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+ | *[[1958年]]3月11日生まれ(56歳)、東京都目黒区に生まれる。サレジオ幼稚園・目黒区立大岡山小学校・目黒区立第八中学校・都立玉川高等学校卒業後すぐに音楽活動を開始 | ||
+ | *[[1977年]]、当時絶大な人気を誇っていたピンクレディーのバックバンド・ローディーのアルバイトを引き受け、ほぼ全国(沖縄以外)を回り、凄まじい人気を目の当たりにして貴重な経験を積む | ||
+ | *[[1978年]]、岸田敏志(当時岸田智史)のバックバンドの仕事を得、「夜のヒットスタジオ」「ぎんざNOW!」などで演奏 | ||
+ | *[[1979年]]、「YELLOW MAGIC CARNIVAL」でデビューしていたアーティストMANNA、H2Oなどのバックバンドを担当 | ||
+ | *[[1980年]]、岡林信康のバックバンドを渡辺茂樹(故人)氏の元担当、テレビ出演・学祭出演を経て東京厚生年金ホール・大阪厚生年金ホールなどのコンサートで演奏、大阪厚生年金ホールでのライブの模様はアルバム「グッドイブニング」として発売されている | ||
+ | *[[1983年]]、音楽制作会社ビーイングに制作インターンとして勤務 | ||
+ | *[[1984年]]、ビーイングに制作部正社員として採用され、出版権管理とデビュー前のチューブを担当 | ||
+ | *[[1985年]]、チューブが「ベストセラー・サマー」でデビュー | ||
+ | *[[1986年]]、織田哲郎作曲による「シーズン・イン・ザ・サン」が大ヒット、初のツアーからマネージャーとしてホワイトミュージックへ出向 | ||
+ | *[[1987年]]、「サマー・ドリーム」、1988年「ビーチ・タイム」がヒットし夏バンドとしての地位が定着 | ||
+ | *[[1989年]]、マネージャー職を離れ、フリーランスとなる | ||
+ | *[[1990年]]、ビーイングへ復帰、B.B.Queens「おどるポンポコリン」のヒットによりメディア・ディレクター、同時にMi-Keの制作ディレクター、ZARDの制作ディレクターなどを担当 | ||
+ | *[[1992年]]、社長付き制作秘書として作家デモテープの発注管理・タイアップ制作コーディネート・権利交渉などを担当、以降ほぼ全てのタイアップシングル曲制作に関わる同年、ポカリスエット | ||
+ | *[[1993年]]、社長室長として作家デモテープの発注管理・タイアップ制作コーディネート・権利交渉部門を強化、テレビアニメ「SLUM DUNK」の音楽を担当、テーマ曲集アルバムのプロデューサーを担当し大ヒット、以降「ドラゴンボールGT」「名探偵コナン」などの作品でサウンドトラックアルバムのプロデューサーを担当 | ||
+ | *[[1994年]]、社内分社化により株式会社ゼット取締役として作家デモテープの発注管理・タイアップ制作コーディネート・権利交渉部門及び新規事業開発を担当 | ||
+ | *[[1995年]]、社内イントラネット構築・ホームページ制作を開始、ベーター版公開 | ||
+ | *[[1996年]]、オフィシャルホームページを公開 | ||
+ | *[[1997年]]、テレビアニメ「名探偵コナン」のテーマ曲制作コーディネーターを担当 | ||
+ | *[[2000年]]、自社制作にてiモード・ビーイング・オフィシャル・チャンネルをISP申請、以降着メロ・アーティストコンテンツの開発・制作・運営を行い、ISPとしてNTT DoCoMoと契約後、ボーダーフォン(当時)・auとも順次契約、NHK大阪放送局制作の連続テレビ小説「オードリー」の主題歌を倉木麻衣で制作コーディネート。同年11月に発売されたアルバム「名探偵コナンテーマ曲集」をプロデュース、160万枚を越える大ヒット(2008年現在)となり、翌年のゴールドディスク大賞を受賞 | ||
+ | *[[2001年]]、総務省のIPv6普及・高度化推進協議会の要請によるIPv6実証実験を、大阪の自社ライブハウスと横浜会場を結んだライブ形式で行う | ||
+ | *[[2002年]]、日韓ワールドカップ・オフィシャルコンサートを電通と共に共同コーディネート、味の素スタジアムで[[エアロスミス]]・[[B’z]]の共演を実現、9月には[[B’z]]アメリカ西海岸で開催されたライブの模様を、日本にてインターネットライブ配信し大成功、同時視聴数の大記録を打ち立てる | ||
+ | *[[2003年]]、株式会社ゼット代表取締役他、ビーインググループ各社役員に就任、この年、AppleでSteveJobsの右腕として活躍していた[[James比嘉]]と出会う | ||
+ | *[[2004年]]、Apple iTunesと販売契約を締結 | ||
+ | *[[2005年]]、Apple iTunesの日本でのサービスインに参加、日本人アーティストとして初のコンプリートボックスを[[B’z]]で販売 | ||
+ | *[[2007年]]、サンフランシスコで行われたMacworld Expoに参加、iPhoneの鮮烈なデビューを目の当たりにする。同年5月27日、ZARDのボーカリスト[[坂井泉水]]が永眠 | ||
+ | *[[2008年]]5月31日、ビーインググループを辞職、同年8月21日、[[株式会社ヴェィンティイウノ]]を設立 | ||
+ | *[[2009年]]、音楽制作のフィールドを拡げ、新たなビジネスチャンスを学ぶためにアメリカ~ヨーロッパを約10ヶ月に渡り巡る | ||
+ | *[[2010年]]帰国、アニメテーマ曲制作を依頼され、オーディションの後にシンガーソングライター[[azusa]]をプロデュースしデビューさせる | ||
+ | *[[2011年]]3月11日、誕生日当日の東日本大震災発生とその後の復興に問題意識を持ち、亡父の出身地福島での活動の場を探している時に、NHK大河ドラマ「八重の桜」の制作者と久し振りに再会、大いに刺激を受ける | ||
+ | *[[2013年]]、福島県相馬市で活動する[[エル・システマジャパン]]を見守る中で、新たな活動の場を見出す | ||
+ | *[[2014年]]4月14日、一般社団法人「福志会」を設立、同時に代表理事に就任 | ||
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+ | == 制作などに関わったアーティスト == | ||
+ | *[[TUBE]] | ||
+ | *[[B’z]] | ||
+ | *[[ZARD]] | ||
+ | *[[織田哲郎]] | ||
+ | *[[大黒摩季]] | ||
+ | *[[川島だりあ]] | ||
+ | *[[Mi-Ke]] | ||
+ | *[[T-BOLAN]] | ||
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+ | *[[DEEN]] | ||
+ | *[[Field of View]] | ||
+ | *[[小松未歩]] | ||
+ | *[[倉木麻衣]] | ||
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2014年8月26日 (火) 08:11時点における最新版
渡部良(わたべりょう)、本名読み(わたなべりょう)
略歴[編集]
- 1958年3月11日生まれ(56歳)、東京都目黒区に生まれる。サレジオ幼稚園・目黒区立大岡山小学校・目黒区立第八中学校・都立玉川高等学校卒業後すぐに音楽活動を開始
- 1977年、当時絶大な人気を誇っていたピンクレディーのバックバンド・ローディーのアルバイトを引き受け、ほぼ全国(沖縄以外)を回り、凄まじい人気を目の当たりにして貴重な経験を積む
- 1978年、岸田敏志(当時岸田智史)のバックバンドの仕事を得、「夜のヒットスタジオ」「ぎんざNOW!」などで演奏
- 1979年、「YELLOW MAGIC CARNIVAL」でデビューしていたアーティストMANNA、H2Oなどのバックバンドを担当
- 1980年、岡林信康のバックバンドを渡辺茂樹(故人)氏の元担当、テレビ出演・学祭出演を経て東京厚生年金ホール・大阪厚生年金ホールなどのコンサートで演奏、大阪厚生年金ホールでのライブの模様はアルバム「グッドイブニング」として発売されている
- 1983年、音楽制作会社ビーイングに制作インターンとして勤務
- 1984年、ビーイングに制作部正社員として採用され、出版権管理とデビュー前のチューブを担当
- 1985年、チューブが「ベストセラー・サマー」でデビュー
- 1986年、織田哲郎作曲による「シーズン・イン・ザ・サン」が大ヒット、初のツアーからマネージャーとしてホワイトミュージックへ出向
- 1987年、「サマー・ドリーム」、1988年「ビーチ・タイム」がヒットし夏バンドとしての地位が定着
- 1989年、マネージャー職を離れ、フリーランスとなる
- 1990年、ビーイングへ復帰、B.B.Queens「おどるポンポコリン」のヒットによりメディア・ディレクター、同時にMi-Keの制作ディレクター、ZARDの制作ディレクターなどを担当
- 1992年、社長付き制作秘書として作家デモテープの発注管理・タイアップ制作コーディネート・権利交渉などを担当、以降ほぼ全てのタイアップシングル曲制作に関わる同年、ポカリスエット
- 1993年、社長室長として作家デモテープの発注管理・タイアップ制作コーディネート・権利交渉部門を強化、テレビアニメ「SLUM DUNK」の音楽を担当、テーマ曲集アルバムのプロデューサーを担当し大ヒット、以降「ドラゴンボールGT」「名探偵コナン」などの作品でサウンドトラックアルバムのプロデューサーを担当
- 1994年、社内分社化により株式会社ゼット取締役として作家デモテープの発注管理・タイアップ制作コーディネート・権利交渉部門及び新規事業開発を担当
- 1995年、社内イントラネット構築・ホームページ制作を開始、ベーター版公開
- 1996年、オフィシャルホームページを公開
- 1997年、テレビアニメ「名探偵コナン」のテーマ曲制作コーディネーターを担当
- 2000年、自社制作にてiモード・ビーイング・オフィシャル・チャンネルをISP申請、以降着メロ・アーティストコンテンツの開発・制作・運営を行い、ISPとしてNTT DoCoMoと契約後、ボーダーフォン(当時)・auとも順次契約、NHK大阪放送局制作の連続テレビ小説「オードリー」の主題歌を倉木麻衣で制作コーディネート。同年11月に発売されたアルバム「名探偵コナンテーマ曲集」をプロデュース、160万枚を越える大ヒット(2008年現在)となり、翌年のゴールドディスク大賞を受賞
- 2001年、総務省のIPv6普及・高度化推進協議会の要請によるIPv6実証実験を、大阪の自社ライブハウスと横浜会場を結んだライブ形式で行う
- 2002年、日韓ワールドカップ・オフィシャルコンサートを電通と共に共同コーディネート、味の素スタジアムでエアロスミス・B’zの共演を実現、9月にはB’zアメリカ西海岸で開催されたライブの模様を、日本にてインターネットライブ配信し大成功、同時視聴数の大記録を打ち立てる
- 2003年、株式会社ゼット代表取締役他、ビーインググループ各社役員に就任、この年、AppleでSteveJobsの右腕として活躍していたJames比嘉と出会う
- 2004年、Apple iTunesと販売契約を締結
- 2005年、Apple iTunesの日本でのサービスインに参加、日本人アーティストとして初のコンプリートボックスをB’zで販売
- 2007年、サンフランシスコで行われたMacworld Expoに参加、iPhoneの鮮烈なデビューを目の当たりにする。同年5月27日、ZARDのボーカリスト坂井泉水が永眠
- 2008年5月31日、ビーインググループを辞職、同年8月21日、株式会社ヴェィンティイウノを設立
- 2009年、音楽制作のフィールドを拡げ、新たなビジネスチャンスを学ぶためにアメリカ~ヨーロッパを約10ヶ月に渡り巡る
- 2010年帰国、アニメテーマ曲制作を依頼され、オーディションの後にシンガーソングライターazusaをプロデュースしデビューさせる
- 2011年3月11日、誕生日当日の東日本大震災発生とその後の復興に問題意識を持ち、亡父の出身地福島での活動の場を探している時に、NHK大河ドラマ「八重の桜」の制作者と久し振りに再会、大いに刺激を受ける
- 2013年、福島県相馬市で活動するエル・システマジャパンを見守る中で、新たな活動の場を見出す
- 2014年4月14日、一般社団法人「福志会」を設立、同時に代表理事に就任
制作などに関わったアーティスト[編集]
- TUBE
- B’z
- ZARD
- 織田哲郎
- 大黒摩季
- 川島だりあ
- Mi-Ke
- T-BOLAN
- WANDS
- DEEN
- Field of View
- 小松未歩
- 倉木麻衣
- Garnet Crow
- 愛内里菜
- azusa
他...