「石井和義」の版間の差分

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'''石井 和義'''(いしい かずよし、[[1953年]][[6月10日]] - )は、[[日本]]の[[空手道|空手家]]。[[正道会館]]宗師。立ち技格闘技イベント[[K-1]]の元[[プロデューサー]]・解説者。<br />
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'''石井 和義'''(いしい かずよし、[[1953年]][[6月10日]] - )は、[[日本]]の[[空手道|空手家]]。[[正道会館]]宗師。立ち技格闘技イベント[[K-1]]の元[[プロデューサー]]・解説者。通称「石井館長」。[[愛媛県]][[宇和島市]](旧三間町)出身。[[愛媛県立宇和島東高等学校]]卒業。'''石井 教義'''(読み同じ)に改名した。
[[愛媛県]][[宇和島市]](旧三間町)出身。[[愛媛県立宇和島東高等学校]]卒業。'''石井 教義'''(読み同じ)に改名した。
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[[1980年]]6月、大阪岸里の西成産業会館内にて[[フルコンタクト空手]]の新日本空手道連盟 正道館(後に[[正道会館]]と改称)を設立。館長を経て、現在の肩書きは宗師。K-1の企画・運営会社「ケイ・ワン」の元社長。[[K-1]]のプロデューサーとして格闘技ブームを巻き起こした。初期の[[PRIDE]]の開催にも関わり、PRIDEの発展にも貢献した。K-1のテレビ解説を行った他、テレビなどのメディアに積極的に出演し、[[2001年]]の秋からは[[ニッポン放送]]で[[ラジオ番組]]「allnight nippon-r」木曜日のパーソナリティを務めた。
館長を経て、現在の肩書きは宗師。K-1の企画・運営会社「ケイ・ワン」の元社長。[[K-1]]のプロデューサーとして格闘技ブームを巻き起こした。<br />
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また、初期の[[PRIDE]]の開催にも関わり、PRIDEの発展にも貢献した。K-1のテレビ解説を行った他、テレビなどのメディアに積極的に出演し、[[2001年]]の秋からは[[ニッポン放送]]で[[ラジオ番組]]「allnight nippon-r」木曜日のパーソナリティを務めた。
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[[2003年]]以降は、ケイ・ワンの[[脱税]]事件により表舞台から姿を消した。ただし、正道会館専門誌の「正道」において、石井宗師として記事内に登場し、K-1と総合格闘技イベント[[HERO'S]]の商標権を所有している。
 
[[2003年]]以降は、ケイ・ワンの[[脱税]]事件により表舞台から姿を消した。ただし、正道会館専門誌の「正道」において、石井宗師として記事内に登場し、K-1と総合格闘技イベント[[HERO'S]]の商標権を所有している。

2013年7月11日 (木) 19:30時点における最新版

石井 和義(いしい かずよし、1953年6月10日 - )は、日本空手家正道会館宗師。立ち技格闘技イベントK-1の元プロデューサー・解説者。通称「石井館長」。愛媛県宇和島市(旧三間町)出身。愛媛県立宇和島東高等学校卒業。石井 教義(読み同じ)に改名した。

1980年6月、大阪岸里の西成産業会館内にてフルコンタクト空手の新日本空手道連盟 正道館(後に正道会館と改称)を設立。館長を経て、現在の肩書きは宗師。K-1の企画・運営会社「ケイ・ワン」の元社長。K-1のプロデューサーとして格闘技ブームを巻き起こした。初期のPRIDEの開催にも関わり、PRIDEの発展にも貢献した。K-1のテレビ解説を行った他、テレビなどのメディアに積極的に出演し、2001年の秋からはニッポン放送ラジオ番組「allnight nippon-r」木曜日のパーソナリティを務めた。

2003年以降は、ケイ・ワンの脱税事件により表舞台から姿を消した。ただし、正道会館専門誌の「正道」において、石井宗師として記事内に登場し、K-1と総合格闘技イベントHERO'Sの商標権を所有している。

略歴[編集]

  • 1969年 - 「極真会館四国支部芦原道場」に入門、芦原英幸へ弟子入りする。
  • 1975年 - 大阪球場で「極真会館芦原道場大阪支部」を設立。関西地区総責任者になって道場拡大に手腕を奮い、神戸、京都、奈良、堺、岡山に支部を拡大し門下生10万人を指導する。
  • 1980年 - 芦原英幸と訣別し、新たに自流派の「新日本空手道連盟正道館、新日本学生空手道連盟」を設立。翌年に正道会館に改称。以後、佐竹雅昭角田信朗柳沢聡行を中心とする門下生が他流派の大会に参戦し、正道会館は「常勝軍団」の異名を取る。
  • 1990年6月 - 全日本キックボクシング連盟の大会に参加したのを皮切りに興行の世界へ進出することになる(それ以前からプリンスジムという名称でキックボクシングの試合に選手を細々ながら出場させていた。)
  • 1991年から1993年まで - 前田日明総合格闘技興行「リングス」と提携し、興行のノウハウを吸収した。その間の1992年3月には様々なルールを取り入れた「格闘技オリンピック」を開催し、今ではK-1の前身として評価されている。
  • 1993年4月30日 - フジテレビのイベント「LIVE UFO」の一環で「K-1 GRAND PRIX '93」を開催。当初は深夜放送だったが、1996年ゴールデンタイムに昇格。以降は視聴率を取れる人気ソフトとして、フジテレビのみならず日本テレビTBSと民放各局で放送が開始された。
  • 1997年から総合格闘技PRIDEの大会運営にも全面協力。ヒクソン・グレイシーのファイトマネーの半分を自らが立て替えて支払うなど、PRIDEの発展にも大きく貢献した[1]
  • 2001年12月 - 「INOKI BOM-BA-YE 2001」にK-1軍を率いる総帥的立場として参加。のちDynamite!へと発展していく流れを生む。
  • 2002年8月 - 日本格闘技史上最大規模の格闘技イベント「Dynamite! SUMMER NIGHT FEVER in 国立」をTBS主催の元、PRIDE主催のDSEアントニオ猪木らと共催。INOKI BOM-BA-YE 2001同様、実質的運営はDSEによって執り行われ、K-1としては協力というスタンスであったが、石井和義個人として総合プロデューサーを務める。
  • 2002年11月 - プロレスイベント「WRESTLE-1」を開催し、プロレスへ進出。
  • 2002年12月27日 - 法人税法違反の容疑で在宅起訴。翌2003年2月3日に同容疑で逮捕。5月22日に保釈金4,000万円を支払い保釈される。
  • 2004年1月14日 - 脱税と証拠隠滅教唆について東京地方裁判所は懲役1年10か月の実刑判決を下す。同年12月6日の控訴審でも地裁の判断を支持し石井の控訴を棄却。
  • 2006年11月21日 - 最高裁の上告棄却により懲役1年10か月の実刑が確定したが、健康状態が悪かったため収監は先送りとなり、2007年6月11日に収監された[2]
  • 2008年8月7日 - 静岡刑務所を出所(模範囚であったため、刑期が短縮された)[3]
  • 2009年6月9日 - 動画共有サイトYouTubeにて『館長チャンネル』を立ち上げ。「大会の舞台裏の映像とか、ファンの皆さんが見たい・話したいという人達の対談とか、僕にしか出来ないような企画を流していく」と明言した[4]
  • 2009年6月10日 - 自叙伝『空手超バカ一代』を出版。同12日の出版記念パーティでは、「これからは現状のK-1に関して、リングに上がって挨拶をしたり、解説席に座ることやプロデューサーに携わることは基本的にありません。K-1のアマチュア組織を世界的に広げるために、FIFAIOCのような組織作りとして国際K-1連盟(FIKA=フィカ)設立に力を注ぎます」と語った[5]
  • 2009年12月5日 - K-1 WORLD GP 2009 FINALの開会式前のK-1ルール実技説明で業務停止処分中の角田信朗に代わり「特別競技統括プロデューサー」としてリングに上がった[6]。2002年以来7年ぶりの現場復帰となった[7]

解説・その他エピソード[編集]

  • ファン(お客さん)を大事にすると言う商売の基本中の基本を守ってきたからこそK-1は発展したという見方もある。一番安い席に座る人を「一番K-1が好きな人たち」として照明・音響設備などの陰に隠れてリングが見えないことのないように入念に座席のチェックを怠らない。またファンが試合会場で「館長!」と声をかければ一人残らず必ず手を振って返す。
  • 上記のような細かい配慮や、格闘技ブームを巻き起こしたマッチメイクなどはファンからの評価が高く、多くの選手たちからも多大な尊敬を集めるなどカリスマ的なプロデューサーだった。石井が脱税罪で逮捕された後、後任のプロデューサーとなった谷川貞治がいわゆる“モンスター路線”のマッチメイクを乱発して(詳細は谷川貞治の項を参照)、K-1の人気を落としたため、現在でも谷川の解雇と石井のプロデューサー復帰を望むファンの声は少なくない。しかし、本人は「プロデューサーとして表舞台に上がることは無い」と明言している。
  • 個人の力で格闘技を世界的ビジネスに成長させたその商才は、高校卒業後大阪で始めた百貨店の配送業務のアルバイトをしていた頃から既に抜きん出ていたと言われている。(業績は常にトップだった)
  • 百貨店でのアルバイトから自分で軽トラックを持ち込み「請負業」としてのやり方が儲かることに気付き、アルバイトから請負に変わった数か月後には数百万円の貯金ができていたという。
  • K-1のKは喧嘩のKと言ったことがある。正道会館の門下生達にはK-1のKは和義のKと言っていた。
  • 大方の予想を覆すような試合結果になったとき、「これがK-1!」「東京ドームには魔物がいる」等、とにかくファンに何が起きるかわからない、誰も結果を予想できないと言うドキドキ・わくわくさせる煽りを徹底し、飽きのこない雰囲気を作っていた。
  • 口癖は「一番見たいもの(試合カード)を一番見たいときにみる」「自分が見たい、と思う試合こそがファンの望むカード」
  • 後にK-1GP三連覇を果たす、セーム・シュルトをK-1解説時に「この選手嫌いなんです」と言った。これはシュルトの「掴み」による打撃を「見ている側からすれば面白くない」と酷評したもので、シュルト本人の人間性を否定するものではもちろん無い。
  • 「K-1 WORLD MAX」で試合中の小比類巻貴之選手に対し、「ああ、やっぱり小比類巻選手は優しいですね」と手数が少なく、前に出て行かない小比類巻を批判した。
  • 「日本のリングには華が無い」として、リングサイドに大物女優をゲストに迎えたりとしてリングを彩ってきた。それは後に総合格闘技イベントPRIDEにも受け継がれている。
  • 1998年にジェロム・レ・バンナが世界的なボクシングプロモーターのドン・キングと契約して、プロボクシングに参戦したが、契約問題で揉めてドン・キングらと対立したことによって干されて試合が組まれなくなり、「K-1に戻りたいが、プロモーター(ドン・キング)との関係上K-1で試合ができない」と相談された際には、アメリカまで飛んでドン・キングと直談判の交渉を行った。その際に使った手法は「バンナ負けビデオ総集編」というものをわざわざ作って見せ、「バンナは終わった選手」と思わせるというもの。功を奏し、ドン・キングはバンナを手放した。しかしその後、K-1でのバンナの活躍は実に華やかなものとなり、今もって現役最前線のK-1ファイターとなっている。この手法は、当時のボクシングヘビー級は黒人選手が支配していたため、当時のドン・キングが白人ヘビー級ボクサーのホープを探しており、さらには自身のボクシング興行でキックボクシングマッチを組むなどムエタイビジネスにも進出していたため、キックボクシングのトップファイターでボクシング戦績も全勝だった白人ハードパンチャーのバンナはキングにとって理想的な人材であり、普通に交渉しただけではバンナの獲得は困難であるが故に考え出された手法だった。

出典[編集]

  1. kamipro』No.131
  2. 石井和義元K-1社長を収監」『日刊スポーツ』2007年6月11日。
  3. 「K-1 石井和義が目をつけたのは室伏広治!?」『読売ウイークリー』2008年9月7日号、読売新聞社
  4. お久し振りです!石井和義です!It is after a long time! I am Kazuyoshi Ishii!」『YouTube 館長チャンネル』2009年6月9日。
  5. K-1 石井和義氏が自伝出版。国際K-1連盟創設に意欲 BoutReview 2009年6月13日
  6. K-1 石井和義氏、特別競技統括プロデューサーとして現場復帰 BoutReview 2009年12月6日
  7. 石井館長が現場復帰!謹慎中・角田氏代役で スポニチ Sponichi Annex ニュース 2009年12月6日

関連文献[編集]

  • 森功「石井館長初告白、大晦日「格闘技戦争」の内幕、TV3局激突、曙参戦の裏事情を語り尽くす」(『文藝春秋』2004年4月号)
  • 佐竹雅昭『まっすぐに蹴る』(角川書店、2003年)
  • 佐藤猛『ブレイク・スルー K-1舞台裏の物語』(JPS、2004年)
  • 谷川貞治、石井和義『アンディ・フグの生涯』(広済堂出版、2000年)
  • 西田健『K-1&格闘技の“真実”』(本の森出版センター、1997年)
  • 「学会系スポーツ選手、最新版54人リスト」(『週刊文春』2005年3月31日号)
  • 石井和義「空手超バカ一代」(『文藝春秋』、2009年)

関連項目[編集]

nl:Kazuyoshi Ishii pl:Kazuyoshi Ishii