茨木機関
茨木機関(いばらぎきかん)は、1944年にシンガポール(当時の昭南特別市)で、第7方面軍参謀部2課の石島少佐(通称:茨木少佐)が立ち上げた特務機関。シンガポール周辺とジョホール州の内陸の防諜謀略を担当し、戦争末期には連合軍上陸後のゲリラ戦に備えて元特別操縦見習士官を受け入れ、ゲリラ要員の訓練を行うなどした。終戦直後にスマトラ治安工作による戦犯追及をおそれた機関幹部の意向で「インドネシア独立を支援する」として集団でスマトラ島へ脱出しアチェ州へ向かったが、北スマトラに展開していた第25軍の近衛第2師団によって拘束され計画を中止。機関員の多くは英軍によってマレー半島に抑留され、1946年に日本に帰国したが、一部隊員はスマトラ島で潜伏中に死亡・行方不明となった。
目次
設置の経緯[編集]
1943年9月に昭南港爆破事件が起きると、シンガポールの日本軍は、マレー半島に潜伏する連合軍のスパイや抗日分子がシンガポールに残った連合国人と連絡して事件を起こしたとみて[1]、内陸の防諜謀略の強化をはかった[2][3]。
- 1943年10月以降、シンガポールの特別警察隊の憲兵がテクロアンソン・タパー で商社員に扮して偵諜を行い、同年12月にイポーで李亜青、1944年4月にはイポーの南方・カンパル で136部隊 の林謀盛 らが検挙された[4]。
この頃、連合軍の反攻の本格化を受けて南方軍麾下の各軍団の参謀部2課(情報部)には陸軍中野学校出の諜報要員が多数配属され、連合軍の諜報活動の防止や動静の探索などの諜報工作に携わった[5]。戦争が破局に近付くと、現地の抗日勢力の攻撃や連合軍上陸への対処が課題となり[6]、各兵団が連合軍の進攻に備えて遊撃戦の準備に入る中で、中野学校の出身者はゲリラ要員の教育訓練にあたった[7]。
1944年初には、当時シンガポールにあった南方軍総司令部直属の特殊機関としてシンガポール周辺の海上防諜を行う浪機関が設置されていたが、同年春または暮頃[8]、第7方面軍の下に、シンガポールの反日分子や、ジョホール州に潜伏する共産軍の動向に関する情報収集などの防諜謀略と、連合軍進攻の際のゲリラ活動展開を目的として、茨木機関(機関長:石島少佐、通称:茨木少佐)が設置されることになった[2]。[9][10][11]
組織・人員[編集]
機関本部[編集]
茨木機関の本部はシンガポール市内のリバー・バレー路[map 1]沿いにあり、国際運輸昭南事務所の看板を掲げいて、外見は小さな会社の事務所兼住宅のようだった[12][13]。本部は通信網の中心・謀略資材の集積場所になっており、准尉以下の下士官兵や民間人が通信、庶務、給養、兵器などの業務を分担していた[14]。[15]
本部には、捕えられて機関に協力していた中国人スパイや、運搬係、炊事夫、マレー人の女中やボーイ、インド人庭師なども含めて、20人以上が住み込みで働いていた[16][17]。
本部から歩いて15分程の場所に、無線機を製造する通信班と、爆薬を製造する爆薬班の、住宅を利用した工場があり[16][18]、爆薬班では徴用された女性5人が缶詰や椰子の実に火薬を詰める作業をしていた[19]。
その他に昭南市内に2カ所、ジョホール州内に3カ所のゲリラ要員養成拠点があって、軍属たちがインドネシア青年にゲリラ戦の訓練をしていた[20]。
ジョホール州への展開[編集]
機関の幹部である安達孝大尉と近藤次男大尉[21]は、機関の工作隊の展開を担当し、機関員約50名がジョホール州内で商社の駐在員や警察分署長を装って展開、共産軍や地元の抗日分子と接触して動向把握・宥和工作を行っていた[22][23]。
- 占領後期になると、日本軍は、憲兵隊による共産党員の検挙・弾圧を続ける一方で[24]、共産軍の討伐が不可能なことを悟り、連合軍反攻の場合に腹背に敵を受けないよう、特務機関を使って共産軍に接近し、アジア人の団結を強調し、ある程度の自治権を認めるなど譲歩することで、協力関係を打ち立てることを目標にしていた[25]。しかし、共産軍はそれ以前から英軍と手を結び、136部隊 の指導と武器、食糧等の供給を受けていたため、仮に日本軍が大幅に譲歩したとしても、妥協は困難だったとみられている[25]。
また機関は、スマトラ北端のアチェ州にも展開を予定していた[22]。[26]
ジョホール・バル[map 2]には機関のジョホール州で最大の拠点となる要員訓練所兼通信基地があった[22]。連合軍が攻めてきた場合、シンガポール島は土地が狭く住民の大半が中国系であるためゲリラ戦は困難とみた茨木少佐は、ジョホールの山中で長期間抵抗する計画を立て、終戦直前の1945年8月初旬に機関本部をジョホール州に移転し、謀略機材や食糧を送り込もうとしたが、その途中で終戦となった[27]。
特操転用と総軍班[編集]
1945年6月には、情報要員に転用されることになった陸軍の特別操縦見習士官(特操)[28]のうち、第7方面軍の参謀部に配属された約40名全員を機関員として受け入れ[29][30]、また南方軍総司令部参謀部付となった特操のうち80名をゲリラ要員として訓練することになり、リバー・バレー路の本部近くのインスティテシューション・ヒル[map 3]にあった訓練所で現地語[31]や無線通信などの講義を受けさせた(総軍班、通称「ヤマ」)[32][33]。
中国人協力者[編集]
このほかに、元中華民国の軍人で、日本軍の占領地域でスパイ活動をしていて捕えられ、助命されて逆スパイとして日本軍に協力していた陳奇山・王桐傑や、陳嘉庚系の華僑の有力者・蔡和安をはじめとして、素性のはっきりしない中国人の機関員・協力者が多数いた[34][35]。
終戦・スマトラ潜行[編集]
シンガポール脱出[編集]
1945年8月15日の玉音放送の数日前に日本のポツダム宣言受諾を察知した[36]茨木少佐らは、スマトラ治安工作を実行していたことからオランダからの戦犯訴追は免れないと考え、連合軍が進駐してくるとの情報があった同月20日以前にシンガポールを脱出することにした[37][38]。
茨木少佐は、機関の各拠点に現地住民の職員・工員の全員解雇を指示し[39][40][41]、女子機関員を元の所属か病院の看護婦に転属させ、通訳を各部隊に転属させ、機関員の将校・下士官をその希望と戦犯関係を考慮して一般科に転属させ、連合軍の取り調べや証拠になりそうな書類や資材を焼却させた[42]。
同月16日に機関幹部がジョホール・バルの新本部やインスティテューション・ヒルの総軍班で、機関員や特操出身者に日本の無条件降伏を伝え、スマトラへの同行を呼びかけた[43][38]。
「日本は連合国に無条件降伏した」
「隊長、そらあ本当ですか?」
「本当だ。きのう陛下が、ラジオで放送された。」
「大本営からも南方軍に知らせてきた。間違いはない」
「残念だ!」
誰かが叫ぶと、それに唱和するように「畜生!」「何で降伏したんだ」「口惜しい」などの声が入り乱れた。
「しかし、だ」
「これは、だ。陛下のそばにいる腰抜け野郎共が、陛下をだまして、勝手にやったんだ」
「そういう意気地なし共の決定に従う必要はないんだ」
「一体全体、この遠いところまで、われわれは、何のためにやってきたんだべ?へえ?」
「アジア民族を、鬼畜米英の支配から解放し、大東亜共栄圏を打ち立てるためである」
「われわれは、断じてやめんぞ!あくまで戦うのだ」
「な、そうだろう?」
「へえ」
「それは、はァ、へっへっへ」
「笑っているときじゃない。木野はしょうがねえ奴だ」
「われわれは、泥水をすすり、草を嚙んでも聖戦の目的はカンツイしたい」
「このまま、べんべんと敵の上陸を待ち、捕虜になったら、われわれ特務機関の者は、戦争犯罪者として皆殺されるだろう。殺されなくても、一生労役に服さねばならんだろう。それは、ドイツの例を見れば分かる」
「大東亜戦争の目的が、アジアの解放にあるのならば、アジアの民族と力を合わせて、死ぬまで、やろうじゃないか」 「機関は、これよりスマトラへ移動する。インドネシアの独立闘争に力を貸すんだ」
――やれやれだ。私は気が重くなった。
– 1945年8月16日、ジョホール・バルの茨木機関新本部での茨木少佐の講話より抜粋 (本田 1988 62-66)
特操出身者はほぼ全数の約120名がスマトラへ同行することになった[44]。
- 茨木 (1953 3,11)によると、同月17日深夜、茨木少佐は、スマトラへ同行予定の機関員が爆死したことを装うため機関員に命令してシンガポールのパール・バル路27号にあった部下の宿舎に爆薬20トンを積んで爆破させた。翌日(18日)[45]、茨木少佐は、憲兵隊を通じて第7方面軍司令部に呼び出され、板垣司令官に約200人の部下が爆発の巻き添えになって死んだと虚偽の報告をしたという[46]。更にその翌日(19日)[47]、茨木少佐は参謀部の会議の場で、機関員がマラヤ共産党に命を狙われており、引揚げ中に襲撃され死傷者が出ていると虚偽の報告をして、板垣司令官からスマトラ潜行の承諾を得たという[48]。[49]
- 本田 (1988 )および中西 (1994 )には爆発の記述はなく、中西 (1994 144)には、「爆薬班のあったオーチャード・ロードの建物等機関の主な施設は、爆薬を仕掛け、夜中に爆破出来るように」した、とある。
同月16-18日にかけて、機関員はシンガポールの各所から武器・弾薬、食糧、宣撫物資(衣料品など)、海峡ドル、金塊、アヘン等の物資を調達して船に積み込んだ[50][51]。
- 茨木少佐は、茨木機関の本部の機関員には同行を命令したが[52]、総軍班では「ついて来たい者だけついて来い」と話し[53][38]、埠頭で膨大な物資と総軍班の特操ほぼ全員が集合したのを見て、「"貴様等、ようこんなに集めたのう"と呟くように言いながら、終始不機嫌な面をしていた」という[54]。
- 本田 (1988 91-92)によると、物資調達にあたって方面軍司令部から命令が出ていたかどうかに関しては、許可していなかった、事前に参謀部を通して許可を得ていた、脅迫して命令書を書かせた、など関係者の証言が分かれている。
- 茨木 (1953 28-33)は、茨木少佐は参謀部の会議で板垣司令官の諒解を得た日(19日)の夜に参謀宿舎で、稲田(仮)参謀、岡倉(仮)参謀、K参謀、Y参謀らを手榴弾で脅して船、兵器、弾薬、被服、自動車などの持ち出しについての許可(命令書)を得、その翌日(20日)機関員に物資を集めさせた、としているが、同書 p.35は、出帆を19日の夜または20日早朝に決めた、としている。[55]
同月19-20日に、ジョホール州の各地に展開していた機関員のシンガポール帰還を待って[56][39]、機関員約160名が2隻の船に分乗してシンガポールを脱出した[39][57]。
- 19日夜10時に茨木少佐・近藤大尉と茨木機関の機関員が「パカンバル丸」で、翌20日午後4時に安達大尉と総軍班が「暁丸」でシンガポールを出航した[58]。約160名のうち特操出身者は茨木機関の者が約40名、総軍班約80名の計約120名だった[59]。[60]
- これに先立ち、同月16日に先遣隊として島崎・今野両少尉と機関員のナジャムデンらインドネシア人40人がジャンク3隻でパシル・パンジャン からスマトラ島へ出発していた[61]。
- 共産軍のゲリラに捕まっていた、入院していたなどの事情で出発に間に合わず、他の部隊に転属した機関員もいた[54][62]。
スマトラ潜行[編集]
一行は1945年8月21,22日にスマトラ島パカンバル[map 4]に到着した[63]。パカンバルから、現地部隊のトラックを借り、少人数のグループに分かれてそれぞれアチェ州に向かう計画だったが、バンキナン[map 5]にあった輸送大隊は連合軍への引渡しを理由にトラックの貸出しを渋り、移動に十分な台数を確保できなかった[64]。このため現地住民に投げ売りするなどして物資を減らし[65]、更に茨木少佐は後から到着した総軍班の機関員にパカンバル近くのロカン河 の周辺に展開することを指示した(リオー班)[66]。
- 茨木 (1953 54)は、パカンバル上陸直後に現地部隊にトラックを借りに行った機関員から、現地歩兵部隊は「特務機関が叛乱を起こし、スマトラ島に上陸し北上しようとしているから第25軍は逮捕し、機関長を逮捕したらシンガポールに護送せよ」と第7方面軍から指示を受けていたとの報告を受けた、としている。
機関幹部は第25軍司令部が置かれていたブキチンギ[map 6]へ移動し、近藤大尉らが同司令部の参謀・池田少佐を訪ねて動静を伺うと、同少佐は既にシンガポールの第7方面軍司令部から連絡を受けていて、行動を中止して方面軍の指示があるまでブキチンギに止まるよう説得、指示に従わないなら反乱軍として逮捕する、と迫った[67]。
第25軍司令部は、茨木機関のトラック隊のブキチンギ通過を見送った後で、隷下の部隊に逮捕命令を出し、北部スマトラに駐屯する近衛第2師団(本部・メダン[map 7])に機関員を逮捕するよう連絡[68]、トラック隊は、シボルガ[map 8]、タルトン[map 9]、シボロンボロン[map 10]、バリゲ[map 11]、プラパット[map 12]、ペマタン・シアンタル[map 13]と縦走した後、ほとんどのグループが近衛第2師団の守備区域内で拘束され、メダンの収容所に抑留された[69]。メダンを通過したグループも、クアラシンパン[map 14]、パンカラン・ブランダン[map 15]、ビルン[map 16]、ムラボー[map 17]など各地で現地部隊によって保護・拘束され、連絡を受けてやってきた機関幹部らから計画中止の命令を聞いて、メダンの収容所に合流した[70]。茨木少佐はじめ機関幹部は、機関員の大部分が近衛第2師団に捕えられた後にメダンに入り、同師団の参謀部やブキチンギの第25軍司令部とその後の展開や特操の扱いについて話し合った[71]。
- 茨木 (1953 66-67)は、第25軍司令部は、(茨木機関の行動を看過する意図はなく、)「スマトラ軍は第7方面軍ほど敏活でなく、(…)万事のんびりして」おり、茨木機関が展開を急いだため、ブキチンギ通過を許した、としている。
リオー班[編集]
総軍班のうち、リオー班の特操出身者35名は、茨木少佐から「無線や武器を使わず、10年を目標に自活し、独立運動は側面から支援するように」との指示を受けて、ロカン河畔のウジャンバト[map 18]一帯を展開地点に選定し、これより下流のコタインタン[map 19]、ラントベルギアン[map 20]周辺で数名ずつ分かれて付近の住民の許可を得て住み着き、物々交換で食料を得るなどして自活することになった[72]。
早々にイスラム教に改宗し、割礼を受けた隊員もいたが、言葉が通じないため住民との意思疎通は難しく、暑さのため体調を崩し感染症に罹るなど、生活は過酷だった[73]。
その後、8月下旬にメダンで展開中止が決まった後に、茨木少佐の指示で機関員が2度ウジャンバトに来て復帰を促し、9月下旬にはブキチンギの第25軍司令部の情報将校・松岡大尉が各班の代表者を集めて説得にあたった。このとき多くの隊員は潜伏を中止し、10人を残してメダンへ引揚げた。[74]
その後も何度か潜伏を続ける隊員の捜索が行われ、1人が帰隊したが、他の隊員は他所へ移動していて見つからなかったり、遭遇しても警戒して説得に応じなかったりした[75]。
1946年の夏までに、リオ―班35人のうち、27人はメダンに合流し、2人は原隊に復帰せずに直接日本に帰国した。
- 1946年1月に1人が自ら潜伏を中止してブキチンギの第25軍司令部に帰着し、メダンに合流した[76]。
- 日本に帰国した2人は、ロカン河の下流バガン・シアピアピ[map 21]に出てブギス人の警察署長に保護されていたが、日本軍の逃亡兵がいるという噂が町に広まったため、ブキチンギに出頭し、1946年夏にメダンの本隊より先に日本に復員していた[77]。
残る6名の隊員は行方不明となった。
- うち1人は早い時期に手榴弾により自殺[76]、2人はプムーダ(青年隊) に殺害され[78]、3人は1947年9月から年末にかけてパダン、ブキチンギ地区のインドネシア軍が日本軍の脱走兵を一斉に拘禁、殺害した際に殺害されたとみられている[79][80]。
抑留生活[編集]
メダンに集結した茨木機関の特操出身者は、近衛第2師団の野砲兵連隊に預けられ、1ヵ月余をシアンタル近くの茶園シダマニック[map 22]の製茶工場の施設で過ごした後[81][82]、インドネシアの独立運動が高揚して連合軍がスマトラの内陸に入り込むことができず、師団司令部が特操の存在を気にしなくなってきたこともあり、他の日本軍部隊との摩擦を避けるために、師団司令部を離れてトバ湖の東北岸近くのチガルング[map 23]村に移った(諸菱隊)[83][84]。
- 特操が野砲兵連隊の慰安所に通ったことで同連隊と揉めるなど、特操出身者の放埓な行動が摩擦の原因となっていたという[85][86]。
- この頃、特操出身の機関員1人が、安達大尉の了解を得て脱走し、西アチェへ潜行した[87]。
この間、機関の古参の機関員は、大集団の特操を隠れ蓑にして別に7箇所に分かれて展開していたが[88]、1945年9月20日に[89]第7方面軍参謀部2課の桑原中佐が英軍の飛行機でメダン入りして、部隊の展開の中止とシンガポールへの機関幹部の同行を求めた際に、これに応じて近藤大尉らがシンガポールへ戻った[90]。[91]
茨木少佐は桑原中佐には会わず、諸菱隊のチガルング移住後もシアンタルに留まっていた[92]。
- シアンタルの機関員は、中国人の家に下宿して中国語の勉強を命ぜられており、茨木少佐は中国人社会に紛れ込んで戦犯追及を逃れるつもりだったとみられている[93]。
- 茨木 (1953 108-111)は、茨木少佐が自分で桑田(仮名、桑原)中佐に会いに行き、話しをしたが物別れに終わった、としている。また、その後も桑田中佐は機関員をシンガポールに連れ帰ろうとして近衛師団司令部に留まっており、同所を訪れた茨木少佐と言い合いになった、としている[94]。
また、師団からの指示により、機関員が個別にメダンに進駐した連合軍の翻訳・通訳を務めたり、オランダ人の住民を護送してインドへ送るのを支援したりしていた[95]。1946年の1月頃には、独立運動の激化を受けて、茨木少佐の命令で、親しくしていたラジャ[96]の護衛を交代で行っていた[97]。
例のラジャがムルデカ青年の反感を買っていたかどうか知る由もないが、これを護衛するのはどう考えても妥当ではないと私は思った。独立運動の支援を決意し、いったんは止めたものの、心の中では、その気持ちを持ち続けているものが、独立に批判的とみなされている階級の護衛を買って出るのは矛盾した行動ではないか。茨木少佐は事大主義というか、軍隊的というか、権威に盲従する気持ちがあるのではないか。ラジャを頼りにしていけばいいと思っているらしい。新しい時代の動きがわからないのだろうか。
– 茨木少佐の指示でしていた、チガルングのラジャをインドネシア独立勢力から護衛する仕事について (本田 1988 252)
まもなく引揚げが決まったため、1週間程度で護衛は終わりになった[98]。
終戦に伴い、連合軍がスマトラ島に進駐し、抑留されていたオランダ人が解放されると、戦前の所有地等に復帰しようとしたオランダ人とインドネシア人の間で摩擦が起きて独立運動が急激に盛り上がり、連合軍に協力して連合国人の保護を命じられていた日本軍もインドネシア軍の標的になりつつあったため、脱走してインドネシア軍に投じる者が出る一方で、復員が急がれた[99]。
引揚げ、潜行、逮捕[編集]
諸菱隊の引揚げ[編集]
1946年2月2日、諸菱隊はメダンの外港・ベラワン[map 24]に集結し、武装解除されてマレー半島へ送られた[100][101]。
マレー半島のバトパハ[map 25]に約1ヶ月滞在した後、終戦後に南方軍総司令部や第7方面軍司令部が移置されていたレンガム[map 26]の東方の山村・アイルマニス[map 27]で1ヵ月ほど開墾に従事し、その後レンガムに移動[102]。
- 当地では麻雀が流行したという[103]。
- 本田 (1988 254)は、帰国までの3カ月間アイルマニスに滞在した、としている。本田ら2人の機関員は、アイルマニスへ行く前にレンガムの南馬来軍司令所に転属になっており、その後1947年10-12月にかけて復員帰国した[104]。
1946年6月12日に諸菱隊は一部の残留者を除いて帰国の途につき、6月15日にシンガポールのセレタ軍港からリバティ船で日本に向かった[104]。
- 総軍班にいた中西淳は、同年4月頃、デング熱でシンガポールの陸軍病院に入院し、治癒後も病院に居座っている間に本隊が帰国したため残留し、シンガポールの捕虜収容所に移された[105]。
- 中西のほか3名が残留した[106]。
戦犯容疑者のアチェ潜行[編集]
1946年2月頃、シアンタルに留まっていた岸山勇次曹長ら古参の機関員で、前歴から戦犯に問われる可能性のあった者数名は、茨木少佐の承認を得て脱走し、クアラ・シンパンに潜伏した[107]。のちに岸山はアチェ州に入って「島小太郎」を名乗り、他の日本人脱走兵とともにアチェのインドネシア軍に協力し、破壊工作員の育成や破壊工作に携わった[108]。
機関幹部の逮捕[編集]
本田 (1988 254)によると、茨木少佐、安達大尉と特操14名(中西を含む)はシアンタルに残留していたが、1946年3月に引揚げのため近衛第2師団の野砲兵連隊の将兵とともにベラワンへ移動。乗船の際に茨木少佐と安達大尉がオランダ軍の憲兵に戦犯容疑で拘引され、特操14人だけがマレー半島へ渡り、諸菱隊よりも早く、同年5月に帰国した。
- 中西 (1994 183-187)によると、中西らがスマトラを離れたのは1946年1月末頃だったという。また同書 p.190によると、その船上で、茨木少佐が英軍に拘束されたとの情報に接し、仲間は騒然となった。
- 茨木 (1953 140-143)によると、茨木少佐は、1946年3月にシンガポールの桑田(仮名、桑原)中佐から「連合軍の取調べが始まっているが、情報関係、特に共産党対策関係で不明な点が多い。絶対に逮捕しないから出頭してほしい」旨の電報があり、メダンの飛行場まで行ったところ、英軍に拘束され、べラワンの英軍管理の戦犯収容所に入れられた。
機関長の脱走[編集]
茨木少佐は、逮捕から1ヶ月ほどしてからシンガポールのチャンギー刑務所に移され、のちジョホール・バルの英軍情報部に監禁されて、英軍からマラヤ共産党対策について訊問を受け、報告書の執筆を求められた[109][110]。
シンガポールの捕虜収容所にいた総軍班の中西淳は、蔡和安の手配で解放され、英軍情報部でジョンゴス(召使い)として働き、茨木少佐と蔡の連絡役をしていた。茨木少佐は当初、自身が戦犯に問われるのか、情報提供後に釈放されるのか分からないため、脱走すべきか判断がつかない様子だったという[109]。
3ヵ月ほど経過してから、身柄をオランダ軍に引渡される予定であることが分かったといい[111]、蔡の手引きを受けて、脱走を計画[109]。中西は脱走の実行前に、巻き添えにならないように職を辞してシンガポールの渉外部に移った[109]。[112]
茨木少佐は、1947年2月ないし5-6月頃[113]、英軍情報部から脱走し[114]、クルアン[map 28]西北の山中に潜伏[115][116]。1948年(昭和23)3月にメルシン[map 29]からジャンクに乗船し、香港に半年ほど滞在した後、同年11月17日に日本に帰国[117]。帰国後も東京に潜伏し[118]、日本の独立後の1952年12月に千葉県の復員局に出頭した[119]。
付録[編集]
座標[編集]
- ↑ 1.295965 N 103.839505 E
- ↑ 1.483333 N 103.733333 E
- ↑ 1.295177 N 103.839702 E
- ↑ 0.507590 N 101.447117 E
- ↑ 0.341241 N 101.027534 E
- ↑ 0.303507 N 100.382460 E
- ↑ 3.595688 N 98.671963 E
- ↑ 1.737047 N 98.785015 E
- ↑ 2.012438 N 98.979357 E
- ↑ 2.202218 N 98.981907 E
- ↑ 2.333862 N 99.083252 E
- ↑ 2.656985 N 98.939006 E
- ↑ 2.965286 N 99.062296 E
- ↑ 4.279147 N 98.064120 E
- ↑ 4.019339 N 98.282027 E
- ↑ 5.221974 N 96.717159 E
- ↑ 4.143823 N 96.127657 E
- ↑ 0.714198 N 100.527161 E
- ↑ 0.801864 N 100.587539 E
- ↑ 所在地不明
- ↑ 2.158999 N 100.816114 E
- ↑ 2.849163 N 98.922141 E
- ↑ 2.896429 N 98.722660 E
- ↑ 3.784587 N 98.694060 E
- ↑ 1.848805 N 102.928919 E
- ↑ 1.884655 N 103.399917 E
- ↑ 所在地不明
- ↑ 2.028264 N 103.319551 E
- ↑ 2.433333 N 103.833333 E
脚注[編集]
- ↑ ブラッドリー 2001 203-205
- ↑ 2.0 2.1 本田 1988 38-39
- ↑ 篠崎 1976 195
- ↑ 大西 1977 163-167
- ↑ 中野校友会 1978 348
- ↑ 中野校友会 1978 552
- ↑ 中野校友会 1978 557
- ↑ 本田 (1988 38)は「暮頃」としているが、南洋商報 (1947 )は、茨木機関を立ち上げ、浪機関設置(1944年初頃)の3,4ヵ月後にスパイ組織を強化した、と記述しており、この順によると茨木機関の成立は第7方面軍が編成された同年「春頃」のことであったかもしれない。もし本当に1944年の暮頃に設置されたとすると、篠崎 (1976 97,195)の昭南港爆破事件と茨木機関の発足を結び付ける見方には少し無理があり、茨木機関は設置最初から抗日勢力に対する融和工作やゲリラ戦の準備に主眼が置かれていたことになるかもしれない。ただし、本田 (1988 38)の「暮頃」が正しい、という確証もない。
- ↑ 本田 (1988 38,44)は、茨木機関は茨木少佐が勝手に立ち上げ、参謀部が事後承認した機関だとしている。また同書 p.25は、「正式名称は『岡機関』」としている。
- ↑ 中野校友会 (1978 557-558)は、第29軍の定機関が浪機関・茨木機関と連絡していたことに言及しているが、同書には茨木機関の活動内容に関する記述がなく、「岡機関」という名称への言及もない。
- ↑ 南洋商報 (1947 )は、広東から来た「飯島大尉(のち少佐)」が特務機関員を増員し、リバー・バレーに「飯島機関」を立ち上げた、としており、経歴の類似から茨木機関に言及したものと思われる。
- ↑ 中西 1994 105
- ↑ 本田 1988 37
- ↑ 本田 1988 39,45-46
- ↑ 中西 (1994 138-139)は、無線の傍受や、暗号解読、捕まえた敵のスパイを利用して偽の情報を送る等の諜報活動を行っていた、としている。
- ↑ 16.0 16.1 中西 1994 139
- ↑ 本田 1988 39,45頁
- ↑ 本田 1988 40,48-49
- ↑ 本田 1988 48
- ↑ 本田 1988 40,49,50-53
- ↑ ともに中野学校出で茨木少佐の後輩にあたり、それぞれスマトラの東海岸州、アチェ州の特高科長としてスマトラ治安工作を実行した後(本田 1988 38、中野校友会 1978 555-557)、茨木少佐とともに茨木機関を立ち上げた(本田 1988 38)。
- ↑ 22.0 22.1 22.2 本田 1988 40
- ↑ 中西 1994 140
- ↑ 大西 1977 167-170
- ↑ 25.0 25.1 本田 1988 40,53-56
- ↑ 中西 (1994 138)は、安達大尉はジョホール州、近藤大尉はアチェ州に部下の工作員を展開させていた、としているが、本田 (1988 40)は、安達大尉はジョホール州南部、近藤大尉はジョホール州北部に展開しており、アチェ州への展開は準備中だったとしている。
- ↑ 本田 1988 40,55-58
- ↑ 同月1日付で、戦争末期の飛行機・ガソリン不足により、マレー・ジャワで飛行訓練を受けていた特操の南方要員約420名が訓練を中止して情報要員に転用されることになり、同月中に南方軍の各軍団の参謀部第2課に配属された(本田 1988 8-9,22-23、中西 1994 99,102)。
- ↑ 本田 1988 29
- ↑ 中西 1994 99,102
- ↑ 40人ずつ2班に分けてそれぞれ中国語とマレー語を教えた(中西 1994 138-140、本田 1988 29-35)。
- ↑ 中西 1994 138-140
- ↑ 本田 1988 29-35,90
- ↑ 中西 1994 139-140
- ↑ 本田 1988 41,46
- ↑ 本田 1988 59,66
- ↑ 本田 1988 71-72,92
- ↑ 38.0 38.1 38.2 中西 1994 140-141
- ↑ 39.0 39.1 39.2 中西 1994 144
- ↑ 本田 1988 71-72,74
- ↑ 篠崎 1981 52には「茨木機関の全員は、少佐と行を共にした」、「女子の機関員もこれに従った」云々とあるが、中西 (1994 144)および本田 (1988 74,90)によると、同行したのは機関幹部と特操の軍人が主で、現地職員(女性5人を含む)は希望者少数のみが同行した。
- ↑ 茨木 1953 19
- ↑ 本田 1988 60-66
- ↑ 本田 1988 61,90
- ↑ 茨木 1953 10
- ↑ 茨木 1953 14-17
- ↑ 茨木 1953 23
- ↑ 茨木 1953 22-25
- ↑ 篠崎 (1981 52)は、爆発の件で茨木少佐が第7方面軍司令部に呼び出された際に、板垣司令官は機関員のスマトラ脱出の意図を諒承したとしている。
- ↑ 本田 1988 68-71
- ↑ 中西 1994 142-143
- ↑ 本田 1988 65-66
- ↑ 本田 1988 60-61
- ↑ 54.0 54.1 中西 1994 145
- ↑ 編注:日付が前後している。出航の日付は後述の本田 (1988 78-79,90-94)および中西 (1994 144)と一致しているため、茨木 (1953 3-33)に記載の、爆発や会議での諒承が(もし本当にそのような経緯があったとして)18日以前の出来事だった可能性が高い。
- ↑ 本田 1988 78-79
- ↑ 本田 1988 90-94
- ↑ 本田 1988 93
- ↑ 本田 1988 90
- ↑ 茨木 (1953 39)および篠崎 (1981 52)は、「サフラン丸以下3,000トン級貨物船(汽船)3隻」に分乗し(19日夜に出航し)たとしている。
- ↑ 茨木 1953 35-37
- ↑ 本田 1988 81-89
- ↑ 本田 1988 96-98。パカンバル丸は8月21日午後4時頃に、暁丸は1日遅れて翌22日午後4時頃にパカンバルに到着した(同)。
- ↑ 本田 1988 94-97
- ↑ 本田 1988 97-98
- ↑ 本田 1988 98
- ↑ 本田 1988 99-102
- ↑ 本田 1988 102-107
- ↑ 本田 1988 102-107,119-120
- ↑ 本田 1988 108-119
- ↑ 本田 1988 118-119,120-123
- ↑ 本田 1988 155-160
- ↑ 本田 1988 160-166
- ↑ 本田 1988 167-170
- ↑ 本田 1988 171-177
- ↑ 76.0 76.1 本田 1988 177-184
- ↑ 本田 1988 189-201
- ↑ 本田 1988 188
- ↑ 本田 1988 187-188
- ↑ 中西 1994 187
- ↑ 本田 1988 202-205
- ↑ 中西 1994 157-161。無為に過ごし、野砲兵連隊の慰安所やシアンタルへ遊びに行く者が多かったため、性病を患う者が続出した(同)。
- ↑ 本田 1988 206-211
- ↑ 中西 1994 161-165
- ↑ 本田 1988 206-207
- ↑ 中西 1994 174-175
- ↑ 本田 1990 53-60
- ↑ 本田 1988 205
- ↑ 茨木 1953 107
- ↑ 本田 1988 205-206
- ↑ 篠崎 (1981 52-53)は、茨木少佐が第7方面軍司令部の桑田参謀の説得に応じてシンガポールに戻り、英軍に捕まってチャンギー刑務所に送られた、としている。
- ↑ 本田 1988 211
- ↑ 本田 1988 232
- ↑ 茨木 1953 122-125
- ↑ 本田 1988 211-221
- ↑ 戦前のインドネシアでオランダの支配体制に組み込まれていたため、独立闘争の標的となっていた(本田 1988 252)。
- ↑ 本田 1988 241-242,252-253
- ↑ 本田 1988 252-253
- ↑ 中西 1994 180
- ↑ 本田 1988 254
- ↑ 中西 1994 183-187
- ↑ 中西 1994 190-195
- ↑ 中西 1994 194
- ↑ 104.0 104.1 本田 1988 254-255
- ↑ 中西 1994 201-202
- ↑ 本田 1988 254-255頁
- ↑ 本田 1990 85-90
- ↑ 本田 1990 85-
- ↑ 109.0 109.1 109.2 109.3 中西 1994 202-206
- ↑ 茨木 1953 147-167
- ↑ 茨木 1953 246-249
- ↑ 篠崎 (1981 53)は、保安隊に抑留されていた茨木少佐を蔡がたびたび訪ねてきて、脱走の相談をしていた、としている。
- ↑ 茨木 1953 261には脱走前に書き留めた遺書の日付が1947年(昭和22)2月とあり、同書 p.275には「今日」は「9月14日」で「脱走してからもう4ヶ月近くなっていた」とある。
- ↑ 茨木 1953 261-267
- ↑ 茨木 1953 270-271
- ↑ 茨木 1953 251-253に、茨木少佐が、「最も信頼している華僑の有力者K氏(蔡和安?)」に脱走の相談をすると、K氏はそれを予期して或る島の山中にバラックを建てておいた、と答え、脱走を手引きした、とあるが、同書 pp.253-260は、茨木少佐がK氏の申し出を断り、自力で逃走した経緯を記している。篠崎 (1981 54)にある脱走の経緯は、同書 pp.253-291の大意とほぼ同じ内容。
- ↑ 茨木 1953 291-292
- ↑ 茨木 1953 292-293
- ↑ 茨木 1953 290
参考文献[編集]
- ブラッドリー (2001) ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド - 泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』明石書店、ISBN 4750314501
- 中西 (1994) 中西淳『諜報部員脱出せよ - 実りなき青春の彷徨い』浪速社、ISBN 4888541523
- 本田 (1990) 本田忠尚『パランと爆薬 - スマトラ残留兵記』西田書店、ISBN 4888661200
- 本田 (1988) 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、JPNO 88020883
- 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730
- 篠崎 (1981) 篠崎護「大東亜戦争と華僑 - ある特務機関長の脱走」現代史懇話会『史』第45巻、1981年4月、50-54頁、NDLJP 7925922/27
- 篠崎 (1978) 篠崎護「友情の中の3人」現代史懇話会『史』第38巻、1978年3月、17-24頁、NDLJP 7925915/10
- 大西 (1977) 大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、JPNO 77032906
- 篠崎 (1976) 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、JPNO 73016313
- 茨木 (1953) 茨木誠一『メラティの花のごとく』毎日新聞社、NDLJP 1660537
- 南洋商報 (1947) 昭南時代 組織之秘密 浪機關『南洋商報』1947年7月12日12面
- 日本語訳:「5 浪機関の秘密」許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986年、ISBN 4250860280、134-143頁