大場啓仁

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大場 啓仁(おおば ひろよし、1935年 - 1973年9月4日)は、日本の英米文学者。元立教大学一般教育助教授。高校卒業後、立教大学文学部英米文学科に入学。細入藤太郎に師事し、1958年に卒業。

その後、同大学大学院に進学し、修士課程博士課程をそれぞれ修了。

専門は19世紀アメリカ文学で、ヘンリー・ジェームス研究で知られた。専任講師を経て、1967年に32歳と人文科学系としてはかなり若い年齢で助教授に昇格した。教授陣に東京大学出身者の割合が高い立教大学にあって、母校出身教員として恩師の細入教授から将来を嘱望されていたが、1973年に不倫相手の教え子を殺害し、45日後に妻子と一家心中している。

大場助教授事件[編集]

一家心中[編集]

1973年9月6日早朝、伊豆半島南端の石廊崎に近い静岡県賀茂郡南伊豆町池野原の奥石廊崎展望台(愛逢岬)下の海岸で、立教大学一般教育部助教授大場啓仁(38) は、妻の順子(33) および6歳と4歳の二人の幼い娘とともに、釣人によって墜死体で発見された。

飛び降りた断崖の上には、「大変ご迷惑をおかけしますが、親子4人がこの下で投身自殺をしているのでお届け下さい」と、身元と現住所を明記した置き手紙が残されていた。自殺の原因は、大場が大学院英米文学科修士課程に所属する教え子の関京子さん(24) との不倫関係の清算に失敗し、彼女を殺害したことが発覚したためである。

性的関係は関京子さんが学部生だった当時から4年近くにおよんでおり、関京子さんも修士論文の提出を延期して留年するほど大場との関係を深化させていた。指導教員としての大場の行為は、今日的にはセクシャル・ハラスメントに該当するが、当時の基準に照らしても普通の大学では懲戒解雇となりうる事案で、大場は関京子さんから「妊娠した」と通告されるとともに大学への不倫関係の告発を示唆され、妻との離婚を迫られていた。

また大場は、夫の浮気を知った妻の順子からも数度の自殺未遂を交えて関京子さんとの不倫関係の清算を強く迫られており、大場としては自分の地位と妻子との家族関係を維持するための、追い詰められての犯行だった。しかし、あまりに短絡的で、殺害された関京子さんと大場本人、さらにはその家族3名の、合計5名が命を失うという、きわめて陰惨な結末となった。

教え子の失踪[編集]

関京子さんは大場との不倫関係に悩み、さらにホジキンリンパ腫のため体調を崩して帰省していたが、1973年7月19日に甲府市の実家から慶應義塾大学病院での定期治療のため上京した。当日は獨協大学生の弟が下宿していた北区十条の親戚宅に宿泊したが、翌日から消息を絶つ。

その後、8月4日頃まで旅行に出るというK子直筆の手紙が7月23日に実家に届き、両親は関京子さんの健康状態が気がかりながらも、ひとまず安心した。

また、30日には「大伴旅子」なる人物から、「遊覧船では厄介になりました。あなたの彼によろしく」との礼状が、現金20,000円を添えて郵送されてきた。このため、両親は関京子さんの音信不通はあくまで家出ではなく長期旅行と信じ、また地元でも有数の素封家だけに嫁入り前の娘の失踪に対する世評も懸念し、大学や警察への捜索願いの提出が遅れた。しかし、事件発覚後に二通の手紙はすべて大場の偽装工作だったことが判明する。一方、大場は「大伴旅子」の手紙が届いた30日に関京子さんの実家を訪れているが、両親からの相談に積極的に対応し、信頼関係を築くほどだった。

隠蔽[編集]

7月20日午後、大場は関京子さんと新宿で合流した後、恩師の細入教授が所有する八王子市鑓水別荘多摩美術大学東側、現在の日本聖公会聖ケネス教会)に誘った上で絞殺し、遺体を付近の空き地に埋めた。その後、大場は午後11時過ぎに大学のアメリカ研究所の女性職員Aを池袋駅近くの料理店に呼び出した。Aは大場が女子学生と問題を起こすたびに相談相手になっていた。大場はAに、関京子さんとの関係について「自殺よりもっと大変な方法でけりをつけた」と殺人を犯したことを示唆したうえで、夕方から夜10時まで一緒にいたことにしてほしいとアリバイ工作への協力を懇願した。

翌日、大場は細入教授が主催する囲碁会に参加するため熱海に向かったが、困惑したAから相談をうけた大場の8歳年上の先輩である英米文学科のM助教授は、細入教授の義弟で大場とは立教大学の同期でもある専修大学のK助教授とともに、23日午後に熱海から戻った大場を大学内に呼び出し、事実を確認したうえ自首するよう説得したものの拒否された。

M助教授らは、「やってしまったものは仕方がない」と開き直る大場に呆れつつも、夫の不倫に悩んで自殺未遂をしたことのある順子(立教の英米文学科出身で大場たちの後輩。関京子さんの先輩でもある)への配慮から、大学および警察への通報を思いとどまった。

こうした先輩・友人の苦悩をよそに、大場は25日に妻子とともに千葉県の白浜まで海水浴に出かけたが、夫婦喧嘩の末に翌26日夜に一人で東京に戻り、高円寺スナックにK助教授を呼び出した。しかし、あいかわらず説得に応じなかった。大場は29日にかけて鑓水に立ち寄り、関京子さんの遺体をより目に付きにくい地点に埋め直している。その後、大場はM助教授に会い、「絶対にわからない場所に埋めた。大丈夫だ」と重ねて自首を拒否している。

関京子さんが帰宅すると告げた8月4日が過ぎ、さらに夏期休暇中とはいえ失踪から約1ヵ月たち、焦慮した関京子さんの母親は8月18日に大学を訪れて捜索を要請した。母親は、大場との関係に悩んでいることを赤裸々に綴った娘の手記を彼女の部屋から発見し、失踪に大場が何らかのかたちで関与していることを疑いはじめていたが、あくまでも家出と信じて大学には知らせていなかった。

一方、大場はあいかわらず隠蔽工作を続ける。8月20日には細入教授の家族らと鑓水の別荘に宿泊し、翌日は敷地内でテニスやバーベキューを楽しんだが、おそらくは遺体を埋めた現場周辺の状況を確認したものと思われる。また、帰宅途中にはK子が通っていた都内の翻訳専門学校をわざわざ訪ね、「教え子が行方不明になり困っている」と協力を依頼した。22日の読売新聞夕刊には、「関京子さん、連絡を待つ父病気、ひろよし」と大場が依頼した三行広告も掲載されている。

この当時、大場はロード・ラグラン著『文化英雄-伝承・神話・劇』(太陽社、1973年10月。大場の死後に刊行。この書籍は大場にとって扉に氏名が掲載された初の刊行物という学術業績となるが、不倫・殺人・一家心中を犯した「文化英雄」と週刊誌に皮肉を浴びせられることとなる)の翻訳原稿の最終校正を行っていたが、関京子さんの失踪を大場から告げられた妻は、夫の関与で関京子さんの身に重大な事態が生じたことを敏感に察知し、またも自殺未遂をおかしていた。8月25日に出版社で開かれた共同翻訳者たちとの検討会で、大場は疲労のためか、あるいは教え子失踪の真相が発覚しつつあることへの動揺のためか、何を問われても上の空といった呆然たる状態だったため、結局は会を中断せざるをえなくなったという。その翌日、ついに大場は自首を考えるようになり、27日にM助教授らと打ち合わせを始めた。

一方、関京子さんの母親から捜索要請を受けた大学側は、学生部を中心に内密に調査をすすめていた。その結果、8月28日になって大場による関京子さん殺害という衝撃的事実をM助教授から知らされる。情報は瞬時に佃正昊総長以下の大学執行部に伝わり、ただちに直属の上司である一般教育部長が大場と面会した。

同30日には同じ部に属する学生副部長らが本人から聞き取り調査を行ったが、いずれも事件についてはのらりくらりとかわされて黙秘され、いわば煙にまかれるかたちとなった。執行部内では警察に即時通報すべきとの強い意見も出たが、M助教授は自首させるため最後の説得をすると大学側を抑え、大場に決断を迫った。

8月31日、大場はついに自首を決心し、佃総長宛に辞表を郵送するとともに研究室を整理した。翌日、大場はM助教授・K助教授と最後の会食をした。そして、大場と順子を離婚させ、K助教授が順子と娘たちを自宅にかくまってマスコミの取材から隔離し、そのうえでマスコミの目に付きにくいだろう土曜日の8日に、大場に弁護士をつけて自首させる手はずが整えられた(ちなみに、当時の世間の耳目は金大中事件に集中していた)。しかし、大場は翌日の9月2日に義父の見舞いに行くとM助教授に電話をかけたのち、妻子とともに消息を絶った。

大場の一家は、自宅を去った2日の夜は帝国ホテルに宿泊し、ディナーを楽しんでいる。3日は東京を離れて下田東急ホテルに宿泊し、翌4日10時頃にチェックアウトした。大場からの音信が途絶えたことに不審を抱いたK助教授は、5日に順子の母とともに豊島区南長崎にある大場のマンションを訪ね、失踪を確認した。家財道具の大半は順子が廃品回収業者を呼んで処分を済ませており、閑散とした室内には喪服が整然と備えられていたという。

さらにこの日、大阪にいる順子の姉のもとに、現金10万円を添えて、大場一家が破滅した顛末と形見分けなど事後の処理を細かく依頼した順子直筆の遺書が届き、M助教授の元にも「最後になって深い友情を裏切ってしまうことになりました。(中略)順子には事実については最初から話しておりました」という大場の遺書が届いた。ともに3日付の下田郵便局消印が押されていた。

ただちに順子の大岡山にある実家から、所轄の碑文谷警察署に捜索願いが出されたが、翌朝に前述の如く大場一家の遺体が奥石廊崎で発見される。検視の結果、4日の夕刻に一家心中したものと推定されている。

被害者の遺体発見[編集]

大場の一家心中をうけ、立教大学は大場助教授が関京子さんを殺害した可能性が濃厚との事実を警察および関京子さんの実家にはじめて通告した。失踪直後から真相をある程度は大学内の人間が把握していたにもかかわらず、事実を告げられずに娘の消息を求めて奔走していた関京子さんの両親は、当然ながら激怒した。一方、警察は大場の自宅を所轄とする目白警察署に捜査本部を置き、M助教授らから事情聴取しつつ、本格的に捜査を開始する。

大場がM助教授に「山かもしれないし海かもしれない。河口湖かもしれない」と、遺体の処理についてはぐらかした発言をしていたため、一時は河口湖の捜索も検討された。

しかし、7月20日に大場が鑓水にある細入教授所有の別荘の鍵を借りていたことが判明し、消息を絶った関京子さんは大場によって何度か逢引に使われた別荘で殺害された可能性が強いと判断され、周辺の捜索が開始された。

その結果、泥のついたスコップが物置から発見されたほか、9月19日には関京子さんが失踪前日に新宿の専門店で特注により購入した赤いハイヒールが近くの畑から発見される。また、事件当日に京王片倉駅付近の中華食堂で大場と関京子さんらしい女性が食事をしていたことが確認され、さらに7月20日に鑓水付近でずぶぬれ姿の大場を目撃したとの立教大卒業生からの情報も寄せられた。加えて、甲府の実家に届いた関京子さんの手紙の下書きや、『万葉集』歌人の大伴旅人をもじったと思われる「大伴旅子」が使用したのと同じ「万葉」の題が入った便箋が別荘内から見つかり、大場が関京子さんを殺害して周辺のどこかに埋めたのは確実と判断された。

とはいえ、細入教授の別荘は敷地が1万平米と非常に広いうえ、大場が7月29日に遺体を埋め直したこともあり、「絶対にわからない場所に埋めた」との大場の豪語を裏付けるかのように、殺人事件としての立件に不可欠な遺体の発見は難航した。大場の犯行は無造作で短絡的だったが、野球テニスを得意にしていたことから体力のあるスポーツマンと思われていたうえ、大学助教授という肩書から知能犯というイメージもあり、警察内には大場はよほど手の込んだ方法で遺体を処理したのだろうとの悲観的な雰囲気も漂った。

しかし、警視庁捜査一課と目白署の特別班による、別荘周辺の空き地や雑木林を検土杖でしらみつぶしに突き刺すという地道な捜索の結果、翌1974年2月28日午後2時30分ごろ、別荘から50メートル離れた裏山の崖下にある藪(現在の鑓水板木の杜緑地の外側)から、洗濯用ロープにより両足で頭を抱え込むかたちで縛られ、わずか50センチほど掘られた穴に無造作に埋められた、ミイラ化した無残な女性の遺体が発見された。

遺体は全裸だったが、かぶせられていたワンピースの柄や髪型の特徴から関京子さんのものと特定され、さらに白骨化していなかった指から採取された指紋により最終的に本人と確認された。司法解剖の結果、死因は絞殺と断定された。なお、関京子さんが大場に告げたという妊娠の事実は確定できなかった。関京子さんが失踪して224日目。捜査はこの日で打ち切られる予定だったが、必ず遺体を遺族に届け、大場の犯罪を明らかにするという警察官たちの執念が実った。

大学への批判[編集]

この事件はミッション系で女子の受験生の人気が高い有名大学が舞台となったうえ、当時は現在よりも権威的に見られていた大学教員による不倫殺人という前代未聞の不祥事で、さらに一家心中という衝撃的結末から、週刊誌を中心にセンセーショナルに事件が報じられた。

とりわけ、複数の学内関係者が殺害の事実を事件直後から察知していたにもかかわらず、大学の体面や内輪の事情を優先して極秘裏に処理することに奔走し、懸命に捜索を続ける関京子さんの両親を無視したかのような立教大学の対応は、遺族のみならず社会から倫理に反すると強く批判された。

また、「友情」を優先して40日以上も警察に通報しなかったM助教授らの行動も、通報があれば少なくとも一家心中は防げたはずだとマスコミや警察関係者から非難された。一方、「順子には最初から事実を告げていました」という大場の遺書は、自首を説得しつつも順子のショックに配慮したM助教授らの配慮を裏切るもので、9月22日に憔悴しきった表情で記者会見に臨んだM助教授は、「友情を裏切られた」と強い憤りを示している。なお、大場が100万円で複数の学生を不正に入学させたという関京子さんの告発文が実家から発見されたとの報道もなされたが、大場は手続きに関与できる立場ではなかったと大学に一蹴されている。

参考文献[編集]

松田美智子 大学助教授の不完全犯罪-女子大生殺害・一家心中事件―(恒友出版 1994年9月 ISBN 4765240835幻冬舎アウトロー文庫 1998年12月 ISBN 9784877286774。)

外部リンク[編集]