]]で『シーソーの二人』初演。ランペドゥーサの『山猫』刊行される。 | |
12月、ローマのエリゼオ劇場で『ギポンズ夫人の子供たち』を上演。 | 12月、ローマのエリゼオ劇場で『ギポンズ夫人の子供たち』を上演。 | ||
1959年3月、ローマのエリゼオ劇場でファッブリの『芸術の子たち』を上演。 | 1959年3月、ローマのエリゼオ劇場でファッブリの『芸術の子たち』を上演。 | ||
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1961年2月 ミラノで『アリアルダ』が上映禁止となる。 | 1961年2月 ミラノで『アリアルダ』が上映禁止となる。 | ||
3月 パリのテアトル・ド・パリで『あわれ彼女は娼婦』を上演。 | 3月 パリのテアトル・ド・パリで『あわれ彼女は娼婦』を上演。 | ||
− | + | 6月 スポレートの[[ヌォーヴォ劇場]]で楽劇『[[サロメ]]』を上演。 | |
===映画『山猫』=== | ===映画『山猫』=== | ||
− | + | [[1961年]]8月から9月、デ・パリオス撮影所で『ボッカッチオ’70』の挿話「前金」を撮影する。11月 [[シチリア]]で映画『山猫』のロケハンを行う。 | |
− | + | [[1962年]]2月、オムニバス映画『ボッカッチオ’70』が公開される。ヴィスコンティはエピソード『前金』を担当(主演はロミー・シュナイダー) | |
− | + | [[1963年]]2月 パレルモのマッシモ劇場でオペラ『庭園の悪魔』を上演。 | |
3月 映画『山猫』がカンヌ映画祭に出品され、グランプリを授賞 | 3月 映画『山猫』がカンヌ映画祭に出品され、グランプリを授賞 | ||
6月 スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『椿姫』上演。 | 6月 スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『椿姫』上演。 | ||
− | + | 7月 スポレートのカイオ・メリッソ劇場で[[ジイド]]の『[[十三番目の木]]』上演。 | |
=== 映画『熊座の淡き星影』=== | === 映画『熊座の淡き星影』=== | ||
− | + | [[1964年]]5月 ローマのオペラ座でオペラ『[[フィガロの結婚]]』を上演。 | |
− | + | 9月 モスクワのボリショイ劇場で『[[イル・トロヴァトーレ]]』を上演。 | |
11月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで『イル・トロヴァトーレ』上演。 | 11月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで『イル・トロヴァトーレ』上演。 | ||
− | + | [[1965年]]1月 パリの[[デュ・ジムナズ劇場]]でミラーの『[[転落の後に]]』を上演。 | |
9月 ヴェネチア映画祭に映画『熊座の淡き星影』が出品され、金獅子賞を授賞。 | 9月 ヴェネチア映画祭に映画『熊座の淡き星影』が出品され、金獅子賞を授賞。 | ||
− | + | 10月 ローマのヴァレ劇場でチェーホフの『[[桜の園]]』を上演 | |
11月 ローマのオペラ座でオペラ『ドン・カルロ』上演。 | 11月 ローマのオペラ座でオペラ『ドン・カルロ』上演。 | ||
− | + | [[1966年]]3月 [[ウィーン国立歌劇場]]でオペラ『[[ファルスタッフ]]』([[ジュゼッペ・ヴェルディ]]作曲)上演。 | |
− | + | 4月 [[ロンドン]]の[[コヴェント・ガーデン]]で楽劇『[[ばらの騎士]]』([[リヒャルト・シュトラウス]]作曲)上演。 | |
=== 映画『異邦人』=== | === 映画『異邦人』=== | ||
− | + | [[1967年]]2月 オムニバス映画『華やな魔女たち』(『疲れ切った魔女』エピソード担当)公開。 | |
4月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで新演出のオペラ『椿姫』を上演。 | 4月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで新演出のオペラ『椿姫』を上演。 | ||
− | + | 6月 フィレンツェの[[ビッティ宮]]でゲーテの『[[エグモント]]』を上演。アルジェリアで『異邦人』を撮影する。 | |
9月 映画『異邦人』公開。 | 9月 映画『異邦人』公開。 | ||
− | + | 10月 チェゼーナのポンチ劇場で[[テストーリ]]の『モンツァの尼僧』を上演。 | |
年末、映画『地獄に堕ちた勇者ども』の原案をまとめる。 | 年末、映画『地獄に堕ちた勇者ども』の原案をまとめる。 | ||
− | + | 1969年2月 ミラノの[[サン・パビラ劇場]]で[[ギンズブルグ]]の『[[インセルツィオーネ]]』を上演。 | |
− | + | 3月 ウィーン国立歌劇場でオペラ『[[シモン・ボッカネグラ]]』を上演。 | |
10月 映画『地獄に堕ちた勇者ども』公開、ヨーロッパ各地で大ヒットとなる。 | 10月 映画『地獄に堕ちた勇者ども』公開、ヨーロッパ各地で大ヒットとなる。 | ||
=== 映画『ベニスに死す』=== | === 映画『ベニスに死す』=== | ||
− | + | [[1970年]]『ベニスに死す』のタジオ役の少年を探して、[[デンマーク]]、[[スエーデン]]、[[ポーランド]]を旅行する。『[[失われた時をもとめて]]』のシナリオ完成。 | |
6月「タジオを求めて」テレビ放映。 | 6月「タジオを求めて」テレビ放映。 | ||
1971年3月、ロンドンで映画『ベニスに死す』のプレミア上演。 | 1971年3月、ロンドンで映画『ベニスに死す』のプレミア上演。 | ||
プルースト原作の『失われた時を求めて』映画化の準備をすすめ、ロケハンを行う。 | プルースト原作の『失われた時を求めて』映画化の準備をすすめ、ロケハンを行う。 | ||
=== 映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』=== | === 映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』=== | ||
− | + | [[1972年]]1月~4月 映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のドイツ・オーストリアでロケを行う。 | |
7月27日 ローマのエデン・ホテルで製作者達と新作を検討中、血栓症の発作で倒れる。 | 7月27日 ローマのエデン・ホテルで製作者達と新作を検討中、血栓症の発作で倒れる。 | ||
9月、スイスチューリッヒの病院を退院し、コモ湖畔チェルノビオの別荘で、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』の編集を完了。スカラ座でワグナーの『ニーベルンクの指輪』の演出を計画するが、病状が芳しくなく断念。 | 9月、スイスチューリッヒの病院を退院し、コモ湖畔チェルノビオの別荘で、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』の編集を完了。スカラ座でワグナーの『ニーベルンクの指輪』の演出を計画するが、病状が芳しくなく断念。 | ||
− | + | [[1973年]]1月、西ドイツのボンで、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のプレミア上映。 | |
=== 映画『家族の肖像』=== | === 映画『家族の肖像』=== | ||
− | + | [[1974年]]4月~7月にかけて[[デ・パリオス撮影所]]で映画『家族の肖像』を撮影する。 | |
12月、映画『家族の肖像』公開。 | 12月、映画『家族の肖像』公開。 | ||
=== 遺作映画『イノセント』=== | === 遺作映画『イノセント』=== | ||
− | + | [[1975年]]、[[トーマス・マン]]の『[[魔の山]]』と[[ダヌンツィオ]]の『快楽』の映画化を企画するが、実現せず。 | |
1975年4月 転倒して肩と大腿骨を骨折、数ヶ月間の病院生活を送る。 | 1975年4月 転倒して肩と大腿骨を骨折、数ヶ月間の病院生活を送る。 | ||
9月27日 ダヌンツィオ原作・映画『イノセント』の撮影開始。 | 9月27日 ダヌンツィオ原作・映画『イノセント』の撮影開始。 | ||
− | + | [[1976年]]1月 映画『イノセント』の撮影完了 | |
− | + | 3月17日、[[ローマ]]のフレミング街101番地の自宅マンションで死去。 | |
− | + | 3月19日、[[聖イニャツイオ教会]]で葬儀が行われる。 | |
5月 カンヌ映画祭で映画『イノセント』が上映される。 | 5月 カンヌ映画祭で映画『イノセント』が上映される。 | ||
2022年1月1日 (土) 00:01時点における最新版
ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti di Modrone, 1906年11月2日 - 1976年3月17日)はイタリアのネオリアリズム映画の父と言われた映画監督であり、また演出家、脚本家でもあった。後年は貴族制の没落に伴う、美と死の作家となった。ヴィスコンティ家は1277年から1447年まで歴代のミラノを支配した家系である。
目次
概要[編集]
幼少期から青年期[編集]
1906年11月2日にイタリア・ミラノで生まれる。父は北イタリアの貴族であるモドローネ公爵ジュゼッペ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ、母は資産家の娘カルロ・エルバの第四子である。ローマカソリックの洗礼を受けた[1]。 1910年から1915年は家庭教師につき、小学校の課程を学んだ。父はミラノ芸術演劇座を興し、ミラノスカラ座オペラのボックス席を所有していたため、定期的にスカラ座に通う。1914年、第一次世界大戦が起こると、父は陸軍に入隊した。チェリストで作曲家のロレンツォ・デ・パオリスからチェロを学び、ジャコモ・プッチーニ、指揮者のトスカニーニ、作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオと知り合う。 1920年、ミラノ音楽院で、チェロ独奏を行い、新聞に好意的な批評が掲載される。父に勧められてプルーストの長編小説『失われた時を求めて』を読み始める。 1922年、16歳初恋の女性の後を追い、ローマに家出する。 1924年に両親が別居した後、18歳のルキノは母親につきミラノの家で育った(1920年別居説もある)。モンテ・カッシーノのベネディクト修道院に家出する。 1926年、20歳からピネロロの騎兵学校に2年間通う。特務曹長として、サヴォイ連隊に勤務し、除隊後は競走馬に飼育に没頭する。 1927年12月 父の出資するテアトロ・ダルテ劇団がゴルドーニの『賢妻』を上演し、ルキノは小道具を手伝う。 1928年(22歳)、父の出資するテアトロ・ダルテ劇団の舞台「賢妻」の小道具を担当する。 1929年、23歳でリビアの砂漠を2ヵ月間旅行する。9月、ペアチャンツア付近で交通事故を起こし、同乗していた運転手が死亡する。12月には持ち馬のエストゥルゲオンが、モリッツの冬季レースで優勝する。 1930年、24歳で、サン・シーロに厩舎を建設する。 1931年、愛馬サンツィオは、翌年、ミラノとオステンダのレースで共に優勝。 1933年から1934年、新規に7頭の競走馬を購入する。フランス・イギリスを旅行。パリの社交界で、ジャン・コクトー、クルト・ヴァイル、セルジュ・リファール、ココ・シャネルに出会う。スタンバーグの『嘆きの天使』やシュトロハイムの『結婚行進曲』、レゴーシンの『孤帆は白む』などに感銘を受けた。 1934年、28歳でイルマ・ヴィンディッシュ・グレーツ公爵令嬢と出あい、結婚を申し込む。イルマの父親の反対で断念する。
映画界へ[編集]
1936年、ココ・シャネルは自分の友人ジャン・ルノワールを紹介した。映画監督として巨匠となっていたルノワールは、当時はまだ無名のヴィスコンティを助監督に起用したほか、シャネルが協力した代表作『どん底』と『ピクニック』の2作品では衣装を担当させた。ヴィスコンティは、まだ将来の進路を決めていなかったが、この経験から映画製作を主軸とする決心をした。ルノワールとコッホを通じてコミュニストや政治活動の世界に触れる。 1936年10月 コモのソチアーレ劇場でトラヴェルシの喜劇『世間の同情』の上演及び、翌月ミラノでのマロリーの喜劇『甘いアロエ』の上演で舞台装置を担当。 1937年、8月 ギリシアに旅行。翌年にかけてアメリカに渡り、主にハリウッドで映画製作の状況について見学し、遠近法などを学んで後の舞台美術に応用する。 1939年1月16日 コルティーナ・ダンペッツォで母親のカルラが他界。享年59歳。 1939年4月、ジャン・ルノワールのイタリア映画『トスカ』の脚本と撮影に協力するためにローマに向かう。 1940年、6月イタリアは枢軸国に加わり、参戦する。イタリアが枢軸国側に立って参戦したため、ルノワールは撮影数日にして帰国を余儀なくされる。その後、ヴィスコンティはチーフ助監督のカール・コッホを補佐してこの作品を完成させる。 1941年、ローマのコッホの家で、ダリオ・プッチーニに出会い、映画評論誌『チネマ』の同人に迎えられる。6月『チネマ』誌に「屍体」と題した論文を発表。また、『スティーレ・イタリアーノ・ネル・チネマ』誌に「伝統と発明」記事を書く。12月父ジュセッペが他界。ローマのサラリア街の別荘を譲り受ける。
映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』[編集]
1942年(36歳)6月から12月に掛けて映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の撮影を行う。12月 脚本に協力したマリオ・アリカータとジャンニ・プッチーニが、反ファシストの容疑で警察に逮捕される。 1943年5月(37歳)、映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』公開、数日で各地で上映禁止となる。9月8日「反ファシスト被害者救済委員会」に加わり、ローマのサラリア街の家で収容所や監獄からの脱走者を匿う。 10月28日、兄のグイドはエルアラメインで戦死する。 9月~10月 『チネマ』誌に「チネマ・アントロポモルティコ」記事を発表する。
1943年10月27日 アプルッツォに潜伏していたが、ヴィスコンティは、友人達と連合軍に合流するため南下する。 1944年、2月 偽名で密かにローマに戻り、パルチザンを援助する。 4月15日 ヴィスコンティはローマで逮捕されペンシオーネ・ヤッカリーノ収容所へ送られる。数日後、サン・ジョルジョ刑務所に移送される。 6月3日、ヴィスコンティは処刑される前日に脱走し、九死に一生を得る。 6月4日、アメリカ第五軍によって、ローマが解放される。 6月~7月、レジスタンスの経験を元に『ペンシオーネ・オルトレマーレ』の原案を執筆。秋にミケランジェロ・アントニオーニ達とレジスタンス映画の企画を練る。
戦後の舞台演出家[編集]
1945年1月30日 コクトーの『恐るべき親たち』(ローマのエリゼオ劇場)で舞台演出家としてデビューする。 3月、ローマのクイリーノ劇場でヘミングウェイ『第五列』を上演。 10月2日 ローマのエリゼオ劇場でコクトーの『タイプライター』を上演。 10月18日 ローマのエリゼオ劇場でアヌーイの『アンチコ゜ーヌ』とサルトルの『出口なし』を上演。 10月30日 ローマのクイリーノ劇場でアシャールの『アダム』上演。 12月4日 ミラノのオリンピア劇場でコールドウェルの『タバコ・ロード』上演。 12月14日 ミラノでの『アダム』上演禁止を受ける。 1946年、ローマのクイリーノ劇場でポーマルシェの『フィガロの結婚』上演。 11月 ローマのエリゼオ劇場で新劇団『罪と罰』を上演。 12月 ローマのエリゼオ劇場で『ガラスの動物園』上演。 1月 ローマのエリゼオ劇場でヴィスコンティ監修の『父との生活』が上演される。 2月 フィレンツェのデ・ベルゲラ劇場でアヌーイの『ユリディース』を上演。
映画『揺れる大地』[編集]
1947年(41歳)、イタリア共産党の要請により、南部同盟を扱ったドキュメンタリー映画を撮るためシチリア島に赴く。11月から翌年5月にかけて、シチリアのアーチ・トレッツアで『揺れる大地』を撮影する。 1948年(42歳)5月、ヴェネチア映画祭で映画『揺れる大地』が上演され国際賞を受賞する。 11月、ローマのエリゼオ劇場でシェークスピアの『お気に召すまま』上演 1949年1月、ローマのエリゼオ劇場で『欲望という名の電車』を上演。 4月、ローマのクイリーノ劇場で『オレステ』上演。 6月、フィレンツェ五月音楽祭でシェークスピアの『トロイラスとクレシダ』上演。 1951年2月、ローマのエリゼオ劇場でアーサー・ミラー『セールスマンの死』上演。 4月、ミラノのヌオーヴォ劇場で『欲望という名の電車』を新演出で上演。 10月 ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でファッブリの『誘惑者』上演。
映画『ベリッシマ』[編集]
1951年12月、短編記録映画『ある三面記事についてのメモ』を撮影するが、イタリア国内では上映禁止になる。12月アンナ・マニャーニ主演の映画『ベリッシマ』公開。 1952年10月、ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『宿屋の女主人』を上演。 12月 ローマのエリゼオ劇場でチェーホフの『三人姉妹』を上演。 1953年、スーゾ・チェッキ・ダミーコと『結婚行進曲』の脚本を書く。 3月 ミラノのヴィア・マンゾーニ劇場でチェーホフの『煙草の害について』とエリビデスの『メディア』を上演。 10月、オムニバス映画『われら女性』公開。
映画『夏の嵐』[編集]
1954年9月、映画『夏の嵐』がヴェネチア映画祭で上演。 1954年10月 ミラノのヌオーヴォ劇場でレビュー『フェスティバル』、オリンピア劇場でジャコーザの『木の葉のように』を上演。 12月 オペラ『ラ・ヴェスターレ』の演出でミラノのスカラ座デビューを実現。 1955年3月、スカラ座でオペラ『夢遊病の女』(ヴィンチェンツォ・ベッリーニ作曲)を上演。 5月、スカラ座でオペラ『椿姫』を上演。 11月、ローマのクイリーノ劇場でミラーの『るつぼ』を上演。 12月、ローマのエリゼオ劇場でチェーホフの『ワーニャ叔父さん』の上演。 1956年6月、パリのサラ・ベルナール劇場で『宿屋の女主人』を再演。
映画『白夜』[編集]
1957年1月 ローマのアルティ劇場でストリンドベリィの『令嬢ジュリー』を上演。 1月から3月にかけてチネチッタ撮影所で『白夜』を撮影。 4月 ミラノのスカラ座でオペラ『アンナ・ボレーナ』を上演。 6月 スカラ座でオペラ『トーリードのイフィジェニー』を上演。 8月、ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『スミルネの興行師』を上演。 9月、ヴェネチア映画祭でチアス社製作の映画『白夜』が上映され、銀獅子賞を受賞。 9月、西ベルリンの国立オペラ劇場でバレエ『ダンス・マラソン』を上演。
映画『若者のすべて』[編集]
1958年1月、ローマのエリゼオ劇場でミラーの『橋からの眺め』を上演。 4月、パリで『スミルネの興行師』を再演。 5月、ロンドンのコヴェント・ガーデンでオペラ『ドン・カルロ』を上演。 6月、スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『マクベス』を上演。 夏、映画『若者のすべて』の脚本執筆。 10月、ローマのクイリーノ劇場でジェラルド・クェリエーリによる追憶の夕べ『エレオノーラ・ドゥーゼの面影と時代』に参加する。ローマのクイリーノ劇場で『天使よ故郷を見よ』を上演。 11月、パリのアンバサドゥール劇場で『シーソーの二人』初演。ランペドゥーサの『山猫』刊行される。 12月、ローマのエリゼオ劇場で『ギポンズ夫人の子供たち』を上演。 1959年3月、ローマのエリゼオ劇場でファッブリの『芸術の子たち』を上演。 6月、スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『アルバ公爵』を上演。 1960年2月~6月 映画『若者のすべて』の撮影。 9月、映画『若者のすべて』がヴェネチア映画祭に出品され、審査員特別賞・国際映画批評家連盟賞を授賞する。 12月 ローマのエリゼオ劇場でテストーリの『アリアルダ』上演。 1961年2月 ミラノで『アリアルダ』が上映禁止となる。 3月 パリのテアトル・ド・パリで『あわれ彼女は娼婦』を上演。 6月 スポレートのヌォーヴォ劇場で楽劇『サロメ』を上演。
映画『山猫』[編集]
1961年8月から9月、デ・パリオス撮影所で『ボッカッチオ’70』の挿話「前金」を撮影する。11月 シチリアで映画『山猫』のロケハンを行う。 1962年2月、オムニバス映画『ボッカッチオ’70』が公開される。ヴィスコンティはエピソード『前金』を担当(主演はロミー・シュナイダー) 1963年2月 パレルモのマッシモ劇場でオペラ『庭園の悪魔』を上演。 3月 映画『山猫』がカンヌ映画祭に出品され、グランプリを授賞 6月 スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『椿姫』上演。 7月 スポレートのカイオ・メリッソ劇場でジイドの『十三番目の木』上演。
映画『熊座の淡き星影』[編集]
1964年5月 ローマのオペラ座でオペラ『フィガロの結婚』を上演。 9月 モスクワのボリショイ劇場で『イル・トロヴァトーレ』を上演。 11月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで『イル・トロヴァトーレ』上演。 1965年1月 パリのデュ・ジムナズ劇場でミラーの『転落の後に』を上演。 9月 ヴェネチア映画祭に映画『熊座の淡き星影』が出品され、金獅子賞を授賞。 10月 ローマのヴァレ劇場でチェーホフの『桜の園』を上演 11月 ローマのオペラ座でオペラ『ドン・カルロ』上演。 1966年3月 ウィーン国立歌劇場でオペラ『ファルスタッフ』(ジュゼッペ・ヴェルディ作曲)上演。 4月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで楽劇『ばらの騎士』(リヒャルト・シュトラウス作曲)上演。
映画『異邦人』[編集]
1967年2月 オムニバス映画『華やな魔女たち』(『疲れ切った魔女』エピソード担当)公開。
4月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで新演出のオペラ『椿姫』を上演。 6月 フィレンツェのビッティ宮でゲーテの『エグモント』を上演。アルジェリアで『異邦人』を撮影する。 9月 映画『異邦人』公開。 10月 チェゼーナのポンチ劇場でテストーリの『モンツァの尼僧』を上演。 年末、映画『地獄に堕ちた勇者ども』の原案をまとめる。 1969年2月 ミラノのサン・パビラ劇場でギンズブルグの『インセルツィオーネ』を上演。 3月 ウィーン国立歌劇場でオペラ『シモン・ボッカネグラ』を上演。 10月 映画『地獄に堕ちた勇者ども』公開、ヨーロッパ各地で大ヒットとなる。
映画『ベニスに死す』[編集]
1970年『ベニスに死す』のタジオ役の少年を探して、デンマーク、スエーデン、ポーランドを旅行する。『失われた時をもとめて』のシナリオ完成。 6月「タジオを求めて」テレビ放映。 1971年3月、ロンドンで映画『ベニスに死す』のプレミア上演。 プルースト原作の『失われた時を求めて』映画化の準備をすすめ、ロケハンを行う。
映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』[編集]
1972年1月~4月 映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のドイツ・オーストリアでロケを行う。 7月27日 ローマのエデン・ホテルで製作者達と新作を検討中、血栓症の発作で倒れる。 9月、スイスチューリッヒの病院を退院し、コモ湖畔チェルノビオの別荘で、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』の編集を完了。スカラ座でワグナーの『ニーベルンクの指輪』の演出を計画するが、病状が芳しくなく断念。 1973年1月、西ドイツのボンで、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のプレミア上映。
映画『家族の肖像』[編集]
1974年4月~7月にかけてデ・パリオス撮影所で映画『家族の肖像』を撮影する。 12月、映画『家族の肖像』公開。
遺作映画『イノセント』[編集]
1975年、トーマス・マンの『魔の山』とダヌンツィオの『快楽』の映画化を企画するが、実現せず。 1975年4月 転倒して肩と大腿骨を骨折、数ヶ月間の病院生活を送る。 9月27日 ダヌンツィオ原作・映画『イノセント』の撮影開始。 1976年1月 映画『イノセント』の撮影完了 3月17日、ローマのフレミング街101番地の自宅マンションで死去。 3月19日、聖イニャツイオ教会で葬儀が行われる。 5月 カンヌ映画祭で映画『イノセント』が上映される。
フィルモグラフィ[編集]
公開年 | タイトル | 原題 | 主演 |
---|---|---|---|
1942年 | 郵便配達は二度ベルを鳴らす | OSSESSIINE | マッシモ・ジロティ,クララ・カラマイ |
1945年 | 栄光の日々 | GIOENI DI GLOEIA | ドキュメンタリ |
1948年 | 揺れる大地 | LA TERRA TREMA | アントニオ・アルチディアコノ |
1951年 | ある三面記事についてのメモ | Appunti su un fatto di cronaca | ドキュメンタリ |
1951年 | ベリッシマ | BELLISSIMA | アンナ・マニャーニ |
1953年 | われら女性 | SIAMO DONNE | アンナ・マニャーニ |
1954年 | 夏の嵐 | SENSO | アリダ・ヴァリ |
1957年 | 白夜 | Le notti bianche | マルチェロ・マストロヤンニ |
1960年 | 若者のすべて | Rocco e i suoi fratelli | アラン・ドロン |
1962年 | ボッカチオ'70 | Boccaccio '70 | ロミー・シュナイダー |
1963年 | 山猫 | gattopardo | バート・ランカスター |
1965年 | 熊座の淡き星影 | Vaghe stelle dell'orsa | クラウディア・カルディナーレ |
1963年 | 第一話『疲れきった魔女』/華やかな魔女たち | La strega bruciata viva | シルヴァーナ・マンガーノ |
1967年 | 異邦人 | Lo Straniero | マルチェロ・マストロヤンニ |
1969年 | 地獄に堕ちた勇者ども | The Damned | ダーク・ボガード |
1971年 | ベニスに死す | Death in Venice | ダーク・ボガード |
1972年 | ルートヴィヒ | Ludwig | ヘルムート・バーガー |
1974年 | 家族の肖像 | Gruppo di famiglia in un interno | バート・ランカスター |
1976年 | イノセント | L'innocente | ジャンカルロ・ジャンニーニ |