大正世代

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大正世代(たいしょうせだい)とは、1912年大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで、西暦で言うと1910年代初期から1920年代中期までに相当する。期間は15年間であった大正天皇の在位期間の大正時代に生まれた世代である。「大正生まれ」や「戦中派」とも云う。

青年時代[編集]

1926年(昭和元年)の大正から昭和への改元時には、大正元年生まれは14歳であった。大正15年生まれは0歳の乳児であった。1937年(昭和12年)の日中戦争支那事変)の開始時は、大正元年生まれは25歳の成人であった。大正15年生まれは11歳であった。1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)の大東亜戦争太平洋戦争)の戦時中は、大正元年生まれは29歳から33歳であった。大正15年生まれは15歳から19歳であった。1963年(昭和38年)の東京オリンピックの開催時は、大正元年生まれは51歳であった。大正15年生まれは37歳であった。1970年(昭和45年)に大阪万博開催時は、大正元年生まれは58歳であった。大正15年生まれは44歳であった。1989年(平成元年)の昭和から平成への改元時には、大正元年生まれは77歳であった。大正15年生まれは63歳であった。1995年(平成7年)の戦後50周年の阪神大震災オウム真理教地下鉄サリン事件のあった年は、大正元年生まれは83歳で、大正15年生まれは69歳であった。2001年(平成13年)の21世紀への転換とアメリカ同時多発テロがあった年は、大正元年生まれは89歳であった。大正15年生まれは75歳であった。2011年(平成23年)の東日本大震災があった年は、大正元年生まれは99歳であった。大正15年生まれは85歳であった。

大正時代生まれ[編集]

明治時代生まれ・大正時代生まれ・昭和時代生まれ・平成時代生まれ)の近代年号(明治・大正・昭和・平成)の中で一番短い15年間であり、その内、唯一大正生まれだけが(大正年間)大正時代から昭和に改元される以前の期間内に(大正天皇)の天皇在位中に成年に達しない事となり、大正時代に二十歳の新成人として成人しなかった大正世代は、大正年間に全て子ども未成年者)であった。明治(明治時代)生まれは、明治天皇の在位中に初めての明治生まれの明治元年(1868年)生まれが明治21年(1888年)に二十歳の新成人として成人した。明治時代最後の年である明治45年(1912年)に明治25年(1892年)生まれが、明治最後の新成人として二十歳になり成人した。明治生まれは全て昭和7年(1932年)に最後の明治生まれである明治45年(1912年)生まれが成人した。昭和生まれは、昭和天皇の在位中に最初の昭和(昭和時代)生まれとして二十歳の新成人となった昭和元年(1926年)生まれが、昭和21年(1946年)に成人した。昭和時代最後の年である昭和64年(1989年)に昭和44年生まれが昭和最後の新成人として二十歳になり、成人式を迎えた。昭和生まれは全て平成20年(2008年)に、最後の昭和生まれである昭和63年(1988年)生まれが成人した。平成生まれは、平成元年(1989年)生まれが平成21年(2009年)に平成生まれ初の新成人として二十歳となり、成人式を迎えた。大正生まれ(大正世代)は昭和7年(1932年)に最初の大正(大正時代)生まれの大正元年(1912年)生まれが成人した、最後の大正世代の大正15年(1926年)生まれは、最後の大正生まれの新成人として二十歳を迎えて、昭和21年(1946年)に成人した。

大正時代の影響[編集]

幼年期に第一次世界大戦があり、大正時代に帝国主義藩閥政治が終焉してた。大正デモクラシーによる民力涵養運動部落解放運動労働運動婦人解放運動普選運動があった。その結果、民本主義思想によって大正時代末期から政党政治が行われるようになり、昭和初期に民政党政友会二大政党から内閣総理大臣天皇から任命された。また全ての成人男子が、選挙権を獲得する普通選挙法が大正末期に成立して、昭和初期に普通選挙が行われた。第一次世界大戦では、戦車毒ガス戦闘機による戦闘で大量の戦死者がでるようになり、将軍や兵士中心の戦争から武器中心の戦争となり、爆撃機による空襲で民間人を攻撃する近代戦争の時代となった。子供時代(小学生時代)に関東大震災で被災した体験がある最年少世代である。大正デモクラシーの時代に生まれた「大正世代」は大正時代の中心思想であった吉野作造が唱えた民本主義による思想の影響でリベラルな思想を持っていた。

大正世代が受けた教育[編集]

大正世代は大正時代に改革された教育思想の遺産である大正自由教育運動など欧米で活発化していた新教育運動が日本にも輸入されて、1920年代から1930年代前半にかけて起こった運動で教育された世代である。自由主義の影響を受けて、家制度によるお見合い結婚から恋愛を謳歌する風潮や、個性を重視する教育・作文による教育・私立学校による教育が盛んになっていた。大正時代には、明治時代までは帝国大学のみだった大学が大学数が急増して、明治時代までは専門学校扱いであった私立大学大学令により認可されて、高等教育が普及した。当時はまだ義務教育のみの小学校卒業の学歴が大半であり、大学生エリートであったが、都市部を中心に大学を卒業したインテリ層が増加してサラリーマン層が誕生した。学歴社会や企業社会の基礎となる高学歴化や都市化が進展した。箱根駅伝高校野球など戦前から始まり戦後になっても続いている部活動が盛んになった世代である。帝国大学・旧制大学旧制高校旧制中学で戦前期に最後の大日本帝国教育制度を受けた世代である。

文化・思想[編集]

文化的には大正ロマン昭和モダンなどの影響で、歌謡曲や洋服などの衣装や洋食文化が普及した。ロシア革命など社会主義思想の影響を受けて、労働問題や貧困問題で左翼思想が台頭した。天皇制を否定する危険思想と解釈した日本政府は、左翼思想対策として尊王精神を強化したり、靖国神社を信仰する右翼思想教育や軍国主義を強化する思想教育を行った。

昭和時代の青年期[編集]

青年期になり、大学生などのインテリ層や労働者の中には自由主義を唱えたり社会主義思想に共感を持ち、学生運動をするなどリベラルな思想を持っていた世代であったが、青年期に、国粋主義者や大日本帝国陸軍による五・一五事件二・二六事件などのテロによって政友会民政党の2大政党による政党政治が崩壊して、大正デモクラシーから昭和時代になり軍国主義の日本となった。世界恐慌による就職難の時代であり、1932年(昭和7年)の失業率は6.9%まで上り、1990年代2000年代前半の「就職氷河期」の同義語に当たる「大学は出たけれど」が流行語になった。中でも、高等小学校を出た大正一桁生まれ(1912年(大正元年)~1920年(大正9年))生まれた大正初期生まれ・大正中期生まれ世代が、軒並み就職難に遭遇した。冷害の年が続いた為、寒冷地の農村では「娘の身売り」が社会問題に発展した。この事が孫世代である団塊ジュニア世代と共通していると比較される。

世代的特徴[編集]

祖父母・両親世代[編集]

この時代の大正世代に生まれた人は大日本帝国期の家制度で兄弟の人数も多く兄弟間の年齢差がある事情もあるが、大部分の両親は明治[1]生まれであり、特に多い両親である世代は明治時代の中期に当たる明治10年代と明治20年代に生まれた世代で、日露戦争で若い兵隊だった世代である。ちなみに祖父母世代は、年齢差が70歳以上離れている事情もあるが、大部分の祖父母は江戸時代末期の1850年代半ばから明治初頭の1870年代[2]生まれであり、特に多い祖父母である世代は1860年代に生まれた世代で、大日本帝国憲法制定時に20代だった世代である。

子供・孫世代[編集]

子供に当たる世代は特に多いのが団塊世代(大正世代の最も年齢差が短い子供世代であり、大正生まれが若い年齢で子供をもうけたのは、昭和一桁世代から焼け跡世代までに誕生した世代で、軍隊経験など戦争の影響がなかった男性やお見合い結婚が早期に成立した大正世代は昭和時代の戦前・戦中期に結婚出産をしている。当時は大日本帝国時代であった。昭和時代戦後期の全共闘世代から団塊の世代が最も子供世代である例が多い世代である。大正末期生まれや高齢出産として親子関係があるのは、しらけ世代から新人類世代までの世代に誕生した子供で、昭和一桁世代から昭和40年代にかけての広い範囲に大正世代の子供世代が分布する)であり、孫世代は、大正世代が社会人として政界や財界をリードしていた50才代の時期や、定年後に年金生活を迎え始めた時期に誕生したケースが多く、団塊ジュニア世代が最も多いが、こちらも昭和30年代のしらけ世代から平成一桁のゆとり世代にかけての広い範囲に分布している。

大日本帝国最後の正規軍人世代[編集]

大正世代は大正時代から昭和時代の戦前期にかけて学生時代を過ごして、最後の大日本帝国の戦時下でない正規の教育制度を受けた世代である。小学校時代に修身などの授業で尊皇など天皇制教育を受けた世代である。大日本帝国の時代に最後の若者であり、昭和時代の軍国主義体制下の青年世代であり、男性が正規兵として従軍し、戦争前中期時に軍隊経験がある世代はこの世代が最後である。(次の世代である、昭和一桁世代も軍隊経験があるもの、それは予科練や再末期であり、この大正世代は最後の正規期間で教育を受けた職業軍人の世代であり、最後の正規徴兵制度の対象世代であった。大正時代に誕生した男性は30歳の壮年期までに約4割の男性が死亡した。戦死は(割合が7分の1に当たる14%が戦死)または病死など(その他の理由の戦病死の増加や自殺や男性の乳児死亡率の高さで26%の男性が)死亡した事で、大正世代の男性人口が急減した。

戦死が多い世代[編集]

親世代である明治生まれ世代の政治家や陸軍及び海軍指導者の支那事変大東亜戦争の犠牲となった若手の日本兵であった世代で、多数が学徒出陣特攻隊などで出陣や戦死などした。「特攻隊の遺書」や「きけわだつみの声」などで大日本帝国の若い日本兵であった大正世代の若い男性の死生観が理解できる。織田信長の時代から大日本帝国の時代までは「人生50年」と呼ばれていたが、大東亜戦争の期間内では、男性の平均寿命は大量の日本兵が戦死した事によって、平均寿命が22歳まで一時的に急低下したので「人生20年」と云う言葉が誕生した。

男女比(男性人口が少ない世代)[編集]

その事から、終戦後に男性人口が少なくなる男性不足の問題があった。男子の人口が不足した事から、男性は男女比が女性の方が圧倒的に多かった事から容易に結婚が出来て生涯未婚率は極めて低い1%以下であり99%の適齢期男性結婚をしていた。男性は病気の保有や障害者犯罪者であるなど特別な事情がない以外は全員結婚する皆婚であり、男性は自由に女性を選び結婚できて、女性婚約者戦死未亡人になる悲劇的な女性が多くて、男性不足から女性は結婚難になり、女性は男性より未婚率が高くて、占領軍のパンパンと呼ばれた売春婦となる女性や、占領軍の兵士と結婚して「戦争花嫁」となった女性もいた。最後の家制度世代であった。男性の40歳生存率は1つ世代が下の昭和一桁世代は約8割であり、息子である団塊の世代では9割に上昇したが、父親である大正生まれの男性の40歳生存率は約5割であった。

結婚と出産[編集]

この世代は都市部のサラリーマン層では恋愛結婚も一部みられたが、まだまだお見合い結婚が主流であった。子供世代である団塊世代などの子供数も4人から6人の親の倍数である複数兄弟が当たり前であった。大正世代の内、大正初期生まれ(1910年代生まれ)は戦中生まれと団塊の世代の親であるので、明治生まれ世代と同様の平均子供数が6人前後であったが、大正10年代生まれ(概ね1920年代生まれ)はしらけ世代の親が多いので平均子供数が3人程度まで少子化とサラリーマン化した世代である。女性は団塊世代の母親は産婦人科ではなくて、産婆による自宅などでの出産制度がまだ主流であった。

青壮年期[編集]

家制度世代[編集]

大正世代は太平洋戦争から復員した終戦後に子供を儲けた世代である。戦中生まれから団塊世代を中心にしらけ世代までにかけての親世代となった。戦後の第一次ベビーブームで日本の人口を急増させた。最後の家制度世代でアニメサザエさんの波平さん(磯野波平)像がある。息子である団塊の世代には体罰教育が当たり前に行われていた。戦後に婦人参政権を得た最年少の世代である。漫画家である(水木しげる武良布枝)夫妻のように昭和一桁世代の一つ世代が若い女性と結婚する男性も多くて、大正世代であっても子供数が2人や子供が女子のみしか誕生しなかった家庭の男性もいたが、9割以上のほとんどの男性は息子である跡継ぎがいた。

中年期[編集]

男性のサラリーマン化が進み、団塊世代として誕生した息子の進路と進学状況は、富裕層やサラリーマン層の家庭では高校や大学に息子を進学させて、娘には短期大学女子大学に進学させた親や家庭がいる一方で、農家や貧困家庭や子沢山の家庭では、子供が仕方なく低学歴となり、中学卒業や高校卒業の「金の卵」と呼ばれる労働者になる家庭に分かれた。

高齢期[編集]

総人口は大正15年(1926年)の時点で、大正時代が15年間の短期間であったのが理由で明治生まれより総人口が少なくて、昭和20年(1945年)の時点で大正世代より明治生まれと昭和生まれの方が総人口が多かった。平成時代の期間内に大部分が高齢者となって死亡した。それまで、戦後一貫して軍事対象の恩給や戦死者を対象とする遺族年金の受給があり、陸軍同窓会と海軍同窓会と反省会が開かれていた。

政治家[編集]

昭和22年(1947年)の第23回衆議院議員総選挙で、大正世代の田中角栄と中曽根康弘が初当選した。以降大正世代が続々と国会議員となり三角大福中自由民主党政権の55年体制の時代に活躍した政治家が多かった。昭和50年代に50歳代で社会の最前線で働き安定成長期の政治・経済をリードした。

大正世代で総理大臣となった政治家は、昭和47年(1972年7月7日から昭和49年(1974年12月9日の期間内に在任した田中角栄(大正7年生まれ)が大正世代(大正生まれ)で初めての総理大臣であり、『大正生まれ』として国民やマスコミから注目されて、戦後最年少の若い総理大臣として就任をした。その後再び明治生まれの三木武夫(明治40年生まれ)・福田赳夫(明治38年生まれ)・大平正芳(明治43年生まれ)・鈴木善幸明治44年生まれ)の明治世代が総理大臣となり、昭和57年(1982年11月27日から平成元年(1989年8月10日までの期間内に内閣総理大臣として在任したのは中曽根康弘(大正7年生まれ)・竹下登(大正13年生まれ)・宇野宗佑(大正11年生まれ)であり、大正世代(大正生まれ)が3代連続で総理大臣となった。平成元年(1989年)に昭和生まれ初の海部俊樹総理大臣となり昭和一桁世代と大正世代が世代交代した。平成3年(1991年11月5日から平成5年(1993年8月9日に再び大正世代の総理大臣として在任したのは宮沢喜一(大正8年生まれ)であり、その後、平成5年(1993年)の非自民・非共産連立政権の成立で、再び世代が若返って細川護熙羽田孜が首相に就任した事で、昭和生まれの焼け跡世代が総理大臣となった。平成6年(1994年6月30日から平成8年(1996年1月11日に在任したのは村山富市(大正13年生まれ)であり、最後の大正世代(大正生まれ)の総理大臣となった。(竹下登・宇野宗佑・村山富市)は学徒出陣の対象者で軍隊経験(軍歴)があり、田中角栄と中曽根康弘も軍隊経験(軍歴)があり、宮澤喜一を除く5人の総理大臣経験者が軍歴があり、大正世代の総理大臣の内では(6人中5人)が元日本兵(大日本帝国軍人)であった。

定年・引退[編集]

昭和47年(1972年)頃に大正初期世代の大正元年(1912年)生まれが定年を迎え始めて、昭和61年(1986年)頃に大正末期世代の大正15年(1926年)生まれが定年を迎えて、昭和47年(1972年)から昭和61年(1986年)の高度成長期後からバブル経済期までの安定成長期間内に大正世代が年金生活者となり、昭和末期のバブル期に大正世代は全員が定年を迎えて平成初期にかける時期に政治界と経済界では昭和一桁生まれ世代と世代交代した。年金運用は大正世代までは子供数が4人から6人の複数で黒字化していた。

2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙で、最後の大正生まれの国会議員の中山太郎が落選して大正世代の国会議員がいなくなり全国会議員が昭和生まれとなった。

2011年(平成23年)の時点で大正世代の有名人水木しげるのように90歳近くになった生存者が多くて、長寿でなかった藤本弘など昭和一桁世代の有名人に比べて、大正世代の有名人は生存率が高くて長寿者が多い。(参照は以下の大正世代の有名人一覧。大正世代の有名人は長寿者が多い事が分かる)

参考文献[編集]

  • (大日本帝国最後の正規軍人世代の項目・ 戦死が多い世代の項目 男女比で男性人口が少ない世代の項目)保阪正康 『『きけわだつみのこえ』の戦後史』 文春文庫2002年 ISBN 9784167494056
  • (大日本帝国最後の正規軍人世代の項目・ 戦死が多い世代の項目 男女比で男性人口が少ない世代の項目)『実録第二次世界大戦史』株式会社 シーティティー
  • (大日本帝国最後の正規軍人世代の項目・ 戦死が多い世代の項目 男女比で男性人口が少ない世代の項目)福間良明 『「戦争体験」の戦後史 - 世代・教養・イデオロギー』 中公新書2009年 ISBN 9784121019905
  • (大正時代の影響の項目・大正世代が受けた教育の項目・文化・思想の項目・ 昭和時代の青年期の項目)皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社2002年
  • (大正時代の影響の項目・大正世代が受けた教育の項目・文化・思想の項目・ 昭和時代の青年期の項目)『日本の歴史第17巻大正時代~大正デモクラシー』(著者は松尾尊兌

大正世代の有名人[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 明治時代全般の明治元年から明治45年生まれで、両親が江戸時代生まれである例や大正時代生まれ同士の親子はほとんど存在していない
  2. ペリー来航の1854年から明治初期の1879年生まれで、祖父母が1850年代初頭以前生まれである例や1880年代以降生まれの例はほとんど存在していない
先代:
明治生まれ
1868年-1912年
日本の世代
大正世代
1912年-1926年
次代:
昭和一桁
1926年-1934年
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