永田寿康
永田 寿康(ながた ひさやす、1969年9月2日 - 2009年1月3日)は、日本の元政治家。元衆議院議員(3期)。愛知県名古屋市出身。
国会などにおける発言の過激さから「平成の爆弾男」と呼ばれ、物議を醸す発言や行動を多々行なったことで知られた。
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来歴[編集]
生い立ち[編集]
実父は医師の蒲池真澄。江戸中期から続く医師の家系の9代目であり、九州の医療法人財団会長を務める資産家である。
幼少時に両親が離婚し、母親の再婚により永田姓となった。
慶應義塾志木高等学校を経て1993年東京大学工学部物理工学科を卒業する。大蔵省に入省した。
1995年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)でMBA課程留学をしている。
政界進出[編集]
1999年に大蔵省を退職して古川元久(衆院議員)の公設秘書となる。翌2000年の第42回衆議院議員総選挙に初出馬し、公明党前職の富田茂之らを破り当選した。
以降、実父より潤沢な資金援助をうける。実父は永田の選挙区である八千代市に学院や病院、看護サービス施設を建設。月一度の新聞の折り込み広告等の選挙支援を行う。当時、民主党の若手議員の中で屈指の資金力を誇ることで知られた。
2001年4月5日、衆議院本会議において原稿なしで質疑を行う。本会議においては質問側も答弁側も朗読し形式的なやりとりに終わるのが常で、若手の新たな試みとして注目された。
2002年7月には、元外相田中真紀子の公設秘書の給与流用疑惑をめぐり、衆議院政治倫理審査会で質問した永田と大野功統(自民党代議士)の議員宿舎などに白い粉が入った封筒が郵送されたことがある。警視庁は同一人物による悪質な悪戯と見て捜査している。
2004年10月5日には自民党旧橋本派をめぐる日歯連闇献金事件で、東京地検が元首相橋本龍太郎ら3人を不起訴処分としたことについて、「不起訴は不当」として、検察審査会に審査を申し立てた。
2004年に元客室乗務員と結婚。挙式は千葉マリンスタジアムを借り切り行った。出席者全員で「寿」の人文字を作り、最後に新郎新婦が「ヽ」の部分を作ったところで航空写真を撮影するといった大掛かりなものであった。翌年長女が誕生。
堀江メール問題[編集]
堀江メール問題参照
2006年2月16日を機に堀江メール問題が起こる。この騒動で永田は発言を二転三転させるなどし、民主党への非難が集中することになった。結果、民主党代表前原誠司ら執行部が責任を取り総退陣することになった。
国会でライブドア元社長の堀江貴文のメールを取り上げたものの、2月27日には送受信が同一のメールアドレスだったこと等が判明し、3月2日には永田自ら「メールは誤りであった」と述べた。2月28日に民主党から半年間の党員資格停止処分を受け、この件で懲罰動議が衆議院懲罰委員会に付託されたが、最終的には処分が決定する前の3月31日に衆議院議長に辞職願を提出。4月4日の衆議院本会議で許可され、議員辞職した。
議員辞職後[編集]
議員辞職後、次期総選挙で同じく千葉2区からの出馬を模索するが民主党に相手にされず、独自に実父の地元である九州からの出馬を模索するも難航。かつての選出選挙区であった千葉県内では、収賄罪で実刑を受けた元市長にまで後援会を譲ってもらうために頭を下げていたという。またこの間、民主党の党籍の解除、親族の経営する会社に入社するも一年足らずでの退社、その後親族の経営する公認会計士事務所に入るも同じくまもなく退社、さらに親族の傷害致死事件や創価学会をめぐる自身の書類送検と略式起訴および罰金刑、夫人からの離婚調停などトラブルが頻発し、次第に精神に支障をきたすようになる。
- 2006年10月、義兄(姉の夫)が会長を務める肌着会社「健繊」に入社。2007年3月には同社取締役となったが、同年8月に退社した。
- 2007年2月13日の読売ウイークリーが、2006年9月1日付けで永田の処分が解除されていたが、民主党千葉県連の党籍を解除されていると報じた。
- 2007年3月4日、異母妹にあたるとされる女性が、同居男性を暴行、殺害したとして傷害致死容疑で福岡地検に送検されている。
- 2008年7月18日、議員在職中の2005年8月に地元で開いた国政報告会で「『創価学会が不正な選挙活動をした』と虚偽の内容の発言をした」として、名誉棄損容疑で千葉地検に書類送検された。
晩年[編集]
2008年11月12日、実父が関係する福岡県宗像市の医療法人所有の保養所で手首を切って抜け出し、徘徊しているところを警察に保護された。また、夫人との離婚が成立していたこともあわせて報道された。
2009年1月3日、北九州市八幡西区里中3丁目のマンション駐輪場で死亡しているのが発見された。警察はマンションから飛び降りたとして自殺と断定した。当時永田はマンション近辺にある精神科中心の八幡厚生病院に入院していた。他の患者の見舞客たちも、院内ロビーを呆然と歩く永田の姿を時々見かけていたという。現場からは遺書とみられるノートが発見され、家族の名前に宛てて「死にたい」という内容が書かれていた。また空になった焼酎の紙パック(1.8リットル)も残されていた。現職当時から躁鬱病に悩まされていたという。
死後、手塚仁雄は、自分が助言した寝酒に関して、永田を悼む気持ちを述べた(週刊新潮2009年1月15日号P.31)。また、落選中の手塚に対して「復活できる可能性があるからいいですね」とも語っていた。民主党の議員とはほとんど会っていなかったうえに、手塚とも2008年2月を最後に連絡を取らなくなったという。
2009年1月5日に営まれた葬儀の際には、実父が「5年で立ち直る、それにはあと3、4年だと思っていました。まさか死ぬとは全然考えていませんでした。それほど精神的な打撃が強かったのでしょうが、40代、50代になったときの知恵と経験として花開くと信じていました」と挨拶した。
異母妹・蒲池美世のSM殺人事件[編集]
同居男性を暴行、殺害したとして2007年3月4日、傷害致死容疑で福岡地検に送検された女(32)が、「偽メール問題」で昨年4月に議員辞職した永田寿康氏(37)の異母妹に当たることが分かった。「週刊朝日」3月23日号が報じた。女は福岡県警の調べに対し、SMプレーの末に男性を死なせたと供述しているという。
永田氏は一連の「偽メール問題」で失脚したが、その異母妹はスキャンダラスな事件の容疑者として逮捕、起訴されていた。
週刊朝日が「『SM怪死』事件の全貌」との見出しのもと、永田氏の異母妹と指摘しているのは蒲池(かまち)美世容疑者(32)。
2007年3月2日、同居する交際相手の土木作業員、福井音文さん(50)の背中を殴打するなどしてけがを負わせたとして、傷害容疑で逮捕された。 司法解剖の結果、死因は腹膜炎と判明。暴行による死亡が裏付けられて容疑は傷害致死に切り替えられ、3月4日に送検された。犯行時間は1日午後9時から2日未明とされている。
福井さんは昨秋から、美世容疑者のマンションで同居するようになったらしい。同誌は遺体の様子について、一方の目が見開き、頭はあちこちくぼんで変形していたとの葬儀参列者の話を紹介している。
無残な暴行跡に加え、仰天するのは美世容疑者の供述内容。調べに対し「(福井さんに)きょうは責めてくれといわれてSMプレーをして木刀でたたいた。交代でプレーするから、私が責められるときもある」と話しているというのだ。部屋にはSMグッズもあったとか。
美世容疑者は平成16年12月、前夫の母親に熱湯をかけてけがをさせたとして逮捕され、執行猶予付きの判決を受けており、自宅でのぼや騒ぎや盗難騒動などで消防車やパトカーを度々出動させるなど、数々の奇行で知られていたという。
同誌によると、美世容疑者と永田氏の父親は、医療法人のトップで病院長なども務めている蒲池眞澄氏(66)。永田氏は、眞澄氏と最初の妻との間に生まれ、美世容疑者は2番目の妻の子供だとしている。永田氏の名字が違うのは、実母が眞澄氏と離婚後に再婚した相手の姓を名乗っているからと思われる。
問題視された発言[編集]
- 2000年11月20日の加藤の乱の際、本会議場で演説中の松浪健四郎に対し「ちょんまげ野郎!」「お前、党首(扇千景保守党党首)と何発やったんだ!」という野次を飛ばしたことが原因で水を浴びせかけられている(但し内容については当の松浪が否定している)。永田は「最前列で森喜朗首相ではだめだと何度かやじり、そのたびに松浪議員からにらまれた」という。この問題は『ビートたけしのTVタックル』にてこと細かに検証された。永田の野次は本件以前から内容が酷い事で有名であり、過去には保守党に対し、「支持率0%の党が発言するな」などと野次っていた。
- 2004年3月11日、衆院本会議の発言で、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎の歴代3内閣に言及した発言について、自民党が「不適切な発言」であると抗議した。
- 2005年7月8日の衆院・政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会で、出所不明の風聞(公明党の主張)を根拠に「(都議選の際に)公明党の支持団体の住民票が東京都に移されている疑念がある」等と発言。河野洋平衆議院議長から注意を受け、与党から懲罰動議が出された。永田が2000年の初当選以来受けた懲罰動議は4回。民主党は公明党に謝罪した。
- 2005年8月28日、習志野市内の事務所開きにおいて、「公明党支持団体」の固有名詞を挙げて再び7月同様の発言。さらに「創価学会は宗教団体として認められておらず、都の認可をもらうために学会系の都議を増やして圧力をかけなければならない」等と発言した。しかし、創価学会は1952年には宗教法人の認証を得ており、さらに1999年の宗教法人法改正によって所轄庁は文部科学省になっていることから、悪質な虚偽の流布として同30日、創価学会本部は永田を名誉毀損で刑事告訴。
- 2005年12月18日、八千代市内での国政報告会で耐震強度偽装問題に触れ、「住民は火をつけたくてしょうがない、阪神大震災では激甚災害指定欲しさに被災者が火をつけてまわった」等と発言。発言内容を完全録音したCD-ROMを入手した東京スポーツの取材に対し、事実を認め謝罪した。この後、2006年3月24日の懲罰委員会の質疑答弁の中で、永田本人がこの事実を認めている。
- 片山さつきは大蔵省の先輩にあたるが、永田が入省後まもなく国費留学→退職・議員立候補とわずかな期間しか同省に在籍していなかったので「憶えていない」とのこと。
物議を醸した行動[編集]
- 2002年11月4日、名古屋刑務所の受刑者が高圧放水によって死亡した事件について、2003年3月、山花郁夫と共に消防ホースで「再現」実験を行った。しかし実際の水圧は実験のものの10分の1程度にすぎず、ほとんど意図的な捏造に近い実験であったことが判明し、民主党は謝罪に追い込まれた。
- 2005年7月22日の外務委員会にて、社民党の東門美津子の質疑が始まった途端、手元にあった紙で折り紙を始めた。
関連項目[編集]
- 楢崎弥之助 - 元衆議院議員で、「国会の爆弾男」と呼ばれた