「B'z (3)」の版間の差分
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− | '''B'z''' | + | '''B'z'''(ビーズ)は、[[松本孝弘]]、[[稲葉浩志]]の2人で構成される日本の[[音楽ユニット]]。[[ビーイング]]傘下の[[レコードレーベル|レーベル]]、[[VERMILLION RECORDS]]に所属。公式ファンクラブは「[[B'z Party]]」である。 |
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+ | === 結成前〜デビュー === | ||
+ | [[1987年]]、音楽制作会社[[ビーイング]]に所属し、[[浜田麻里]]や[[TM NETWORK]]などの[[バックバンド|ツアーサポート]]や[[スタジオ・ミュージシャン]]として活動していた<ref name="ultra"/>[[ギタリスト]]の松本が、「自らの音楽を表現できる[[バンド (音楽)|バンド]]を創る」という構想のもと、バンド結成へ向けた活動を開始。その間、ある[[ボーカリスト]]とバンドを組む事を音楽雑誌で公表したが、そのボーカリストとデビューする事はなかった<ref>『Go!Go!GUITAR』ヤマハミュージックメディア1987年 </ref>。 | ||
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+ | [[1988年]][[5月]]、ボーカリストを探していた松本は、ビーイングの社長で[[音楽プロデューサー]]でもあった[[長戸大幸]]から1本のデモテープを渡される。そのデモテープは学生時代の稲葉が、[[T-ボーン・ウォーカー]]の「T-BORN SHUFFLE」、[[レッド・ツェッペリン]]の「YOU SHOOK ME」、[[ビリー・ジョエル]]の「Honesty」を歌ったものが録音されていた<ref name="treasure">『B'z The Book Treasure』Rooms RECORDS、1998年。</ref>。長戸はB'z結成の2、3年前から「稲葉を何とかしたい、早くデビューさせたい」と事あるごとに言い続けていたという<ref>『GB』1990年 ソニーマガジン社 </ref>。 | ||
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+ | 長戸を介して、2人は曲をあわせる約束を交わす(しかし松本は、「デモも聞いたし、写真も見たし、(稲葉と会う前から)自分は心が決まっていた」と後日語っている<ref name="bewith003">『Be with! volume003』B'z PARTY、1989年。</ref>)。翌日「SOUND JOAKER」という小さなスタジオで初顔合わせした2人は、[[ビートルズ]]の「[[レット・イット・ビー (曲)|Let It Be]]」、「[[オー!ダーリン|Oh! Darling]]」の2曲を[[セッション]]する<ref name="treasure"/><ref>『Be with! volume000』B'z PARTY、1988年。</ref>。しかし、機材の故障により結局その日は2曲しかセッションが出来ず、その場はお開きとなった。後日再び会った時には、何故か既にデビューへ向けての活動が始まっていたという<ref name="treasure"/>。その後2人はユニット'''B'z'''を結成、1988年[[9月21日]]に[[シングル]]『[[だからその手を離して]]』、[[アルバム]]『[[B'z (アルバム)|B'z]]』の同時リリースでデビューした。 | ||
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+ | 2人が初めて出会ってB'z結成・デビューに至るまでは、約4ヶ月という短い期間であった。B'z結成時はお互い(特に稲葉)の合意が形成されないままデビューへの話が進んだらしく、稲葉は結成当時について「振り返ってみれば、これまで松本さんから『一緒にバンドをやろう!』とはっきり口にして言われたことは一度もない」とインタビューやライブMCで語っている<ref name="densetsu">『音楽のヒーローたち B'z伝説』汐文社、2002年。</ref><ref name="miracle">佐伯明『B'z ミラクルクロニクル』ソニー・マガジン、2008年。ISBN 978-4-7897-3328-1</ref>。ただし1993年に敢行されたライブツアー『[[LIVE-GYM|LIVE-GYM '93 "RUN"]]』でのMCでこのエピソードが語られたときは、「そういえば言っていないな」ということで、稲葉が冗談めかしながら「一緒にやろう!」と言った事もある。 | ||
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+ | 結成当時の音楽業界では、「新人はアルバムを3枚リリースするまでにヒット作品を作れなければ見切りをつけられる」という風習があった。そのため、松本はデビュー時から明確なビジョンを持って制作に当たっており、稲葉と初対面した際に「3年以内に(当時一番売れていた音楽雑誌である)『[[ギターブック|Gb]]』の表紙を飾る」「3年以内に『[[オリコン]]』の(1位〜50位までが掲載されている)左ページに載る」といった「三ヵ年計画」を力説していたという<ref name="miracle"/><ref name="bewith075">『Be with! volume075』B'z PARTY、2007年。</ref>。 | ||
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+ | 初期のB'zのプロデューサーは[[中島正雄]]である。B'zがブレイクした後も中島は[[スーパーバイザー]]という肩書きで指揮していた。 | ||
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+ | === 結成後〜現在 === | ||
+ | デビュー当時はTM NETWORKのツアーに[[バーター|くっつける形でキャンペーンを行う]]など、地道な活動を続けていた<ref name="ultra"/>。キャンペーンについては、「松本によるギターセミナー」と称して客を集めるものの、実際はセミナーを早々に切り上げて後半をB'zのお披露目コンサートの時間に当てる、といったものであった(これについては客の方もB'zのお披露目のためのセミナーだということは認識していた)<ref name="miracle"/>。メンバーは「(多くのファンと)握手しすぎて手から指紋が消えた」「(お辞儀のしすぎで)一日が終わると体が"くの字"から戻らない」などと語ったことがあり、キャンペーンや挨拶回りはかなりのハードスケジュールだった<ref name="densetsu"/>。 | ||
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+ | しかし、デビュー作は全く売れず[[オリコン]]チャート100位以内にも入らないなど、デビューからしばらくは苦戦が続いた。[[ブレイク]]のきっかけは[[1989年]]にリリースした[[ミニアルバム]]『[[BAD COMMUNICATION]]』である。このミニアルバムに収録された同名の曲が、タイアップの効果もあり[[有線]]で注目され始め、オリコンチャートに(10位以内には入らなかったものの)163週ランクインするというロングヒットを記録。[[1990年]]リリースの4thシングル『[[BE THERE]]』で初のトップ10入り、そして同年リリースの5thシングル『[[太陽のKomachi Angel]]』が初のオリコンチャート1位を記録しブレイクを果たす<ref name="densetsu"/>。 | ||
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+ | ブレイク以降から現在にかけて、シングル連続初登場首位獲得数やアーティスト・トータル・セールスを始めとする日本音楽界における数多くの記録を樹立(詳細は[[#主な記録|後述]])、『日本が誇るロックユニット』と呼ばれるまでに人気を博す<ref name="r25"/>。[[2007年]]には[[ロックンロール]]・音楽界に貢献したアーティストを讃える「ハリウッド・ロックウォーク」へ殿堂入りとなった([[#「ハリウッド・ロックウォーク」への殿堂入り|後述]])。[[2008年]][[9月21日]]には結成20年となり、2009年に至るまでもコンスタントにCDをリリースしたりライブを敢行したりなどといった活動を行っている。 | ||
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+ | == 概要 == | ||
+ | === ユニット名 === | ||
+ | ==== アクセントの位置 ==== | ||
+ | ユニット名である「'''ビーズ'''」は、世間的には抑揚をつけない平板な読み方(例えば「リール」「レール」に近い読み方)が主流であるが、『[[ミュージックステーション]]』(テレビ朝日系列)でメンバーが語ったところによると、正しい読み方は先頭にアクセントを置いた「'''ビ'''ィズ」であるとされる(例えば「プール」「シール」に近いアクセント)。また『[[NHKスペシャル]]』([[日本放送協会|NHK]])においてB'zを特集した際、NHKは先頭にアクセントを置いた読み方を採用している。これについてNHK側は「ご本人たちもファンも関係者もみんな(「ビ」にアクセントを置いて)『'''ビ'''ィズ』とよんでいます」と回答した。 | ||
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+ | 平板な発音の方が一般に定着した理由について[[放送文化研究所]]は「(NHKの)番組内での発音については、責任者が決めている」という前提を置いた上で、「ギター、ドラマ、映画、ディレクター。こういった言葉は、かつては頭を高くした発音がされていたと思うのですが、今は平たく言うほうが主流ですね。日本語の習性として、言葉が出来て、馴染みが薄いときには頭にアクセントを置く、そしてその言葉が口をついて出る回数が増えるにつれ、どんどん後ろに移動して、落ち着いていくというものがあります。「ビーズ」と平べったい発音になるのは、自然の流れなのでは」という見解を語っている<ref>「[http://news.livedoor.com/article/detail/3856760/ 平板読みは間違い!? 「B'z」の正しい呼び方って?]」日刊サイゾー、2008年10月13日</ref>。 | ||
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+ | なおメンバーは「自分達は'''ビ'''ィズと呼んでますが、どちらでも呼びやすいように呼んで下さい。」と発言している<ref>1992年 [[MJ -MUSIC JOURNAL-]]出演時に、司会者の[[古舘伊知郎]]からの質問にて。</ref>。 | ||
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+ | ==== ユニット名の由来 ==== | ||
+ | ユニット名の由来については諸説ある。これは、ユニット名の由来についてのメンバーの発言や、由来について触れている参考文献の内容にばらつきがあるためである。そのため、現在でも正式な由来は曖昧なままになっている。 | ||
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+ | 以下は雑誌や会報のインタビュー等においてユニット名の由来を尋ねられた際の、メンバーの主な回答である。 | ||
+ | *結成当初、最初にユニット名として書かれていたのは『'''松本バンド A'z(アズ)'''』という名前であった。しかし、当時の世相で「A'z(アズ)≒[[後天性免疫不全症候群|エイズ(AIDS)]]」ともとられる可能性があることに気付き「その名前はまずいだろう」ということになり、「"A"の次は"B"だろう」ということで『'''B'z'''』とした。その後、「B」から始まる名前のバンドは、非常に力強いバンド(「[[ビートルズ]]等)が多いことが分かり、また「『B'z』だと憶えやすそう」という意見もあり、現在の名前となった<ref name="bewith075">『Be with! volume075』B'z PARTY、2007年</ref>。 | ||
+ | * 『[[僕らの音楽 -OUR MUSIC-|僕らの音楽]]』([[フジネットワーク|フジテレビ系列]])[[2005年]][[3月26日]]放送回で、稲葉は「『A〜Zのすべてを包括する』という意味で『'''A'z'''』としようとした。でも[[後天性免疫不全症候群|発音がまずい]]ので、Aの次にあるBを使って『'''B'z'''』にした。」と発言した。 | ||
+ | * 3rdアルバム『BREAK THROUGH』の[[楽譜|バンドスコア]]では、メンバーは「何か記号的、かっこいいものにしたかった」とコメントしており、企業のロゴのように[[デザイン|意匠]]化しやすいイメージで名前を付けたとしている<ref name="break">『B'z Break through + Bad communication』リットーミュージック、1992年。ISBN 4-8456-0631-3 </ref>。 | ||
+ | * 松本がパーソナリティを務めた[[エフエム東京|TOKYO FM]]『[[BEAT ZONE]]』の中でゲスト出演の稲葉が「『蜂の群れ(Beeの複数形)』で'''B'z'''」との発言をした(1995年頃は17thシングル「[[love me, I love you]]」や[[LIVE-GYM]]で使うロゴマークに蜂の腹部を模したものを使用していた)。 | ||
+ | * [[1989年]]の会報で松本は、「終わりにZをつけるのが最初に決まって、スタッフと考えた結果『'''B'z'''』になった」と語っている<ref>『Be with! volume001』B'z PARTY、1989年。</ref>。 | ||
+ | * 『エースが2人』で『'''A'z'''』だという案もあったが、発音しにくいので最終的に『'''B'z'''』に落ち着いた<ref name="densetsu"/>。 | ||
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+ | === 2人組になった経緯 === | ||
+ | B'z結成当時、日本の音楽シーンが「[[バンドブーム]]」を迎えていた中、B'zは当時としては異色であった2人組のユニットという形式でデビューした。松本はこのことについて「セッションミュージシャンとして限界に来てて、グループをやるタイミングだと思って動き出しただけで、バンドブームとは関係のないところにいたから」と語っている<ref name="history">グループZERO『B'z HISTORY 2006』シーエイチシー、2006年。ISBN 4-86097-165-5</ref>。しかし松本は、当初ベースやドラム担当を含めた4人くらいのバンドを考えており、実際に何人かに当たってみることはしていたという<ref name="history"/>。当時を振り返り松本は「最初のうちは(ドラムやベース担当といった)他のメンバーも探すつもりだったが、(稲葉と)2人でデモテープを作っているうちに「2人でもいい」と思うようになり、2人でいこうということになった」<ref name="bewith003"/>「バンドって4〜5人いても、重要なものを飾るのは2人くらいでしょ? だったら2人がいいかなって思った。(中略)僕のギターと気に入ったボーカルさえあれば、後はサポートメンバーを入れればいいだけの話。稲葉と2人でやっていこうと思った。」<ref name="history"/>と語っている。 | ||
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+ | === 音楽方向性 === | ||
+ | 初期の作品はギターサウンドを抑え[[打ち込み]]を前面に出した[[TM NETWORK]]に近い[[デジタル]]サウンドであった。これについて松本は「B'zの初期は、確かに(自分がサポートメンバーとして参加していた)TMの流れを汲んでいた」「TMから始まったものが今の僕のスタイルの一部にはなっていると思う」「B'zの初期はテッちゃん([[小室哲哉]])の影響が大きかった」と語っていたり<ref>『TMN最後の嘘(トリック)』ソニー・マガジンズ 1994年 </ref>、メンバーは「デジタルでは絶対に音が作れない[[ギター]]と[[ボーカル]]を、デジタルビートと融合させる、というコンセプトで活動している」とも発言していた<ref name="treasure"/>。松本はライブやレコーディングにTMNのサポートメンバー時代の仲間である[[阿部薫 (ドラマー)|阿部薫]]や[[久保こーじ]]を招いていた<ref>久保こーじ「[http://blog.so-net.ne.jp/buzzleague/2006-09-19 久保こーじのBUZZ LEAGUE]」2006年9月19日。(参照:2007年5月2日)</ref>。 | ||
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+ | ブレイク以降は様々にスタイルを変え、デジタルビートから、[[ダンス]]、生の[[管楽器]]や[[弦楽器]]を導入したアレンジや、4ピースバンドロックなどという風に時代ごとに特徴がある。11thシングル『[[ZERO (B'zの曲)|ZERO]]』や14thシングル『[[Don't Leave Me]]』の頃からロックサウンドへの移行が顕著になって行き、同時に打ち込み音を使用する割合は徐々に減少傾向になる。近年の楽曲はライブ感を重視したものとなっている<ref name="ultra"/>。 | ||
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+ | [[マーティ・フリードマン]]はB'zの曲風について、B'zと[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のロックバンド・[[エアロスミス]]とを比較し、「B'zは[[エアロスミス|エアロ]]よりも現代的な音であり、東洋的なメロディーや繊細なアレンジなどはエアロには無理である。またエアロは[[ブルース]]が基本であるが、B'zは日本的な[[歌謡曲]]の作り方である。」と評している<ref name="ijan">マーティ・フリードマン『い〜じゃん!J-POP -だから僕は日本にやって来た-』日経BP社、2008年。ISBN 978-4-8222-6319-5</ref>。 | ||
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+ | === 音楽活動 === | ||
+ | ==== 楽曲製作 ==== | ||
+ | ; 作詞・作曲 | ||
+ | 全ての楽曲の作曲を松本、作詞を稲葉が担当している。ただし、1stアルバム『[[B'z (アルバム)|B'z]]』収録の『Nothing to Change』のみ作詞は[[亜蘭知子]]が、また同アルバム収録の『孤独にDance in vain』のみ作曲は[[大槻啓之]]が担当した。松本曰く、「当時はあれが限界だった」と語っている<ref name="kadokawa">『別冊カドガワ B'z総力特集』角川書店、[[2003年]]。ISBN 4-04-721503-1 </ref>。また、B'zのほとんどの楽曲は松本の曲が先に作られ、そのメロディに稲葉が詞をつけるという、音楽用語で言う『曲先』で作られている<ref name="densetsu"/>。 | ||
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+ | ; 編曲(アレンジ) | ||
+ | [[編曲]](アレンジ)は、[[1995年]]までは松本と[[明石昌夫]]が主に担当していた。1995年リリースの16thシングル『[[ねがい (B'zの曲)|ねがい]]』以降からは稲葉も編曲に参加している。また、同年に[[B+U+M]]を解散して以降は、松本と稲葉の他に多くの[[編曲家|アレンジャー]]が編曲を担当している。 | ||
+ | |||
+ | レコーディングやアレンジのときには、メンバーはもちろんのこと、他のサポートメンバー、ディレクター、ステージングのエンジニアなどもアレンジのためをアイデアを持ち寄ることがあるという。その際にメンバーはそのアイデアを口頭で否定することはなく、まずそれらを"一度試してみて"、最後に一番良いものを完成形として採用するという方法がとられる<ref name="densetsu"/><ref name="NHK">『NHKスペシャル』(NHK)2008年10月7日放送回「メガヒットの秘密 -20年目のB'z-」</ref>。 | ||
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+ | ; レコーディング | ||
+ | レコーディングはメンバーそれぞれが別々に行うことが多い。松本がギターのレコーディングを済ませるまで稲葉はスタジオには入らず、松本のレコーディングが一段楽して初めて稲葉がボーカルのレコーディングに入る。これについて稲葉は「出来上がった松本のギター演奏を"初めて耳にした瞬間"のフィーリングを念頭においてレコーディングに入りたい」「メロディを何度も耳にしてるとどこが良くてどこが悪いのか段々判らなくなってくる。だから松本さんの完パケ(完全パッケージ)を一度だけ耳にして、次の瞬間自分のボーカルの世界へ没頭したい。」と語っている<ref name="densetsu"/>。 | ||
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+ | 松本のギターソロのパートは、曲を流しながらアドリブでギターを弾いたものを録音し、それを聴き直して納得が行ったものを完成形とするという方法がとられている<ref name="NHK"/>。 | ||
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+ | ==== リリース ==== | ||
+ | デビュー以降から{{CURRENTYEAR}}年現在まで、シングルは毎年リリースされている。特に、1988年リリースの1stシングル『[[だからその手を離して]]』から2008年リリースの45thシングル『[[BURN -フメツノフェイス-]]』まで、シングルのリリース間隔が1年以上が空いたことはなかった。 | ||
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+ | また、ほぼ1年半に1作のペースで[[スタジオ・アルバム|オリジナルアルバム]]をリリースしている。オリジナルアルバムのほかに[[ベスト・アルバム|ベストアルバム]]、[[コンパクト盤|ミニアルバム]]などもリリースしている。 | ||
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+ | ==== LIVE-GYM ==== | ||
+ | ライブツアータイトルは、一貫して『'''[[LIVE-GYM]]'''』と銘打っている。 | ||
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+ | {{main|LIVE-GYM}} | ||
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+ | ==== 2nd beat ==== | ||
+ | シングルのカップリング曲を『'''[[2nd beat]]'''』(1曲目は1st beat、3曲目は3rd beat)と呼称している。 | ||
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+ | {{main|2nd beat}} | ||
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+ | ==== B+U+M ==== | ||
+ | [[1990年]]から[[1994年]]まで、音楽製作集団『'''[[B+U+M]]'''(B'z UNREAL MUSIC)』を結成していた。 | ||
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+ | {{main|B+U+M}} | ||
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+ | ==== Z'b ==== | ||
+ | Z'b(ズービ)とは、B'zメンバーがLIVE-GYMで洋楽のカバーをしていたときに使っていた名前。B'zとは別人という設定で、それぞれにキャラ設定がある。 | ||
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+ | メンバーは以下の通りである。 | ||
+ | * ボーカル - アミーゴこましエンジェルJr.(名古屋のみ、早乙女 順)<稲葉浩志> | ||
+ | * ギター - 綾乃小路幹彦(神戸のみ、マリモ・ハラオ)<松本孝弘> | ||
+ | * ベース - はだか一貫<明石昌夫> | ||
+ | * キーボード - マンボウ・カメ(名古屋のみ、菊の門 雅)<広本葉子> | ||
+ | * ドラム - チャッキーこけし<田中一光> | ||
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+ | === メディアへの露出 === | ||
+ | 毎年ライブツアーを主体とした活動を行っており、テレビの露出は少ない。『[[ミュージックステーション]]』、『[[COUNT DOWN TV]]』などに出演する程度である。ただ、ソロ活動時やソロ明け復帰シングル『[[FIREBALL (B'zの曲)|FIREBALL]]』、『[[愛のバクダン]]』発売時などは、『[[HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP]]』、『[[うたばん]]』、『[[僕らの音楽 -OUR MUSIC-|僕らの音楽]]』などの番組に出たこともある。年末年始は『[[NHK紅白歌合戦]]』などの大晦日・正月の特番には一切出場しないため、年末最後のテレビ出演(仕事納め)は『[[ミュージックステーションスーパーライブ]]』となることが多い。 | ||
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+ | B'zメンバーは音楽活動に重きをおいており、音楽以外の活動([[バラエティ番組]]出演、[[コマーシャルメッセージ|CM]]出演、[[俳優]]活動など)には消極的な姿勢を見せている。これについて松本は「才能のある人が多い時代だから、バンドをやっている人でも音楽以外のフィールドに出て行く人って多いでしょう?でも僕らはあくまでも音楽活動をメインにしていきたい」「音楽のフィールドを固めていくことが、バンドを長続きさせる秘訣だと思っている」と語っている<ref name="densetsu"/>。 | ||
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+ | メンバー2人ともテレビでのトークは控えめだが、[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]『Come on JTB [[B'z WAVE-GYM]]』(両名)、『WAVE-GYM Vol.0』(稲葉)、[[エフエム東京|TOKYO FM]]『[[BEAT ZONE]]』(松本)ではレギュラーを務め、単発では[[ニッポン放送]]『[[オールナイトニッポン]]』([[1992年]]、[[1995年]]、[[2000年]]、[[2001年]]、[[2003年]]、[[2005年]])と、多数の[[ラジオ番組]]の[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を務めたことがある。 | ||
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== ディスコグラフィ == | == ディスコグラフィ == |
2009年10月2日 (金) 21:24時点における版
B'z(ビーズ)は、松本孝弘、稲葉浩志の2人で構成される日本の音楽ユニット。ビーイング傘下のレーベル、VERMILLION RECORDSに所属。公式ファンクラブは「B'z Party」である。
メンバー
人名 | パート(ライブ) | パート(レコーディング) |
---|---|---|
松本孝弘 (まつもと たかひろ) |
ギター | ギター 作曲 編曲 音楽プロデューサー |
稲葉浩志 (いなば こうし) |
ボーカル | ボーカル 作詞 編曲 |
サポートメンバー
人名 | パート(ライブ) | パート(レコーディング) | 在籍期間(ライブのみ) |
---|---|---|---|
増田隆宣 | キーボード | オルガン キーボード(以前) |
1992年 - 1997年 1999年 - |
シェーン・ガラース(Shane Gaalaas) | ドラム | ドラム パーカッション |
2002年 - |
バリー・スパークス(Barry Sparks) | ベース | 不定期参加 | 2003年 2008年 |
徳永暁人(from doa) | ベース | ベース コーラス(一部担当) 編曲 |
1998年 2003年 - 2007年 |
大田紳一郎(from doa) | ボーカル ギター |
コーラス(一部担当) | 2003年 - |
畠山勝紀 | ギター・テック | ギター・テック | 1991年 - |
元サポートメンバー
人名 | パート | 在籍期間(ライブのみ) |
---|---|---|
明石昌夫 | ベース マニピュレート |
1989年 - 1997年 |
満園庄太郎 ビリー・シーン(Billy Sheehan) |
ベース | 1999年 - 2001年 2002年 |
阿部薫 田中一光 デニー・フォンハイザー(Denny Fongheiser) 黒瀬蛙一 |
ドラム | 1989年 - 1990年 1990年 - 1994年 1995年 - 1997年 1998年 - 2001年 |
広本葉子 大島康祐 |
キーボード | 1989年 - 1992年 1998年 |
高原裕枝 中村優子 |
コーラス | 1992年 |
澤野博敬 澤田秀浩 |
トランペット | 1993年 |
野村裕幸 | トロンボーン | 1993年 |
吉田じゅんべい | サクソフォーン | 1993年 |
その他サポートメンバー
人名 | パート | 在籍期間 |
---|---|---|
山口昌人 | ドラム | テレビ出演時(シェーンが来日していない時のみ。) |
$pyke(Hazuki Kido) | ベース | テレビ出演時(SUPER LOVE SONG) |
GO (from SUNSOWL) | ドラム | テレビ出演時2007年 - |
来歴
結成前〜デビュー
1987年、音楽制作会社ビーイングに所属し、浜田麻里やTM NETWORKなどのツアーサポートやスタジオ・ミュージシャンとして活動していた[1]ギタリストの松本が、「自らの音楽を表現できるバンドを創る」という構想のもと、バンド結成へ向けた活動を開始。その間、あるボーカリストとバンドを組む事を音楽雑誌で公表したが、そのボーカリストとデビューする事はなかった[2]。
1988年5月、ボーカリストを探していた松本は、ビーイングの社長で音楽プロデューサーでもあった長戸大幸から1本のデモテープを渡される。そのデモテープは学生時代の稲葉が、T-ボーン・ウォーカーの「T-BORN SHUFFLE」、レッド・ツェッペリンの「YOU SHOOK ME」、ビリー・ジョエルの「Honesty」を歌ったものが録音されていた[3]。長戸はB'z結成の2、3年前から「稲葉を何とかしたい、早くデビューさせたい」と事あるごとに言い続けていたという[4]。
長戸を介して、2人は曲をあわせる約束を交わす(しかし松本は、「デモも聞いたし、写真も見たし、(稲葉と会う前から)自分は心が決まっていた」と後日語っている[5])。翌日「SOUND JOAKER」という小さなスタジオで初顔合わせした2人は、ビートルズの「Let It Be」、「Oh! Darling」の2曲をセッションする[3][6]。しかし、機材の故障により結局その日は2曲しかセッションが出来ず、その場はお開きとなった。後日再び会った時には、何故か既にデビューへ向けての活動が始まっていたという[3]。その後2人はユニットB'zを結成、1988年9月21日にシングル『だからその手を離して』、アルバム『B'z』の同時リリースでデビューした。
2人が初めて出会ってB'z結成・デビューに至るまでは、約4ヶ月という短い期間であった。B'z結成時はお互い(特に稲葉)の合意が形成されないままデビューへの話が進んだらしく、稲葉は結成当時について「振り返ってみれば、これまで松本さんから『一緒にバンドをやろう!』とはっきり口にして言われたことは一度もない」とインタビューやライブMCで語っている[7][8]。ただし1993年に敢行されたライブツアー『LIVE-GYM '93 "RUN"』でのMCでこのエピソードが語られたときは、「そういえば言っていないな」ということで、稲葉が冗談めかしながら「一緒にやろう!」と言った事もある。
結成当時の音楽業界では、「新人はアルバムを3枚リリースするまでにヒット作品を作れなければ見切りをつけられる」という風習があった。そのため、松本はデビュー時から明確なビジョンを持って制作に当たっており、稲葉と初対面した際に「3年以内に(当時一番売れていた音楽雑誌である)『Gb』の表紙を飾る」「3年以内に『オリコン』の(1位〜50位までが掲載されている)左ページに載る」といった「三ヵ年計画」を力説していたという[8][9]。
初期のB'zのプロデューサーは中島正雄である。B'zがブレイクした後も中島はスーパーバイザーという肩書きで指揮していた。
結成後〜現在
デビュー当時はTM NETWORKのツアーにくっつける形でキャンペーンを行うなど、地道な活動を続けていた[1]。キャンペーンについては、「松本によるギターセミナー」と称して客を集めるものの、実際はセミナーを早々に切り上げて後半をB'zのお披露目コンサートの時間に当てる、といったものであった(これについては客の方もB'zのお披露目のためのセミナーだということは認識していた)[8]。メンバーは「(多くのファンと)握手しすぎて手から指紋が消えた」「(お辞儀のしすぎで)一日が終わると体が"くの字"から戻らない」などと語ったことがあり、キャンペーンや挨拶回りはかなりのハードスケジュールだった[7]。
しかし、デビュー作は全く売れずオリコンチャート100位以内にも入らないなど、デビューからしばらくは苦戦が続いた。ブレイクのきっかけは1989年にリリースしたミニアルバム『BAD COMMUNICATION』である。このミニアルバムに収録された同名の曲が、タイアップの効果もあり有線で注目され始め、オリコンチャートに(10位以内には入らなかったものの)163週ランクインするというロングヒットを記録。1990年リリースの4thシングル『BE THERE』で初のトップ10入り、そして同年リリースの5thシングル『太陽のKomachi Angel』が初のオリコンチャート1位を記録しブレイクを果たす[7]。
ブレイク以降から現在にかけて、シングル連続初登場首位獲得数やアーティスト・トータル・セールスを始めとする日本音楽界における数多くの記録を樹立(詳細は後述)、『日本が誇るロックユニット』と呼ばれるまでに人気を博す[10]。2007年にはロックンロール・音楽界に貢献したアーティストを讃える「ハリウッド・ロックウォーク」へ殿堂入りとなった(後述)。2008年9月21日には結成20年となり、2009年に至るまでもコンスタントにCDをリリースしたりライブを敢行したりなどといった活動を行っている。
概要
ユニット名
アクセントの位置
ユニット名である「ビーズ」は、世間的には抑揚をつけない平板な読み方(例えば「リール」「レール」に近い読み方)が主流であるが、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)でメンバーが語ったところによると、正しい読み方は先頭にアクセントを置いた「ビィズ」であるとされる(例えば「プール」「シール」に近いアクセント)。また『NHKスペシャル』(NHK)においてB'zを特集した際、NHKは先頭にアクセントを置いた読み方を採用している。これについてNHK側は「ご本人たちもファンも関係者もみんな(「ビ」にアクセントを置いて)『ビィズ』とよんでいます」と回答した。
平板な発音の方が一般に定着した理由について放送文化研究所は「(NHKの)番組内での発音については、責任者が決めている」という前提を置いた上で、「ギター、ドラマ、映画、ディレクター。こういった言葉は、かつては頭を高くした発音がされていたと思うのですが、今は平たく言うほうが主流ですね。日本語の習性として、言葉が出来て、馴染みが薄いときには頭にアクセントを置く、そしてその言葉が口をついて出る回数が増えるにつれ、どんどん後ろに移動して、落ち着いていくというものがあります。「ビーズ」と平べったい発音になるのは、自然の流れなのでは」という見解を語っている[11]。
なおメンバーは「自分達はビィズと呼んでますが、どちらでも呼びやすいように呼んで下さい。」と発言している[12]。
ユニット名の由来
ユニット名の由来については諸説ある。これは、ユニット名の由来についてのメンバーの発言や、由来について触れている参考文献の内容にばらつきがあるためである。そのため、現在でも正式な由来は曖昧なままになっている。
以下は雑誌や会報のインタビュー等においてユニット名の由来を尋ねられた際の、メンバーの主な回答である。
- 結成当初、最初にユニット名として書かれていたのは『松本バンド A'z(アズ)』という名前であった。しかし、当時の世相で「A'z(アズ)≒エイズ(AIDS)」ともとられる可能性があることに気付き「その名前はまずいだろう」ということになり、「"A"の次は"B"だろう」ということで『B'z』とした。その後、「B」から始まる名前のバンドは、非常に力強いバンド(「ビートルズ等)が多いことが分かり、また「『B'z』だと憶えやすそう」という意見もあり、現在の名前となった[9]。
- 『僕らの音楽』(フジテレビ系列)2005年3月26日放送回で、稲葉は「『A〜Zのすべてを包括する』という意味で『A'z』としようとした。でも発音がまずいので、Aの次にあるBを使って『B'z』にした。」と発言した。
- 3rdアルバム『BREAK THROUGH』のバンドスコアでは、メンバーは「何か記号的、かっこいいものにしたかった」とコメントしており、企業のロゴのように意匠化しやすいイメージで名前を付けたとしている[13]。
- 松本がパーソナリティを務めたTOKYO FM『BEAT ZONE』の中でゲスト出演の稲葉が「『蜂の群れ(Beeの複数形)』でB'z」との発言をした(1995年頃は17thシングル「love me, I love you」やLIVE-GYMで使うロゴマークに蜂の腹部を模したものを使用していた)。
- 1989年の会報で松本は、「終わりにZをつけるのが最初に決まって、スタッフと考えた結果『B'z』になった」と語っている[14]。
- 『エースが2人』で『A'z』だという案もあったが、発音しにくいので最終的に『B'z』に落ち着いた[7]。
2人組になった経緯
B'z結成当時、日本の音楽シーンが「バンドブーム」を迎えていた中、B'zは当時としては異色であった2人組のユニットという形式でデビューした。松本はこのことについて「セッションミュージシャンとして限界に来てて、グループをやるタイミングだと思って動き出しただけで、バンドブームとは関係のないところにいたから」と語っている[15]。しかし松本は、当初ベースやドラム担当を含めた4人くらいのバンドを考えており、実際に何人かに当たってみることはしていたという[15]。当時を振り返り松本は「最初のうちは(ドラムやベース担当といった)他のメンバーも探すつもりだったが、(稲葉と)2人でデモテープを作っているうちに「2人でもいい」と思うようになり、2人でいこうということになった」[5]「バンドって4〜5人いても、重要なものを飾るのは2人くらいでしょ? だったら2人がいいかなって思った。(中略)僕のギターと気に入ったボーカルさえあれば、後はサポートメンバーを入れればいいだけの話。稲葉と2人でやっていこうと思った。」[15]と語っている。
音楽方向性
初期の作品はギターサウンドを抑え打ち込みを前面に出したTM NETWORKに近いデジタルサウンドであった。これについて松本は「B'zの初期は、確かに(自分がサポートメンバーとして参加していた)TMの流れを汲んでいた」「TMから始まったものが今の僕のスタイルの一部にはなっていると思う」「B'zの初期はテッちゃん(小室哲哉)の影響が大きかった」と語っていたり[16]、メンバーは「デジタルでは絶対に音が作れないギターとボーカルを、デジタルビートと融合させる、というコンセプトで活動している」とも発言していた[3]。松本はライブやレコーディングにTMNのサポートメンバー時代の仲間である阿部薫や久保こーじを招いていた[17]。
ブレイク以降は様々にスタイルを変え、デジタルビートから、ダンス、生の管楽器や弦楽器を導入したアレンジや、4ピースバンドロックなどという風に時代ごとに特徴がある。11thシングル『ZERO』や14thシングル『Don't Leave Me』の頃からロックサウンドへの移行が顕著になって行き、同時に打ち込み音を使用する割合は徐々に減少傾向になる。近年の楽曲はライブ感を重視したものとなっている[1]。
マーティ・フリードマンはB'zの曲風について、B'zとアメリカのロックバンド・エアロスミスとを比較し、「B'zはエアロよりも現代的な音であり、東洋的なメロディーや繊細なアレンジなどはエアロには無理である。またエアロはブルースが基本であるが、B'zは日本的な歌謡曲の作り方である。」と評している[18]。
音楽活動
楽曲製作
- 作詞・作曲
全ての楽曲の作曲を松本、作詞を稲葉が担当している。ただし、1stアルバム『B'z』収録の『Nothing to Change』のみ作詞は亜蘭知子が、また同アルバム収録の『孤独にDance in vain』のみ作曲は大槻啓之が担当した。松本曰く、「当時はあれが限界だった」と語っている[19]。また、B'zのほとんどの楽曲は松本の曲が先に作られ、そのメロディに稲葉が詞をつけるという、音楽用語で言う『曲先』で作られている[7]。
- 編曲(アレンジ)
編曲(アレンジ)は、1995年までは松本と明石昌夫が主に担当していた。1995年リリースの16thシングル『ねがい』以降からは稲葉も編曲に参加している。また、同年にB+U+Mを解散して以降は、松本と稲葉の他に多くのアレンジャーが編曲を担当している。
レコーディングやアレンジのときには、メンバーはもちろんのこと、他のサポートメンバー、ディレクター、ステージングのエンジニアなどもアレンジのためをアイデアを持ち寄ることがあるという。その際にメンバーはそのアイデアを口頭で否定することはなく、まずそれらを"一度試してみて"、最後に一番良いものを完成形として採用するという方法がとられる[7][20]。
- レコーディング
レコーディングはメンバーそれぞれが別々に行うことが多い。松本がギターのレコーディングを済ませるまで稲葉はスタジオには入らず、松本のレコーディングが一段楽して初めて稲葉がボーカルのレコーディングに入る。これについて稲葉は「出来上がった松本のギター演奏を"初めて耳にした瞬間"のフィーリングを念頭においてレコーディングに入りたい」「メロディを何度も耳にしてるとどこが良くてどこが悪いのか段々判らなくなってくる。だから松本さんの完パケ(完全パッケージ)を一度だけ耳にして、次の瞬間自分のボーカルの世界へ没頭したい。」と語っている[7]。
松本のギターソロのパートは、曲を流しながらアドリブでギターを弾いたものを録音し、それを聴き直して納得が行ったものを完成形とするという方法がとられている[20]。
リリース
デビュー以降から2024年現在まで、シングルは毎年リリースされている。特に、1988年リリースの1stシングル『だからその手を離して』から2008年リリースの45thシングル『BURN -フメツノフェイス-』まで、シングルのリリース間隔が1年以上が空いたことはなかった。
また、ほぼ1年半に1作のペースでオリジナルアルバムをリリースしている。オリジナルアルバムのほかにベストアルバム、ミニアルバムなどもリリースしている。
LIVE-GYM
ライブツアータイトルは、一貫して『LIVE-GYM』と銘打っている。
2nd beat
シングルのカップリング曲を『2nd beat』(1曲目は1st beat、3曲目は3rd beat)と呼称している。
B+U+M
1990年から1994年まで、音楽製作集団『B+U+M(B'z UNREAL MUSIC)』を結成していた。
Z'b
Z'b(ズービ)とは、B'zメンバーがLIVE-GYMで洋楽のカバーをしていたときに使っていた名前。B'zとは別人という設定で、それぞれにキャラ設定がある。
メンバーは以下の通りである。
- ボーカル - アミーゴこましエンジェルJr.(名古屋のみ、早乙女 順)<稲葉浩志>
- ギター - 綾乃小路幹彦(神戸のみ、マリモ・ハラオ)<松本孝弘>
- ベース - はだか一貫<明石昌夫>
- キーボード - マンボウ・カメ(名古屋のみ、菊の門 雅)<広本葉子>
- ドラム - チャッキーこけし<田中一光>
メディアへの露出
毎年ライブツアーを主体とした活動を行っており、テレビの露出は少ない。『ミュージックステーション』、『COUNT DOWN TV』などに出演する程度である。ただ、ソロ活動時やソロ明け復帰シングル『FIREBALL』、『愛のバクダン』発売時などは、『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』、『うたばん』、『僕らの音楽』などの番組に出たこともある。年末年始は『NHK紅白歌合戦』などの大晦日・正月の特番には一切出場しないため、年末最後のテレビ出演(仕事納め)は『ミュージックステーションスーパーライブ』となることが多い。
B'zメンバーは音楽活動に重きをおいており、音楽以外の活動(バラエティ番組出演、CM出演、俳優活動など)には消極的な姿勢を見せている。これについて松本は「才能のある人が多い時代だから、バンドをやっている人でも音楽以外のフィールドに出て行く人って多いでしょう?でも僕らはあくまでも音楽活動をメインにしていきたい」「音楽のフィールドを固めていくことが、バンドを長続きさせる秘訣だと思っている」と語っている[7]。
メンバー2人ともテレビでのトークは控えめだが、東海ラジオ『Come on JTB B'z WAVE-GYM』(両名)、『WAVE-GYM Vol.0』(稲葉)、TOKYO FM『BEAT ZONE』(松本)ではレギュラーを務め、単発ではニッポン放送『オールナイトニッポン』(1992年、1995年、2000年、2001年、2003年、2005年)と、多数のラジオ番組のパーソナリティを務めたことがある。
ディスコグラフィ
シングル
リリース日 | タイトル | レコードNo: | |
---|---|---|---|
1st | 1988年9月21日 | だからその手を離して | R10A-103 |
2nd | 1989年5月21日 | 君の中で踊りたい | R10A-114 |
3rd | 1990年2月21日 | LADY-GO-ROUND | R10A-123 |
4th | 1990年5月25日 | BE THERE | オリジナル盤 BVCR-11 BMDR-11 再発盤 BMCV-11 |
5th | 1990年6月13日 | 太陽のKomachi Angel | オリジナル盤 BVCR-12 BMDR-12 再発盤 BMCV-12 |
6th | 1990年10月3日 | Easy Come, Easy Go! | オリジナル盤 BVCR-12 BMDR-18 再発盤 BMCV-18 |
7th | 1990年10月24日 | 愛しい人よGood Night... | オリジナル盤 BVCR-20 BMDR-20 再発盤 BMCV-20 |
8th | 1991年3月27日 | LADY NAVIGATION | オリジナル盤 BVCR-38 BMDR-38 再発盤 BMCV-38 |
9th | 1991年10月30日 | ALONE | オリジナル盤 BVCR-70 BMDR-70 再発盤 BMCV-70 |
10th | 1992年5月27日 | BLOWIN' | オリジナル盤 BMDR-100 再発盤 BMCV-100 |
11th | 1992年10月7日 | ZERO | オリジナル盤 BMDR-129 再発盤 BMCV-129 |
12th | 1993年3月17日 | 愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない | オリジナル盤 BMDR-1002 再発盤 BMCV-1002 |
13th | 1993年6月2日 | 裸足の女神 | オリジナル盤 BMDR-1004 再発盤 BMCV-1004 |
14th | 1994年2月9日 | Don't Leave Me | BMDR-1013 |
15th | 1994年11月21日 | MOTEL | BMDR-1018 |
16th | 1995年5月31日 | ねがい | BMDR-1019 |
17th | 1995年7月7日 | love me, I love you | BMDR-1020 |
18th | 1995年10月11日 | LOVE PHANTOM | BMDR-2001 |
19th | 1996年3月6日 | ミエナイチカラ 〜INVISIBLE ONE〜/MOVE | BMDR-2002 |
20th | 1996年5月15日 | Real Thing Shakes | BMDR-2003 |
21st | 1997年3月5日 | FIREBALL | BMDR-2008 |
22nd | 1997年7月9日 | Calling | BMDR-2011 |
23rd | 1997年10月8日 | Liar! Liar! | BMDR-2013 |
24th | 1998年4月8日 | さまよえる蒼い弾丸 | BMDR-2015 |
25th | 1998年7月8日 | HOME | BMDR-2017 |
26th | 1999年6月9日 | ギリギリchop | BMDR-2018 |
27th | 2000年2月9日 | 今夜月の見える丘に | BMDR-7038 |
28th | 2000年5月24日 | May | BMDR-7042 |
29th | 2000年7月12日 | juice | BMDR-7043 |
30th | 2000年10月4日 | RING | BMDR-7044 |
31st | 2001年3月14日 | ultra soul | BMDR-7048 |
32nd | 2001年8月8日 | GOLD | BMDR-3001 |
33rd | 2002年6月5日 | 熱き鼓動の果て | BMCV-3002 |
34th | 2003年3月26日 | IT'S SHOWTIME!! | BMCV-5001 |
35th | 2003年7月16日 | 野性のENERGY | BMCV-5003 |
36th | 2004年5月5日 | BANZAI | BMCV-5007 |
37th | 2004年9月1日 | ARIGATO | BMCV-4002 |
38th | 2005年3月9日 | 愛のバクダン | 初回限定盤 BMCV-4003 通常盤 BMCV-4004 |
39th | 2005年8月10日 | OCEAN | BMCV-4005 |
40th | 2006年1月25日 | 衝動 | BMCV-5009 |
41st | 2006年4月12日 | ゆるぎないものひとつ | BMCV-5010 |
42nd | 2006年6月7日 | SPLASH! |
初回限定盤『グリーン』 BMCV-5011 |
43rd | 2007年5月9日 | 永遠の翼 | BMCV-5015 |
44th | 2007年10月3日 | SUPER LOVE SONG | 初回限定盤 BMCV-4006 通常盤 BMCV-4007 |
45th | 2008年4月16日 | BURN -フメツノフェイス- | BMCV-4008 |
46th | 2009年8月5日 | イチブトゼンブ/DIVE | BMCV-4009 |
47th | 2009年10月14日 | MY LONELY TOWN | 初回限定盤 BMCV-4010 通常盤 BMCV-401 |
オリジナルアルバム
リリース日 | タイトル | レコードNo: | |
---|---|---|---|
1st | 1988年9月21日 | B'z | R32A-1041 |
2nd | 1989年5月21日 | OFF THE LOCK | R32A-1052 |
3rd | 1990年2月21日 | BREAK THROUGH | R32A-1064 |
4th | 1990年11月7日 | RISKY | BVCR-18 BMCR-18 |
5th | 1991年11月27日</small> | IN THE LIFE | BVCR-64 BMCR-64 |
6th | 1992年10月28日 | RUN | BMCR-104 |
7th | 1994年3月2日 | The 7th Blues | 1st Disc BMCR-6601 2nd Disc BMCR-6602 |
8th | 1995年11月22日 | LOOSE | BMCR-7002 |
9th | 1997年11月19日 | SURVIVE | BMCR-7022 |
10th | 1999年7月14日 | Brotherhood | BMCR-7034 |
11th | 2000年12月6日 | ELEVEN | BMCR-7046 |
12th | 2002年7月3日 | GREEN | BMCV-8005 |
13th | 2003年9月17日 | BIG MACHINE | BMCV-8008 |
14th | 2005年4月6日 | THE CIRCLE | BMCV-8014 |
15th | 2006年6月28日 | MONSTER | BMCV-8018 |
16th | 2007年12月5日 | ACTION | BMCV-8019 |
17th | 2009年11月18日 | MAGIC | BMCV-8029(初回盤) BMCV-8030(通常盤) |
ミニアルバム
リリース日 | タイトル | レコードNo: | 備考 | |
---|---|---|---|---|
1st | 1989年10月21日 | BAD COMMUNICATION | B15D-11001 | |
2nd | 1990年6月21日 | WICKED BEAT | BVCR-9002 BMCR-9002 |
|
3rd | 1991年5月29日 | MARS | BVCR-9009 BMCR-9009 |
|
4th | 1992年12月9日 | FRIENDS | BMCR-9015 | |
5th | 1996年11月25日 | FRIENDS II | BMCR-7011 | |
6th | 2002年4月23日 | DEVIL | BMCR-0000 (DBKED-0132) | 韓国限定発売 |
ベストアルバム
リリース日 | タイトル | レコードNo: | |
---|---|---|---|
ベストアルバム | 1998年5月20日 | B'z The Best "Pleasure" | BMCR-7024 |
ベストアルバム | 1998年9月20日 | B'z The Best "Treasure" | BMCR-7029 |
マストアルバム | 2000年2月23日 | B'z The "Mixture" | BVCR-14002 |
バラードベストアルバム | 2002年12月11日 | The Ballads 〜Love & B'z〜 | BMCR-8007 |
ベストアルバム | 2005年11月30日 | B'z The Best "Pleasure II" | BMCR-8017 |
ベストアルバム | 2008年6月18日 | B'z The Best "ULTRA Pleasure" | [2CD+DVD] BMCV-8020〜21 [2CD] BMCV-8022〜23 |
ベストアルバム | 2008年9月17日 | B'z The Best "ULTRA Treasure" | [2CD+DVD] BMCV-8024〜25 [3CD] BMCV-8026〜28 |
カラオケアルバム
リリース日 | タイトル | レコードNo: | |
---|---|---|---|
1st | 1992年2月19日 | B'z TV Style SONGLESS VERSION | BMCK-5002 |
2nd | 1995年12月20日 | B'z TV STYLE II Songless Version | BMCK-7001 |
ボックスセット
- 参考:ボックスセット
リリース日 | タイトル | 備考 |
---|---|---|
2005年8月1日 | The Complete B'z | iTunes Store限定 |
非公式ベストアルバム
リリース日 | タイトル | レコードNo: |
---|---|---|
1997年4月26日 | Flash Back-B'z Early Special Titles- | 1st Disc BVCR-9601 2nd Disc BVCR-9602 |
映像作品
海外販売作品
リリース日 | タイトル | 備考 |
---|---|---|
2001年 | RISKY〜Brotherhood | 2001年に台湾と香港でLIVEをしたことを記念し、Rooms RECORDSと地元レコード会社が提携して、これまでに日本で発売されていたアルバム7作に、ボーナストラック2曲を付け加えて発売をした。ボーナストラックの中身はLIVE音源となっている。ELEVENのCDは発売されているが、ボーナストラックは入っていない。 |
2002年4月23日 | DEVIL | Being Music Koreaより韓国限定で発売されたミニアルバム。 |
2007年4月3日 | B'z | 2005年末にiTunes Store側のミスで誤配信されたが、その後、正式に販売されることになった。 |
2007年4月3日 | FRICTION | テレビゲーム『バーンアウト ドミネーター』挿入歌。音源は海外のiTunes Storeで販売されている。その後、2007年10月にリリースされたシングル『SUPER LOVE SONG』にも収録。 |
カバー曲
- 参考:カバー曲
タイトル | 備考 |
---|---|
This Love | アメリカのロックバンド・Maroon5の楽曲のカバー。稲葉が訳詞を担当した。配信限定ボックスセット「The Complete B'z」にボーナストラックとして収録された。 |
FREEWAY JAM | イギリスのギタリスト、ジェフ・ベックのカバー。CD音源化はされておらず、ライブビデオ『once upon a time in 横浜 〜B'z LIVE GYM'99 "Brotherhood"〜』にライブでカバーした映像が収録されている。 |
Oh! Darling | The Beatlesのカバー。CD音源化はされておらず、ライブビデオ『B'z LIVE-GYM Pleasure 2008 -GLORY DAYS-』にライブでカバーした映像が収録されている。 |
未音源化作品
デモ音源は割愛する
タイトル | 備考 |
---|---|
Don't ask me baby | 「B'z LIVE-GYM Pleasure '95 "BUZZ!!"」で披露された。松本ソロの『THE CHANGING』の原曲にあたり、松本がボーカル、稲葉がコーラスを担当している。 |
Logic | 全英詞。ミディアムテンポのヘビィロック調。「B'z SHOWCASE 2001 "コブシヲニギレ"」で初披露されて以来、音源化はされずライブでも海外公演以外では演奏されなかったが、『B'z LIVE-GYM Hidden Pleasure 〜Typhoon No.20〜』に収録され公式作品に初収録となった。CD音源化はされていない。 |
いつかのメリークリスマス(アンプラグド ver.) | 2004年12月4日より、BEING GIZA STUDIO内にて期間限定で着うたが配信された。 |
外部リンク
関連記事
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