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国家社会主義ドイツ労働者党(こっかしゃかいしゅぎ-ろうどうしゃとう、独:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)とは、ドイツ国の政党。1919年に結成され、アドルフ・ヒトラーが指導者として率い、1933年に政権を奪取したが、1945年のドイツ敗戦にともない消滅した。一般に「ナチ党」、「ナチス党」、「ナチス」などと呼ばれる。
目次
名称[編集]
創設当初、党名は「ドイツ労働者党」であった。入党後のヒトラーが改名を主張し、ルドルフ・ユングがオーストリアのオーストリア・ナチス党(Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei)の命名パターンに従うことを要求した。討議の結果、1920年2月21日に党名は正式に「Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei」となった。2月24日ミュンヘンのビアホール「ホフブロイハウス」で開かれた党大会には聴衆2000人が集まり、綱領とともに正式採択された。
正式党名の日本語訳は『National』の解釈の違いにより「国家社会主義ドイツ労働党[1]」、「国民社会主義ドイツ労働者党[2]」、「民族社会主義ドイツ労働者党」[3]などと訳される。また、国家社会主義はフェルディナント・ラッサールを代表とする社会主義思想「state socialism」の訳語、またはナチズムの訳語としても用いられる[4]。略して呼ぶ場合は後述の「ナチス」の他、同時代には「国粋社会党[5]」の表記も使われた。
各国語では下記の通り翻訳されている。
- 英語:The National Socialist German Workers' Party
- 仏語:Le Parti national-socialiste des travailleurs allemands
- 西語:El Partido Nacionalsocialista Obrero Alemán
- 中語:民族社會主義德意志工人黨、國家社會主義德意志勞工黨
通称の「ナチ(独:ナーツィ、Nazi)」は、ドイツ語による正式党名の初め2音節を同音異字につづり変えた物で、当時の対抗勢力がナチ党員に付けた蔑称である。いわば「ナチ公」に相当する言葉であり、また「ナチス(独:ナーツィス、Nazis)」はその複数形である(英語ではナ(ー)ツィズと発音し、ナチ党の意味でも用いる)。ちなみにドイツ社会民主党員も同じように「Sozialisten」を短縮して「ゾチ(独:ゾーツィ、Sozi)」と蔑称されていた。
したがって、映画などでナチ党員が「ナチス」と言うのは本来は誤りであり、自分たちにナチおよびナチスという呼称を用いる事は無かった。自称としては党名のイニシャルを略して「NSDAP(エヌエスデーアーペー)」或いは「NS(エヌエス)」と呼んでいた。
しかしながら日本では、ナチおよびナチスの呼称は当時から使用されている[6]。現在は他の非ドイツ語圏でもNazi PartyやNazi Germanyのようにドイツ語の「Nazi」がそのまま使用されている。ドイツ語にも同様の「Nazi-Deutschland」などの言い方はあるが、現在は「Nazi」よりも中立的な「Nationalsozialismus(上述の英語 National Socialism に相当)」の略号である「NS(エヌエス)」を接頭語にして、例えば「NS-Deutschland(エヌエス・ドイチュラント)」のように造語される。
思想[編集]
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
党の思想として一貫して存在しているのは「アーリア人至上主義」、「反ユダヤ主義」、「反共」、「指導者による独裁」等であり、ヒトラーの著書「わが闘争」が党の聖典視された。しかし党の実際の行動においてはこれらの思想と矛盾する事態もしばしば起こった。しかし指導者に対する忠誠と服従が優先され(指導者原理)、党員は疑問をさしはさむことは許されなかった。
歴史[編集]
結成、ヒトラーの入党[編集]
1918年初頭に「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会(reier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden)」ブレーメンで結成される。錠前師で自称詩人でもあったアントン・ドレクスラーは同党の支部を1918年3月7日にミュンヘンで結成した。1919年1月5日にドレクスラーはゴットフリート・フェーダー(Gottfried Feder|Gottfried Feder)、ディートリヒ・エッカート、カール・ハラーらと共に同支部を「ドイツ労働者党(DAP)」に改名する。
ドイツ労働者党は結党当時第一次世界大戦での敗北に伴うドイツ帝国の解体と赤色革命に騒然とする世相に乗じて生まれたわずか40人ほどの泡沫政党に過ぎなかった(現在の感覚ではカフェに集まって議論するだけのほとんどサークルのようなものであり、事務所すらなかった)。母体であった「トゥーレ協会」の会員に、後に理論的指導者として活躍するアルフレート・ローゼンベルク、ディートリヒ・エッカートや、ルドルフ・ヘス等がおり、協会の異教的神秘主義・反ユダヤ主義はドイツ労働者党の思想に大きな影響を与えた。
当時アドルフ・ヒトラーは、ドイツ国防軍が非合法に行っていた政治情勢を調査する仕事をしていた。上官であるカール・マイヤー大尉に命ぜられて同党が1919年9月12日に開いた集会に参加し[7]、数日後に入党した。ヒトラーは自分が7番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は555番であり(番号は501番から始まる。)、この番号も1920年にアルファベット順で作成された名簿に基づくものであった。ヒトラーが7番目の幹部であったという説もあるが、名簿作成以前の正式な記録が無いため明確になっていない[7]。
ヒトラーはドレクスラーに見込まれ、たちまち党に不可欠な巧みな演説者となった。ヒトラーは軍の仕事から離れ、党務に専念するようになった。1919年12月、ドレクスラーとヒトラーは党規則を改定することで議長(党首)であったハラーを追放し、ドレクスラーが新議長となった。1920年1月5日、ヒトラーはドレクスラーと共に党綱領の整備に取り組み、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義などを訴える25カ条綱領を作成した。綱領は反資本主義、社会主義色が濃かった。2月には党名が変更され、6月にハーケンクロイツの党章を採用、12月には売りに出されていた週刊紙『フェルキッシャー・ベオバハター』を買い取り、党の機関紙とした。
ヒトラーはミュンヘン義勇軍とのパイプを持つエルンスト・レーム大尉やエッカートらの支持もあって党内で勢力を拡大した。ヒトラーは党内一番の人気弁士であり、数千人の聴衆を集めることが出来た。党財政においてもヒトラーは欠かせない存在になっていた。1921年7月、ヒトラー色を薄めようとする党内の動きに対して自らを唯一絶対の指導者とする独裁権(指導者原理)を要求するに至る。党内には反発もあったが、離党をちらつかせたヒトラーに屈し、7月29日に開かれた幹部会議で認められた。ドレクスラーは名誉議長に棚上げされ、ヒトラーが議長となった。このころからヒトラーはエッカートやヘスといった支持者から指導者を意味する「Führer」(フューラー)と呼ばれるようになり[7]、党内に定着した。この「Führer」はヒトラーの終生の肩書きとなった(総統を参照)。また同年8月には党内組織「体育スポーツ局(Sportabteilung)」がレームによって設立された。同組織は10月に「突撃隊」と改称し、他党の同種団体との市街戦の主力となった。
またこの頃から党勢の拡大を見た実業家からの寄付も相次ぎ、党勢はさらに拡大した。1923年には党員数3万5千人を数え、バイエルン州でも有数の政党になっていた。
ミュンヘン一揆[編集]
1923年1月にヴェルサイユ条約の賠償金の支払い遅延を理由にフランス軍がドイツの工業地帯であるルール地方を占領した。ナチスは右翼と共にフランス占領軍に対するテロを展開した。この際、党員の一人シュラゲター(Albert Leo Schlageter|Albert Leo Schlageter)がフランス軍に捕らえられ、軍法会議にかけられた上で処刑された。このシュラゲターの死をナチスが喧伝したことにより、ドイツ国内はもとより世界でも英雄視された[8]。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、更に勢力を拡大する。9月には国粋主義的な政党が連合して「ドイツ闘争連盟」が組織され、ヒトラーも指導者の一人になった。
不穏な空気は1923年9月のフリードリヒ・エーベルト大統領による非常事態宣言によって表面化し、反ベルリン指向であったバイエルン州政府と中央政府の対立の構図が生まれた。ドイツ闘争連盟はローマ進軍に倣って州政府を掌握し、その上でベルリンに進軍するという中央政権打倒計画を立案した。11月8日、ドイツ闘争連盟と同調したエーリヒ・ルーデンドルフ元参謀総長はバイエルン州政府指導者を軟禁し、州政府の建物を占拠した。しかし州政府指導者は逃亡し、ドイツ闘争連盟の鎮圧に乗りだした。11月9日、ドイツ闘争連盟は市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000~3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。
首謀者ヒトラーを初め、党員らは投獄され、投獄を免れた党員も国外逃亡を余儀なくされる。ナチスも危険政党として非合法化され、一時解散することになるが、かえってヒトラーと党の知名度は高まることとなった。その後も反ワイマール共和国の気運の高まりは衰えることはなく、ナチス党のいくつかのダミー団体が活動を続けた。
党内左派の中心人物であるグレゴール・シュトラッサーはヒトラーより先に出獄し、ヒトラー無き党内で指導的な立場を確立した。主にドイツ北部と西部において元党員を組織したダミー団体「国家社会主義ドイツ自由運動」を結成し、国会において32議席を獲得した。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには統制経済が必要と考えており、合法的な政権交代に路線転換し、既存勢力(産業界・軍部・貴族階級)との融和を考えたヒトラーとの間に溝を深めることになる。ヨーゼフ・ゲッベルスはこの頃にシュトラッサーの秘書として党活動を始めており、「日和見主義者のヒトラー氏の除名」を提案している。
党勢の拡大[編集]
1925年、ヒトラーが監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国し、ナチ党も再結成が許可された。再結成後のナチ党は合法活動による政権獲得を主軸として行うこととなる。しかし出獄後のヒトラーは集会で四千人を集めるなど影響力は強く、政府から一年間の演説禁止措置を受けた。
1926年、シュトラッサーは左翼の主張する王侯貴族の財産没収を支持し、企業の国営化を進める(ただし私有財産は認める)、領土回復のためのソ連との連携など、左派色の強い綱領改定案を呈示した。しかし、富裕層からの政治献金が無視できない額となっており、またソ連と組む案はヒトラーにとって受け入れられる案ではなかった。ヒトラーは2月14日にバンベルクで招集されたバンベルク会議においてシュトラッサーの案を退けると共に、「指導者原理」による絶対服従を迫り、屈服させた。一方でシュトラッサーを全国組織指導者に任じ、独自の出版社を認めるなどの懐柔も行った。しかしシュトラッサーの右腕であったゲッベルスがヒトラーに懐柔され、シュトラッサーの勢力は縮小した。
1928年、ナチス党として初めての国政選挙に挑んだが、12人の当選に留まった。しかしその後のドイツ経済の悪化と、ヴェルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案が合意されるとドイツ国民の反発を呼び、ナチス党は支持を集めていく事になる。ワイマール憲政では女性参政権があったため、ナチス党は女性に配慮した政策を打ち出して支持を拡大をした。1930年、ナチス党の伸長を恐れたブリューニング内閣は政治団体構成員が公の場で制服を着用することを禁じた。これは事実上の突撃隊禁止命令であったが、同年9月の選挙では107議席を獲得し、第二党に躍進した。ナチス党は中央党、ドイツ国家人民党とともにハルツブルク戦線(en)という連合を組み、ブリューニング内閣への攻撃を強めた。
しかし躍進はしても末端の突撃隊員には恩恵が及ばず、1931年3月には東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネス大尉が公然と党中央を批判し、突撃隊と親衛隊の間で衝突が起こるようになった。ヒトラーは南米からレームを召還して突撃隊の鎮撫に当たらせたが、突撃隊の独自傾向は強まるばかりであった。
1932年4月、大統領選挙が行われ、ヒトラーが大統領候補として出馬した。現大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルクが圧倒的な票を集めて勝利したものの、ヒトラーも30%以上の票を集めた。ブリューニング内閣は倒れ、大統領の側近であったシュライヒャー中将の策謀によりパーペン内閣が成立した。7月の選挙でナチ党は全584議席中230議席[9]を獲得し、ついに第一党の座を占めた。パーペンはナチス党と協力して議会運営を行おうとするが、首相の座にこだわるヒトラーは拒絶した。しかもヒトラーは首相の座に加え、全権委任を要求したから(のちに全権委任法として現実の物となる)、ヒンデンブルクやパーペンにとって、とうてい呑める要求ではなかった。さらにナチス党提出による内閣不信任案が可決され、進退窮まったパーペン首相は11月に再度選挙を行った。選挙の結果、ナチ党は34議席を失ったが、引き続き第一党の座を占め続けた。
投票年月日 | 得票数 | 得票率 | 当選数 |
---|---|---|---|
1928年5月20日 | 810,000 | 2.6% | 12人 |
1930年9月14日 | 6,410,000 | 18.3% | 107人 |
1932年7月31日 | 13,750,000 | 37.3% | 230人 |
1932年11月6日 | 11,740,000 | 33.1% | 196人 |
1933年3月5日 | 17,280,000 | 43.9% | 288人 |
1933年11月12日 | 39,655,288 | 92.2% | 661人 |
ナチス党内閣成立[編集]
11月の選挙の結果をうけてパーペン内閣は倒れた。しかしナチ党も絶対多数を確保出来ず、指名権を持つヒンデンブルク大統領がヒトラーを個人的に嫌っていたため、ヒトラー組閣は困難であった。その政治的空白を縫って、シュライヒャーが新首相となった。シュライヒャー首相は入閣を餌に組織局長シュトラッサーの切り崩しを図ったが失敗し、ヒンデンブルク大統領の信任も失った。
この間に、ヒトラーはヒンデンブルクの息子オスカーと大統領官房長オットー・マイスナーを味方に引き入れた。彼らの説得を受けてヒンデンブルクはついにヒトラーを首相に任命し、1933年1月30日にヒトラー内閣が発足した。発足当時、入閣したナチス党員はヒトラーを含めて3名であり、副首相パーペンを代表とする保守派はヒトラーを制御出来ると考えていた。しかしプロイセン州内相に就任したゲーリングが国土の過半数以上を占めるプロイセン州の警察権力を握り、突撃隊や親衛隊が警察権力に浸透していった。
独裁権力確立[編集]
組閣後まもなく議会は解散され、選挙運動が始まった。しかし2月に国会議事堂放火事件が起こり、これを共産党の陰謀と見なして緊急大統領令を布告、共産党幹部を逮捕した。当時の法律では国会議員の逮捕は禁じられていたが、緊急大統領令がこれを許した。
選挙の結果、ナチス党が勝利したことが明らかになると、「党がドイツ民族を指導する体制が承認された」として、党による独裁を強化した。プロイセン州国家代理官のゲーリングを始めとする地各方の党員は鉤十字の党旗を地方官公庁の建物に掲揚させた。さらにヒトラーは3月23日に全権委任法を国会承認させ、立法権を国会からヒトラー政権に委譲させた。この法律はどんな法律も議会の審議を経ないで政府が制定できることを意味してした。既存の政党は次々と解散し、7月には政党禁止法によりナチ党以外の政党は禁止された。また、これに前後してヴァイマル憲法に定められた基本的人権や労働者の権利のほとんどは停止された。11月には最後の国会選挙が行われ、国会議員はナチス党員のみとなった。12月には国家と党の不可分な一体化が定められた。
1934年6月30日、第二革命を主張する突撃隊参謀長レームや党内左派など党内外のヒトラー反対派を一斉に粛清(長いナイフの夜事件)し、独裁権力は確実なものとなった。ドイツ国防軍や資本家とも連携し、国内の反対派は息を潜めた。8月にはヒンデンブルク大統領死亡にともなって発効した国家元首法により、首相のヒトラーに大統領権限が委譲され、ヒトラーは国家元首となった。1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅・商店・シナゴーグなどを襲撃・放火している(水晶の夜)。
党による全国支配[編集]
1933年4月7日、州政府にナチ党幹部が国家代理官(Reichsstatthalter)として送り込み、民主主義的な地方自治を停止させた。 党の組織上の単位である大管区、管区、支部、細胞、班 はそのまま国民支配の行政単位になった。党の組織は生活の大部分に浸透し、労働組合に代わる「ドイツ労働戦線」や、下部組織の「歓喜力行団」などによって、労働・教育・余暇など私生活の隅々まで党によって支配されていた。また青少年はヒトラー・ユーゲントへの加入が義務づけられた。これらの組織は第二次世界大戦では防空や治安維持なども担当し、大戦末期には本土防衛のために老人・子供から成る非正規軍の「国民突撃隊」の母体にもなっている。
敗戦後[編集]
1945年4月30日にヒトラーが総統地下壕で自殺した後、遺言によってマルティン・ボルマンが「党担当大臣」に任命された。しかし遺書は広く知られなかった上に、まもなくボルマンは消息を絶った。ヒトラー亡きナチ党は統制能力を失い、事実上解散状態となった。この間にヒムラーら一部の幹部は逃亡を図っている。1945年5月8日にドイツが連合国軍に降伏し、軍政下に置かれた9月10日には党の存在自体が法律によって禁止され、「ニュルンベルク裁判」により「犯罪的な組織」と認定された。
幹部[編集]
指導者[編集]
党の組織は階層化されており、それぞれの階層の指導者がその階層以下を支配し、党首にあたる指導者(総統)アドルフ・ヒトラーは、党のすべてにわたる独裁権を握っていた。
全国指導者[編集]
全国指導部(Reichsleitung)は、職能別に党務を分担して指導者ヒトラーを補佐する17〜20人の全国指導者(de:Reichsleiter)から構成された(1934年時点の党組織図では18名が挙げられている)。全国指導者には、1933年の政権奪取後のヒトラー内閣で国務大臣を兼務する者が多く含まれていた。
- ルドルフ・ヘス - 指導者代理(副総統や総統代理という訳もある。以下同じ)(Stellvertreter des Führers)。無任所大臣兼務。
- ヘルマン・ゲーリング - 指導者後継者(総統後継者)。空軍総司令官・航空大臣兼務。
- マルティン・ボルマン -党官房長(Parteikanzlei)。 無任所大臣待遇(1941-)、ヒトラーの遺言によってナチ党担当大臣に指名。
- フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ-財政全国指導者(Reichsschatzmeister der NSDAP )。
- フィリップ・ボウラー -指導者官房長(Chef der Kanzlei des Führers und Vorsitzender)。 ナチス文芸保護審査委員会会長を兼務。T4作戦の責任者。
- ヴァルター・ブーフ(Walter Buch)-党最高裁判所長(Oberstes Parteigericht der NSDAP)。
- ヴィルヘルム・グリム(Wilhelm Grimm)-党第2最高裁判所長(Der Stellvertretende Vorsitzender des Obersten Parteigerichts / Der Vorsitzende der 2.)。
- グレゴール・シュトラッサー - 宣伝全国指導者(Reichspropagandaleiter)(党宣伝部長)(1926 - 1929)。
- ヨーゼフ・ゲッベルス - 宣伝全国指導者(Reichspropagandaleiter)(党宣伝部長)(1929 - )。国民啓蒙宣伝大臣・ベルリン大管区指導者・ 国家文化院総裁兼務。
- マックス・アマン -出版全国指導者(Reichsleiter für die Presse)兼 党機関紙指導者(Der Leiter der Parteipresse der NSDAP)。 国家出版院総裁兼務
- オットー・ディートリヒ -新聞全国指導者(Reichspressechef)。
- リヒャルト・ヴァルター・ダレ - 農政全国指導者(Dar Leiter des Amtes für Agrarpolitik)(党農業政策局長)、後に全国農民指導者(Reichsbauernführer)に改称(1933 - 1943)。食糧大臣兼務。
- ヘルベルト・バッケ -全国農民指導者(Reichsbauernführer)(1943 - 1945)。食糧大臣兼務。
- リッター・フォン・エップ -国防政策全国指導者(Leiter des Wehrpolitischen Amtes)・植民政策全国指導者( Leiter desKolonialpolitischen Amtes der NSDAP)。
- ヴィルヘルム・フリック - 国会議員団長。内務大臣兼務、次いでベーメン・メーレン保護領総督兼務。
- カール・フィーラー -書記全国指導者(Schriftführer der NSDAP)後に地方行政本部長(Leiter des Hauptamts für Kommunalpolitik)。
- グレゴール・シュトラッサー - 組織全国指導者(Reichsorganisationsleiter)(党組織局長)(1929 - 1932)。ナチス左派の幹部、1932年に離党
- ロベルト・ライ - 組織全国指導者(Reichsorganisationsleiter)(党組織局)(1932 -1945)。ドイツ労働戦線指導者・無任所大臣兼務。
- ハンス・フランク -司法全国指導者(Der Leiter des Reichsrechtsamtes)。 無任所大臣兼務、ポーランド総督兼務
- アルフレート・ローゼンベルク -対外政策全国指導者。 東方占領大臣兼務。
- エルンスト・レーム -突撃隊幕僚長(Der Stabschef der SA)(1930 -1934)。無任所大臣兼務、長いナイフの夜で粛清。
- ヴィクトール・ルッツェ - 突撃隊幕僚長(1934 - 1943)。
- ヴィルヘルム・シェップマン - 突撃隊幕僚長(1943 -1945)。
- ヨーゼフ・ベルヒトルト-親衛隊全国指導者(Reichsführer des SS)(1926-1927)。
- エアハルト・ハイデン-親衛隊全国指導者(1927-1929)。
- ハインリヒ・ヒムラー -親衛隊全国指導者(1929 - 1945)。1936年から全ドイツ警察長官、1943年より内務大臣兼務。
- カール・ハンケ -親衛隊全国指導者(1945)(ヒトラーの遺言による指名)。
- バルドゥール・フォン・シーラッハ-青少年全国指導者(Reichsjugendführer)(1930 - 1940)。
- アルトゥール・アクスマン-青少年全国指導者(1940 - 1945)。
- コンスタンティン・ヒール(Konstantin Hierl) - 国家社会主義義勇労働奉仕団団長。労働次官とde:Reichskommissar für den Arbeitsdienstを兼務。
大管区指導者[編集]
大管区指導者(de:Gauleiter)を参照。
その他の幹部[編集]
- 管区指導者(Kreisleiter)
- 地区指導者(Ortsgruppenleiter)
- 細胞指導者(Zellenleiter)
- 街区指導者(Blockleiter)
機構[編集]
党官房[編集]
政権末期のナチス党の実務は官房長マルティン・ボルマンが差配しており、事実上、彼が党の実権を握るにいたった。
- 党官房長(Parteikanzlei): マルティン・ボルマン。
出納局[編集]
- 財政全国指導者(Reichsschatzmeister der NSDAP ): フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ
指導者官房[編集]
- 指導者官房長(Chef der Kanzlei des Führers und Vorsitzender): フィリップ・ボウラー
党裁判所[編集]
- 党最高裁判所長(Oberstes Parteigericht der NSDAP):ヴァルター・ブーフ(Walter Buch)
- 党第2最高裁判所長(Der Stellvertretende Vorsitzender des Obersten Parteigerichts / Der Vorsitzende der 2.): ヴィルヘルム・グリム(Wilhelm Grimm)
宣伝局[編集]
- 宣伝全国指導者(Reichspropagandaleiter)(党宣伝部長):グレゴール・シュトラッサー (1926 - 1929)。同 ヨーゼフ・ゲッベルス (1929 - )。
出版局[編集]
- 統括組織: フランツ・エーア・フェルラーグ
- 出版全国指導者(Reichsleiter für die Presse)兼 党機関紙指導者(Der Leiter der Parteipresse der NSDAP): マックス・アマン
新聞局[編集]
- 新聞全国指導者(Reichspressechef): オットー・ディートリヒ
農業政策局[編集]
都市を基盤にしていたナチスにとって、農業政策に関する部局が置かれたのは比較的遅かった。後に農民局に名称変更されている。
- 農政全国指導者(Dar Leiter des Amtes für Agrarpolitik)(党農業政策局長)後に全国農民指導者(Reichsbauernführer)に改称: リヒャルト・ヴァルター・ダレ (1933 - 1943)、 ヘルベルト・バッケ (1943 - )
国防政策局[編集]
第二次世界大戦の勃発後に東方占領地を獲得すると、植民政策局に改められた。
- 国防政策全国指導者(Leiter des Wehrpolitischen Amtes)・植民政策全国指導者( Leiter desKolonialpolitischen Amtes der NSDAP): リッター・フォン・エップ
国会議員団[編集]
ナチス党が選挙に出馬して以降、国会議員の数も増加した。しかしヒトラーが独裁権力を握ると、ほとんど名誉職に過ぎなくなった。
- 国会議員団長:ヴィルヘルム・フリック
書記局[編集]
- 書記全国指導者(Schriftführer der NSDAP)後に地方行政本部長(Leiter des Hauptamts für Kommunalpolitik): カール・フィーラー
組織局[編集]
- 組織全国指導者(Reichsorganisationsleiter)(党組織局長): グレゴール・シュトラッサー (1929 - 1932)、 ロベルト・ライ (1932 -1945)
司法局[編集]
- 司法全国指導者(Der Leiter des Reichsrechtsamtes): ハンス・フランク
対外政策局[編集]
- 対外政策全国指導者: アルフレート・ローゼンベルク
突撃隊[編集]
当時のドイツの政党は、ドイツ社会民主党の「国旗団」、ドイツ国家人民党の友好団体鉄兜団、ドイツ共産党の赤色戦線戦士同盟といった、統一された制服を着、旗を掲げて街頭を行進する集団を抱えていた。エルンスト・レームの設立した党内組織の「体育スポーツ局」が改称されて生まれた突撃隊はそのような性格の組織であり、街頭行進や他党の活動妨害を行った。突撃隊はナチス党の知名度を上げるのに役立ったが、後に粗暴なならず者の集団であるという評判が立った。この事が後の長いナイフの夜事件による突撃隊幹部粛清の一因となった。しかしその後も国内最大の組織として存続した。
- 突撃隊指導者: フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン - 突撃隊司令官[10]
- 突撃隊幕僚長(Der Stabschef der SA)[11]: エルンスト・レーム (1930 -1934)、 ヴィクトール・ルッツェ (1934 - 1943)、 ヴィルヘルム・シェップマン (1943 -1945)
親衛隊[編集]
1925年、ヒトラー警護のために突撃隊の下部組織として「親衛隊」が結成される。ハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者となって以降で親衛隊は拡大を続け、党内最重要組織の一つとなった。
- 親衛隊上級指導者(Oberleiter-SS): ユリウス・シュレック(1925年-1926年)
- 親衛隊全国指導者(Reichsführer des SS): ヨーゼフ・ベルヒトルト(1926年-1927年)、 エアハルト・ハイデン(1927年-1929年)、 ハインリヒ・ヒムラー (1929 - 1945)、 カール・ハンケ (1945)(ヒトラーの遺言による指名)
1935年には国防軍にも警察にも所属しない軍事組織親衛隊特務部隊が設けられた。ここに志願すれば、義務兵役年限に算入された。1940年には武装親衛隊と改名されて、陸軍・海軍・空軍と並ぶ第四の軍隊と認知された。
青少年組織[編集]
政権獲得後、18歳以下の青少年は青少年全国指導者が支配する組織への入隊を義務付けられた。
- 統括組織
- ヒトラーユーゲント Hitlerjugend(HJ) - 14~18歳の青年の「よきナチ党員になる」ための教育組織。
- 青少年全国指導者(Reichsjugendführer): バルドゥール・フォン・シーラッハ(1930 - 1940)、 アルトゥール・アクスマン(1940 -1945 )
- ドイツ女子同盟
国家社会主義義勇労働奉仕団[編集]
1933年、ナチ党は失業対策に「国家社会主義義勇労働奉仕団」(Erziehung im Nationalsozialismus)を設置し、失業者を雇用した。1935年には他の類似組織と合流し、国家機関である国家労働奉仕団となった。
その他の組織[編集]
パートタイム的に招集される一般党員のほか、下記の組織に入ることも出来た。
- 国家社会主義女性同盟 NSF
- 国家社会主義航空軍団 NSFK
- 国家社会主義自動車軍団 NSKK - 当時運転技術は貴重であった。
- ナチス学生同盟 NSDStB
地方組織[編集]
地方組織は規模ごとに大管区、管区、地区、細胞、街区、班と分けられており、それぞれに指導者がいた。大管区の範囲は州レベルであり、最小単位の班の構成は40~50世帯である。また、ドイツの占領区域が増加すると帝国大管区等が設置されている。
大管区はナチ党の地方組織としての最大の単位で、そこには大管区指導者(de:Gauleiter)(1935年には33人)が置かれた。ベルリン=ブランデンブルク大管区指導者は宣伝全国指導者(宣伝大臣兼務)のゲッベルスであり、彼は全国指導者と大管区指導者を兼任していた唯一の人物であった。また、南ハノーファー・ブラウンシュヴァイク大管区指導者ベルンハルト・ルストは1934年以降、国の文部大臣でもあった。また、国外大管区は外国のナチ党員を統括する大管区という扱いであった。
下位の指導者の人数は1935年時点でそれぞれ管区指導者(Kreisleiter)は827人、地区指導者(Ortsgruppenleiter)は20,724人、細胞指導者(Zellenleiter)は976人、街区指導者(Blockleiter)は204,359人となっている。
党員[編集]
ナチ党の一般的な党員は主として田舎や都市部の中流階級から構成されていた。7%は上流階級に属し、7%は農民であった。35%は産業労働者であり、51%は中流階級に所属した。最大の単一職業集団は小学校教師であった。党が結成された1920年には党員数は約2000人に過ぎなかったが、1933年の政権奪取時に党員数は250万人まで膨れあがっていた。1945年に党が解散した時、公式名簿に掲載された党員は合計850万人に上った。
党員の階級[編集]
党員の階級は30以上に分けられていた。
ドイツ国防軍におけるナチ党員[編集]
国防軍は外部からの政治的な影響を恐れ、国防軍の兵士は非政治的であることを要求したため、国防軍に入隊しようとするナチ党員は離党を要求されることがあった要出典。政権獲得後はヴァルター・フォン・ライヒェナウなど入党する将官も現れ、高位の将兵には親衛隊名誉指導者などの名誉党員としての待遇を受けるものも現れた。
党のシンボル[編集]
党のシンボルである鉤十字は1920年に採用された。歯科医フリードリヒ・クローンが募集に応じてデザインしたもので、義勇軍「エアハルト旅団」(de)(「コンスル」の前身)が使用していた鉤十字を下地にデザインしたものに修正を加えたものである。党旗の赤と黒は「血と大地」を表すとされる。
赤・黒・白の組み合わせは旧ドイツ帝国旗に使用されたもので、現在の国旗に無い白はプロイセンの旗を表している。ヒトラーは、赤は社会的理念、白は国家主義的理念、ハーケンクロイツ(鉤十字)は古代ヒンズーの印を増幅したものである。これはアーリア民族の勝利のために戦う使命を表しているとされた。またナチ党は円や背景のないハーケンクロイツも使用した。また、円で囲ったハーケンクロイツの上に鷲を配した紋章も使われている。
ナチ党は複数の党歌を採用したが、その中で最もよく知られているのが『旗を高く掲げよ』(ホルスト・ヴェッセル・リート)である。1930年に共産党員により命を落とした突撃隊員ホルスト・ヴェッセルが作詞したもので、当時流行していた歌謡曲(原曲はオペラの曲)がつけられ、党員の間で大流行した。やがては対立政党が揶揄するために替え歌を作るなど、ナチ党の象徴として扱われた。ヒトラーが政権の座に就くと第二の国歌的に扱われた。また、イギリスファシスト連合やファランヘ党等海外のファシスト政党の間でも歌詞を変えて歌われている。
関連施設[編集]
党の発祥の地であるミュンヘンには通称褐色館(de:Braunes Haus)と呼ばれる本部が置かれた。隣接してミュンヘンの総統官邸も置かれた。戦後、党本部は破壊されたが、総統官邸はミュンヘン音楽・演劇大学の校舎として残っている。
党大会が開かれる場所であったニュルンベルクのツェッペリン広場(en)には党大会用の施設が建設され、現在も競技場として使用されている。
また創設当時の党が大会を開き、ミュンヘン一揆の舞台となったビアホールビュルガーブロイケラーは党の聖地視され、毎年ミュンヘン一揆の記念日にはヒトラーが古参党員を前に演説した。ビュルガーブロイケラーは1979年まで存在していたが、現在は案内板が残るのみとなっている。
ベルヒテスガーデン近郊オーバーザルツベルクにはヒトラーの別荘ベルクホーフが存在し、後にはオーバーザルツベルク一帯が党の所有となった。ヒトラーはベルクホーフでの生活を好み、長い期間をそこで過ごした。オーバーザルツベルクには党幹部達の別荘も置かれたが、大半が終戦間際の空襲と親衛隊員による破壊で焼失した。しかしヒトラーのもう一つの別荘であったケールシュタインハウスは現存している。
プロパガンダ[編集]
党は機関紙としてフェルキッシャー・ベオバハターを発刊し、選挙戦術や国内統制に利用した。また、党幹部の一人であったユリウス・シュトライヒャーが発行した雑誌シュテュルマーは反ユダヤ主義を広める手段となった。
しかしナチス党のプロパガンディストとして最も知られているのがヨーゼフ・ゲッベルスである。ゲッベルス「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる。」と日記に記しており、政敵の共産党の手法を利用し、かつそれを凌駕する規模で行った。
戸別訪問[12]、党専属の楽団、膨大な量のビラ・ポスターの配布や、対立する政治家に対する猛烈なネガティブ・キャンペーン、ラジオを利用した政見放送、航空機を利用した遊説旅行、町の壁を埋め尽くすポスター等は他党のそれを上まわる強烈なインパクトを与えた。また娯楽の中にさりげなく党の宣伝を織り交ぜる手法で宣伝効果を浸透させる手法を用いている。
宣伝全国指導者であったゲッベルスは1927年に首都ベルリンで新聞『デア・アングリフ』紙を発刊した。新聞は他の新聞や他の政党を大きな活字で口汚く罵るもので、攻撃された新聞が反論の記事を書けば書くほど、ナチスの宣伝になってしまう効果もあったため、わざと讒言で他紙を「釣る」ことすらあった。また、時にはテロに訴えることもあった。1930年2月23日、党員ホルスト・ヴェッセルが共産党員ヘラーに暗殺されるが、ゲッベルスはヴェッセルを殉教者に祭り上げ、盛大な葬儀を行って共産党に対する憎悪を煽り立てた。
党による全国支配確立後にもプロパガンダは続けられ、政府の権力を用いた言論統制や、退廃芸術等に見られるような価値観統一政策にも乗りだしている。ヒトラー政権成立後の1933年3月、ヒトラーは国民啓蒙・宣伝省を組織し、ゲッベルスが国民啓蒙・宣伝大臣に任命された。宣伝省は敗戦にいたるまで強力なプロパガンダによって国民を統制した。
類似政党[編集]
ドイツ本国だけでなく、国外にもナチズムに近い思想を持った政党が存在した。第二次世界大戦時、これらの政党はナチス・ドイツによる傀儡政権の支持政党としても活動したりした。オーストリア・ナチスとズデーテン・ドイツ人党は後にナチス党に合流している。
ヨーロッパ[編集]
- オーストリア・ナチス(en:Austrian National Socialism)
- ズデーテン・ドイツ人党
- 矢十字党(ハンガリー)
- 国家社会主義ブロック(en:National Socialist Bloc)(スウェーデン)
- 国家社会主義労働者党(en:National Socialist Workers' Party (Sweden))(スウェーデン)
- 国家社会主義デンマーク労働者党(en:National Socialist Workers' Party of Denmark)
- 国家社会主義同盟(en:National Socialist League)(イギリス)
- オランダ国家社会主義運動(en:National Socialist Movement in the Netherlands)
- 国家社会主義オランダ労働者党(en:National Socialist Dutch Workers Party)
- 国家社会主義運動(en:National Social Movement (Bulgaria))(ブルガリア)
- ギリシャ国家社会主義党(en:Greek National Socialist Party)
南北アメリカ[編集]
- ドイツ系アメリカ人協会
- 新生ドイツ友の会(アメリカ合衆国)
- 国家統一党(カナダ)
- チリ国家社会主義運動(en:National Socialist Movement of Chile)
アフリカ[編集]
- Ossewabrandwag(南アフリカ)
- Greyshirts (南アフリカ)
戦後[編集]
非ナチ化[編集]
ドイツ国内では刑法第86条でナチズムのプロパガンダ及びそれに類する行為が禁じられており、ドイツ社会主義帝国党など後継政党と見なされた党は即座に禁止されている。また、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、チェコ、フランス、ブラジル等でも同様にナチス関連のプロパガンダを禁じる法律が存在している。
日本では一時期「ドイツではナチス犯罪に時効はない」という報道が行われた事があったが、実際にはドイツ刑法はナチスとは関わりなく「謀殺罪(計画的殺人)」の時効が無いということである。その罪に該当しないナチス時代の犯罪は全て時効が成立している。また、ドイツのEU加盟後は同様の法律をEU圏内に広めることについての論議も行われている。
2009年7月11日にも、ドイツ国防軍の元少尉、ヨーゼフ・ショイングラバーが、イタリアのトスカーナ州の村でパルチザン掃討中に、一般住民10人の殺害命令を出したとして、ドイツの法廷で終身刑を言い渡された。[1]
また、イスラエルはホロコーストに関するナチス党戦犯を国家として訴追しており、現在でもナチ・ハンターによる戦犯捜索が続けられている。
ネオナチ[編集]
ナチス党が崩壊した後も、世界各地にはナチズムを受け継ぐと称した団体が多く存在している。また、ホロコースト否定など、ナチス・ドイツにおける犯罪を否定する動きも根強く残っている。
アメリカにおいては1953年にジョージ・リンカーン・ロックウェル海軍大佐が「アメリカ・ナチ党」を結成した。これは1960年代にその党勢が最高潮に達し、多くの法的機関が党の危険性を警告したが、言論の自由を重視する世論によって、党の解散を免れその存在の継続が認められた。しかし、ジョージ・ロックウェルが暗殺されると国家社会主義白人党と改称し、その会員の大部分と財源の多くを失った。また分派としてアメリカ国家社会党などが存在した。
脚注[編集]
- ↑ 広辞苑、大辞林、大辞泉
- ↑ 世界大百科事典、林健太郎、村瀬興雄、内務省警保局『外事警察報126号』・『外事警察研究資料・国民社会主義独逸労働者党の綱領と其の世界観的根本思想』など。
- ↑ マルクス経済学の研究者岩田弘は、「民族社会主義」の呼称がナチスの主張に即しているとの意見を発表している岩田弘『河村シナリオと宇野段階論によせる』
- ↑ 広辞苑、大辞林、大辞泉など
- ↑ 『東京朝日新聞』1933年1月31日号「惑星ヒトラー氏 遂に政權を掌握す」の文中「國粹社會黨首領アドルフ・ヒトラー氏」など
- ↑ 一例として1933年(和暦??年)11月12日付で永井松三駐独大使が外務省に打電した電報には『「ヒットラー」及び「ナヂ」要人』と表記されているほか、11月18日の電報では『「ナチ」議員』という表記もある。(外務省記録独国内政関係雑纂第二巻、アジア歴史資料センター Ref.B02032288600)
- ↑ 7.0 7.1 7.2 村瀬興雄 『アドルフ・ヒトラー 「独裁者」出現の歴史的背景』(中公新書) ISBN 978-4121004789
- ↑ ソビエト連邦共産党の幹部であり、コミンテルンのカール・ラデックもシュラゲターを「共産主義者はこの反革命の良き兵士を革命の兵士として尊敬しなければならぬ」と賞賛した。これはドイツを反西欧陣営に迎えようとするナショナル・ボリシェヴィズムの立場によるものである。林健太郎『ワイマル共和国―ヒトラーを出現させたもの』(中公新書)ISBN 978-4121000279
- ↑ これまでのヴァイマル共和政における最大議席数はドイツ社会民主党が得た153議席。
- ↑ 1930年以降はヒトラーが司令官を兼務
- ↑ 突撃隊幕僚長は全国指導者扱い
- ↑ ヴァイマル共和政期には戸別訪問は禁じられておらず、多くの政党が同じ行動を行った。
文献[編集]
- 四宮恭二(1932年から1934年までナチスの政権奪取を身近に観察した留学生)『ナチス』 政経書院、1934年
- 森川覚三 『ナチス独逸の解剖』 コロナ社、1940年
- Milton Mayer 『彼らは自由だと思っていた:元ナチ党員十人の思想と行動』田中浩・金井和子(訳)、未來社、1983年、ISBN 4-624-11068-4
- Alexander Drozdynski 『ヒトラー・ジョーク:ジョークでつづる第三帝国史』 関楠生(編訳)、河出書房新社、1980年
- Ian Kershaw 『ヒトラー 権力の本質』 石田勇治(訳)、白水社、1998年
- 加瀬俊一(ヒトラーと会談したことのある外交官) 『ワイマールの落日』 光人社、1998年
- 宮田光雄・柳父圀近編 『ナチ・ドイツの政治思想』 創文社、2002年、ISBN 4-423-71052-8
- 佐野誠 『近代啓蒙批判とナチズムの病理』 創文社、2003年、ISBN 4-423-71057-9
- 『健康帝国ナチス』草思社、2003年9月、ISBN 978-4-7942-1226-9
- ウィリアム・L・シャイラー 『第三帝国の興亡』全5巻 (松浦伶訳 東京創元社 2008-09年)
- 飯田道子 『ナチスと映画 ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか』(中公新書 2009年)
関連項目[編集]
- 独裁政治
- アドルフ・ヒトラー・シューレ
- ナチス左派
- ネオナチ
- コンスル (テロ組織)
- 我が闘争
- ゲルマン民族
- 退廃芸術
- 宥和政策
- 電撃戦
- フォルクスワーゲン
- ダイムラー・ベンツ
- アーリアン学説
- サイモン・ヴィーゼンタール
- 保守革命
- ナショナル・ボルシェヴィズム
- 非ナチ化
- ハーケンクロイツ
- 卍(まんじ(万字);ハーケンクロイツと密接な関係がある)
- ナチズム
外部リンク[編集]
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