池田宏
池田宏(いけだ ひろし 1881年 - 1939年)は、日本の内務官僚、都市計画家。京都府と神奈川県で知事(官選)も経験し、内務省にあって「切れ者」という異名をとった。
略歴・人物[編集]
静岡県生まれ。東京府立一中、一高を経て、1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学法律科卒。同年、内務省に入り地方局に勤務した。その後、奈良、神奈川、三重の各県事務官を経て、1911年に土木局道路課長として本省に戻り、道路法制定にあたる。
1918年、後藤新平内相により創設された内務省大臣官房都市計画課の初代課長に就任する。当時まだ唱えられることが少なかった「都市計画」なる新しい概念を導入した都市計画法および市街地建築物法を起草し、その立法化にあたった。また1917年に都市研究会を創設、運営にあたる。
1920年、旧厚生省の前身、内務省社会局創設とともに初代局長に就任したが、同年12月、後藤新平が東京市長に選出されると、招かれて同市助役に転出し、後藤のいう「疊屋(たたみや)」("畳"の旧字体(ワ冠の上に"田"の字が3つ重なっている)をもじったもので、池田のほか永田秀次郎・前田多門という、名前に"田"がつく3人を補佐役としたことをいう)の一人になる。助役時代は後藤の「東京市政要綱(8億円計画)」を立案した。
1922年、東京市政調査会が設立されると、会の運営にもあたった。1923年の関東大地震後は、後藤新平率いる帝都復興院計画局長として復興計画にあたった。
1924年、京都府知事に転出。1926年、神奈川県知事をつとめる。1929年に内務官僚を辞する。
退官後は大阪市立大学の前身である大阪商科大学市政科を中心に専修大学、京都帝国大学など教鞭をとる。
その間、都市調査会の機関誌『都市公論』東京市政調査会の機関紙『都市問題』などを通して都市問題、都市計画全般の研究、評論に尽くす。
その生涯に200余の著作を残したという。
参考文献[編集]
- 池田宏氏の追憶 池田民子、新都市第1巻5号、昭和32年5月。
- 都市計画Who was Who池田宏 渡辺俊一 、都市計画37巻4号、昭和63年9月。
- 池田宏伝記 都市市計画パイオニアの歩み 都市計画協会編、都市計画協会刊、昭和61年
- 都市計画-制度化の推進力となった池田宏 渡辺俊一、「創造力」- 近代・現代を開花させた470人 第11巻 日本放送出版協会編、日本放送出版協会刊、平成5年。