アグネス・チャン
アグネス・チャンとは、ユニセフとは異なる集金団体日本ユニセフ協会(通称:ユ偽フ)の代表者である。
ユニセフ東京事務所(渋谷区)は、ニューヨーク本部直轄の国際機関事務所。日本ユニセフ協会(港区)は日本国内の財団法人。前者に寄付をすれば、全額が国連ユニセフに行く。後者に寄付をすれば、財団の経費として何割かが抜かれ、残りが国連ユニセフに行く。
ちなみに、黒柳徹子は前者の「ユニセフ親善大使」。 アグネス・チャンは後者の「財団法人日本ユニセフ協会大使」。
目次
概要
1972年、代表曲の一つである「ひなげしの花」で、日本での歌手デビューを果たす。高く澄んだ歌声と愛くるしいルックス、たどたどしいが一生懸命日本語で歌う姿勢が受けて、一躍人気アイドルとなった。日本ではその後も「草原の輝き」、「小さな恋の物語」、香港における「The Circle Game」などヒット曲は多く、台湾やアメリカ合衆国などでも音楽活動を行っている。歌手としての活躍のほか、1998年には初代日本ユニセフ協会大使に就任するなど、ボランティアやチャリティーなどを通じた社会奉仕や貧困や平和についての発言でも知られている。近年ではピンクリボン運動への参加や、大学の客員教授やニュージーランドの高校の学園長などとしての教育活動も行っている。
略歴
- 1971年に『Second Folk Album』と題するオムニバスアルバムでジョニ・ミッチェルの「The Circle Game」を姉のアイリーン・チャンとカバー。シングル化されてヒットした。
- 1972年には姉と張徹監督の映画『年輕人』『反叛』に出演、映画が配給されたマレーシア、タイなどの東南アジアでも人気がでるようになった。
- 香港のテレビ番組『Agnes Chan Show』のゲストとして知り合った平尾昌晃によって日本に紹介され、1972年11月25日にワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より「ひなげしの花」でデビュー。当初の衣裳はロングであったが、翌年ミニスカートに変えて人気が急上昇した。
- 1973年7月発売の「草原の輝き」が大ヒット、同年12月に第15回日本レコード大賞新人賞を受賞。
- 1973年10月発売の「小さな恋の物語」が自身最大のヒット曲となり、オリコンチャート1位を獲得。だが、デビュー曲「ひなげしの花」及び前作の「草原の輝き」の印象が強烈である所為か、この曲は世間一般での印象が薄く、テレビの懐メロ番組でも歌われることは少ない。
- 1974年、「草原の輝き」が春の選抜高等学校野球大会の入場行進曲に選ばれる。また、ブロマイドの売上成績第1位を獲得。この頃のコンサートではバックバンドに鈴木慶一とムーンライダーズ、司会は植田芳暁を起用していた。1976年には「恋のシーソーゲーム」でホットケーキがバックをつとめ、さよならコンサートなどのコンサートに参加した。
- 1974年、上智大学国際学部に入学。父の勧めもあって、1976年に芸能活動を休んでカナダのトロント大学へ留学(編入学)。社会児童心理学を専攻。
- 1978年、トロント大学を卒業。同年8月に日本に戻り、吉田拓郎作曲の歌「アゲイン」で芸能活動を再開する。復帰コンサートツアーのひとつとして、中国人歌手としては初となる日本武道館でのコンサートも行った。レコード会社は次の「やさしさ知らず」からSMSに移籍。
- 1979年に香港で、初の広東語アルバム『雨中康乃馨』を発売。日本ではゴダイゴとのコラボレーションアルバム『AGNES IN WONDERLAND 不思議の国のアグネス』と『ABC Agnes』を発売。
- 1984年国際青年年記念平和論文に応募し、特別賞を受賞。フジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』の主題曲「愛のハーモニー」から徳間ジャパンにレコード会社を移籍。
- 1985年、芸能活動のみでなく、ボランティア活動を再開するようになった。4月、北京首都体育館で5万4千人を動員して宋慶齢基金会チャリティーコンサートを開催、中国で記念のベスト盤カセットテープが販売された。
- 同年、日本テレビの『24時間テレビ』のために、旱魃による食料不足状態にあったエチオピアを取材。単に悲惨な情況を伝えるだけでなく、「ロンドン橋落ちた」の替え歌をアムハラ語で歌って現地の子供と交流する様子も伝えられた。
- 1986年、元マネージャーの金子力(現所属事務所トマス・アンド・アグネス社長)と結婚し、カナダで長男を出産した。
- 1987年、テレビ局などへ生後まもない長男を連れて行ったことを林真理子が批判した。これを端初にアグネス論争が起こる。「アグネス」が新語・流行語大賞大衆賞を受賞するほどの社会的論争となり、男女雇用機会均等法成立の時期ともあいまって、日本の働く母親、女性の立場を再考させるきっかけとなった。
- 1988年、飛鳥涼(現ASKA)作詞・作曲の歌「LIFE」でポニーキャニオンに移籍。
- 1989年には米国スタンフォード大学教育学部博士課程に留学、現地で次男を出産。東京大学とスタンフォード大学の卒業生の10年後の姿を調査し、日米両国の男女間格差の実態をまとめ、1994年教育学博士号(Ph.D.)を取得した。この時の論文は『この道は丘へと続く』と題して2003年に日本でも翻訳出版されている。
- 1994年、目白大学の助教授に就任(2008年現在は客員教授)。国際コミュニケーション学を担当する。
- 1996年、香港にて三男を出産。その後もエッセイスト、共栄大学客員教授として日本全国で講演を続けた。
- 1998年、初代日本ユニセフ協会大使に就任(後述)。
- 2000年には日本クラウンに移籍し、ロングヘアをやめてイメージチェンジして、「この身がちぎれるほどに」を歌うなど、ムード歌謡の分野で歌手活動に力を入れるようになった。8月に台場小香港に香港雑貨店「CHAN'S」を出店、2003年にネット通販に移行したが、2010年に販売終了。
- 2002年には小説『パーフェクト・カップル』、『銃弾の指輪』を出版し、作家活動も開始した。翌年には月刊『すばる』に短編小説の連載もしている。
- 2005年にリリースした、初のセルフカバー曲『草原の輝き2005』はアサヒ飲料十六茶のコマーシャルに使われた。9月に発売された『しあわせの花』は、手話を取り入れた振り付けで歌った。10月には広島大学の主宰する「ペスタロッチー教育賞」の14回目を受賞。
- 2006年2月、ジャッキー・チェンとのデュエット曲を含む英語盤CD『 Forget Yourself』をアメリカで発売した。12月には日本デビュー35周年を記念するコンサートの第一弾が行われた。年末に香港で唾液腺腫瘍の摘出手術を受けるも、その後早くも年明けから芸能活動を行う。
- 2007年
- 2008年
- 9月、(財)日本対がん協会「ほほえみ大使」に就任。自分の乳がん体験から、日本全国で催されている「リレーフォーライフ」、「ピンクリボン運動」にも参加。
- 12月、これまで続けて来た「歌で平和を」活動で、第50回日本レコード大賞特別賞を受賞。
- 2009年 9月、ブログ「アグネスちゃんこ鍋」を開設。
- 2010年
- 2月、日本ユニセフ協会大使としてソマリアの現状を視察するため、ソマリア北部で事実上ソマリアから独立状態にあるソマリランドの首都ハルゲイサを訪問。危険に遭遇した場合に備え、これまでで三度目となる遺書を記したが、ソマリランドはソマリア内戦が続く中にあって比較的安定している地域であり、訪れる観光客も多い。
- 3月、日本武道館において民主音楽協会主催によるコンサートを32年ぶりに行い、ヒット曲のメドレーなど懐かしい曲を披露し、2月に視察を行ったソマリアの子どもたちへの思いを込めて作詞作曲した「小さな祈り」も披露した。
- 4月、AICニュージーランド校(AICJ中学校・高等学校姉妹校)の学園長に就任。
- 10月、初のプロデュース活動として、中国出身のローラ・チャンを「ひなげしの花」でデビューさせる旨を発表。
- 10月27日「ユニセフ新戦略=僻地の子を最優先に」(読売ホール)にてソマリアの視察報告を行い、今後の人道支援のあり方をテーマにシンポジウムを行う。
- 11月、デビュー曲のアンサーソング「あの丘で」をリリース。作詞はカシアス島田(島田紳助)。
- 2011年
NHKクルー10人以上でブータン大名旅行(2012年4月)
ユニセフのミッションの為に明日から10日間ブータン王国へ参ります。 今荷造り中です。
忘れ物がないように 集中しますね。 頑張ります! http://ameblo.jp/agneschan/entry-11223939289.html
ブータンに持っていく荷物が出来ました。 明日は朝出発です。9時に成田集合です。
NHKの撮影隊、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、雑誌社、フリーカメラマン など、10何人で参ります。 ブータンの子供達と会うのが本当に楽しみです。 子供目線から見たブータンの生活、幸せの秘密を見て来ます。
課題問題も理解して、みんなで支援して行きましょうね。
山奥に行くためテントで寝泊まりです。 テントの視察は南スーダン以来ですね。 頑張ります! http://ameblo.jp/agneschan/entry-11224048701.html
活動
アグネスの人権活動の特徴
アグネスは民族としては中国人であり、国籍はカナダ人である。しかし、人権活動は日本でのみ行い、母国である中国の民主化弾圧、チベット、ウイグル弾圧に対しては全く興味がない。実際に組織的に児童売買が行われているアジア諸国に対しても関心はなく、ひたすら日本での2次元児童ポルノ禁止をライフ・ワークとしている。
「金にならない人権活動は行わない」のが、アグネスの特徴である。
児童ポルノ批判
アグネスは、自らがアイドル時代に不本意な水着撮影をさせられたり、下着の見える写真を雑誌に掲載された体験もあり、児童ポルノに関して厳しい立場をとっている。2008年3月11日には森山眞弓元法務大臣と共に、「児童ポルノの単純所持禁止、ゲームや漫画等で児童を性的に描いたものも『準児童ポルノ』として禁止するべきだ」という声明を発表。政府、国会に意見を求めている。NHKの番組『視点・論点』に出演した際にも、「私は子供たちの人権を守りたい」「表現の自由を守りたい」と語り、日本も既に法制化を実現している先進諸国と足並みを揃えるべきではないかと提言している。
批判
2010年8月、大槻義彦が公式ブログ上にてアグネス・チャンの経営する販売会社チャンズ(CHAN'S)が霊芝エキスやパワーストーンを販売している事を霊感商法だと批判した。批判を受けて販売を中止した。
エピソード
- 中学生の時に始めたボランティア活動で、ギターを手に校内で募金を集めた。これが噂になり、香港のフォーク歌手のオムニバスアルバムへのレコーディングの話が出たという。
- 日本語ができなかったデビュー当時、事務所が用意する食事は彼女が「中国系だから」と毎回のように中華丼だった。今では一番嫌いで見たくもない食べ物だという。
- 逆に当時好きな食べ物は焼き鳥だった。又日本に来日直後、公園など野生に放されている鳩を見ては、「凄くうまそうでつい無性に食べたくて仕方なかった」「こんなおいしそうなハトが沢山放し飼いにされるなんて、日本は相当お金持ちの国なのかしら?」と思っていたらしい。
- そんな中、アメリカンスクールに通い英語が堪能だった先輩の南沙織とは仲が良く、彼女の引退直前にはインタビューもされている。
- 彼女の父の口癖は「上海出身の人間は信用するな」だった。その言葉の真意は解らないが「父は過去に上海出身者との間で何かあったのかもしれない」と『徹子の部屋』に出演した時に父の思い出を語った。
- 1976年に芸能活動を休止し、トロント大学に留学したのは父の勧めであったという。しかし彼女の父は翌1977年に他界し、大学を卒業する姿を見せることはできなかった。
- 助教授をつとめた目白大学の教え子に猫ひろしがいる。
- 2007年10月の北京でのチャリティコンサートは、9月開催の予定が中国共産党の指示を受けて延期しており、その時に空いたスケジュールで受けた検査で乳ガンが発見された。10月に摘出手術を受けて無事成功し、わずか1週間で芸能活動を再開している。
- 2007年に発表した平和をテーマにした曲の第一弾は、自らピアノを弾きながら詞にメロディーをつけた「そこには幸せがもう生まれているから」。続く「ピースフルワールド」、「朗らかに」をリリース。いずれもアグネスが作詞しており、「みんな地球に生きるひと」など、平和をテーマにしたこの三曲のカップリング曲はすべて彼女の詞である。
- 1985年には広尾に自宅を購入。リビング・ルームは事務所の会議室も兼ねるため、人が集まる「運命の場所」だという考えから、風水を取り入れて広めに設計した。白いマーブルを基調とし、シャンデリアや暖炉などにこだわったほか、カーテンや椅子などの家具はほぼイタリア製でそろえたという。香港で買うと日本よりかなり安いという。
- 家庭では子供たちが納得するまで最長8時間説教したことが学びの場.comで公表されている。
関連項目
関連文献
- アグネス・チャン、チャック・ウイルソン、ピーター・バラカン「日本の若い奴らに礼儀教えます」『文藝春秋』62巻10号、1984年9月、460-467頁。
- アグネス・チャン、梁泰昊「国籍は、どうってことないの」『世界』480号、1985年10月、209-222頁。
- 大和田滝恵「これが『新大学改革か』――アグネス・チャンを客員講師にした信州大経済学部教官公募の内幕」『朝日ジャーナル』28巻9号、1986年3月7日、11-15頁。
- アグネス・チャン「アグネス・バッシングなんかに負けない」『中央公論』102巻12号、1987年10月、244-251頁。
- 竹内好美「林真理子のアグネス・チャン批判――『会社に託児所』を要求しない働く女性の論理」『朝日ジャーナル』30巻21号、1988年5月27日、84-86頁。
- アグネス・チャン「『家』の履歴書――結婚式や新居もすべて風水の指示で」『週刊文春』42巻18号、2000年5月18日、74-77頁。
- 「安倍首相がアグネス・チャンの結婚式で『介添え役』」『週刊文春』48巻45号、2006年11月23日、30-31頁。
- 「『アグネス・チャン』新曲の作詞家は『池田大作』センセイ」『週刊新潮』52巻12号、2007年3月29日、50頁。
- 「『池田大作』作詞CDで『顔面マヒが治った』アグネス・チャン」『週刊新潮』53巻10号、2008年3月13日、138-139頁。
- 「実況中継『創価友誼之証』を贈られたアグネス・チャン」『週刊文春』51巻40号、2009年10月22日、137-138頁。
- 「『アグネス・チャン』が遺書を残して『ソマリランド』快適旅行」『週刊新潮』55巻12号、2010年3月25日、44-45頁。