近藤次男

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近藤 次男(こんどう つぐお、生年不詳 - 没年不詳)は、日本陸軍情報将校陸軍中野学校出身。1942年12月、スマトラ第25軍軍政監部付、東海岸州メダン)軍政部警務部特高科長。翌1943年9月のスマトラ治安工作(ス工作)による抗日地下組織の一斉検挙を指揮。近衛師団の特別情報工作担当を経て、1944年頃、第7方面軍司令部参謀部2課に移り、同年編成された茨木機関の機関員(工作隊長)としてジョホール州北部での防諜工作を指揮した。戦後、オランダ軍メダン裁判で、ス工作の取り調べの際に容疑者に暴行を加え、自白を強要したとして有罪判決を受けた。

経歴[編集]

岡山県出身[1]

幹部候補生出身[2]

陸軍中野学校丙種3期生[3]

1942年(昭和17)12月、中野学校同期の松岡栄一少尉、安達孝少尉、宮内盛人少尉とともに第25軍司令部に着任[4]軍政監部付として、東海岸州メダン)の軍政部警務部特高科長に任命され、防諜と治安維持を担当[4]

1943年(昭和18)4-6月頃に、東海岸州における親オランダ分子相互間の秘密連絡網の情報を探知したという[5]

同年9月、特高科長としてスマトラ治安工作による抗日地下組織メンバー・支援者の一斉検挙を指揮[5]

  • 本田 (1978 41)によると、事件のとき近藤は、メダンで第25軍の憲兵隊に捕まり、殺害されそうになっていた王桐傑の身柄を預かり、逆用した。

その後、近衛師団の特別情報工作を担当[6]

  • 近藤がメダンで特高科長をしていた頃に拠点としていた家は、「さくら女学校」の裏手にあった[7]

その後(1944年頃)、第7方面軍司令部参謀部2課の調査室分室に勤務[8]

1944年暮頃、調査室分室から分離独立した茨木機関(機関長:石島唯一少佐)の機関員となり、ジョホール州北部に置かれた第2工作隊を指揮した[9]

1945年8月、終戦に際して、茨木機関の機関員とともにスマトラ島へ潜行[10]

潜伏中に、メダンシンガポールからやって来た第7方面軍参謀部2課の桑原中佐に説得され、英軍の飛行機でシンガポールへ移動[11]

一度日本へ帰国したが、オランダから戦犯指名を受けた[12]

  • 1946年の後半頃、逮捕・連行されてメダンの刑務所に収監されており、アチェ州で潜行を続けていた岸山勇が近藤を奪い出そうと計画したが、断念したという[12]

1948年12月22日に、オランダ軍メダン裁判で禁固20年の判決を受ける[1][13]

  • 茶園 (1992 141)によると、起訴理由は「1943年1月より翌年まで特高科長として反日活動容疑のため検挙せられた人々に対し部下隊員と共に各種の暴行を加え虚偽の自白を強要した部下の犯罪に対し有責」。求刑どおりの判決だった(同)。
  • 戦後、1978年以前に死去[14]

人物[編集]

  • 本田 (1988 25)は、茨木機関の頃の近藤大尉について、白の半袖に白い半ズボンという昭南の一般民間人の服装をしていて、眼鏡をかけていて、一見会社員風だった、と評している。
  • 本田 (1988 39)は、幹部候補生出身で、どことなくインテリ臭があった、と評している。
  • 茨木 (1953 19)は、「近見(近藤の仮名)は短躯小肥りの男で、目が鷹のように鋭い」と評している。

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 茶園 (1992) 茶園義男『BC級戦犯和蘭裁判資料・全巻通覧』不二出版、JPNO 92034961
  • 本田 (1990) 本田忠尚『パランと爆薬 - スマトラ残留兵記』西田書店、ISBN 4888661200
  • 本田 (1988) 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、JPNO 88020883
  • 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730
  • 坂 (1968) 坂邦彦(編)『蘭印裁判(1)』東潮社、NDLJP 3007723 (閉)
  • 茨木 (1953) 茨木誠一『メラティの花のごとく』毎日新聞社、NDLJP 1660537 (閉)