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ヒトラー暗殺計画(ヒトラーあんさつけいかく)は、ヒトラーの政権奪取後、単独犯と組織的なものを合わせて少なくとも42回企てられた。
目次
諸計画[編集]
ナチス政権下のドイツのような警察国家の体制下では、民衆レベルの組織的反政府運動は極めて困難であった。秘密警察ゲシュタポが国民を厳しく監視し、反政府運動を容赦無く暴力的に弾圧した。その状況下で武器も持たない一般人が、強力な兵器で武装した親衛隊、ドイツ軍に抵抗する事など不可能であった。
第二次世界大戦勃発後は暗殺防止のため、ヒトラーのパレードは減り、彼が一般人の前に姿を現す回数も減り、さらに戦局が悪化し総統大本営に引き篭もる事が多くなると、一般の個人による暗殺はほぼ不可能となり、実行可能なのは現役の軍人、しかもヒトラーに直接近づける立場の少数の者に限られていった。また、連合国軍による暗殺計画も企てられた要出典が全て失敗に終わった。
個人による暗殺未遂事件[編集]
- 1938年11月9日、スイスの神学生モーリス・バヴォー (Maurice Bavaud) は、ミュンヘン市内の将軍廟の前でナチスのミュンヘン一揆記念パレードが行われた際、ヒトラーを拳銃で射殺しようと試みたが、パレード見物の大勢の群集に阻まれて狙いが定められず失敗。1週間後に国境に向かう途中の列車内で無賃乗車とミュンヘンの地図とピストル所持のところを逮捕された。1938年12月18日、バヴォーは民族裁判所 (Volksgerichtshof) で死刑を宣告され、1941年5月、ベルリンのプレッツェンゼー刑務所でギロチンによって処刑された。
- 1939年11月8日、当時36歳の家具職人ゲオルク・エルザー (Georg Elser) によるビアホール「ビュルガーブロイケラー (Bürgerbräukeller) 」爆破事件。
- ヒトラーは1923年11月8日のミュンヘン一揆を回顧するため、毎年その日にビアホールで約1時間半ほど演説するのが恒例だった。機械工作の才能が有ったゲオルグ・エルザーは、時計仕掛けの時限装置付き爆弾を製作し、約35日間かけてホール内のコンクリート柱をくりぬいて穴を開け、その中に演説時間内に爆発するようセットした爆弾を仕掛け、演説中のヒトラーを爆殺しようとした。
11月8日午後8時、ヒトラーは予定通りにビアホール「ビュルガーブロイケラー」に到着。8時10分頃から演説を開始したが、その日は演説を短縮し、予定を早めて9時12分頃にはビアホールから出た。数分後の9時20分、爆弾が爆発し8人が死亡、63人が負傷した。負傷者の中にはエーファ・ブラウンの父親もいた。折りしも第二次世界大戦勃発から2ヶ月、ヒトラーは情勢の検討と西方攻撃作戦の準備のため、至急ベルリンへ戻る予定だった。11月8日夜は悪天候のため飛行機ではなく、時間のかかる列車でミュンヘンからベルリンへ移動するため、例年より早めに演説を終了し会場から退席する事となり、運良く爆発に巻き込まれなかった。エルザーは11月8日夜、スイスへの国境侵犯の疑いで逮捕された。当初は爆破事件の容疑者とは見なされていなかったが、現場の写真や爆弾の設計図を所持していたため、やがて爆破事件の容疑者として追及される。共犯者や背後関係が疑われ、ナチスによる自作自演説も流れたが、結局はエルザーの単独犯行とされている。彼はザクセンハウゼン次いでダッハウの強制収容所に収監され、大戦終結直前の1945年4月9日に殺害された。
この事件以後、爆発物の管理が厳重になり、その結果大掛かりな抵抗運動がやりにくくなった事は否定できない。
ズデーテン危機における陸軍のクーデター計画[編集]
1938年5月、ドイツのチェコスロバキア攻撃計画が漏洩し、ヒトラーはズデーテン地方の割譲を要求した。情勢は緊迫し、チェコ、フランス、イギリスは動員を発令、ドイツではルートヴィヒ・ベック陸軍参謀総長が、ヒトラーの政策に反対して辞任。ヨーロッパに戦争勃発の危機が迫る。 このような情勢下、反ヒトラーのクーデター・暗殺が計画された。ベック前陸軍参謀総長、その後任のフランツ・ハルダー陸軍参謀総長、ヴィルヘルム・カナリス国防軍情報部長、同情報次長ハンス・オスター大佐、ベルリン地区防衛司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン大将、装甲部隊司令官エーリッヒ・ヘプナー中将、ベルリン警視総監ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ、刑事警察本部長アルトゥール・ネーベ、元参事官のハンス・ベルント・ギゼヴィウス(Hans Bernd Gisevius)、国立銀行総裁ヒャルマル・シャハト、上級裁判所判事のハンス・フォン・ドホナーニ、外務省官房長エーリッヒ・コルト (Erich Kordt) 、元ライプツィヒ市長カール・ゲルデラー、牧師・神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーら多数の軍人、政治家、官僚、知識人、文化人らが関与していた。彼らのグループは、後にゲシュタポによって「黒いオーケストラ」の名で呼ばれるようになる。 彼らは当初、ベルリンの総統官邸に乗り込んでヒトラーの退陣を迫り、それを拒否すればヒトラーの逮捕、そして裁判又は精神鑑定にかけるような計画も立てていたが、結局は暗殺という強硬手段に訴える事になった。 しかし、ヒトラーはベック参謀総長辞任の公表を遅らせ、またイタリアの独裁者ムッソリーニの調停もあり、ミュンヘン会談でイギリス・フランス両国が譲歩。ズデーテン地方のドイツへの割譲を認めて戦争が回避され、クーデターは実行には至らなかった。こうしてヒトラーは政権獲得後、最も危険な暗殺の危機を免れた。
「ヴァルキューレ」計画[編集]
ヴァルキューレ作戦 も参照 大戦勃発後、ドイツ軍は占領地から数百万人の捕虜や奴隷的労働者をドイツ国内へ連れて来たが、カナリス国防軍情報部長がヒトラーに「彼らが叛乱を起こした際の対策を取る必要が有る」と進言。ヒトラーはそれに同意し、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将に対策案作成を命令した。フロムは部下の同軍参謀長フリードリヒ・オルブリヒト大将にそれを一任し、オルブリヒトは1942年10月13日、反乱鎮圧計画とその隠語名ヴァルキューレを立案した。
国内で反乱が発生した際、国防軍・武装親衛隊を含め、全ての武装集団をベルリン・ベンドラー街の国内予備軍指揮下に置き、戒厳令を布告し政府の全官庁、党機関、交通・通信手段、放送局、軍法会議の設置まで全てを掌握する、という計画であった。発動権限は国内予備軍参謀長にあり、同軍参謀長オルブリヒト大将ら陰謀派は、ヒトラー暗殺後「ヴァルキューレ」を発動、それをクーデターに利用して国内を一気に掌握する計画を立てた。
「閃光」作戦[編集]
1943年2月、スターリングラード攻防戦の敗北後、ドイツ軍はソ連軍の攻勢に備えるための作戦を(第三次ハリコフ攻防戦)立案した。この作戦に関連してヒトラーは2月17日にザポロージェに置かれた南方軍集団司令部を飛行機で訪問した。これを好機と見たカナリス国防軍情報部長は、スモレンスクの中央軍集団司令部にもヒトラーが訪れるよう工作した。 中央軍集団司令官は、以前から「黒いオーケストラ」グループに参加を求められていたギュンター・フォン・クルーゲ元帥。その参謀長は同グループのヘニング・フォン・トレスコウ少将だった。彼は東部戦線におけるナチスのユダヤ人大虐殺に憤慨し暗殺を決意する。「閃光」とは、トレスコウが立てた、ヒトラー暗殺計画の隠語名である。彼は以前から情報担当参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ大佐に爆弾を用意させ、司令部周辺の森林で爆破テストを繰り返していた。 当初、司令部内で会食中にヒトラーを暗殺しようとしたが、クルーゲが反対したので断念。そこで、総統大本営に戻るヒトラーを、その搭乗機ごと爆殺する計画に切り替え、クルーゲの了解も取り付けた。また、国内予備軍参謀長オルブリヒト大将と連絡を取り、「ヴァルキューレ」作戦の発動を依頼した。
3月13日、ヒトラーは搭乗機Fw200コンドルで中央軍集団司令部に到着した。ヒトラーには総統副官のハインツ・ブラント大佐が同行していた。一同が会食中、トレスコウはブラントに、”賭け事に負けた”という名目で「コアントロー」酒の小包を、参謀本部編成課長のヘルムート・シュティーフ大佐に届けるよう依頼した。しかし、この包みは酒瓶に見せかけた爆弾であった。
同日午後1時過ぎ、ヒトラーは総統大本営に向けて飛び立った。爆発を確信したトレスコウは、国内予備軍司令部のオルブリヒト大将に連絡し、彼は「ヴァルキューレ」発動準備を下令した。しかし、ヒトラー機が途中、乱気流を避けるため急上昇した際、ロシア上空の寒気で時限装置が故障[1]したため爆弾は爆発せず、ヒトラーは無事に総統大本営に到着した。 計画の失敗を知り、トレスコウはオルブリヒトに、「ヴァルキューレ」発動は演習だった事にして計画を中止させた。次に総統大本営のブラントに連絡し「間違えて別の酒を包んだので、その小包はシュティーフ大佐には渡さないように」と依頼。翌日、副官のファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉によって爆弾は回収され、計画は発覚しなかった。
トレスコウらは引き続き、3月21日に予定された、ヒトラーのベルリン兵器保存館視察を狙い、ゲルスドルフ大佐を案内役に推薦し、彼に暗殺計画を託した。彼は時限信管付き爆弾で、ヒトラーを道づれに爆死する決意をしたが、当日ヒトラーは視察をごく短時間で終わらせ、ゲルスドルフはヒトラーに接近する機会が無くなり、暗殺は失敗した。
7月20日事件[編集]
1944年6月に連合国軍がノルマンディー上陸作戦を成功させた。東部戦線におけるソ連軍の攻勢とあわせドイツの退勢が明らかとなり、黒いオーケストラはヒトラーの排除計画を急ぐようになった。この頃になると新たに国内予備軍一般軍務局局長フリードリヒ・オルブリヒト大将、陸軍通信部隊司令官エーリッヒ・フェルギーベル大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将、参謀本部編成部長ヘルムート・シュティーフ少将、国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐など多くの将校がグループに加わっていた。
7月20日に東プロイセンの総統大本営ヴォルフスシャンツェ会議室においてシュタウフェンベルクが爆弾を爆発させた。会議室内の数名が死亡したもののヒトラーは軽傷を負ったのみで助かった。
ベルリンの国内予備軍司令部において国防予備局長のオルブリヒトらは「ヴァルキューレ」作戦を発動させ、ヒトラーの死亡と国防軍首脳部の人事刷新、戒厳令を発表し、各地の軍部隊にはSS、ゲシュタポの逮捕を指令した。
ベルリン中心部は首都警備大隊により占拠され、パリやウィーンにおいてSS将校が逮捕されたが、ヴォルフスシャンツェと軍部隊との連絡が回復されたこと、首都警備大隊長のオットー・エルンスト・レーマーがヒトラーの生存を確認し鎮圧側に回ったことなどによりクーデターは失敗した。
黒いオーケストラの構成員の中でシュタウフェンベルクらは直後に処刑され、トレスコウなどは自殺した。他のメンバーはそのほぼすべてが逮捕され、裁判を経て処刑された。事件に関係した反ナチス将校の処刑はドイツの敗北の直前まで続いた。
参考文献[編集]
- ロジャー・マンベル(Roger Manvell) 『ヒトラー暗殺事件』
第二次世界大戦ブックス31:サンケイ新聞社出版局、1972年。 - ロジャー・マンヴェル、ハインリヒ・フレンケル (Roger Manvell、 Heinrich Fränkel)
片岡啓治訳 『ゲシュタポへの挑戦 ヒトラー暗殺計画』 新人物往来社、1973年。 - 小林正文 『ヒトラー暗殺計画』 中公新書、1984年、ISBN 4-12-100744-1
- ヴィル・ベルトルト、小川真一訳 『ヒトラーを狙った男たち ヒトラー暗殺計画・42件』 講談社、1985年、
- ハンス・ヘルムート・キルスト、松谷健二訳 『軍の反乱』 角川書店、1987年
- 檜山良昭 『ヒトラー暗殺計画』 徳間文庫 1994年
- アレクサンダー・シュタールベルク(Alexander Stahlberg)、鈴木直訳
『回想の第三帝国 反ヒトラー派将校の証言』 平凡社上・下、1994年 - 山下公子 『ヒトラー暗殺計画と抵抗運動』 講談社選書メチエ、1997年
- ロジャー・ムーアハウス、高儀進訳 『ヒトラー暗殺』 白水社 2007年 ISBN 4-560-02626-2
- グイド・クノップ、高木玲訳 『ヒトラー暗殺計画 ドキュメント』
原書房 2008年 ISBN 4562041439 - スティ・ダレヤー、加藤節子ほか訳 『ワルキューレ ヒトラー暗殺の二日間』
原書房 2009年 ISBN 4562042370、映画原作 - ペーター・ホフマン 『ヒトラーとシュタウフェンベルク家 ワルキューレに賭けた一族の肖像』
大山晶訳、原書房、2010年 ISBN 4-562-04589-2 - 児島襄 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 文春文庫全10巻
- J.ウィーラー=ベネット著、山口定訳 『国防軍とヒトラー (I・II)』
みすず書房、2002年、I=ISBN 4-622-05107-9、II=ISBN 4-622-05108-7
『権力のネメシス 国防軍とヒトラー』(1984年刊)を2分冊した新装版。
映画[編集]
- 反ナチのカナリス海軍大将を描いたもの
- 「誰が祖国を売ったか(原題:Canaris)」、Alfred Weidenmann 監督、1955年
- 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件を描いたもの
- 「ヒトラー暗殺(原題:Es geschah am 20.Juli)」、Georg Wilhelm Pabst 監督、1955年
- 「暗殺計画7・20(原題:Der 20.Juli)」、Günther Weisenborn 監督、1955年
- 「オペレーション・ワルキューレ(原題:Stauffenberg)」、Jo Baier 監督、2004年
- 「ワルキューレ」、ブライアン・シンガー監督、2008年
関連項目[編集]
- ドイツ第三帝国
- ナチズム
- フォックスレイ作戦
- 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件関係者(en:List of members of the 20 July plot)
- ヒトラー女性化計画
- 怪しい伝説
脚注[編集]
- ↑ 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』(文春文庫)第五巻 296-297pでは、起爆装置に使用していた硫酸が凍結したためとしており、ナショナル・ジオグラフィックTV「ヒトラーを殺す42の方法」では塩化銅液であると説明されており、寒気が原因であるとのみ述べられている。
外部リンク[編集]