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[[2005年]][[8月13日]]の[[オリックス・バファローズ|オリックス]]戦でプロ入り初の4番に抜擢され、2試合連続本塁打を放つなど31年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。打率.313、14HR、50打点といずれも自己最高の成績を残し、[[マリンガン打線]]の「まったく新しいタイプの4番打者、つなぎの4番」と評された。[[2006年]]には、8月15日付で[[フリーエージェント|FA]]権を取得し、[[中日]]が獲得を狙っていたが、本人が成績不振を理由に行使せず2年契約でチームに残留した。 | [[2005年]][[8月13日]]の[[オリックス・バファローズ|オリックス]]戦でプロ入り初の4番に抜擢され、2試合連続本塁打を放つなど31年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。打率.313、14HR、50打点といずれも自己最高の成績を残し、[[マリンガン打線]]の「まったく新しいタイプの4番打者、つなぎの4番」と評された。[[2006年]]には、8月15日付で[[フリーエージェント|FA]]権を取得し、[[中日]]が獲得を狙っていたが、本人が成績不振を理由に行使せず2年契約でチームに残留した。 | ||
− | [[2007年]]は、開幕こそ出遅れるも5月から4番[[右翼手]]に定着。リーグ7位の得点圏打率.310、チーム2位かつ自己最高の68打点を挙げた。2008年の[[北京五輪]]出場を目指す[[野球日本代表]]の最終候補に選出され、台湾で開催された北京五輪予選を兼ねたアジア選手権に出場。打順は8番・9番ながら、韓国戦で同点タイムリーを放ち、台湾戦では同点のスクイズを決めるなど主軸級の活躍を見せる。また全3試合において普段はあまり守らない[[左翼]]を堅実に守り、日本の北京五輪出場権獲得に貢献した。 | + | [[2007年]]は、開幕こそ出遅れるも5月から4番[[右翼手]]に定着。リーグ7位の得点圏打率.310、チーム2位かつ自己最高の68打点を挙げた。2008年の[[北京五輪]]出場を目指す[[野球日本代表]]の最終候補に選出され、台湾で開催された北京五輪予選を兼ねたアジア選手権に出場。打順は8番・9番ながら、韓国戦で同点タイムリーを放ち、台湾戦では同点のスクイズを決めるなど主軸級の活躍を見せる。また全3試合において普段はあまり守らない[[左翼 (部分)|左翼]]を堅実に守り、日本の北京五輪出場権獲得に貢献した。 |
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2010年2月15日 (月) 18:34時点における最新版
サブロー(本名:大村 三郎(おおむら さぶろう)、1976年6月1日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手(外野手)。
来歴・人物[編集]
岡山市立岡輝中学校を卒業後、PL学園高校へ進学。1994年、センバツに出場し、1番センターとしてベスト4進出に貢献する。この時のセンバツでは金沢高校の中野真博投手が完全試合を達成しているが、その次の試合の先頭打者としてセンター前に安打を放って2試合連続完全試合をいきなり阻止した打者としても知られる。この年のドラフトで千葉ロッテマリーンズから1位指名を受けた。
ルーキーイヤーの1995年、チームに同姓の大村巌がいたためイチローにあやかり登録名を「サブロー」とし、背番号も語呂合わせで36番を付ける。高卒1年目から一軍で28試合に出場、3盗塁を記録した。1999年には初の100試合出場を果たして一軍に定着。翌2000年はプロ初本塁打を打つなどレギュラーの座を獲得した。この年の8月に中嶋と結婚。
2001年、内野手にコンバートされ、9番二塁手で初の開幕スタメン出場を果たす。翌2002年、外野手に再コンバート。2番中堅手のレギュラーに定着し、オールスターゲームにも初出場。この年初めて規定打席に到達、打率.286、13盗塁を記録した。2003年は1番右翼手で開幕先発出場、故障で80試合の出場にとどまるが、初の2桁本塁打を記録した。読売ジャイアンツ終身名誉監督の長嶋茂雄に「これほど上半身を上手く使う打者は見たことがない」と評された。
2005年8月13日のオリックス戦でプロ入り初の4番に抜擢され、2試合連続本塁打を放つなど31年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。打率.313、14HR、50打点といずれも自己最高の成績を残し、マリンガン打線の「まったく新しいタイプの4番打者、つなぎの4番」と評された。2006年には、8月15日付でFA権を取得し、中日が獲得を狙っていたが、本人が成績不振を理由に行使せず2年契約でチームに残留した。
2007年は、開幕こそ出遅れるも5月から4番右翼手に定着。リーグ7位の得点圏打率.310、チーム2位かつ自己最高の68打点を挙げた。2008年の北京五輪出場を目指す野球日本代表の最終候補に選出され、台湾で開催された北京五輪予選を兼ねたアジア選手権に出場。打順は8番・9番ながら、韓国戦で同点タイムリーを放ち、台湾戦では同点のスクイズを決めるなど主軸級の活躍を見せる。また全3試合において普段はあまり守らない左翼を堅実に守り、日本の北京五輪出場権獲得に貢献した。
エピソード[編集]
- 競馬が好きであり、競馬雑誌や競馬番組に出たこともある。
- 少年野球では「黒い霧事件」でプロ球界を永久追放された森安敏明の指導を受けている。
- 2006年オフ、視力の回復手術を受けた。
- 千葉マリンスタジアムで打席に入る際に流れる音楽はゆずの「栄光の架橋」。ちなみに、彼のブログのタイトル「Bridge to the Glory」を和訳すると「栄光への架橋」と言う意味になる。
- また、ブログの更新頻度は高く、ほぼ毎日更新されている。
- ブログでのニックネームは『サブティーニ』。本人がイタリアが好きで、知人にイタリアンネームをつけてもらったとのこと。
- 2007年6月6日対ジャイアンツ戦(千葉マリン)で連続打数安打記録を9とし、球団記録である堀幸一の8を塗り替えた。
- 子供のころは、阪神タイガースのファンであったことを、ブログで述べている。2007年クライマックスシリーズ第2ステージで、日本ハムを相手に、しかもビジターとして迎えた最終戦の際、やはりブログで「これで終わるかもしれん」と述べたところ、ファンから“選手がそんな弱気でどうする! 勝ちに行こうよ!”と激励コメントが相次ぎ、炎上とも見紛うありさま(200件)になった。
- ボールを押さえた場所から内野を中継せず捕手まで正確に返すその送球は「レーザービーム」と評される。
- 北京五輪最終代表の背番号は、チームでつけている3が長嶋茂雄の欠番でつけられないため、3(サブ)+6(ロー)と言う意味で9を選んだ。登録名も本名の「大村三郎」としている(本名でしか登録できないため)。
- 北京五輪アジア予選のフィリピン戦で、一塁走者に出て不注意で帰塁できずタッチアウトとなる怠慢プレーがあったが、ベンチに帰ってベンチ裏で中日・井端弘和に、「オレ、(星野仙一監督に)殺されますかね?殺されますかね?」と神妙な顔つきで問いかけてきたと、井端がスポーツスタジアムに出演した時に明かしている。ちなみに星野監督からは直接は何もなかったが、高校の先輩でもあり代表チームの主将でもある宮本慎也からひどく叱られたとサブローは語っている。その後ある番組で三塁走塁コーチが「もっと出ろといった」のでアウトになったとも語っている。
プロ時代の成績[編集]
打撃成績[編集]
年 度 |
所 属 |
背 番 号 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 刺 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 |
打 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995 | ロッテ | 36 | 28 | 61 | 48 | 4 | 9 | 2 | 0 | 0 | 11 | 2 | 3 | 4 | 1 | 1 | 11 | 0 | 17 | 0 | .188 |
1996 | 9 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | ||
1997 | 2 | 33 | 32 | 28 | 2 | 5 | 2 | 0 | 0 | 7 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 8 | 0 | .179 | |
1998 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | ||
1999 | 108 | 156 | 130 | 26 | 30 | 9 | 0 | 0 | 39 | 8 | 1 | 5 | 12 | 0 | 12 | 2 | 27 | 0 | .231 | ||
2000 | 95 | 314 | 263 | 42 | 71 | 13 | 1 | 5 | 101 | 23 | 8 | 2 | 15 | 1 | 35 | 0 | 41 | 4 | .270 | ||
2001 | 108 | 284 | 240 | 37 | 55 | 12 | 1 | 1 | 72 | 25 | 9 | 7 | 17 | 3 | 23 | 1 | 45 | 8 | .229 | ||
2002 | 131 | 512 | 441 | 67 | 126 | 33 | 2 | 9 | 190 | 43 | 13 | 1 | 20 | 6 | 36 | 9 | 93 | 4 | .286 | ||
2003 | 80 | 333 | 286 | 44 | 78 | 23 | 1 | 10 | 133 | 46 | 4 | 7 | 13 | 4 | 24 | 6 | 66 | 2 | .273 | ||
2004 | 3 | 89 | 295 | 258 | 31 | 66 | 16 | 3 | 5 | 103 | 33 | 2 | 2 | 5 | 2 | 26 | 4 | 54 | 12 | .256 | |
2005 | 107 | 394 | 351 | 68 | 110 | 19 | 6 | 14 | 183 | 50 | 6 | 3 | 2 | 2 | 38 | 1 | 77 | 6 | .313 | ||
2006 | 115 | 344 | 298 | 38 | 65 | 13 | 1 | 9 | 107 | 38 | 6 | 2 | 2 | 8 | 34 | 2 | 84 | 6 | .218 | ||
2007 | 133 | 528 | 472 | 67 | 127 | 28 | 4 | 7 | 184 | 68 | 13 | 5 | 3 | 6 | 43 | 4 | 105 | 5 | .269 | ||
通算 | 1038 | 3255 | 2817 | 427 | 743 | 170 | 19 | 60 | 1131 | 337 | 66 | 38 | 92 | 33 | 284 | 29 | 618 | 47 | .264 |
守備成績[編集]
位置 | 1995 | 1996 | 1997 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
遊 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 4 | 2 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | ─ | |||||
外 | 22 | 19 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | ─ | 32 | 28 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
1998 | 1999 | 2000 | ||||||||||||||||
外 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 98 | 95 | 5 | 2 | 0 | .980 | 91 | 145 | 5 | 2 | 1 | .987 |
2001 | 2002 | 2003 | ||||||||||||||||
二 | 27 | 79 | 84 | 3 | 15 | .982 | ─ | ─ | ||||||||||
外 | 75 | 111 | 5 | 2 | 2 | .983 | 130 | 188 | 8 | 3 | 1 | .985 | 79 | 135 | 8 | 0 | 1 | 1.000 |
2004 | 2005 | 2006 | ||||||||||||||||
外 | 83 | 121 | 3 | 0 | 0 | 1.000 | 105 | 225 | 7 | 1 | 1 | .996 | 112 | 158 | 6 | 0 | 0 | 1.000 |
2007 | ||||||||||||||||||
外 | 130 | 278 | 8 | 5 | 1 | .983 |
記録[編集]
- 初出場:1995年6月25日 対福岡ダイエー13回戦・8番左翼手としてスタメン出場(福岡ドーム)
- 初安打:1995年6月27日 対西武14回戦・小野和義投手から(福井県営野球場)
- 初打点:同上
- 初本塁打:2000年5月18日 対福岡ダイエー7回戦・松本輝投手から
獲得タイトル[編集]
- ゴールデングラブ賞 - 2回(2005年、2007年)
表彰[編集]
- 日本シリーズ優秀選手賞 - 1回(2005年 打率.235 安打4 本塁打1 打点4)
- 月間MVP - 1回(2007年6月 打率.392、安打29、本塁打2、打点18。打率・安打・打点は月間リーグトップ)
- 交流戦日本生命賞 - 1回(2007年 打率.347、安打33、本塁打3、打点23。打点は12球団トップ)
- クライマックスシリーズ・第1ステージMVP(2007年)
テーマ曲[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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