ムハンマド・アリー

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ムハンマド・アリーアラビア語 : محمد علي Muhammad ‘Alī, 1769年?-1849年8月2日)は、オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の創始者。トルコ語でメフメト・アリー(Mehmed Ali)ともいう。オスマン帝国のエジプト総督ながらエジプトに半独立政権を樹立し、専制支配のもとで富国強兵政策を強行して近代エジプトの基礎を築いた。

生い立ち[編集]

ムハンマド・アリーは、マケドニア地方の東部の港町カヴァラ(現ギリシャテッサロニキ近郊)で下級軍人の家庭に生まれた。民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が多く見られる。

父のイブラヒム・アーはカヴァラ市長官に仕える不正規部隊の司令官に就くかたわらで、タバコ取引に従事する商人でもあった。幼いころに父を失ったムハンマド・アリーは、父の主君である市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき主君の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだ。

ムハンマド・アリーの独特の国際感覚は、このカヴァラで過ごした青年時代に多くの民族、外国人の商人たちと交渉を積む中で培われたと言われる。

エジプト上陸[編集]

1798年ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がエジプト遠征を開始すると、エジプトの宗主国であるオスマン帝国は、フランス軍との戦いのためにバルカン半島方面から軍隊を派遣したが、その一部としてアルバニア人不正規軍が編成された。このとき、カヴァラ市でも長官によっておよそ300人のアルバニア人不正規兵が集められ、長官の子息が隊長、ムハンマド・アリーが副隊長に任命されてエジプトに派遣された。

カヴァラ市のアルバニア人部隊はオスマン帝国軍の一翼としてエジプトに上陸しようとしたが、最初の上陸作戦はフランス軍に阻まれて失敗に終わり、これに怖気づいた隊長がカヴァラに帰国してしまった。

かわってカヴァラ市のアルバニア人部隊の隊長となったムハンマド・アリーは、優れた軍才と政治能力を発揮してたちまちオスマン帝国軍の間で頭角を現していった。フランス軍の撤退した1801年には、彼は全アルバニア人不正規軍の副司令官にのぼっていた。

権力掌握[編集]

遡ってフランス軍の侵入以前、18世紀のエジプトではマムルーク朝以来の支配者であるマムルークたちが政治の実権を握ってオスマン帝国の中央政府の支配からかなり自由になっていた。しかしフランスの遠征は結果的にマムルークたちの力を大幅に削ぐことになり、エジプトに集結したオスマン帝国軍の内部で新たなエジプトの支配者の座を巡る対立が起こった。1803年、2年前のフランス撤退後もエジプトに駐留していたイギリス軍がエジプトを撤収すると、たちまちオスマン帝国軍はエジプトの主導権を巡る内紛を起こした。

この内紛において、ムハンマド・アリーは暗殺された司令官に代わってアルバニア人不正規軍の司令官となり、権力闘争の一方の主役となった。彼はエジプト総督、マムルークを次々に破って混乱を収拾し、1805年カイロウラマー(宗教指導者)、市民による推挙という手続きをとって自らエジプト総督(ワーリー)に就任することを宣言した。

オスマン帝国のセリム3世はムハンマド・アリーの実力を認めざるを得ず、前任の総督の罷免、ムハンマド・アリーの総督就任とパシャの称号授与を勅許した。これにより、ムハンマド・アリーは名実ともにエジプトの支配者としての第一歩を踏み出す。

マムルーク覆滅[編集]

ムハンマド・アリーがエジプト総督に就任した1805年の時点では、エジプトの地方では依然としてベイの称号をもつマムルークの有力者たちが実権を握っており、彼らはムハンマド・アリーの総督権力と対立していた。

マムルークたちは、イスタンブルのセリム3世とエジプトのムハンマド・アリーがフランスのナポレオンに接近することを恐れたイギリスと結び総督を牽制しようとしたが、1807年、エジプト上陸を敢行したイギリス軍はエジプト軍に大敗を喫した。この戦いの結果、ムハンマド・アリーに抵抗していたマムルークたちはその軍事力に威圧されることになり、1809年までに全てのマムルークがムハンマド・アリーに屈服した。

有力なマムルークたちは屈服すると服従の証としてカイロへ移住させられ、マムルークのほとんどがムハンマド・アリーの膝下に集められた。しかし、カイロにいようとも彼らは旧支配勢力として、依然として新支配者ムハンマド・アリーの潜在的な脅威であり、中央集権化を進めようとはかるムハンマド・アリーにとっては、地方に影響力を持つマムルークは排除すべき対象であった。

1811年3月11日、ムハンマド・アリーは式典を名目としてマムルークたちをカイロのシタデル(城塞)に招き、その帰路にシタデルからカイロの町に降りる途中の隘路で挟撃・虐殺し、降服したものも斬首するという強硬手段を行ってマムルークを一掃した。これにより過去300年間にかつて存在しなかったエジプト全域に対する総督の支配が実現する。

財源の改革[編集]

ムハンマド・アリーは、エジプトの近代化を進めるにあたっての資本として、「ナイルの賜物」と呼ばれる豊かなエジプトの農業生産力に目をつけた。彼は服属した地方に対して検地を行って税源を確立させ、戦乱で荒廃したデルタ地方の灌漑水路を復興させた。

古代エジプト時代以来、エジプトの灌漑は伝統的な自然の洪水に頼っていたが、ムハンマド・アリー以降は水路によって常に豊かな水が供給されるようになり、新たな農地の開墾や綿花などの商品作物の栽培が進んだ。

また、それまでエジプトでは地方の有力者に徴税を肩代わりさせる徴税請負制をとっており、それが地方支配者であるマムルークたちの権力と財力の源泉にもなっていたが、ムハンマド・アリーは税制改革を断行し、農地の直接徴税制を導入して、イスラム法(シャリーア)に定められたイスラム国家の原則である土地の国有制を再確認させた。そのために徴税請負人からの請負権の没収、免税地への課税が段階的に進められ、1814年までに徴税請負制が全面的に廃止された。ムハンマド・アリーの税制改革により、全ての農地は国税台帳に記載されて政府からの直接徴税を受けることになり、わずか十数年の間に税収の総額は10倍に激増した。

農業生産を国家の収入とするためのもうひとつの方策は、莫大な利益をもたらす外国向けの輸出を独占することであり、政府が公定価格で農民から収穫物を購入して外国商人に販売する専売制がとられた。

エジプトは古代以来地中海沿岸諸国の穀倉であったが、ムハンマド・アリーはまず小麦を専売とし、折からのナポレオン戦争で補給を必要とするヨーロッパ諸国に売却した。エジプト小麦は主に1807年の侵入後和解したイギリス軍に供給され、エジプト財政に莫大な利益をもたらした。この成功により、専売制の利を悟ったムハンマド・アリーは、ナポレオン戦争の終結した1816年以降は商品作物に専売を拡大した。

こうして綿花、サトウキビ亜麻胡麻蜂蜜などが専売制で取引されるようになると、専売制による収入は政府歳入の4分の1強に及んだ。国外からの需要が特に多かったのは綿花であり、ムハンマド・アリーの治世後期には綿花栽培が隆盛を迎えた。輸出を支えるために国内運輸も整備され、貿易港アレクサンドリアと首都カイロを結ぶ運河をはじめとする水運が発達した。

富国強兵[編集]

ムハンマド・アリーは改革で得た豊かな収入を財源として、西洋式の新式軍を整備し、軍需工場を中心に近代的な工場を国営で設立した。また、これらを支える人材を確保するためにフランスをはじめヨーロッパ諸国から軍人や技術者、教師を招いた。エジプト人に近代的な知識を身につけさせるためヨーロッパ出版物の翻訳・出版を行う翻訳局が設立され、優秀な若者はパリに留学生として送られた。

1822年にはムスリム(イスラム教徒)を対象とする徴兵制が実施されるが、翌年その対象はエジプト社会の少数派であるコプト教会キリスト教徒にまで拡大された。またヨーロッパ人を教師とする近代的な高等学校や伝統的なイスラム教育にかわって実用的な学問を教える中等・初等学校が設立された。

このように、ムハンマド・アリーは税制や教育、兵役など民衆の義務は、あらゆる面で全エジプト人が宗教の帰属にかかわりなく平等に(ただ兵役に関しては男女差別が見られるが)扱われる新時代の道を開いた。その結果、伝統的なイスラム共同体の枠組みを越えた近代的なエジプト国民の意識が創出されていくことになる。

軍事的拡大[編集]

ムハンマド・アリーがエジプトで着々と改革を進めていた頃、アラビア半島の内陸部ナジュド地方では第一次サウード王国がイスラム教の改革思想であるワッハーブ主義を掲げて勢力を拡大しつつあった。オスマン帝国は、ワッハーブ運動の拡大を防ぐためサウード王国と戦う必要に迫られたが、軍事的な衰退著しく、独力でワッハーブ運動を鎮圧する力をもたなかったので、ムハンマド・アリーに応援を要請した。

1818年、ムハンマド・アリーの長男イブラーヒーム率いるエジプト軍はアラビア半島に進軍し、ワッハーブ軍を打ち破ってサウード王国を滅亡に追いやった。これに自信を得たムハンマド・アリーは1820年から積極的な拡大政策を取り、ナイル川上流のスーダンに進出してその北部を版図に加えた。

これと同じ頃、1821年に勃発したギリシャ独立戦争でもギリシャ軍を独力で鎮圧できないオスマン帝国の求めに応じ、ギリシャに派兵する。しかしこの戦いではイギリス、フランス、ロシアがギリシャ側に参戦し、1827年ナヴァリノの海戦でオスマン・エジプト連合艦隊が大敗を喫するなど大きな犠牲を払った末に失敗に終わった。

ムハンマド・アリーの覇権[編集]

ギリシャ独立戦争の後、領土拡大の矛先は宗主国オスマン帝国にも向かった。

先にムハンマド・アリーは、ギリシャ独立戦争の代償としてシリア地方4州の行政権を約束されていたが、オスマン帝国のマフムト2世は独立戦争鎮定失敗を理由にこれを反故にした。これに対してムハンマド・アリーは1831年にイブラーヒームをシリアに遠征させ、武力でこれを奪取する挙に出る(第一次エジプト・トルコ戦争)。

イブラーヒームの軍がアナトリアにまで進出してイスタンブルに圧力をかけると、オスマン帝国はロシアに支援を要請して対抗しようとし、ロシア軍を援軍に招いてイスタンブル郊外に駐留させた。しかし、これをきっかけに列強がこの問題に介入し、結局1833年になってオスマン帝国とエジプトはムハンマド・アリーに一時的にシリアの行政権を譲ることで和解した。

第一次エジプト・トルコ戦争は結果としてムハンマド・アリーの政治的勝利に終わり、エジプトは先に手に入れていたスーダンと、新たに支配下におさめたシリアに加え、アラビア半島中央部のナジュド地方やイエメンも勢力圏内に置き、オスマン帝国宗主権下のアラブ圏に広大な支配地域を確立した。

しかし、この戦争は宗主国であるオスマン帝国のムハンマド・アリーに対する敵意を煽り、またペルシア湾アデンでムハンマド・アリーと勢力圏を接するようになったイギリスとの対立関係を深めることになった。そもそもイギリスは、親フランスであるムハンマド・アリーが勢力を拡大することで、軍事的な要衝である西アジアに対する自国の影響力が失われることを恐れていた。

拡大の限界[編集]

1830年代の後半に入ると、老境に入ったムハンマド・アリーは自身の死後にもエジプトとシリアの自立と近代化を進めるためには、エジプト支配圏をオスマン帝国の宗主権から完全に独立させる必要を感じるようになっていた。ムハンマド・アリーはフランスなどの支持を得てエジプトの独立をオスマン政府に認めさせようとしたが、イギリスをはじめ列強の強い反対にあって失敗した。

この要求を知ったマフムト2世はムハンマド・アリーに対する敵意をより募らせ、1839年、イギリスの後ろ盾を得てエジプトのシリア司令官イブラーヒームが駐留するアレッポに向けてオスマン帝国軍を進撃させた(第二次エジプト・トルコ戦争)。しかしその緒戦はイブラーヒーム率いるエジプト軍の勝利に終わり、さらにマフムト2世が敗北の知らせを聞くことなく急死した。

新たに即位したアブデュルメジト1世は若くマフムト2世ほどの指導力に欠け、オスマン政府はムハンマド・アリーの子孫にエジプトの総督職を世襲させるという妥協案を提示して和解をはかった。ムハンマド・アリーはこれを聞いて自らイスタンブルに赴き、全支配圏の世襲支配を交渉で勝ち取ろうとしたが、ムハンマド・アリーのこれ以上の勢力拡大を嫌った列強はただちにこれに介入した。フランスはムハンマド・アリーに同情的であったが、イギリスは列強の強調により圧力をかけようとし、1840年7月15日にロシア、オーストリアプロイセンとロンドンで四カ国協定を結んでムハンマド・アリーに撤兵を迫った。

イギリスはオスマン帝国と共同でシリアへの上陸作戦を敢行し、またこれに呼応してシリアの各地でオスマン帝国に扇動された反乱がおこった。11月15日、イギリス艦隊がエジプトの目前に迫るとムハンマド・アリーはついに屈服した。長い交渉の末、翌1841年6月1日にムハンマド・アリーの子孫にエジプト総督職の世襲を認める代償としてシリアおよびアラビア半島の全領土の放棄、陸軍兵数の制限、軍艦新造の禁止などムハンマド・アリーにとって厳しい条件で和平が結ばれた。

第二次エジプト・トルコ戦争はムハンマド・アリーの政治的敗北に終わったが、エジプトはイスタンブルのオスマン政府からの政治的自立とムハンマド・アリー朝による世襲支配を承認され、近代の独立エジプト国家の礎が開かれることになる。

近代化の挫折[編集]

ムハンマド・アリーの近代化は短い期間に大きな成果をあげたが、それは農民の大きな負担に支えられていた。免税地の削減や検地は土地税の実質的な増額となって農民にのしかかり、また専売制は農民の労働意欲を失わせた。灌漑水路や運河の建設も農民の労役によって行われ、また水路の底にたまった泥をさらう作業も負担となった。徴兵制も急速な軍隊の拡張のために強引な手段で行われ、兵役逃れが横行した。

こうした農民に対する厳しい負担は、外国の資本に頼らない近代化をもたらすという側面もあったが、第二次エジプト・トルコ戦争の敗北がこれを挫折に追いやった。1838年にイギリスはオスマン帝国と通商条約を結び、オスマン帝国全土におけるイギリス人の自由貿易を認め、関税を帝国全土で一律にかけることを認めていた。これが条文通りに適用されればオスマン帝国の一部であるエジプトはイスタンブルが列強に押し付けられて認めた低い関税率を適用せざるを得なくなり、専売貿易制は打撃を受ける。このためムハンマド・アリーはこの条約の履行を拒否し、先の独立の要求もこの条約がひとつの原因となっていた。しかしロンドン四カ国協定はエジプトの独立を否定したうえに、エジプトが通商条約を遵守することを求めたので、屈服したムハンマド・アリーもこれを飲まざるを得なかった。

エジプトに自由貿易が適用されると、専売制に基づく貿易の国家独占は否定され、専売制は崩壊した。また工業の分野でも、生産技術が未熟で高コストな製品しかつくれない国営工場を辛うじて守っていた高い関税が撤廃された結果、多くの工場が閉鎖を余儀なくされた。

経済発展の資本を農業収入に頼る脆弱なエジプトの近代化は、ムハンマド・アリーのような専制君主の支配する強力な中央集権国家が外国の干渉を退けつつ進めなければ実現不可能な大事業であった。しかし、エジプトはあくまでオスマン帝国の属州に過ぎないという前提条件と、政治的・軍事的に重要なエジプトが独力で近代化することを望まない列強の干渉というふたつの大きな政治的限界を、ムハンマド・アリーは乗り越えることができなかった。こうしてムハンマド・アリー晩年のエジプトは近代国家建設を挫折することになった。もっとも、戦争終結後はオスマン政府や列強との関係が修復されたので、エジプトは政治的には安定をみた。

1847年、ムハンマド・アリーは高齢を理由に政治の実権を長男のイブラーヒーム・パシャに譲った。しかし翌1848年、イブラーヒームの総督即位がオスマン帝国政府の承認を得た矢先に彼は父に先立って病没し、かわって孫のアッバース・パシャが即位した。

失意と老衰によって衰弱したムハンマド・アリーはカイロ市中の自邸内に篭りきりになり、翌年8月に没した。遺骸はカイロのシタデルの丘に運ばれ、丘の上に生前建設されたムハンマド・アリー・モスクに葬られた。

参考文献[編集]

  • 新井政美『トルコ近現代史』みすず書房、2001年
  • 岩永博『ムハンマド=アリー 近代エジプトの苦悩と曙光と』清水書院、1984年
  • 坂本勉ほか(編)『新書イスラームの世界史3 イスラーム復興はなるか』講談社、1993年
  • 佐藤次高(編)『新版世界各国史8 西アジア史I アラブ』山川出版社、2002年
  • 牟田口義郎『カイロ』文藝春秋、1999年
  • 山内昌之『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』中央公論社、1996年
先代:
ムハンマド・アリー朝君主
1805年 - 1848年
次代:
イブラーヒーム・パシャ
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