選抜高等学校野球大会
選抜高等学校野球大会(せんばつこうとうがっこうやきゅうたいかい)とは、例年3月下旬から4月にかけて兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で行われる日本の高校野球の大会である。略称はセンバツ。通称は「春の大会」「春の高校野球」「春の甲子園」とも。英文名称はNational High School Baseball Invitational Tournament。主催は毎日新聞社、財団法人日本高等学校野球連盟(高野連)。大会旗および優勝旗の色は紫紺。5年に1度(下1桁が0と5の回)は記念大会として実施されている。歴代優勝校は、選抜高等学校野球大会歴代優勝校に記述。
概要[編集]
出場校の選抜[編集]
出場校は、選考委員会によって決められる。1947年、小倉中(福岡)が春の選抜甲子園大会で準優勝、夏の甲子園大会では優勝し、初めて深紅の大優勝旗が関門海峡を越えた。この小倉中学の春の選抜準優勝に続く夏の全国制覇は九州地区の中学校の野球熱を一段と高めた。この機運に乗って朝日新聞西部本社運動部の芥田武夫部長は全国に先駆け、「全国中等学校野球連盟九州支部」を組織し、秋に第一回九州大会を鹿児島の鴨池球場で開催し、大成功を収める。そのため他の地域も九州大会を範にして翌秋から地区大会を開催するようになる。 以後、一般に、新チームで臨む最初の公式大会(実質的な新人トーナメント戦)となる秋季各都道府県大会・地域大会(全国10ブロック)の成績が春の選抜大会出場校・並びに補欠校を決める際の重要な選考資料となる。また、出場校が記念大会を除いて最大32校と定められているため、1ブロックとして定められている東京都・北海道を除けば、出場校が1校もない府県が毎回生じる。逆に、同一府県から2校選出される可能性もあるのが、夏の大会と大きく異なる点の一つでもある。
出場校の決定は秋季都道府県大会と地区大会の実績と地域的なバランスを考えた選考を前提としているが、選考会では高野連役員の意思が反映されるため、秋季地区大会で初戦敗退にも拘らず選ばれる学校があるなど、高校野球ファンや関係者の間で選出基準が論争になることが頻繁にある。「明確な選考基準」を示すことを望む高校野球ファンは多い。
出場校決定後に組み合わせ抽選会を行いトーナメント方式で頂点を決め、2校出場した都道府県代表校は決勝戦まで当たらない様に配置させる。そのため、同じ都道府県代表校の対戦の機会は非常に少ない。
組み合わせ抽選会は毎年9:00から行い、各地区の出場校が多い学校から決定する。
選手宣誓は出場校全校の主将によるくじ引きで決定する。
選手の学年は年度を跨ぐため、新年度の学年で紹介される。
一般選考[編集]
基本的には秋季大会の成績に、地域性を考慮して決定。ここで出場28校と補欠(各地区につき1、2チーム程度)を選出。
- 北海道:1
- 東北:2
- 関東(4)・東京(1):6
- 東海:2
- 北信越:2
- 近畿:6
- 中国(2)・四国(2):5
- 九州:4
- 関東・東京、中国・四国の括弧内は各地区の出場校数。残り1校は両地区を比較した上で選出する。
- 東京大会のみ関東の枠組みから外れて、単独開催となっている。2003年まではほぼ2枠で固定されており、それゆえ、1位校と2位校が揃って選出されるケースが多かった。背景には、毎日新聞東京本社の意向が反映しているともいわれる。出場枠が減枠され、関東との比較となった2004年以降は1枠となる年が多くなっている。
- かつては近畿地区の枠は7校であり、2府4県から1校ずつ選ばれてもさらにもう1校枠があった。そのため近畿のいずれかの府県からは必ず2校選出されていた。
- 第75回大会まで各地区の出場枠は明文化されておらず、選考委員会で決定していたが(ただし第63回大会(1991年)以降は事実上固定状態にあった)、第76回大会以降前年7月の運営委員会で出場枠が決定され、一般枠は各地区の枠が明文化されるようになった。
21世紀枠[編集]
2001年が21世紀最初の年であることに因み、同年開催の第73回大会から設けられた。
部員不足などの困難を克服した学校や、他校の模範となる学校を選出。推薦は基本的に各都道府県の秋季新人大会で参加校数が2012年までは、128校を上回る都道府県ではベスト16、それ以外の県ではベスト8以上のチーム、2013年以降は128校を上回る都道府県ではベスト32、それ以外の県ではベスト16以上[1]と改定された。以上のチーム各ブロックから1校ずつ出してもらいその中で2校(東日本〜東海以東・西日本〜近畿以西各1校)を選出。第80回大会(2008年)は記念大会で例年より1校増の3校で「北海道、東北、関東・東京」、「東海、北信越、近畿」、「中国、四国、九州」各1校が選出。第81回大会(2009年)は東日本1校、西日本1校、その他1校の3校が選出された。この21世紀枠は他競技にも影響を及ぼしており、近いものとして全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会の「チャレンジ枠」、全国選抜高等学校テニス大会の「ドリーム枠」が後に設けられた。
“他校の模範であること”を根拠に名門の大学へ現役合格者多数、学校全体での「朝の読書」推進、「青少年赤十字部」の活動、生徒のボランティア活動、果ては災害被災地所在で頑張っているなど野球そのものとは直接関係のない事象により推薦されるケースがあり、「選考基準が曖昧」という理由により非難の声も聞かれる。さらに、過去の選出校のほとんどが一般選考ライン一歩手前で敗れており、実質的には地区大会出場校の救済枠となっている。過去に優勝経験のある学校や、県内では強豪といわれる学校が選考されている。高校野球バージョンのワイルドカードと捉えても良いだろう。2009年の利府高校に至っては困難克服どころか、地元紙の特集において「恵まれた環境」とされていた(スポーツ科が設置されているため、他の公立高校に比べ選手が集まりやすい傾向にある)。2010年に出場した山形中央高校も体育科が設置されており選手が集まりやすい傾向にあるにも関わらず21世紀枠で選出された。また、「他校の模範となるチーム」を選出する枠でありながら、2006年から2010年までは毎年都道府県推薦校が不祥事により推薦を取り消される事態が発生していた。
2011年の第83回大会では見直しが行われるはずだったが、結局は地区大会の成績に「原則」が付記され、出場校選出の最終優先条件が「30年以上出場がない学校」から「出場から、より遠ざかっている学校」となったのみで、事実上の前例踏襲となった。2012年の第84回大会において洲本高校が30年以内に出場経験のある学校として初めて選出された。
なお、この枠で出場した高校は2012年までは全て公立校であったが、2013年に私立校で初めて土佐高校が選出された。2012年現在、初戦の成績は10勝19敗。通算成績は14勝29敗。21世紀枠での出場後、自力で春・夏どちらかに出場した学校は宜野座高校、鵡川高校、華陵高校、山形中央高校の4校だけである。
年 | 出場校 | 主な選考理由 | 結果 |
---|---|---|---|
2001年 | 安積(福島) | 創立創部ともに県最古であり、質実剛健で考える野球を実践した。 | 初戦敗退(2回戦) |
宜野座(沖縄) | 部員全員が地元中学出身で地域貢献を果たす。 | ベスト4 | |
2002年 | 鵡川(北海道) | 廃校の危機を乗り越え、希望の星となる。 | ベスト16 |
松江北(島根) | 県内屈指の進学校。 | 初戦敗退 | |
2003年 | 柏崎(新潟) | 豪雪地のハンディを克服。 | 初戦敗退 |
隠岐(島根) | 離島の過酷な条件を克服。 | 初戦敗退(2回戦) | |
2004年 | 一関一(岩手) | 県内屈指の進学校。 | 初戦敗退 |
八幡浜(愛媛) | 生徒数大幅減少の中で文武両道を徹底。 | 初戦敗退 | |
2005年 | 一迫商業(宮城) | 地域密着の活動で過疎の町を勇気づけた。 | ベスト16 |
高松(香川) | 県内屈指の進学校。 | 初戦敗退 | |
2006年 | 真岡工業(栃木) | 地元密着の選手育成。 | 初戦敗退 |
金沢桜丘(石川) | 県内有数の進学校。 | 初戦敗退 | |
2007年 | 都留(山梨) | 部活時間確保のため、通常10分の休み時間を7分に短縮。三宅島噴火による避難生活中だった都立三宅高校と合同練習や試合を行った。 | 初戦敗退 |
都城泉ヶ丘(宮崎) | 県内有数の進学校。狭いグラウンドという悪条件を、工夫を凝らした練習で克服。 | ベスト16 | |
2008年 | 安房(千葉) | 創立100年を超える文武両道の進学校。房総半島の南端に位置し、小規模校の多い地元の中学出身者だけでチームを構成。 | 2回戦敗退 |
成章(愛知) | 創部100年を誇る県立の進学校。試合会場まで長距離移動する地理的なハンディを乗り越え強豪私立高と接戦を演じた。 | 2回戦敗退 | |
華陵(山口) | 全校生徒が日本赤十字の会員で、青少年赤十字モデル校の指定を受けている。過去4年間で春秋合わせて中国大会に6回出場。 | ベスト16 | |
2009年 | 利府(宮城) | 地域の清掃活動に積極的に参加。運動部員が小学校へ出前授業をしている。生徒が梨農家の手伝いをしている。 | ベスト4 |
彦根東(滋賀) | 右翼が左翼より30メートルも短い変形グラウンドという悪条件を、工夫を凝らした練習で克服。 | 初戦敗退 | |
大分上野丘(大分) | 県内随一の進学校。放課後の練習は2時間までと決められていながら、2008年秋季大会では九州大会出場を果たした文武両道。 | 初戦敗退 | |
2010年 | 山形中央(山形) | 野球ばかりでなくスキー、スケート、柔道なども全国トップレベルにある。率先して学校周辺の清掃活動に取り組み、また部の方針に「感謝」を掲げ地域交流にも取り組む。 | 初戦敗退 |
向陽(和歌山) | 旧制海草中学時代に嶋清一などの活躍で1939~40年夏の大会を連覇した名門校。清掃活動など地域とつながりも深く、副主将は生徒会長を務めて学校生活にも熱心に取り組む。 | ベスト16 | |
川島(徳島) | 少人数部員(18人)、グラウンドが共用で使える広さがダイヤモンドとほぼ同じという悪条件を、工夫をこらした練習で克服。 | 初戦敗退 | |
2011年 | 大館鳳鳴(秋田) | 1898年創立の進学校。部員全員が地元出身で、冬はボランティアで除雪を行い地域に貢献。「ベースボール」を「野球」と訳した中馬庚が大正期に校長を務めていた。 | 初戦敗退 |
佐渡(新潟) | 本州まで2時間半かけて遠征し練習試合を行う離島のハンディを乗り越え、2010年秋の県大会で準優勝。60条からなる「野球部心得」を基に人間力向上に取り組む。 | 初戦敗退 | |
城南(徳島) | 創立・創部とも県内最古の歴史を持つ進学校。部員全員が近隣中学出身で、生徒会活動などに積極的に参加。 | ベスト16 | |
2012年 | 女満別(北海道) | 全校生徒134人の小規模校で野球部員は19人。氷点下20度を下回る日が珍しくない寒冷地の中で、昨秋の北海道大会ベスト16と健闘した。 | 初戦敗退 |
石巻工(宮城) | 前年の東日本大震災で部員の殆どや自校のグラウンドが被災したものの、その年の秋季大会で準優勝を果たした。 | 初戦敗退 | |
洲本(兵庫) | 阪神・淡路大震災当時に生まれた生徒が主力で、県内の強豪校と互角に戦い続けた[2]。 | 初戦敗退 | |
2013年 | 遠軽(北海道) | 町唯一の道立校で、生徒の8割は町民。堀達也・前道知事や安彦良和の母校。町内の催事に生徒や教職員が積極的に参加。 | |
いわき海星(福島) | 東日本大震災とそれに伴う大津波や福島第一原子力発電所事故の渦中でも夢を諦めずに頑張る姿は風評被害に苦しむ県民に希望と元気を与えてくれる。 | 初戦敗退 | |
益田翔陽(島根) | 他校の模範たり得るマナー、統合により誕生した学校で部員確保の苦労を克服し、ボランティア活動にも積極的に取り組んでいる。 | 初戦敗退 | |
土佐(高知) | 学校は1920年、野球部は1947年創立と歴史を誇る。「文武両道」と共に掲げられるモットー「全力疾走」は全国的に有名。 | 初戦敗退 |
明治神宮大会枠[編集]
第75回大会(2003年)から設けられる。明治神宮大会枠は11月の明治神宮大会優勝校が所属する地域に与えられ、この地域の通常枠が1つ増える形となる。第80回大会(2008年)は記念大会で1校増の2枠で、優勝校・準優勝校を出した地区に枠が与えられた。この枠ができ、通常枠の1道府県2校までが確定した。東京のみ神宮枠を獲得し、関東との比較により一般枠が2となった場合に3校出場の可能性がある。関東と東京は、神宮大会にそれぞれ代表校が出場するのに対し、通常の選抜出場枠が関東4.5、東京1.5であるため、神宮枠の恩恵を互いに共有している。優勝校が北海道でも確実に2校出場となる。2012年現在、初戦の成績は3勝8敗と21世紀枠より低い成績である。
年 | 出場校 | 結果 |
---|---|---|
2003年 | 東邦(愛知) | 初戦敗退(2回戦) |
2004年 | 常葉菊川(静岡) | 初戦敗退 |
2005年 | 戸畑(福岡) | 初戦敗退 |
2006年 | 旭川実(北海道) | 初戦敗退 |
2007年 | 室戸(高知) | ベスト8 |
2008年 | 宇都宮南(栃木) | 初戦敗退(2回戦) |
宇治山田商(三重) | ベスト16 | |
2009年 | 下妻二(茨城) | 初戦敗退 |
2010年 | 三重(三重) | ベスト16 |
2011年 | 国学院久我山(東京) | 初戦敗退 |
2012年 | 花巻東(岩手) | 初戦敗退 |
2013年 | 盛岡大付(岩手) |
希望枠[編集]
第75回大会(2003年)から、第80回大会(2008年)まで設けられた。
一般選考の補欠校にもセンバツへの「希望」を残す狙いで、第75回大会から導入された。神宮大会枠を得た地区を除く地区の補欠1位校が対象。投手を含めた守備力のデータに従って決める。項目は第75回が被塁打、与残塁+失点、失策、第76回以降が被塁打、与四死球、失点、失策。第75回大会では明治神宮大会を除く直近5試合で各項目の1試合9イニング平均値を計算し、最初に被塁打数の多い3校、次に与残塁+失点の多い3校を除外し、残った3校のうち最も失点の少ないチームを選出するという方法が採られていた。
第76回大会から選出方法が変更され、明治神宮大会を除く直近4試合で各項目の1試合9イニング平均値を計算し、順位を得点化、合計がもっとも多い学校が選出されるようになった。
合計ポイント(第75回大会では失点)が同じ場合は得失点差の大きいほうを選出する。得失点差も同じ場合は、第75回大会では出場経験がない、もしくは古い方を選出するとされていたが、第76回大会以降は明示されていなかった。
希望枠は、明治神宮枠以外の地区の補欠出場順位第1位の学校の中からデータを比較の上、守備力に長けているチームを1校選出。ただし東京枠は2枠選出する場合においては除かれる。理由は同一都道府県から出場枠を21世紀枠を除く、3校選出を避けるためである。
年 | 出場校 | 結果 |
---|---|---|
2003年 | 旭川実(北海道) | 初戦敗退(2回戦) |
2004年 | 秋田商(秋田) | ベスト8 |
2005年 | 三本松(香川) | 初戦敗退 |
2006年 | 一関学院(岩手) | 初戦敗退 |
2007年 | 大垣日大(岐阜) | 準優勝 |
2008年 | 一関学院(岩手) | 初戦敗退(2回戦) |
その他の特別出場枠[編集]
2013年の第85回記念大会は通常の東北代表枠や21世紀枠などとは別に「東北絆枠」と題した特別枠として、東日本大震災からの復興を目指す東北地方の学校の中から「一般選考の中に含めつつも、何かキラリと光るものを持っているチームを選抜する」として制定しており、内容としては21世紀枠とほぼ準じたものである。この「絆枠」からは山形中央高等学校が出場権を得ている。
試合[編集]
大会の開催時期[編集]
第1回(1923年)は4月に5日間にわたって開催され、当初は1週間程度であった。第10回(1933年)は出場校が増えたため10日間にわたったが、その後再び記念大会を除いた平年は1週間前後の開催が続く。第33回(1961年)以後は学校の春休みの開始に合わせて3月26日前後の開幕が定着するようになった。
しかし、1997年の第69回などのように、雨天の影響による試合日程の度重なる順延が影響し、これが災いして、新年度の始業式や入学式に差し支える可能性があることや、阪神タイガースの専用球場として使われる日本プロ野球の開会日が試合数の増加の影響で3月下旬に繰り上げられるなどの日程確保の観点などのため、第75回(2003年)から3月22日前後に繰り上げられている。またこの年から準々決勝は選手の健康管理を考慮に入れて雨天延期が頻発しない限り2日間となったこと、1回戦・2回戦は3試合ずつ/日こなすことになったために12-13日間の日程が組まれている。
打順[編集]
延長戦・再試合[編集]
試合は9回で同点の場合には延長戦。ただし延長15回でも同点で決着しない場合には引き分けのまま打ち切りとし、翌日か翌々日再試合が開催される。コールドゲームは得点差では認められておらず、雨天などの天災で7回以降の均等回を消化した場合のみに採用される。1999年12月の高野連全国理事会において、2年後の第73回大会(2001年)の春の大会から引き分け再試合を、延長18回制から延長15回制に短縮変更となった(詳しくは「延長引き分け再試合規定 (高校野球)」を参照)。
審判員[編集]
審判員は球審、3人の塁審、予備審判2人と控え審判員1人の計7人。ただし、ナイター下では2人の予備審判員が外審として試合に加わる。
1日に割り当てる試合数[編集]
- 1日の試合数は以前は最大4試合で、第66回大会(1994年)までは1回戦の2日目-4日目と8日目の準々決勝開催日がその当該日だった。しかし阪神・淡路大震災による交通障害で応援団の来場スケジュール調整が必要なこと、また選手の健康管理面の問題などを考慮し第67回大会(1995年)から4試合日は9日目の準々決勝のみとし1・2回戦の全開催日の初日-8日目は1日3試合とするようになった。
- 更に第76回大会(2004年)から大会後半の選手の連戦による疲労を避けるという意味合いで夏の大会と同じように、準々決勝を1日2試合ずつ割り当てることにした。ただし雨天延期などによる日程の過密化で消化しきれない場合は4試合一括開催となる場合あり。よって現在は最大1日3試合まで開催されていることとなる。ただ5年年単位の記念大会となる西暦下一桁3年の年は34チーム、10年単位の記念大会となる西暦下一桁8年の年は36チーム参加のため、一部予め4試合設定の日がある。
- 第1試合の基本的な開始時間
- 初日 - 開会式直後の10:20
- 3試合開催日 - 9:00(第79回大会(2007年)から、従来の9:30より30分繰り上げられた)
- 2試合開催日(主として準々決勝、準決勝) - 11:00
- 1試合開催日(主として決勝) - 12:30または13:00
- 4試合開催日(日程編成の都合で4試合消化しなくてはいけない場合) - 8:30(第61回大会(1989年)まで8:00開始)
- 2試合以上開催する場合、新聞の組み合わせ発表では「試合時間2時間・練習とグラウンドの整備30分」と仮定して3試合日の場合「(1)9:00、(2)11:30、(3)14:00」とそれぞれ掲載されているがあくまでも目安であり、実際には次の試合はグラウンド整備や事前練習の関係もあり原則として前の試合終了から30分程度の時間を置いてから行う(早く終了した場合は新聞等発表の時刻より繰り上げられる場合もある)。なおかつては4試合開催日の場合で「(1)8:00、(2)10:20、(3)12:40、(4)15:00」を目安として、前の試合終了から20分後に次の試合を行っていた。
選抜大会歌[編集]
- 第8回大会(1931年)で初代大会歌(作詞・長谷川海太郎、作曲・陸軍戸山学校軍楽隊)が制定。しかし歌詞に英語が含まれていたため1年で廃止。
- 第11回大会(1934年)で2代目大会歌「陽は舞いおどる甲子園」(作詞・薄田泣菫、作曲・陸軍戸山学校軍楽隊)が制定され、第64回(1992年)まで使われた。
- 第65回大会(1993年)からの3代目大会歌は阿久悠の作詞、谷村新司が作曲した「今ありて」が採用されている。
開会式[編集]
- 開式の辞
- ファンファーレの後、開式のことばとともに入場行進の司会を務める高校生が自己紹介する(学年は旧学年を言う)。司会者は、第70回大会(1998年)から高校生[3]が進行し、入場行進曲・演奏者・先導者紹介する。なお、東日本大震災の直後に行われた第83回大会(2011年)ではファンファーレは中止され、開式に先立って黙祷が行われた(その時の黙祷は、サイレンが鳴らされた)。
- 選手入場
- ライトスタンドと一塁側アルプスの間に設けられたセンバツゲートから入場。選手入場は先ず前年優勝校が優勝旗と優勝杯を、続いて準優勝校が準優勝旗を持って入場(いずれも出場校に選ばれた場合は出場選手全員、選ばれなかった場合は主将・副主将のみが1~2人で入場)。この後は下1桁が奇数回開催の時は南から北、下1桁が偶数回開催時は北から南の順に入場し、外野側に各校が整列する。選手入場ののち司会者は式典を担当する別の高校生[4]に交代し(交代時に自己紹介する)、選手・役員は脱帽の上で掲揚台側を向く。
- 国旗、大会旗、プラカードを持つのは、かつて第79回大会(2007年)まではボーイスカウト日本連盟所属のベンチャースカウト(高校生)であったが、第80回大会(2008年)から各出場校の生徒がプラカードを持つことになった(連続出場できなかった前年優勝校・準優勝校は変わらず)。なお、甲子園球場の所在地は兵庫県だが、プラカードは大阪連盟所属のスカウトが持っていた。プラカードは第80回から「全国高校書道コンクール」(毎日新聞主催)で上位に入賞した高校生が地域ごとに出場校の文字を書き入れるものに変更される。なお、阪神淡路大震災直後に行われた第67回大会(1995年)と、東日本大震災直後に行われた第83回大会(2011年)では中止された(外野側に整列した状態で開始)。
- 国旗掲揚・国歌独唱
- 大会旗掲揚・大会歌演奏
- 大会歌「今ありて」の演奏に合わせて大会旗を掲揚する。
- 前年優勝校校旗掲揚・校歌演奏
- 前年優勝校の校歌の演奏に合わせてその学校の校旗を掲揚する。なお、東日本大震災の直後に行われた第83回大会(2011年)では国旗・大会旗・校旗はいずれも半旗として掲揚された。
- 選手前進
- 選手は向きを変え着帽の上、仕掛け花火発破(大会名および出場校名が書かれた連続旗が垂れ下がる)と共にバックネット方向へ前進する。
- 優勝旗・優勝杯・準優勝旗返還
- 優勝旗と優勝杯が前年優勝校との主将・副主将、準優勝旗が前年準優勝校の主将から大会会長に返還され、そのレプリカが引き換えに進呈される。
- 選手宣誓
- 出場各校はセンバツ旗をもって宣誓台に集まる。
- 大会歌合唱
- 第27回大会(1955年)から現在に至るまで、連続的に神戸山手女子高等学校が大会歌の合唱を担当している。
- 閉会の辞、選手退場
- 選手達は3列ずつ駆け足ですぐさま退場する。
閉会式[編集]
- 選手入場
- 優勝校・準優勝校の選手入場
- 開式の辞
- 開式のことばとともに司会を務める高校生(開会式の式典司会者が兼任)が自己紹介する。
- 講評
- 優勝旗授与・優勝杯授与
- 準優勝旗授与
- 優勝メダル・準優勝メダル授与
- 優勝校校旗降納
- 優勝校校歌を演奏。
- 大会旗降納
- 大会歌を演奏。
- 国旗降納
- 国歌を演奏。
- 大会歌合唱
- 神戸山手女子高等学校が担当している。
- 優勝校・準優勝校選手場内一周
- 入場行進時と同じ曲。内野側から反時計回りに一周し、それぞれ三塁側・一塁側へ移動。NHK放送では途中で番組が終了する。
- ファンファーレ、閉式の辞
- 演奏者がピッチャーズマウンド付近に整列し、開会式と同じファンファーレを演奏。
歴史[編集]
- 1924年(第1回大会) 夏季選手権大会の人気や中等野球の興隆に影響を受け、選手権大会とは異なる選出基準の全国大会の開催が求められ、春季の選抜中等学校野球大会が創設され、山本球場(のちの八事球場)で開催。
- 1925年(第2回大会) 会場を夏の選手権大会と同じ甲子園に変更し、以降、甲子園で開催するようになる。
- 1926年(第3回大会) ラジオ中継開始。
- 1927年(第4回大会) 大正天皇崩御の関係で4月下旬から開催し、決勝戦は5月に開催。優勝校のアメリカ遠征制度が開始。
- 1929年(第6回大会) 勝利校の校歌演奏と校旗掲揚が開始される。
- 1932年(第9回大会) 優勝校のアメリカ遠征制度廃止。
- 1933年(第10回大会) 前年優勝校の無条件出場制度が廃止される。
- 1942年から1946年までは太平洋戦争と、その終戦の混乱により大会は中止。
- 1948年(第20回大会。なお開催当時は第1回大会) 学制改革に伴い、第1回選抜高等学校野球大会として開催される。
- 1954年(第26回大会。なお開催当時は第7回大会) テレビ中継開始。
- 1955年(第27回大会) 大会回数を中等学校時代からの通算とし、以前の大会(第1 - 7回)も回数を変更する。
- 1959年(第31回大会) 皇太子(2013年現在の天皇・明仁)の大婚によって、決勝戦のテレビ中継が中止になる。
- 1960年(第32回大会) 決勝戦の高松商対米子東戦が春夏の甲子園史上初めて優勝決定サヨナラ本塁打で決着。
- 1962年(第34回大会) 準々決勝の作新学院対八幡商の試合が春の甲子園としては初の延長18回引き分け再試合となった(春夏通じて2回目)。
- 1973年(第45回大会) 山形県勢(日大山形)が出場したのを最後に空白県が消える。また同校の勝利を最後に春夏通じての未勝利県も消える。
- 1978年(第50回大会)前橋が春夏通じて初の完全試合達成。
- 1984年(第56回大会) 大会会期途中より、歴代優勝校名入りの白いプレートを外野フェンスに掲示することを取り止めた。
- 1992年(第64回大会) ラッキーゾーンが撤去される。
- 1995年(第67回大会) 1月17日の阪神・淡路大震災の発生により甲子園球場も一部中止も危ぶまれたが、無事に開催された。一日の割り当て試合数を原則最大3試合とし、会期を一日延長。これ以降9年間は原則として11日間の開催となった。
- 1997年(第69回大会) 日高中津分校が分校として初めて出場。また、球審がボールカウントを従来と逆(大リーグ式)に「ボール→ストライク」の順で読み上げるように変更した(ただしこの時点から、甲子園球場のスコアボードが改修され、また放送でのアナウンス順が「ボール→ストライク」順に変更される2010年までは、一般向けにはSBO式で表示・アナウンスしていた)。
- 1998年(第70回大会) 史上最多の36校が出場。今大会から応援団コンクールを実施、初戦の全出場校の応援が評価対象となる。また同大会より、高校生による開会式・閉会式の司会進行が行われた。
- 1999年(第71回大会) 沖縄尚学が沖縄県勢として初優勝を果たす。
- 2001年(第73回大会) 21世紀枠が設けられる。
- 2003年(第75回大会) 神宮大会枠および希望枠が設けられる。準々決勝の東洋大姫路対花咲徳栄戦は、春・夏大会通じて初めての「引き分け再試合の延長戦」となった。
- 2004年(第76回大会) 準々決勝を選手の健康負担を理由に「1日2試合ずつ、2日間の日程」で開催することになり、これ以降原則として12日間の開催となる。決勝戦が雨天により夕方の16:45に試合開始、史上初のナイターとなった。
- 2005年(第77回大会) 天候を理由に、大会第0日目が設定された。高松が史上最高年ブランクで出場(72年ぶり)。
- 2006年(第78回大会) 新潟県の日本文理が勝利を挙げ、未勝利県が消える。
- 2007年(第79回大会) 本塁周辺にダートサークルのラインが追加された(高校野球の公式戦では初)。
- 2010年(第82回大会) 全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園大会)を主催する朝日新聞社が後援社として加わる。また、同年夏の第92回選手権大会から毎日新聞社が後援社として加わる。
- 2011年(第83回大会) 甲子園球場のスコアボードのボールカウント表示が、前年までの上から「S・B・O」から「B・S・O」に表示が変更される(球審のアナウンスは既述のように1997年に変更済)。
- 2012年(第84回大会) 地球環境(長野県)が通信制の高校としては全国で初めての甲子園出場を決める。
- 2013年(第85回大会) 大会史上初の「センバツ応援イメージキャラクター」として、現役高校生女優の吉本実憂(第13回全日本国民的美少女コンテストグランプリ受賞者)を起用。スポンサーはNTTドコモ。
歴代優勝校[編集]
エピソード[編集]
入場行進曲における流行曲使用[編集]
第34回大会(1962年)以降、入場行進曲においては前年の流行曲が使われることになった。1曲目は坂本九の『上を向いて歩こう』。
近畿以外の地域での全国大会開催[編集]
第1回大会(1924年)だけ名古屋市山本=八事球場で開いた理由として当時、夏の大会では関西近郊学校が8回中8回とも決勝に進出し優勝は8回中5回だったため主催者の毎日新聞社は「夏の大会(全国中等学校優勝野球大会)で関西近郊の学校が優勝確率の高いのは開催地の風土に関係するかを試すこと」と「東海地方の野球ファン拡大につなげるため」の2点を挙げていた。このうち、開催地の風土に関しては本大会では代表校8校中3校だった関西近郊の学校は2校(和歌山中、立命館中)が初戦敗退で1校(市岡中)が2回戦敗退、逆に東海エリアで唯一出場した愛知一中も2回戦敗退という結果になっている(決勝は香川県の高松商業と東京府(当時)の早実の対戦となり、高松商が優勝。)。一方、東海地方の野球ファン拡大についての効果は大きく、特に1930年代に入り愛知県勢(中京商、東邦商、愛知商など)と岐阜商を中心に東海勢が中等野球で一時代を築き、1936年の職業野球(後のプロ野球)創設時に愛知県のチームが2チーム(名古屋軍、名古屋金鯱軍)できるほどに野球が盛んとなる下地を作ったと言える。
主催者の毎日新聞社は毎年開催地を変えて全国各地で開催する構想だったが翌年の第2回(1925年)以後は高校野球(当時は中学野球)の聖地として知られる甲子園球場での開催に定着するようになり、近畿地域以外での全国大会開催は国体、明治神宮大会を除くと春・夏を通してこれが最初で最後となっている。夏の大会における甲子園以外の開催は豊中球場、鳴尾球場、阪急西宮球場があるがいずれも近畿地域の開催である。
初の引き分け再試合[編集]
春夏通して初めての引き分け再試合は山本球場で開催された第1回大会(1924年)の1回戦、横浜商 - 市岡中の試合。当時の制度は引き分けという制度が無く、勝負がつくまで試合を続けるというものだった。しかし山本球場には照明設備が無かったため、延長14回終了後に日没による引き分けとなった。
- 市岡中 21-13 横浜商(再試合)
前年優勝校の無条件出場[編集]
第2回大会(1925年)から第9回大会(1932年)までは、前年優勝校は地方大会に出場しなくても無条件で全国大会に出場することができた。第10回大会(1933年)からこの制度は廃止されたが、優勝校は次年度全国大会に出場し続けていた。1942年の大会が戦争で中止になったのを除き、優勝校が次年度全国大会に出場できなかったのは第20回大会(1948年)で優勝した京都一商(京都)が最初である。
優勝校のアメリカ遠征[編集]
第4回大会(1927年)から、主催の大阪毎日新聞社が野球の本場メジャーリーグの見学や日米親善という趣旨によりこの年から優勝校のアメリカ遠征が行われるようになった。この制度によってアメリカに遠征した優勝校は和歌山中(和歌山)、関西学院中(兵庫)、第一神港商(兵庫)、広島商(広島)の4校。
アメリカ遠征は夏休みを利用して行い7月中旬から9月中旬までの長期に渡り、メジャーリーグの試合見学や地元高校との親善試合も行った。夏の大会開催中に主力選手がアメリカ遠征に行っているため、春の優勝校は控え選手で夏の大会予選を戦うことになった。その中で第4回の優勝校だった和歌山中は控え選手で夏の大会の予選を制し、全国大会に出場した。
第9回大会(1932年)より、外国チームとの試合を禁止する野球統制令を政府が出したことにより、それ以降は優勝校のアメリカ遠征は中止になった。
なお、春の優勝校のアメリカ遠征に関しては春の大会を主催していた毎日新聞社が朝日新聞社が主催していた夏の大会の興味をそぐ目的があったという陰謀説も存在する。
同都道府県から最多4校の出場[編集]
第10回大会(1933年)では出場校32校中、海草中、和歌山商、海南中、和歌山中と和歌山県から4校出場した。この時は海草中と和歌山商のベスト8が最高で、2回戦では海草中と海南中の同県対戦もあった。また第14回大会(1937年)では出場校20校中、中京商、東邦商、享栄商、愛知商と愛知県から4校出場している。この時は中京商が準優勝し、また準決勝で中京商と東邦商の同県対決があった。
なお現在では、通常枠での同一都道府県からの出場は2校までと決められている。21世紀枠、神宮大会枠(東京のみ)を含めての3校出場は可能だが、地域性の問題もあるため、選考されるのは非常に難しいとされている。かつては、第60回大会(1988年)には大阪府から上宮、近大付、北陽の3校が、第67回大会(1995年)には兵庫県から神港学園、報徳学園、育英の3校が、第73回(2001年)には茨城県から水戸商、常総学院、藤代の3校が選出された例もある。
優勝旗[編集]
- 選抜大会の優勝旗は「大紫紺旗」と称されている。これは紫に近い色の糸を使っているためで、赤い糸を使っている夏の全国大会の優勝旗は「大深紅旗」と称されている。現在の旗は2代目で、第35回大会(1963年)に初代に代わり新調されたもの。初代と現在の旗との相違点は以下の3点。
- 大会名 - 初代は「全国選抜中等学校野球大会」に対し、現在は「全国選抜高等学校野球大会」。
- 主催新聞社名 - 初代は「大阪毎日新聞社」に対し、現在は「毎日新聞社」になっている。1943年に「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」が題号を「毎日新聞」に統一した事により、商号も毎日新聞社に変更したため。
- 「VICTORY」の文字 - 初代は染めぬきだが現在は金の糸を使って織られており、少し文字が大きくなっている。
- 初代の優勝旗は第18回大会(1941年)に東邦商(愛知)が手にしたまま戦争で大会が中断していたが、1945年の名古屋大空襲で同校の校舎が全焼。その際校長室に保管されていた優勝旗は燃え落ちる寸前に校庭に放り投げられ事なきを得た。
- 初代の優勝旗を最後に手にしたのは第34回大会(1962年)の作新学院(栃木)で、現在の優勝旗を最初に手にしたのは第35回大会(1963年)の下関商(山口)だった。
- 春の選抜大会には準優勝旗が存在する。夏の全国大会には存在しない(木内幸男(当時常総学院監督)が夏にも準優勝旗があると勘違いしていたのは有名)。色は夏の優勝旗と同じ深紅で3代目である。
- 優勝旗は大会の閉会式にて優勝校に授与され、翌年の大会の開会式にて前年優勝校から大会会長に返還される。その返還の際、優勝旗のレプリカが代わりに授与される。このレプリカの意匠は優勝旗とほぼ同じだが模様・文字は全部染めぬきであり、“第○回”および校名が付加される。
連覇[編集]
本大会においての連覇は現在2例ある。詳しくは甲子園連覇を参照されたい。
歴代優勝校のパネル[編集]
1984年・第56回大会2日目(3月27日)まで、大会の歴代優勝校の校章が描かれた白いパネルボードが外野に掲げられていた。ところがこの大会2日目の第1試合、滋賀県立高島高等学校対佐賀県立佐賀商業高等学校戦で、佐賀商業高校の中原康博が放った打球がワンバウンドしてラッキーゾーンを越えた為、本来ならばエンタイトル2塁打となるところだったが、2塁塁審がこの打球を誤ってホームランと判定してしまった。
これを受けて日本高校野球連盟はこの試合の本塁打判定を審判の誤審として謝罪した上、『打球と外野の白いパネルが被って審判が判定しづらい』ことを理由に歴代優勝校のパネル掲額についてこの日の全試合終了後直ちに廃止することを決めた為、それ以後は歴代優勝校パネルは掲示されていない。
また大会名が記されたパネル(左中間・右中間)も優勝校パネルと同様の白地・黒文字だったのを、翌1985年の第57回大会以後は通常のフェンス広告と同じように緑地・白文字と変更された。更に2010年の第82回大会から、外野フェンスの広告を解禁したため、これらはバックネット裏・回転看板スペースに掲示されている。
選抜に関する争い[編集]
1969年の秋の東京大会において帝京商工高等学校(現・帝京大学高等学校)が準優勝し、東京都高野連も翌年の第42回大会(1970年)に推薦した。しかし、高野連の選出委員会は帝京商工の火事による資料の喪失から戦力分析が不可能との理由で帝京商工を選出しなかった。
帝京商工はこれを不満として1970年2月20日に高野連を相手取り代表決定の効力停止の仮処分を大阪地方裁判所に申し立てた。これに対して東京都高野連は同校の対外試合を禁止する制裁を決定。さらにこの制裁に対して同校は東京地方裁判所に仮処分を申請するなどの泥仕合となった。
この際に帝京商工側が「選抜落選や試合禁止は野球選手としての就職が不利になる」としたことから高校野球においてそのような考え方の是非について議論を巻き起こした。3月9日には対外試合禁止が撤回され、3月12日には大阪地方裁判所で申立てが却下され続いて東京地方裁判所に対する申立ても取り下げられ問題は決着した。なお第42回大会には、東京都からは東京大会優勝の日大三高と都大会4位の堀越高等学校が出場した。
応援団賞[編集]
第70回大会(1998年)より応援団賞が設けられた。21世紀枠導入以降はほぼ毎年21世紀枠校が最優秀賞を受賞している。
(審査規定)出場校の初戦(原則1回戦。記念大会の場合は一部を除く2回戦も)を対象に審査を行い、最終日の試合終了後に最優秀賞1チーム、優秀賞若干数のチームが選出され表彰される。なお、同じ毎日新聞が主催する都市対抗野球大会における応援団賞は大会全試合が対象であり、さらに初戦を対象とした「ファーストステージ」(2011年までは試合日程の順番による「前期賞」「後期賞」)と、大会全試合を対象とした「期間賞」に細分されている。
なお、第83回大会(2011年)は応援団賞の選考が行われなかった。
各種記録[編集]
高校野球全国大会の記録一覧を参照。
中継[編集]
NHK[編集]
テレビは第26回大会(1954年)から放送されている。第38回大会(1966年)よりカラー放送。放送開始当初は、春夏とも総合テレビで放送できない時間(ニュースなど)は原則として放送が中断されており、1974年夏の第56回選手権大会準々決勝の東海大学附属相模高等学校対鹿児島実業高等学校戦の延長戦中継方式を巡って、視聴者から苦情が殺到した(全国高等学校野球選手権大会#NHKでの中継参照)。そのため翌1975年の第47回大会では一部の試合で総合テレビと教育テレビによるリレー中継を導入した。これが好評だったため同年の夏の大会以降この形でのリレー方式で完全生中継を行っている。地上デジタル放送開始以降は、イベントリレー機能を利用して放送終了約15秒前にリレー案内を実施している。
放送の形態は以下のとおり。
- テレビは5.1サラウンドを実施している。
- 初戦では学校紹介のVTRが流れる。(BGMはその年の入場行進曲のオルゴール版)
- 第82回大会(2010年)までデジタル衛星ハイビジョン(全試合)・衛星第2(開会式、準々決勝、準決勝、決勝、閉会式のみ)でも中継していた。BS波を使ったハイビジョンの中継はBSアナログハイビジョン実用化試験放送の頃から続いており、第79回(2007年)まで大相撲開催期間中は16:00で中継を終了していた。衛星第2では東京都小笠原諸島、沖縄県大東島地方の地上波テレビの衛星再送信中継局ができるまでは東京代表と沖縄県代表出場校の試合も放送されていた。BSアナログハイビジョン実用化試験放送の頃は、毎日放送と共同制作となったこともある。
- 第49回大会(1977年)までは他の野球中継と同様、ラジオ第2で放送されていた。(近畿圏ではラジオ第1で放送したこともある)。それ以前は市況放送、講座放送の合間を縫っての放送だった。
- 海外でも準々決勝以降はNHKワールド・プレミアムでも放送。NHKワールド・ラジオ日本では2008年まで同時放送されていた夏の高校野球中継とは異なり、決勝戦も含め一切放送されていない。
- 津波警報の発令などにより中継が中断される場合がある。
- 総合テレビ、ラジオ第1で中継が出来ない場合はそれぞれ教育テレビ(Eテレ)、FM放送で振り替えて中継する。大相撲期間中は幕内の取り組みが始まる時間帯に合わせて16時台までで総合テレビとラジオ第1での放送は終了する。
第83回大会(2011年)のテレビ中継は東日本大震災関連番組の優先や電力事情の考慮のため、次のような特別体勢がしかれた。
- 東北地方は総合テレビでの震災報道を優先するため、準々決勝まで教育テレビのみで放送(同時間帯の通常番組はサブチャンネルのデジタル教育3で放送)
- 東北・関東地方では当該地区の学校が出場する試合を除いて16時を以って中継を終了する。なお、16:55以後試合が続いている場合は教育テレビでリレー中継を行う。
- 海外向け「NHKワールド・プレミアム」も16:55で放送を打ち切る。
- 震災関係の情報・ニュース番組を優先するため、10時台と14時台-16時55分以外の放送を教育テレビで行う。
- 総合テレビの定時ニュースは決勝を除き試合展開にかかわらず毎時0分に挿入する。
- 各試合のダイジェスト動画を、ホームページ上で公開する。
- 1回戦での学校紹介VTRを行わない。
解説者については、高校野球解説者一覧を参照。
毎日放送・GAORA[編集]
毎日放送(MBS)テレビでは、第31回大会(1959年)から第74回大会(2002年)までは1回戦から決勝戦まで生中継していた。なお、第29回大会(1957年)、第30回大会(1958年)は旧大阪テレビ放送(現・朝日放送)が中継していた。大阪テレビ放送は毎日新聞社、朝日新聞社、朝日放送、そして毎日放送の前身・新日本放送(NJB)との合弁企業だったためである。従って、この2回の高校野球の民放テレビ中継は大阪テレビの事実上独占放送だった。
テレビ中継のタイトルは夏の全国高校野球選手権大会中継(ABCテレビ)とは対照的に、NHK同様「第○○回センバツ」である。かつて第66回大会(1994年)までは春も「第○○回選抜高等学校野球大会・中継」であった。ただしオープニングはグラウンドをバックにしたタイトル表示はあったが、最終試合以外の(例:第1〜3試合)エンディングは「第○日(若しくは準々決勝、準決勝) 第(一〜三)試合 終。」だけだった(ニュース等の中断明けの時間を案内することもあった)。現在はグラウンドをバックに「第○○回センバツ」とOP、ED、イニング間もタイトル出しが行われている。なおラジオ中継タイトルは「選抜高校野球・実況中継」となる。
初期は完全放送を実施していたが(試合の幕間にMBSニュース、お天気のお知らせ、『水道完備ガス見込』などの帯ドラマを放送)、第38回大会(1966年)以降昼間時には平日は東京局(1975年3月まではNET、同年4月以降はTBS、「腸捻転解消」参照)発の全国ネット番組を、日曜は自社製作の演芸、バラエティー番組(後年は日曜もTBS発の全国ネット番組)を編成するようになった(土曜日と準決勝以降、後年は準々決勝以降を除く)。
しかし、ABCテレビのようなサンテレビなどの近畿圏独立局経由のリレー形式を取り入れる事は、すでにABCテレビがこれら独立局と包括的な提携を結んでいたためMBSテレビにはそれができなかった。それに加え選抜高校野球大会の視聴率が一桁に低迷した事、TBSテレビ発の全国ネット番組を編成するのに障害が生じてきたことや、そして夕方ワイド番組(『ちちんぷいぷい』)を強化したいMBSテレビの意向もあり、第75回大会(2003年)からは「センバツは別の形でお届けしたい」と準決勝の2試合と決勝戦の生中継だけとなった。なお第76回大会(2004年)の決勝戦は雨天により開始時間が大幅に遅れ、ナイターとなったため地上波の放映が中止となっている。
MBS系のCATV・CS放送のチャンネル「GAORA」は1990年のスペース・ビジョン・ネットワーク開局以来全試合完全生中継している。また開局から数年の間はその日の夜録画中継も行っていたためほぼ1日中高校野球だけの編成というケースもあった。なお、中継できない場合はこの時間の試合分を録画中継(ニアライブ)する。
GAORAでは大会終了後、全試合の再放送や過去の大会からの名勝負を選んで1時間ダイジェストで送る「センバツプレイバック」の放映などを随時行っている。なおTBS系のBS-TBS、TBSニュースバード、TBSチャンネルでの放送は行っていない。
選抜の期間中は選抜高校野球のハイライト(2012年現在は『みんなの甲子園』)をMBSテレビの関西ローカルで放映する。このハイライトは翌朝にはGAORAで第1試合開始前に全国放映されるほか、番販扱いで地方局で放映されることもある。
MBSテレビ製作の高校野球中継は東京地区では第32回大会(1960年)〜第34回大会(1962年)・第36回大会(1964年)・第41回大会(1969年)はNETで、第35回大会(1963年)はTBSで(スポンサード・ネット)、第37回大会(1965年)〜第40回大会(1968年)・第42回大会(1970年)〜第46回大会(1974年)は東京12チャンネル(現・テレビ東京)で多く放送され、特に当時放送番組に窮していた東京12チャンネルでは完全中継を実施したこともあった。ほかカードによりTVKテレビ、千葉テレビで放送されたこともある。名古屋地区では当初東海テレビでのち名古屋テレビから中京テレビで放送され、名古屋テレビと中京テレビの変則クロスネット解消後は岐阜放送、「腸捻転解消」後は中部日本放送(但し決勝戦のみ)でも放送された。いずれも1975年のいわゆる「腸捻転解消」で、毎日放送がTBS系になったことに伴いほとんど放送されなくなった。TBSで放送されたのは今のところ第50回大会(1978年)の決勝戦が最後である。
近年、地方局へのネットは長野代表校登場の際に信越放送、沖縄代表校登場の際に琉球放送(放送時間はかつてのMBS地上波に準ずる。編成上の都合で放送されない時もある)が行なっている。また、決勝戦のネットは東北放送(第73回・2001年、仙台育英)、中部日本放送(第77回・2005年、愛工大名電/第79回・2007年、大垣日大)、長崎放送(第78回・2006年、清峰/第81回・2009年、清峰)、IBC岩手放送(第81回・2009年、花巻東)、青森テレビ(第84回・2012年、光星学院)などのケースに留まっている。JNN系列局以外へのネットとしては、福井代表校登場の際に福井放送(NNN系)、第60回大会(1988年)で宇和島東が進出した決勝戦をネットした南海放送(NNN系、当時系列局がなかったため)などの例がある。
MBSラジオでは、新日本放送(NJB)時代の第24回大会(1952年)から生中継を開始。ただし翌年からはもっぱら生中継は準決勝、決勝戦のみ行い、そのほかの試合は当日の12時、17時台(後年は22時台)にダイジェスト版を放送していた。またこの時期に開局した京都放送(当時KHK、現在のKBS京都)や四国放送(当時JR、現在のJRT)などの地方民間放送局へもネットしていた。決勝戦はNHKに対抗して「3元立体放送」(ステレオ放送とは別)と題して、アルプススタンドや出場校の地元にリポーターを配して放送していた。その後第31回(1959年)からは和歌山放送(当時WBC、現在のWBS)で1回戦から一部の試合を中継。第35回大会(1963年)以降はMBSラジオで全試合完全生中継を行い(ただしWBCは準決勝、決勝戦の放送をしばらくの間MBSとのサイマルで続行)、第38回大会(1966年)以降はJRN・NRNを通して全国に配信している。これ以降東京地区でも放送されるようになった。最近ではローカル番組が充実していることやスポンサーがなかなか付かない、NHKでも放送されているなどの理由から地元校が準決勝あるいは決勝まで進まない限りネットしない局が増えつつある。また、JRN親局のTBSラジオでは、第71回大会(1999年)以降は中継放送を行っていない。MBSラジオでも第81回大会(2009年)からラジオ中継も再び、テレビと同様に準決勝と決勝のみを中継することになった。河内一友社長は「民放には民放のやり方がある」と指摘し、第81回は準々決勝までは速報番組『春一番!選抜甲子園』で選抜大会をPRすることとした。
またMBSのホームページでは第70回大会(1998年)より試合速報を配信したのを皮切りに第75回(2003年)からNTT西日本協力の下ラジオの実況とMBSのカメラワークを用いたリアルタイムネット中継を実施していたが試合終了後のダイジェスト版にアクセスするユーザーが多かったこともあり、第78回大会(2006年)からは各イニング終了後に配信される形(ビデオ・オン・デマンド、画面アスペクト比16:9)になった。但し第80回大会(2008年)は準決勝と決勝のみリアルタイムネット中継を再開した。さらに各インターネットテレビへの動画の配信も積極的に行っている。なお第81回大会(2009年)からラジオ中継が縮小されたため、実況音声はテレビ中継のものが使用されている。また、第82回大会(2010年)ではTwitter(ID:@senbatsu)を使って得点経過や試合経過を知らせるサービスを行い、動画のライブ配信(この年よりUstreamに変更)も準々決勝からに拡大された。第83回大会(2011年)ではTwitterでの情報サービスが継続されたほか、ライブ配信が開会式から決勝戦まで一部の試合を除き実施される。第84回大会(2012年)ではTwitterでの情報サービスは中止されたが、第83回大会に引き続きライブ配信(この年より再び独自配信に変更)が開会式から決勝戦まで一部の試合を除き実施される。
中継のオープニング、エンディングテーマ曲は長年ラジオ、テレビとも大会歌(陽は舞いおどる甲子園→今ありて)のインストを、テレビは第68回大会(1996年)より、ラジオは第71回大会(1999年)より入場行進曲を採用していた[5]がテレビは第76回大会(2004年)を最後に独自のテーマソング[6]を設けている。
実況アナウンサーは、MBSタイガースライブのアナウンサーの項目を参照のこと。なお上記のウェブサイトで主としてテレビ担当実況アナウンサーが各試合の戦評を記すことになっている。
その他放送局[編集]
1959年開局時は連日春の大会を中継し、その後は春・夏とも1回戦から地元校の試合をネット受けにより中継してきたラジオ局の和歌山放送が第81回大会(2009年)は開局記念番組として、代表である箕島の試合を1回戦から準々決勝(敗退)までアナウンサーとゲスト解説者(1、2回戦はOBでもある尾藤公が担当)を自局で派遣して中継した(準決勝進出の場合も自主制作だったかどうかは不明)。
脚注[編集]
- ↑ これにより出場校が32を下回る県では理論上、県大会初戦敗退でも甲子園に出場できる可能性が生じている
- ↑ 引用エラー: 無効な
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 行進担当司会者は高校卒業直後の生徒の起用が多い。唯一の例外は第77回大会(2005年)の八重樫葵(現・秋田放送アナウンサー、起用当時は旧1年生)。
- ↑ 閉会式の司会も兼任することから、旧2年生以下(ただし旧1年生の選出実績はない)の生徒に限る。
- ↑ ちなみにテレビはOPと当日の最終試合のEDが原曲、中継放送のEDはインストバージョン。ラジオはOPもEDもインストバージョン。中継のジングルや最終試合のEDは原曲。ただし第72回大会(2000年)、第73回大会(2001年)(ジングルは「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」)、第77回大会(2005年)はOP・EDのみ大会歌を使用。第74回大会(2002年)〜第76回大会(2004年)、第80回大会(2008年)以降はジングルもインストバージョン。
- ↑ OPは「ザ・プロ野球」とおなじ効果音によりタイトル出し(第81回大会(2009年)はTBS系のドラマ、東宝系の映画「ROOKIES」と同様のフォントによるタイトル)をするだけ。近年はNHKテレビもOP・EDのテーマを省略する。EDは第80回大会(2008年)が「一歩一歩〜終わりなき道しるべ〜」(ONE☆DRAFT)、第81回が「One」(Aqua Timez)、第82回大会(2010年)が「夢追いの地図をひろげて」(MASH)、第83回大会(2011年)が「春」(カラーボトル)、第85回大会(2013年)が「ありがとう」(FUNKY MONKEY BABYS)。
関連項目[編集]
- 日本の高校野球
- 選抜高等学校野球大会歴代優勝校
- 全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園大会)
- 団体専用列車
- 野球実況アナウンサー一覧
- 京阪グラウンド - 本大会の開催地とする構想があった。
- 全国高等学校ラグビーフットボール大会 - 同じ毎日新聞社主催の高校スポーツ大会