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荏原哲夫(えばら てつお 1924年 - 1956年2月18日)は、日本のヤクザ。会津屋連合会会津家小高一家・小高龍湖組長の実子分(跡目)。北海道札幌市雁来町出身。通称は「雁来のバラ」、「雁木のバラ」、または「枯木のバラ」。
来歴 [編集]
昭和15年(1940年)、荏原哲夫は、国民徴用令で、室蘭市の日本製鋼所の徴用工になった。室蘭市の日本製鋼所には、養成工と徴用工が合わせて約3000人いた。荏原哲夫は、東室蘭にある日本製鋼所の寮に住んだ。寮は全部で5棟あった。寮には、養成工や徴用工など500人が住んでいた。同年、荏原哲夫は、徴用工グループを抑えて、番長格となった。
同年、松田武嗣(通称:南海の松。後の飯島一家松本分家庵袋二代目)は、小樽市の尋常小学校を卒業して、日本製鋼所技術養成校で養成工となり、東室蘭にある日本製鋼所の寮(荏原哲夫の寮とは別棟)に住んだ。同年、松田武嗣は、日本製鋼所の番長・宮谷の舎弟となった。松田武嗣は、番長・宮谷から、左手首に近い二の腕の外側に、「南海の松」と云う文字とその文字の周りを短冊が囲むと云う図柄の刺青を彫られた。このころ、松田武嗣は、日本製鋼所の寮生や養成工を相手に喧嘩三昧の日々を送った。
同年、荏原哲夫は、松田武嗣から喧嘩の挑戦を受けて、日本製鋼所の工場内で1対1の対決をした。荏原哲夫と松田武嗣は、殴り合うことなくその場を収め、五分の兄弟分となった。それから、荏原哲夫と松田武嗣は、室蘭市内で喧嘩に明け暮れた。同年12月、荏原哲夫と松田武嗣は、日本製鋼所から逃亡することを決めた。同月、まず松田武嗣が日本製鋼所から脱走した。松田武嗣は、東室蘭駅から室蘭本線で、札幌を通って、小樽市の実家に逃げ帰った。
昭和16年(1941年)1月、荏原哲夫は、舎弟の吉川とともに、日本製鋼所から脱走した。同年2月、荏原哲夫は、荏原の舎弟の吉川とともに、小樽市の松田武嗣の実家を訪ねた。荏原哲夫は、松田武嗣に、舎弟の吉川を紹介した。3日後夜、荏原哲夫と舎弟の吉川と松田武嗣は、小樽市内のコリントゲーム屋で、憲兵に捕まった。3人は小樽市の憲兵隊本部に連れて行かれた。荏原哲夫と荏原の舎弟の吉川は、室蘭市の日本製鋼所から脱走中であることがばれた。3人は尻を丸出しにさせられて、憲兵に丸太ん棒で尻を叩かれた。荏原哲夫と荏原の舎弟・吉川と松田武嗣は、憲兵によって、3人それぞれ別々の汽車で、室蘭市の日本製鋼所に送り返されることになった。荏原哲夫は、栗山駅の手前で、汽車から飛び降りて、逃走した。また、別の汽車で連行されていた松田武嗣も、栗山駅の手前で、汽車から飛び降りて逃走した。
それから、荏原哲夫は茨城県で塹壕堀りに従事した。松田武嗣は、神戸で船乗りとなった。
昭和20年(1945年)7月、松田武嗣は、横須賀市の海兵団に入隊した。松田武嗣は、久里浜で人間魚雷の練習に明け暮れた。
同年、荏原哲夫は、長岡宗一(通称:ジャッキー。後の三代目山口組柳川組北海道支部長)と知り合い、長岡を舎弟とした。
同年10月、荏原哲夫は、札幌市狸小路1丁目で、松田武嗣と再会した。同日夕方、荏原哲夫は、松田武嗣を札幌駅に送った。途中の五番館前で、荏原哲夫は、靴修理屋のテキヤ3、4人を恐喝した。荏原哲夫は、靴修理屋のテキヤたちと乱闘になった。松田武嗣は、荏原哲夫に加勢した。荏原哲夫と松田武嗣は、靴修理屋のテキヤたちを殴り倒した。
間もなく、荏原哲夫は、喧嘩沙汰で警察に追われることになり、東京新宿に移った。荏原哲夫は、新宿の組に一時的に身を落ち着け、客分となった。荏原哲夫は、新宿でも、喧嘩、露店への恐喝、賭場荒らしに明け暮れた。同年、荏原哲夫は、新宿にある露店を恐喝したとき、マーケットを仕切るテキヤ数人に捕まり、新宿駅近くのガード下で、半殺しの目に合わされた。荏原哲夫は、自分を半殺しの目に合わせたテキヤのマーケットの責任者・青木を調べ上げ、ドスを用意し、青木の命を狙った。同年、荏原哲夫は、函館出身のテキヤ・正野二郎の訪問を受けた。正野二郎は荏原哲夫を花園神社に誘い、青木への報復を思い止まるように説得した。荏原哲夫は、正野二郎の説得を拒絶した。荏原哲夫と正野二郎は花園神社で1対1の決闘を行った。荏原哲夫は正野二郎を徹底的に殴り倒したが、正野二郎は音を上げなかった。荏原哲夫と正野二郎は、互いの血を舐めあって、五分の兄弟分となった。荏原哲夫は、青木殺害を諦め、自分に暴行を加えたテキヤを襲い、報復した。
昭和21年(1946年)、荏原哲夫は、正野二郎とともに札幌市に戻った。荏原哲夫は、正野二郎や松田武嗣らとともに、愚連隊を組織した。
昭和23年(1948年)、長岡宗一は岩見沢市志文町の実家に戻った。同年夏、岩見沢市上志文の盆踊りで、長岡宗一は、美流渡の愚連隊の男と喧嘩になった。長岡宗一は、愚連隊の男の口に、短刀を突っ込んで脅し、撃退した。その日のうちに、長岡宗一のもとには、「美流渡の愚連隊が長岡宗一を狙って報復しに来る」との情報がもたらされた。長岡宗一は、岩見沢市の舎弟や友人を集めた。荏原哲夫も長岡宗一の助太刀をしに、岩見沢市に駆けつけた。翌日、長岡宗一、荏原哲夫らは、美流渡の愚連隊と、上志文駅前の倉庫前で対峙した。荏原哲夫の助太刀を知った美流渡の愚連隊の首領・鈴木は、対決を避け、長岡宗一や荏原哲夫に和解を申し込んできた。長岡宗一と荏原哲夫は、美流渡の愚連隊と手打ちをした。この後、万字線を中心とする岩見沢、志文、上志文、美流渡、万字、万字炭山の炭鉱街の不良が、次々と長岡宗一の舎弟となった。長岡宗一は、岩見沢市の市役所に就職したが、半年で辞めた。次に、大手運送会社の岩見沢支店に就職し、経理を担当した。半年後、長岡宗一は、営業所長の横領に気がついた。長岡宗一は、営業所長の横領を、岩見沢支店長と総務部長に訴えた。岩見沢支店長と総務部長は、長岡宗一に対して、内々に処理してくれるように懇願した。すぐに、長岡宗一はこの運送会社を退職した。
このころ、正野二郎が堅気に戻った。
昭和24年(1949年)1月、札幌市のテキヤの幹部・田山吉雄が、出所した。田山吉雄は、荏原哲夫の兄弟分である愚連隊仲間の兄弟分(つまり、回り兄弟分)・通称:島畑チャンタを刺殺し、服役していた。荏原哲夫、松田武嗣や愚連隊仲間が集まったとき、田山吉雄を殺すことで話がまとまった。松田武嗣が田山吉雄殺害を買って出た。同年2月、松田武嗣は、田山吉雄が、田山の親分である森呉謙吉の札幌狸小路の家にいることを突き止めた。松田武嗣は、長ドスを持って、森呉謙吉の家に殴り込んだ。松田武嗣は、田山吉雄に斬りかかったが、長ドスは頭をかすめた。松田武嗣は、長ドスを振り回した。松田武嗣は長ドスの刃で鴨居を斬りつけ、長ドスの刃が、鴨居に食い込んだ。田山吉雄は森呉謙吉の家を飛び出して逃げた。松田武嗣は、森呉謙吉の家から引き上げた。同年4月、荏原哲夫が田山吉雄を日本刀で刺殺した。荏原哲夫は、松田武嗣に付き添われて、ススキノ交番に自首した。同年11月荏原哲夫は懲役5年の実刑判決を受け、札幌市東苗穂484番地(現:札幌市東区東苗穂2条1丁目5番1号)の札幌苗穂刑務所(現:札幌刑務所)に服役した。荏原哲也は、炊場に配属された。すぐに、荏原哲也は、炊場の責任者になった。
同年、松田武嗣は、小樽市の飯島一家松本分家・庵袋初代・庵袋秀一から盃をもらい、庵袋秀一の実子分となった。
昭和25年(1950年)9月11日、松田武嗣は、内妻と舎弟1人とともに、三沢市(三沢市には、松田武嗣の兄弟分・西村春男に招待されて、祭りに行っていた。松田武嗣は三沢の祭りで、西村春男の場所割りを手伝い、西村春男からショバ代の半分を貰っていた)から小樽に帰る途中、青森駅で札幌のテキヤ仲間・小野川辰二と出会った。小野川辰二は、東京で商品を仕入れて帰る途中だった。松田武嗣たち4人は、下り二便午前9時50分青森発の国鉄青函連絡船「大雪丸」に乗り込んだ。4人は二等客室の升席につき、酒盛りを始めた。出港から2時間後、松田武嗣の舎弟がトイレに向かった。松田武嗣の舎弟は、デッキで、函館の競輪選手6人と喧嘩になった。松田武嗣と小野川辰二は、松田の舎弟の帰りが遅いので、松田の舎弟を探してデッキにでた。松田武嗣と小野川辰二は、デッキで、競輪選手6人に暴行されている松田の舎弟を発見した。小野川辰二が、暴行を止めに入ったが、競輪選手6人に殴り倒された。松田武嗣と競輪選手6人が喧嘩となった。松田武嗣は4人の競輪選手を殴り倒した。残る2人の競輪選手は戦意を失った。松田の舎弟と小野川辰二が、倒れた4人の競輪選手に対して、激しい暴行を加えた。松田武嗣は、二等客室の升席に戻った。松田の舎弟と小野川辰二が暴行を加えた競輪選手のうちの1人が死亡した。松田武嗣たちは函館水警によって、殺人罪で逮捕された。裁判で、松田武嗣たち3人は、傷害致死罪による懲役4年の実刑判決を受けた(青函連絡船殺人事件[1])。
同年、長岡宗一は、あるテキヤの用心棒となった。同年秋、このテキヤは、栗山町桜山で開催されたばん馬競争に、露店を開いた。長岡宗一も用心棒として同行した。長岡宗一は、ばん馬競争の最中に、愚連隊の男と決闘になり、持っていた剃刀で左頬と後頭部を切った。愚連隊の男の兄弟分が加勢に来たが、長岡宗一は、この兄弟分を3回斬った。さらに、長岡宗一は、堅気の集団に襲われた。長岡宗一は逃げたが、途中でマサカリを見つけて、マサカリを手に堅気の集団を迎え撃った。長岡宗一と堅気の集団は、睨み合った。このとき、テキヤと警察官が駆けつけてきた。長岡宗一は警官に逮捕され、栗山警察署に連行された。同年末、長岡宗一は、傷害罪と刀剣類不法所持により懲役1年6ヶ月の実刑判決を受けて、札幌苗穂刑務所に服役した。長岡宗一は計算夫に配属された。ここで、荏原哲夫は、長岡宗一と再会した。また、荏原哲夫は長岡宗一に、札幌苗穂刑務所に服役中の田村武志(後の五代目山口組若中)を紹介した。長岡宗一は、模範囚となり、5ヶ月21日で出所した。
このころ、長岡宗一は、岩見沢・志文町の貸元・古峯謹治の客分となり、古峯謹治の賭場を手伝うようになった。その後、長岡宗一は、代貸格になった。
昭和26年(1951年)春、荏原哲夫は、札幌苗穂刑務所で、松田武嗣と再会した。
昭和28年(1953年)春、荏原哲夫は、サンフランシスコ条約の恩赦で、札幌苗穂刑務所を出所した。妻・純子と長岡宗一、札幌真照寺住職・松本昇典の3人が、荏原哲夫を出迎えた。松本昇典は、札幌苗穂刑務所で、教かい[2]師も務めていた。出所後すぐに、荏原哲夫は、松本昇典らの尽力で、会津屋連合会会津家小高一家・小高龍湖組長(後の全日本アマチュアボクシング連盟副会長)の実子分として、会津一家に入った。荏原哲夫の筆頭舎弟だった長岡宗一は、小高龍湖の鞄持ち兼用心棒となった。小高龍湖は北海道アマチュアボクシング連盟会長に就いていたので、長岡宗一は、小高龍湖について、北海道で行われる全てのボクシングの試合に立ち会った。荏原哲夫は札幌市内のパチンコ店の景品買いの用心棒の権利を次々と手に入れていった。
昭和30年(1955年)夏、荏原哲夫は、岩見沢市の博徒・阿藤浩二が用心棒を勤めるパチンコ店から、用心棒代を奪い取った。荏原哲夫は、阿藤浩二の舎弟・小野里に襲われ、短刀で右腕と胸を刺され、重傷を負った。荏原哲夫は、札幌市内の保全病院に搬送された。短刀の刃は、荏原哲夫の右肺まで達していた。札幌市の博徒で、小高龍湖の兄弟分・山地道蔵が仲裁に走った。荏原哲夫は、阿藤浩二に100万円を要求した。阿藤浩二は、荏原哲夫の要求を呑んだ。荏原哲夫と阿藤浩二は、山地道蔵の仲裁で、手打ちをした。その後、荏原哲夫は、肋膜炎で、北辰病院に入院した。
昭和31年(1956年)2月初旬、荏原哲夫の舎弟だった砂川市の愚連隊・谷内二三男(後の北海道誠友会初代会長)が、ススキノのダンスホール「ゴールデンゲート」前で、源清田長江一家・塚本修翠(後の長江一家四代目)の舎弟・富岡淳と口論から喧嘩となった。谷内二三男は、ドスと拳銃を、富岡淳に突きつけ、ドスで富岡淳の顔を斬り、重傷を負わせた。塚本修翠の知人が、「ゴールデンゲート」の中にいた塚本修翠に、富岡淳が谷内二三男に斬られたことを告げた。塚本修翠が「ゴールデンゲート」を出ると、谷内二三男がいた。塚本修翠は、谷内二三男に、翌日1対1で話し合うことを約束させた。翌日、谷内二三男は、話し合いに来た塚本修翠に拳銃を突きつけ、富岡淳の断指を要求した。塚本修翠は、谷内二三男の要求を拒否した。谷内二三男は、ドスで塚本修翠の胸を刺した。塚本修翠は軽傷だった。その直後、塚本修翠の舎弟分・山浦安男は、札幌市狸小路7丁目のパチンコ店で、荏原哲夫の舎弟2人から前後に拳銃を突きつけられ、連行されそうになった。山浦安男は、前の男の拳銃を弾き飛ばし、そのまま走って逃げた。山浦安男は知人宅に逃げ込むと、知人宅に預けていた日本刀を持ち出して、荏原哲夫の舎弟2人を探し回った。それから、塚本修翠や山浦安男ら長江一家30人ほどが、ススキノの寿司屋「吉野」に集まった。ここで、塚本修翠は、集まった長江一家の者に対して、荏原哲夫と戦争することを宣言した。翌日、塚本修翠は、塚本の兄貴分・萩原敬士(後の源清田萩原初代)に荏原哲夫と戦争することを報告した。萩原敬士は、塚本修翠に、小高龍湖を話し合うことを勧めた。塚本修翠は、萩原敬士の提案を受け入れた。このとき、小高龍湖は、東京にいて、札幌には不在だった。塚本修翠は、荏原哲夫との全面戦争を決断した。翌朝、山浦安男は、S&W45口径を持参して、銭函の海上までボートで漕ぎ出し、海上で射撃練習を行った。
それから、塚本修翠は、襲撃隊を、塚本修翠、松本武男(通称:般若の松)、山浦安男をそれぞれリーダーとする3班に分けた。それぞれの班が手分けをして荏原哲夫を探した。各班は、荏原哲夫を見つけ次第、殺害することになっていた。
同年2月15日午後7時ごろ、山浦安男率いる班が、札幌市中央区南七条西5丁目で、数人が入り乱れて喧嘩をしているのを発見した。山浦安男の班は、日本刀を抜いて、喧嘩の現場に突入した。すぐに、松本武男の班も現場に到着した。しかし、喧嘩をしていたのは、荏原哲夫のグループではなかった。
同年2月16日午後2時、荏原哲夫は、舎弟分・飯山定義を連れて、自宅である小料理屋「華」を出た。同日午後3時前に、荏原哲夫と飯山定義は、札幌市中央区南四条西2丁目のビリアード場「錦」に入った。長江一家は、荏原哲夫がビリアード場「錦」にいることを突き止めた。長江一家は、4班に分かれて、ビリアード場「錦」を取り囲んだ。「錦」の向かいの映画館前には、宮岡淳、山浦安男、森川正治、神山ら10人ほどの班が待機した。森川正治が、山浦安男から、S&W45口径の拳銃を借りた。宮岡淳、山浦安男、森川正治、神山らは関の孫六や備前長船などを持って、ビリアード場「錦」に入った。宮岡淳が、荏原哲夫に、外に出るように云った。荏原哲夫は、コルト22口径を、宮岡淳たちに突きつけて、宮岡淳たちや飯山定義とともに外に出た。このとき、荏原哲夫のコルトには銃弾が入っていなかった。神山が、荏原哲夫の隙をついて、備前長船の峰で、荏原哲夫の肩を打った。山浦安男の舎弟が、飯山定義の顔に硫酸をかけた。山浦安男と宮岡淳が日本刀で、飯山定義の左手を斬った。荏原哲夫は、駅前通りの角の薬局まで、駆けて逃げ、コルトに銃弾を詰め込んだ。それから、荏原哲夫は、南五条西4丁目のジャンジャン横丁まで逃げた。山浦安男、宮岡淳、森川正治の3人が荏原哲夫を追った。森川正治が、ジャンジャン横丁入り口の酒房「ジュエル」前で、荏原哲夫をS&W45口径の拳銃で狙撃した。荏原哲夫は、腹部貫通の銃弾を受けた。荏原哲夫も、コルト22口径で森川正治を撃った。森川正治は、右足貫通の銃弾を受けた。山浦安男と宮岡淳は、止めを刺そうと、荏原哲夫に近づいた。荏原哲夫は、コルト22口径を持ったまま立ち上がり、銃口を山浦安男と宮岡淳に向けたまま後ずさりした。山浦安男と宮岡淳と森川正治の3人は、逃走した。荏原哲夫は、札幌市の保全病院に収容された。
同日、長岡宗一は、岩見沢市志文町の貸元・古峯謹治の賭場にいた。長岡宗一は、荏原哲夫の舎弟からの電話で、荏原哲夫が長江一家に襲われて、保全病院に入院したことを知った。長岡宗一は、バイクで保全病院に駆けつけた。
同年2月18日午後8時45分、荏原哲夫は、保全病院で死亡した。享年31。
註 [編集]
関連項目 [編集]
- 平田満(484のブルース)
参考文献 [編集]
- 『愚連隊伝説』洋泉社、1999年、ISBN 4-89691-408-2
- 山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2