大政翼賛会
日本の政党 | |
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大政翼賛会 | |
Taisei Yokusankai | |
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副党首 | |
成立年月日 | 1940年 |
解散年月日 | |
解散理由 | |
後継政党 | |
本部所在地 | 〒 |
議席数 | / () |
議席数 | / () |
議席数 | - / -() |
党員・党友数 | () |
政治的思想・立場 | 右派 |
機関紙 | |
政党交付金 | 円() |
公式サイト | [ ] |
シンボル | 50px紋章 |
公式カラー | |
国際組織 | |
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大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた政党である。公事結社。国粋主義的勢力から社会主義的勢力までをも取り込んだ左右合同の組織である。
経緯
内閣総理大臣を務めた近衛文麿公爵を中心として国家体制の刷新を求める革新派を総結集させて新党を結成する構想は比較的早い段階から検討されていた。1938年の国家総動員法が衆議院内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際には、有馬頼寧農林大臣(伯爵)・大谷尊由拓務大臣らが近衛を党首とした新党を作って解散総選挙を行うことを検討したが、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた政友会・民政党が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が薄くなったことにより一旦はこの計画は白紙に戻ることになった。
近衛の総理辞任後、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、国際情勢の緊迫化に伴って日本も強力な指導体制を形成する必要があるとする新体制運動が盛り上がり、その盟主として名門の出であり、人気も名声も高い近衛に対する期待の声が高まった。既成政党側でも近衛に対抗するよりも自ら新体制に率先して参加することで有利な立場を占めるべきだという意見が高まった。わずかに民政党総裁町田忠治と政友会正統派の鳩山一郎が秘かに協議して両党が合同する「反近衛新党」構想を画策したものの、民政党では永井柳太郎が解党論を唱え、政友会正統派の総裁久原房之助も米内内閣倒閣に参加して近衛首相再登板を公言したために合同構想は失敗に終わり、民政党・政友会両派(正統派・革新派)ともに一気に解党へと向かうことになった。
近衛も第3次近衛内閣成立後にこの期待に応えるべく新体制の担い手となる一国一党組織の構想に着手、その結果として大政翼賛会が発足して国民動員体制の中核組織となる。総裁は内閣総理大臣。中央本部事務局の下に下部組織として道府県支部、大都市支部、市区町村支部、町内会、部落会などが設置される。
1940年、既に結社を禁止されていた勤労国民党や右翼政党の東方会を除く全ての政党が自発的に解散し、大政翼賛会に合流していた。もっとも、議院内の会派は旧来のまま存続し、また、大政翼賛会自体は公事結社であるため政治活動は行えず、関連団体である翼賛議員同盟などが政治活動を行った。これは、「バスに乗り遅れるな」という言い回しで知られるが、解散した各政党や内務省等も大政翼賛会内における主導権を握るため協力的な姿勢を執ったものの、団体内は一枚岩ではなく、一国一党論者の目指したものとは大きく異なっていた。
このように大政翼賛会を中心に太平洋戦争(大東亜戦争)下での軍部の方針を追認し、支える体制を翼賛体制という。1942年4月30日に実施された第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、466人(定員と同数)の候補者を推薦し、全議席の81.8%にあたる381人が当選した。
1942年6月23日には大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本婦人会・大日本青少年団の6団体を傘下に統合した。その後、1945年3月に組織の一部が翼賛政治会を改組した大日本政治会と統合され、6月に本土決戦に備えた国民義勇隊結成により解散となったが、これが政府首脳と軍部による強引な統廃合であったため、これに反発を抱いた翼賛政治会の一部が護国同志会などを結成して軍部と結んだ大日本政治会に対抗するなど混乱を来たし、収拾がつかないまま、日本は終戦を迎えることとなった。
性質
大政翼賛会は政党か否か、という疑問はその誕生時から存在した。「一国一党(あるいは組織)の強力な政治体制を目指す」という主張は、ナチ党、ファシスト党(あるいは公言はされなかったがソビエト連邦共産党)を理想の形態と考える勢力からしばしば語られたが、これに対しては「大日本帝国憲法は天皇親政を旨とするものであって、首相を指導者とした一国一党組織は国体に反する」とする立場(いわゆる「観念右翼」)からの「幕政論批判」が存在した。
この対立は、設立過程では充分に解消されず、大政翼賛会の発会式(1940年10月12日)では、政治組織であれば当然あるべき綱領・宣言の類は、首相であり翼賛会総裁の近衛の口からは発表されなかった。
その後も「大政翼賛会違憲論」は収まらず、1941年(昭和16年)1月に開かれた第76帝国議会で頂点に達した。同年2月6日の貴族院予算総会において、近衛が現状の大政翼賛会に憲法上の問題がある事を事実上認め、続いて内務大臣平沼騏一郎(元首相)も治安警察法上の政事結社ではなく、公事結社であると宣言した(平沼は観念右翼とのつながりが強く、元々政治結社としての大政翼賛会には反対の立場であった)。この認定に伴って政治活動が禁じられる。そして、同年4月1日に革新派の反対を抑えて翼賛会の改革案が提示され、直後に政治団体化を目指していた近衛公爵側近の有馬頼寧伯爵が事務総長を引退するなど、やがて次第にその性格は政府の施策に側面から協力していく補完的・行政組織的なものに縮退していった。そして、総裁を首相が、道府県支部長を道府県知事がそれぞれ兼任することとなった。
上記の点から、戦後の漠然としたイメージとは異なり、大政翼賛会の実態は、ナチ党やファシスト党のごとき独裁政党とは、まったくかけ離れた組織であった。