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2015年5月10日 (日) 04:20時点における最新版
原町田(はらまちだ)は、東京都町田市の地名。現行行政地名は原町田一丁目から六丁目。住居表示実施済み。人口は13,288人(住民基本台帳 2015年4月1日現在[1])。郵便番号は194-0013。
目次
地理[編集]
町田市中部に位置する。町田市の中心地で、南多摩・相模(武相)地域最大の繁華街にあたる。 東は高ヶ坂、南は金森、北は中町、西は神奈川県相模原市南区上鶴間本町と接している。
西端をJR横浜線が通り、小田急小田原線が北端を通っている。周辺道路はいずれも交通量が非常に多いため、渋滞が発生しやすい。
河川[編集]
地価[編集]
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、原町田3-14-8の地点で27万7000円/m2となっている。[2]
歴史[編集]
室町幕府の成立初期に琵琶湖に定住していた土方氏・夏目氏・山村氏(三橋一族)は主君である足利基氏が鎌倉に下向した際に従い関東に入った。三橋一族は関東で争乱が相次いだため鎌倉から大石氏の八王子城、滝山城、沢山城と遷っていった。その後三橋新右衛門が北条氏照に永世帰農を請願、認可される。三橋一族は原野を開墾したのではないかとされている。[3]。
鎌倉時代頃より鎌倉街道が通っていたが、江戸時代半ば頃までは鎌倉時代に宿の置かれた本町田が中心で、この地域は農地や原野が広がっていた。江戸時代後期頃、八王子から横浜へ生糸を運ぶための絹の道や、東海道・大山街道の脇往還がこの地を通り物資の中継地となったため、次第に生糸取引や宿場として栄えるようになり、製糸・織物・乾物を中心とした商業も盛んに行われた。昭和に入ると、近隣地域に原町田陸軍病院・原町田陸軍通信学校・原町田陸軍兵器学校(いずれも原町田と冠しているが所在地は相模原市)や陸軍士官学校(座間市)が移転し、1942年に綾瀬市と大和市にまたがる厚木飛行場が完成すると、軍人や軍属の住民が周辺地域に増加し、原町田周辺がより発展することとなった。第二次世界大戦時は陸軍関係の学校や病院は相模大野周辺に多かったものの、軍需工場が少なかったためか空襲の被害は少なかった。
地名の由来[編集]
町田村(現在の本町田)の近隣の原野を開拓した村であったことから。
沿革[編集]
- 1582年 - 三橋新右衛門の開基により八王子の極楽寺の末寺として勝楽寺が現在地に創建される。
- 1582年 - 当時の町田村(現在の本町田)の農民が農地拡大のため近隣の原野を開拓、町田村から分村し原町田村となる。残る旧来の町田村域は本町田村に改称。北条氏照に市開設が認可され、この年から定期市が開催される(六齋市)。
- 1627年 - 原町田村及び周辺地域が駿府藩主徳川忠長領となる。
- 1631年頃 - 旗本高木領となる。
- 1698年 - 旗本田中領となる。
- 享保年間 - 1村1知行主の旗本領となる。
- 1863年 - 米価が高騰、治安が悪化し原町田村で農兵隊が結成される。
- 1868年 - 原町田村が武蔵知県事に属す。その後同年末までに東京府となるものの、多摩地域が横浜に居住する外国人の遊歩区域であるという神奈川県知事陸奥宗光の上申により神奈川県に移管される。
- 1873年 - 区番組制により8区2番となる。
- 1878年 - 郡区町村編制法により、南多摩郡に属する。
- 1884年 - 連合戸長役場制により原町田村・本町田村・森野村・南大谷村・金井村が5か村連合となる。連合戸長役場は原町田村に置かれる。
- 1888年11月 - 神奈川県会議員初代議長である石坂昌孝らが民権政社融貫社を設立。
- 1889年4月1日 - 原町田村・本町田村・森野村・南大谷村が合併し町田村となる。
- 1893年4月1日 - 多摩郡域が神奈川県から東京府に移管される。
- 1908年9月23日 - 横浜鉄道東神奈川駅 - 八王子駅間が開業。原町田駅を開設。
- 1913年4月1日 - 町田村が町制施行し町田町となる。
- 1927年4月1日 - 小田原急行鉄道が開業。新原町田駅を開設。
- 1954年4月1日 - 町田町が南村と合併する。
- 1958年2月1日 - 町田町が鶴川村・堺村・忠生村と対等合併、市制施行し町田市となる。その後、町田市が首都圏衛星都市に指定され、市内各所に大規模集合住宅が次々と建設されると、原町田地区に大型デパートなどが進出し商業地として急速に発展を始める。
- 1964年4月5日 - 町田米軍機墜落事故アメリカ海軍の戦闘機が現在の原町田1丁目付近に墜落。一般市民4名が死亡、32名の重軽傷者を出す事故となった。
- 1964年6月1日 - 住居表示を実施。原町田1丁目〜6丁目とする。
- 1976年4月11日 - 小田急電鉄が新原町田駅を町田駅に改称。
- 1976年9月23日 - 小田急電鉄町田駅ビル完成、小田急百貨店町田店開業。
- 1980年4月1日 - 横浜線原町田駅が駅前の再開発に伴い、小田急線の町田駅側に移転。町田駅に改称。
- 1983年10月31日 - 横浜線町田駅ターミナルプラザ開業。ターミナル口の使用開始。
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
六齋市[編集]
1583年(天正11年)前後に原町田村が町田村から分村した後、六齋市開催の権利を得たとして市を開いたが、それまで市を開催していた本町田村(旧来の町田村)側も権利を主張し市開催を1584年(天正12年)前後から再び行なうようになった。両村は互いに譲らず紛糾し訴訟にまで発展、1587年(天正15年)北条氏が裁定し三斎市をお互いに開催することとなった。この市は明治時代に入ると六齋市に戻り、以後は絹の道の中継地となっていた原町田で行われるようになった。通称、「二六の市」と呼ばれ月6回開かれていた。 1767年(明和4年)の「原町田村絵図」には市が開かれると浄運寺から勝楽寺門前(約500メートル)に店が並んでいたとされている。
交通[編集]
鉄道[編集]
バス[編集]
主に神奈川中央交通により運行されている。小田急線・JR横浜線町田駅最寄の停留所は町田バスセンターである。
道路・橋梁[編集]
- 東京都道47号八王子町田線(町田街道)
- 東京都道51号町田厚木線
- 東京都道56号目黒町町田線
- 東京都道140号川崎町田線(成瀬街道)
- 町田駅前通り
- 原町田大通り
- 中央橋、原町田橋、高ヶ坂橋、南橋、境橋、千寿橋、谷口橋
施設[編集]
町田駅周辺部の詳細については町田駅#駅周辺 も参照
- 町田駅前連絡所
- 町田市立中央図書館
- まちの駅 ぽっぽ町田
- まちだ中央公民館
- 町田市生涯学習センター
- 町田市文化交流センター
- 町田市民フォーラム
- 町田市民文学館ことばらんど
- 町田市健康福祉会館
- 町田市立国際版画美術館
- 町田市立町田第二小学校
- 町田製菓専門学校
- 町田モディ
- マツモトキヨシ 町田東口店
- 小田急百貨店
- 町田東急ツインズ(旧・東急百貨店)
- 東急ハンズ(町田東急ツインズEAST内)
- 109MACHIDA
- ルミネ町田店
- 町田ジョルナ
- 町田マルイ
- 町田モディ
- ヨドバシカメラマルチメディア町田店
- ミーナ町田
- 久美堂(本店、小田急店、四丁目店)
- BOOK・OFF SUPER BAZAAR 町田中央通り本館・新館
- コミックとらのあな町田店
- アニメイト町田店
- アニブロゲーマーズ町田店
- ホテル ザ・エルシィ町田
- ホテルリソル町田
- ビジネスイン サンホテル
- ホテル新宿屋
- 町田駅前郵便局(旧ぱ・る・るプラザ町田内郵便局)
- 原町田六郵便局
- 原町田郵便局
- 町田市立芹ヶ谷公園
- 町田市立原町田青空ひろば
脚注[編集]
- ↑ 町丁別世帯数・人口表|町田市
- ↑ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ↑ (2009) [ 「原町田村古地図」と「原町田宿ノ道巾10間」の検証 ] 地図中心 447 財団法人日本地図センター 2009 12 pp. 32-35