埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、Saitama Seibu Lions)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。
埼玉県を保護地域とし、同県所沢市にある西武ドームを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)は隣接する西武第二球場を本拠地としている。
目次
球団の歴史
福岡時代
西鉄時代
元々の経営母体だった西日本鉄道(西鉄)は、戦前期に西鉄軍を経営していた(現在のライオンズとは直接の関係はない)ものの1943年に解散。西鉄初代社長の村上巧児は戦後の福岡に明るい話題を提供したいとの思いから戦後直ぐにも球団再建を図るが日本野球連盟に認められず、取り敢えずはノンプロで活動せざるを得なかった。
ところが1949年暮れに、プロ野球再編問題が発生。1リーグ体制だった連盟が2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り、福岡県福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers)を結成。11月26日に発足したパ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)し、1950年1月28日に運営会社「西鉄野球株式会社」を設立登記した(この日を球団創立日とする文献も存在する)。
選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる宮崎要を始め大津守・深見安博・河野昭修・塚本悦郎ら、八幡製鉄の鬼頭政一ら、別府星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で巨人の主戦投手であった川崎徳次、福岡県出身で前年度南海で20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。
1951年1月30日、同じく福岡市を本拠地としていたセ・リーグの西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions)となる(球団名変更は3月1日)。西日本からは、後の黄金時代の主力となる関口清治・日比野武が加入。
1952年、シーズン途中に、契約が難航していた東急の大スター大下弘を深見安博とのトレードで獲得。
1954年は2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(中西太(31本)・関口清治(27本)・大下弘(22本))を記録する等、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録し、チーム結成以来初のリーグ優勝を飾る。しかし、日本シリーズでは中日ドラゴンズの前に3勝4敗で敗れ、日本一を逃す。
1956年~1958年に三原脩監督の下日本シリーズではいずれも巨人を倒し3連覇を達成。このうち1958年は稲尾和久の好投で3連敗から4連勝を飾る。稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西太・豊田泰光・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。
1959年、中西太が手首の腱鞘炎で不調だったこともあって4位に終わり、三原監督が辞任、川崎徳次が監督に就任する。川崎監督就任1年目の1960年は3位に上がる。
1961年、稲尾和久が日本記録となる42勝をマークするも、2年連続3位に終わり、川崎監督が辞任。シーズン終了後、中西太が選手兼任監督に就任。また、豊田泰光が助監督兼任、稲尾和久が投手コーチ兼任となる。豊田はこの年限りで退団、国鉄へ金銭トレードにより移籍する。
1963年は、中西監督の下、豊田のトレードマネーで獲得したロイ・ウイルソン・バーマの3外国人の活躍により、南海ホークスに最大14ゲーム差をつけられていたのを跳ね返して最終4連戦(2日連続ダブルヘッダー)に全勝し、大逆転優勝を飾る(これが西鉄時代及び福岡本拠地時代としては最後のリーグ優勝となった)。日本シリーズでは巨人に3勝4敗で敗れ、日本一を逃す。
1964年稲尾和久の故障もあり5位に低迷するが、その後新人でいきなり20勝を挙げエースとなった池永正明や、外国人選手の活躍により、1966年~1967年までAクラスを確保する。
1968年・1969年、2年連続Bクラス。責任を取って中西監督が辞任。さらに「黒い霧事件」が発覚し翌1970年までにかけて池永正明を始めとする主力選手の退団・出場停止により戦力が大幅にダウン。1970年から1972年まで3年連続最下位となって観客動員数も減少し経営が悪化。本業である交通事業の低迷も重なり、1972年、遂に西鉄は経営を放棄した。
太平洋クラブ時代
1972年11月にロッテオリオンズの中村長芳オーナーが球団を買い取り、「福岡野球株式会社」に商号変更。ペプシコ日本法人(日本のペプシコーラ販売会社)に買収させる案があったが、東映フライヤーズの身売り話が出てきたため(翌1973年2月、日拓ホームに身売りされることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。また、東映の買収を検討していた音響機器メーカーのパイオニアに買い取らせることも選択肢に挙げられたが、こちらも実現しなかった。このためこれらの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発会社の太平洋クラブと提携し、球団名が太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-、Taiheiyo-Club Lions)となる(11月9日のパ・リーグ実行委員会で、会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。
初年度の1973年、オーナー自らが手掛けた大規模なチーム改造の結果、チームは3年ぶりに最下位を脱出。前期4位・後期5位、通算4位に終わる。観客動員数も前年までの平均の倍増を記録。翌1974年も4位に終わり、稲尾監督が退任。代わって大洋から江藤慎一が、球団初のプレーイングマネージャーとして監督に就任。近鉄から土井正博、日本ハムから白仁天をトレードで獲得するなど、積極的な戦力補強に取り組んだ。
1975年、前期は2位・後期は4位に終わるも通算で3位、太平洋クラブが親会社となって初のAクラス入りとなった。東尾修が23勝を挙げて初の最多勝となり、土井が34本で初の本塁打王に輝き、白も打率.319で首位打者を獲得。その活躍ぶりを称え中村オーナーが「どんたく打線」と命名。オフには、加藤初との交換トレードで巨人から関本四十四を獲得。
1976年、江藤監督を解任し、大リーグからレオ・ドローチャーの監督就任が発表されたが、病気のため来日することなく契約解除。鬼頭政一ヘッドコーチを監督に昇格。しかしトレードで獲得した関本は、肩の故障のために僅か1勝しか出来ず、かつての新人王・加藤を放出したのが大きく響く結果となり、4年ぶりの最下位。観客動員数も前年比マイナス43%となった。吉岡悟がプロ入り9年目で初の首位打者、大田卓司も前期三冠王の活躍で最優秀指名打者に選ばれた。
この年の大幅な観客数減が大きく響き、球団経営が困難となった太平洋クラブは、メインスポンサーから撤退。
クラウンライター時代
1976年10月12日に桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携し、球団名をクラウンライターライオンズ(Clown-Lighter Lions。本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため入れなかった)と再度改名する(10月15日にパ・リーグより承認)。しかし太平洋クラブからの資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームに太平洋クラブのロゴマークが挿入された。
1977年、左腕の永射保が台頭、それまでは中継ぎやワンポイントが多かったがいきなり9勝を挙げ、チーム不振の中で山下・東尾に次ぐエース級の働きを見せるも、チーム成績は2年連続の最下位に終わる。同年オフ、ドラフト会議で江川卓を1位指名。しかし「九州は遠すぎる」と拒否された。
1978年、鬼頭監督に代わり根本陸夫が監督に就任。しかし、結果は5位。この年、真弓明信が主力に成長、ベストナインにも選出された。
所沢時代
根本監督時代
1978年レギュラーシーズン終了後の10月12日、球団の売却・埼玉県所沢市への移転を発表。国土計画の堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、西武ライオンズ(Seibu Lions)となる。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。
- 10月17日、球団事務所を東京都豊島区東池袋のサンシャイン60内に開設。10月25日、運営会社の商号を福岡野球株式会社から、現在の「株式会社西武ライオンズ」に変更。12月5日、ペットマーク・シンボルカラーの発表。12月18日当時建設中であった新本拠地球場の名前が西武ライオンズ球場に決定。堤は新球団の目玉にロッテ・野村克也、山崎裕之、阪神・田淵幸一を獲得。クラウン時代の77年ドラフトで指名し交渉権を得た江川卓入団にも執念を燃やしたが失敗。これにより読売グループとの関係悪化(江川事件)
1979年に西武ライオンズとして最初のシーズンがスタート。前期は春季キャンプでの調整失敗もあり開幕から2引き分けを挟み12連敗を喫するなど最下位、後期も5位で、通算成績も最下位であった。
1980年は前期最下位、スティーブ・オンティベロスが加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが終盤6連敗し、後期優勝を逃し結局4位となった。通算でも4位。
1981年は前期は終盤まで優勝を争うも惜しくもロッテに敗れ2位。だが後期は失速して5位に沈む。通算では4位。このシーズン限りで根本監督が退任。
広岡監督時代
1982年はこの年より就任した広岡達朗監督の下、チームの改革を実施。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤躓くと残り試合をプレーオフ対策に費やし、1982年のパシフィック・リーグプレーオフでは後期優勝の日本ハムファイターズの抑え投手、江夏豊を見事に攻略、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、24年ぶりの日本一に輝く。
1983年は序盤から首位を独走、86勝40敗4分の圧倒的な成績で2年連続リーグ優勝、日本シリーズは読売ジャイアンツを4勝3敗で下し、2年連続日本一。
1984年は田淵幸一や山崎裕之など2連覇を支えたベテラン選手が衰え序盤から低迷、結局3位に終わり3連覇はならなかった。
1985年は5年目の秋山幸二がホームラン王を争い、投手陣では2年目の渡辺久信、4年目の工藤公康が主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし日本シリーズでは阪神タイガースの前に2勝4敗で敗れる。シーズン終了後、広岡監督が契約年数を1年残して辞任する。広岡監督の後任には1982年から1984年まで広岡の下、ヘッドコーチを務めた森昌彦が就任。この年のドラフトで、甲子園通算本塁打記録を持つPL学園の清原和博を6球団競合の末、交渉権を獲得している。
森監督時代
1986年からの森祇晶(昌彦より改名)監督時代は投打ともに戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦、平野謙など)が揃い、特に渡辺久信(最多勝利投手1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲と呼ばれた秋山・清原の打力は目立っていた。森監督在任中の1986年~1994年の9シーズンで8度のリーグ優勝(唯一優勝を逸した1989年は、優勝した近鉄バファローズに2厘差、さらに2位のオリックス・ブレーブスに1厘差の3位)、6度の日本一(1993年はヤクルトスワローズ、1994年は読売ジャイアンツに敗れてリーグ優勝のみ)を達成した。
1986年はドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝。日本シリーズでは、広島東洋カープと対戦。第4戦終了時点では0勝1分3敗であったが、第5戦から4連勝して逆転勝利。3年ぶりの日本一に輝く。
8月5日に球団事務所を現在の西武球場敷地内に移転。球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て埼玉県所沢市上山口に集まった(会社の登記上本店は、引き続きサンシャイン60と同地に残る)。
1987年は序盤は清原和博の不振、辻発彦や渡辺久信など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝。日本シリーズでは巨人と対戦、4勝2敗で勝利し2年連続日本一[1]。
1988年は終盤まで首位を快走するが近鉄の猛追にあう。近鉄が10月19日のロッテ戦ダブルヘッダーに連勝するとリーグ4連覇を逃すところであったが、近鉄がダブルヘッダー第2試合を引き分けたことにより4連覇を達成。日本シリーズでは4勝1敗と中日に勝利、3年連続日本一。
1989年は序盤から低迷、7月途中まで3連勝すらない状況であった。後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでラルフ・ブライアントに4打席連続ホームランを打たれるなどして連敗したのが大きく響き、近鉄に優勝を許しリーグ5連覇を逃す。結果は、優勝した近鉄・2位のオリックスと0.5ゲーム差の3位。
1990年は序盤から首位を独走、危なかったのは6月に8連敗したのみという安定感ある戦いでリーグ優勝を奪回。日本シリーズでも巨人を4連勝で下し、2年ぶりの日本一。
1991年は開幕から8連勝を果たす。しかし、中盤からは調子を上げてきた近鉄との一騎打ちとなる。しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し、2年連続のリーグ優勝。日本シリーズでは広島と対戦。先に2勝3敗で王手をかけられるも、第6・7戦で勝利し、逆転で広島を破って2年連続日本一。
1992年は6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、日本シリーズでもヤクルトを4勝3敗で破り3年連続日本一[2]。
1993年はオレステス・デストラーデがメジャー復帰のため退団、攻撃力低下が懸念されたものの、日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかし、日本シリーズではヤクルトに3勝4敗で敗れた。オフには9年連続30本以上の本塁打を達成し、攻守走の要としてであった秋山が福岡ダイエーホークスにトレード(秋山、渡辺智男、内山智之⇔佐々木誠、橋本武広、村田勝喜の3対3の交換)。
1994年はオリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが西武が9月に抜け出すとそのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。しかし、日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗れ、2年連続のシリーズ敗退。森監督はこの年限りで勇退。
東尾監督時代
1995年、東尾修監督が就任。しかし主力選手の石毛や工藤公康といったメンバーが次々と移籍し戦力が低下、3位に終わり連続優勝も途絶えた。翌1996年も3位に終わる。4番として活躍した清原も1996年シーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。
1997年には松井稼頭央や髙木大成といった若手の台頭もあり3年ぶりにリーグ優勝。しかし、日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れ日本一を逃す。
1998年も日本ハムファイターズとの熾烈な首位争いを制し2年連続してリーグ優勝に輝いたものの、日本シリーズでは、横浜ベイスターズの前に2勝4敗で敗れ、日本一はならなかった。この年のドラフトで高校野球春夏連覇を果たした横浜高校の松坂大輔を1巡目指名。日本ハム、横浜との競合の末、抽選で交渉権を獲得している。
1999年には西武ドームが完成、松坂人気などもあり観客動員数増加、テレビ中継増加と世間の注目を集めるが、戦跡面は2001年まで3年連続のV逸となった。
伊原監督時代
2001年を最後に東尾監督が勇退し、同年のシーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹ヘッドコーチが監督に昇格。伊東は総合コーチ兼捕手に昇格。
2002年、伊原監督就任1年目は開幕直後から首位を独走しリーグ優勝、アレックス・カブレラが球団新記録・日本プロ野球タイ(右打者としては史上最高)記録のシーズン本塁打55本。しかし日本シリーズは巨人に4連敗した。同年のドラフトで松坂の横浜高校同級生で法政大学野球部の主砲後藤武敏を獲得、翌年の開幕戦でカブレラの故障で「四番・ファースト」に抜擢。
2003年はダイエーと優勝を争ったが最終的に2位に終わった。同年シーズン終了直前に伊東が現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。伊原監督は退任し、オリックスの監督に。
伊東監督時代
2004年に伊東監督が就任。レギュラーシーズンは総合2位であったが、この年導入されたプレーオフの第1ステージにおいて3位・北海道日本ハムファイターズを2勝1敗で破り、続く第2ステージでは1位の福岡ダイエーホークスを3勝2敗で破り2年ぶり20回目の優勝を果たす。日本シリーズでは、中日と対戦。先に王手をかけられるものの、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。この年、経営改善策の一環として、本拠地・西武ドームの施設名称と二軍のチーム名称について命名権を売却することとなった。企業向け通信料金一括請求サービスを主たる事業としているインボイスが取得に名乗りを上げ、12月29日に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意、翌2005年シーズンから二軍の球団名を「インボイス」、球場名を「インボイスSEIBUドーム」とすることを発表した。
シーズンオフ、当時の親会社コクドの事業不振に加え、コクドの系列会社で現在の親会社である西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を2004年の球団の新規参入を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年も西武ライオンズとして引き続き経営された。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、2006年以降も球団を保有することとなった。
2005年11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(以後、毎年同日に開催する)。
2006年、北海道日本ハムファイターズとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるが、わずか1ゲーム差で2位に終わる。プレーオフでも、3位の福岡ソフトバンクホークスに1勝2敗で敗退となった。同年12月2日、西武は任期満了となったインボイスに代わり人材派遣・介護サービス大手のグッドウィル・グループ(現 アドバンテージ・リソーシング・ジャパン)と5年間の命名権取得契約に合意し、西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に変更することを発表。同月4日の実行委員会で正式に承認され、2007年1月1日から改称した。
2007年は交流戦で10連敗を記録するなどして低迷。9月26日、対ロッテ戦に敗れた時点で26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、結局最下位オリックスから2.5ゲーム差の5位に終わる。シーズン最終戦の直前、伊東監督は不振の責任を取り辞意表明した。
2007年12月にグッドウィルの不祥事が発覚し、グッドウィル・グループは西武球団に2軍チームと球場の命名権の契約解除を申し入れ、同球場を所有する西武鉄道とライオンズ球団側もそれを受け入れ、命名権取得契約を解除することを決めた。2008年1月8日、正式に命名権契約の解除が発表され、1月9日より、本拠地名称が「西武ドーム」、二軍のチーム名称が一軍同様「埼玉西武ライオンズ」となることが発表された。
渡辺監督時代
2008年は1月1日付で球団名を埼玉西武ライオンズに変更(運営会社は「株式会社西武ライオンズ」のまま)。渡辺久信が二軍監督から一軍監督に昇格し、黒江透修をヘッドコーチに、大久保博元を打撃コーチにするなどコーチ陣を一新。その結果、打撃力が大幅にアップし、渡辺久信にNo Limit打線と名付けられた。8月11日には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分裂後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分裂後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、埼玉西武ライオンズとなって初めての年で4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。クライマックスシリーズでは、日本ハムとファイナルステージで対戦。4勝2敗で2004年以来、4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。巨人との日本シリーズでは、先に巨人に2勝3敗でリーチを掛けられてしまったものの、第6戦を岸孝之のロングリリーフで捥ぎ取り、第7戦まで縺れ込む展開となった。第7戦は平尾博嗣の決勝適時打などで3-2で逆転勝ちし、4勝3敗で4年ぶりの日本一に輝いた。
アジアシリーズでは予選で韓国代表・SKワイバーンズに1点差で敗れたものの、台湾代表・統一セブンイレブン・ライオンズと中国代表・天津ライオンズに勝利。失点率の差で1位で予選通過すると、決勝戦の対統一戦では9回裏に四球で出た石井義人が佐藤友亮のセンター前ヒットで統一の緩慢な守備の隙を突き一塁からホームイン。日本勢4連覇を果たし、佐藤友亮がMVPに選出された。
2009年1月1日、公式ホームページにて、チームカラーがこれまでのライトブルーから紺(レジェンド・ブルー:西鉄の黒と西武の青の合体)に変更され、ペットマーク、チームネームロゴ、ユニフォームも変更されることが発表された(ただし、球団旗およびマスコットは変更しない)。また、西武ドームのホームベンチが三塁側に変更されることも2008年12月26日のプレスリリースにて発表されている。1月28日、その新ペットマークおよびチームネームロゴを用いた公式戦用新ユニフォームが発表された。ちなみに、このユニフォームは春季キャンプ・オープン戦では使用されず、4月の公式戦から使用されている。
2009年のペナントレースは昨シーズンの守護神であったグラマンの離脱などにより、リリーフ投手に安定感がなく、リーグワーストの14試合のサヨナラ負けを喫する。それでも終盤には帆足和幸が5試合連続完投勝利するなど先発投手陣が踏ん張り、楽天やソフトバンクなどと激しくAクラス争いをするが、最終的な順位は4位に終わった。前年日本一からBクラスへの転落は球団として50年ぶりとなる。Bクラスに終わったが、球団は渡辺監督と2011年までの2年契約を結んだ。ドラフト会議で花巻東高校菊池雄星との交渉権を阪神、ヤクルト、楽天、中日、日本ハムとの6球団による競合の末、獲得。
2010年は前半はリリーフ投手が安定し、主力選手の故障が相次ぎながらも前半戦を首位で折り返す。終盤にリリーフ投手陣が崩壊して失速し、優勝したソフトバンクにわずか1厘差の2位に終わる。クライマックスシリーズも投手陣の崩壊は止まらず、3位・ロッテの前に2連敗を喫し敗退。ドラフトでは1位希望の早稲田大学大石達也を横浜・楽天・広島・オリックス・阪神との6球団による競合の末、獲得。
2011年シーズンは、東日本大震災による計画停電の影響を受け、4月中は本拠地西武ドームでの試合を自粛する事となった。セパ交流戦の後半から失速し、7月から約2か月に渡って最下位に低迷する。しかし9月は19勝5敗2分の成績で、クライマックスシリーズ出場権をめぐる3位争いに加わった。10月18日の最終戦前まで4位であったが、最終戦で勝利し68勝67敗9分で勝率.50370となり、前日まで3位だったオリックスが同日に敗戦して69勝68敗7分、勝率.50365となってシーズンを終了したため勝率を5糸(0.5毛)上回り、シーズン3位が確定しクライマックスシリーズ出場を決めた。クライマックスシリーズでは、ファーストステージで2位・日本ハムに2連勝するが、ファイナルステージでは1位・ソフトバンクの前に3連敗した。オフには、FA移籍で帆足和幸がソフトバンクに、許銘傑がオリックスにそれぞれ移籍。フェルナンデスが退団。
- 2012年
- 5月1日、稲尾和久の背番号「24」を永久欠番とすることを発表、7月1日の西武ドームでの対日本ハム戦にはメモリアルゲームとしてこの試合に出場した選手全員が背番号24を着用した。
- 開幕戦は5年連続で涌井秀章が先発するものの、敗戦投手となり涌井は開幕から3連敗で4月16日に登録抹消、チ-ムも最大借金9を抱えて最下位と低迷した。涌井が救援投手に回り、6月以降は勝ち越すようになり8月までの3カ月で貯金を19とし、8月19日に首位に立つ。日本ハムとの優勝争いとなったが、10月2日の試合に敗れたことで優勝を逃し、3ゲーム差の2位に終わる。クライマックスシリーズでは、ファーストステージでソフトバンクに1勝2敗で敗れ、3年連続のクライマックスシリーズ敗退。中村剛也が本塁打王を獲得。オフには、中島裕之が海外FA権を行使し、メジャーリーグのオークランド・アスレチックスに入団。
- 2013年
- リーグ一番乗りで10勝に到達するなど開幕ダッシュに成功したものの、5月9日、ロッテに連敗したことで4月10日から守り続けた首位を明け渡し、交流戦開始後の同月22日には楽天に抜かれ3位に転落、6月8日には交流戦で優勝したソフトバンクにも抜かれて4位に後退、結局交流戦は11勝13敗で同率8位でパ6球団では最下位に終わり、6月29日には最大9あった貯金が一旦なくなる。7月28日には再び2位浮上するが、8月15日にソフトバンクに3連敗した時点で4位に転落、その後3位ソフトバンクに最大5ゲーム差をつけられたが、10月3日にソフトバンクとの直接対決で連勝したことにより再度3位浮上、10月5日に対楽天戦(Kスタ宮城)で2対1で勝利した事で年間3位以上を確定し、4年連続でクライマックスシリーズに進出が決定。10月8日、共にシーズン最終戦の西武ドームでの2位ロッテとの直接対決を10対2で勝利し8連勝で2位浮上、本拠地でのCSファーストステージ開催権を獲得したが、CSファーストステージは1勝2敗でロッテに敗退し、ファーストステージ終了翌日の10月15日、渡辺久信が球団に監督を辞任する事を申し入れ、了承された事を発表、渡辺久信は球団シニアディレクターに就任することとなった。10月22日、渡辺の後任には2002年から2年間西武の監督をつとめた、伊原春樹の就任が発表された。
伊原監督時代(第二次)
- 2014年
- 開幕から3連敗スタートで、5月25日には両リーグ最速の30敗に到達するなどチームは最下位に低迷。6月3日に伊原は自ら休養を申し入れ、球団はこれを了承、翌6月4日のシーズン53試合目の対DeNA戦後に、伊原の休養と監督代行に打撃コーチの田辺徳雄の就任を発表。6月27日、伊原からの辞任の申し入れによる監督退任と、伊原の7月1日付での球団本部付アドバイザーへの就任を発表した(田辺の監督代行職はそのまま)。
田辺監督時代
※2014年の監督代行時も含む
- 2014年
- 9月22日の対ソフトバンク戦(西武ドーム)に敗れ、7年ぶりにシーズン負け越しが決まり、9月27日には5年ぶりのBクラスが決まった。10月2日、来季より田辺が正式に監督に就任することが発表された。
チーム成績・記録
- リーグ優勝 21回(その内、年間最高勝率は下記のうち1982年と2004年除く19回)
- (1954年、1956年~1958年、1963年、1982年~1983年、1985年~1988年、1990年~1994年、1997年~1998年、2002年、2004年、2008年)
- 日本一 13回
- (1956年~1958年、1982年~1983年、1986年~1988年、1990年~1992年、2004年、2008年)
- クライマックスシリーズ優勝 1回
- (2008年)
- 前期優勝 1回
- (1982年前期)
- Aクラス 43回
- (1951年~1952年、1954年~1958年、1960年~1963年、1965年~1967年、1975年、1982年~2006年、2008年、2010年~2011年)
- Bクラス 19回
- (1950年、1953年、1959年、1964年、1968年~1974年、1976年~1981年、2007年、2009年)
- 連続Aクラス入り最長記録 25年[日本プロ野球記録](1982年~2006年)
- 連続Bクラス最長記録 7年(1968年~1974年)
- 最多勝 96勝(1956年)
- 最多敗 84敗(1971年)
- 最多引分 14分(1959年、1987年)
- 最高勝率 .683(1983年)
- 最低勝率 .311(1971年)
※1982年度は日本ハムとのプレーオフを制して優勝。2004年度はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで3位・日本ハムを2勝1敗、1位・ダイエーを3勝2敗でそれぞれ破り優勝。
その他の記録
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(2010年)
- 最大ゲーム差 43.5ゲーム(1971年)
- 最多本塁打 219本(1980年)
- 最少本塁打 63本(1951年)
- 最高打率 .281(1986年、1997年)
- 最低打率 .222(1967年)
- 最高防御率 1.87(1956年)
- 最低防御率 4.60(1979年)
- 最多連勝 14(1957年)※2引き分けを挟む
- 引き分けを挟まない連勝記録は11(1954年、1994年)
- 最多連敗 12(1979年)※2引き分けを挟む
- 引き分けを挟まない連敗記録は10(1978年、2007年)
チーム特徴
- 西鉄時代は三原・川崎徳次以外はチームの出身者が監督を務めた。太平洋・クラウン時代、西武時代は長らく外様監督が続いたが、1995年の東尾修以降は、伊原春樹、伊東勤、渡辺久信とチームの出身者の監督が続いている。
- 西鉄黄金期の三原時代はトレードに消極的だった(ただし、広島に移籍した大和田明や近鉄に移籍した大津守のように、このままチームにいても出場機会に恵まれないと思われる選手を他球団に移籍させることはあった)のに対し、西武黄金期の根本・広岡・森時代は大型トレードを敢行。対照的な手法で黄金時代を作り上げた。
福岡時代
- 戦時中の1943年に職業野球に参加していた西鉄軍は、親会社こそ同一企業(西鉄)だがチームとして直接の繋がりはなく、西鉄クリッパースは戦後一から作り直した球団である。
- 西鉄クリッパースのニックネームの由来は、ニックネームを公募したところ、親会社だった西鉄が当時パンアメリカン航空の日本販売代理店だったことから、パンナム機の愛称「クリッパー」から採用されたと言われる。
- 西日本パイレーツの吸収合併に伴い1951年より採用した「ライオンズ」はライオン(獅子)から取ったもので、やはり公募による。西鉄時代から変わることなくニックネームとして定着している。ちなみに西日本パイレーツと合併した時には「ターザン」が流行していたため、愛称の最終選考には「ターザンズ」も残っていたという。
- 1953年には中西太が平和台野球場のセンターバックスクリーンを越える、推定160mとされる大ホームランを放った。この他にも中西は多くの逸話を残しており、「野武士軍団」西鉄ライオンズの看板選手たる人物だった。
- 西鉄全盛期というと「宿舎での女湯のぞきは当たり前、無断で他の選手のビールをスポーツ新聞の記者におごったり、博多どんたくの前日に仮装行列で繁華街を練り歩いたり…」といった数々の武勇伝が語り継がれているが、選手同士の仲は良いというよりも逆に悪すぎる(言い換えれば、馴れ合いが決してない)ほどで、たとえレギュラーであっても細かいミスを犯した選手に対しては容赦なく味方ベンチから罵声が飛んだ、大事な試合でエラーを犯した高倉照幸が、試合後全選手の前で土下座した(次の試合で高倉は名誉挽回の活躍をする)、全く試合に起用されない選手が、冴えないプレーをしたレギュラー陣に「俺の代わりに試合に出ていることを解っているのか」と説教したなど、エピソードには事欠かない。豊田泰光は「三原のオヤジの采配もさることながら、この雰囲気があったからこそ、3年連続日本一を達成できた」と述懐している。
- 黒い霧事件以降は成績も低迷し、経営も逼迫していた。練習では球場外に飛んだファールボールを拾ってきては汚れを消しゴムで消して使い回すという有様だった。当時、巨人から移籍してきた関本四十四が若手の使っているバスタオルがぼろぼろなので自分が持っているものをあげると皆喜んでいたと述懐している。そんな状態だったので所沢に移転してエアコン完備の西武球場のベンチに入った選手は異様に驚いたという。
所沢時代
- 西武になってからの球団シンボルマークは、西武線沿線にゆかりが深い手塚治虫の『ジャングル大帝』の主人公・レオを採用している。肖像権料は1億円という(しかし作者の手塚は生前「あの球団旗などに採用されたキャラクターは実はレオではなく、父親のパンジャであった」と語っている)。球団マスコットとしてもレオが(人型で)登場。マスコットには他に女性キャラのライナがいる。共に当初は背番号無し(のちにユニフォームのスポンサー・ナイキのロゴが入る)。また、このマスコットは「異競技交流」の一環として、2003-2004年シーズンに西武鉄道アイスホッケー部を統合したコクドアイスホッケーチームにも使用された(チームが西武プリンスラビッツとなった2006年からは使用せず)。
- このレオの名前は共通SFカードシステム「パスネット」に加盟する西武鉄道のプリペイドカードの名称にも使用されていた(SFレオカード)。
- 2003年までのホーム用で使用されていたユニフォームによる白地に緑・青・赤のストライプを配した塗装は「ライオンズカラー」と呼ばれ、ユニフォームの変わった現在でも西武4000系電車・西武8500系電車や西武グループに所属する西武バス・伊豆箱根鉄道・近江鉄道のバスなど様々な場所で使用されている。このユニフォームは2009年の「ライオンズ・クラシック2009」企画で再び着用された。
- 1982年に西武としてリーグ初優勝以来、2006年まで日本プロ野球新記録となる25年連続Aクラス入りを達成した。それ以前、黒い霧事件が発生する前の1968年から西武発足3年目だった1981年の14シーズンではAクラスが太平洋時代の1975年に1度(3位)しかなかった。
- パ・リーグでは唯一、埼玉西武ライオンズ(福岡時代・西武ライオンズ時代も含む)としてセ・リーグに現存する6球団全てと日本選手権シリーズで対戦している。そのうち、西武時代からの対戦順に中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ・広島東洋カープ・東京ヤクルトスワローズ(当時はヤクルトスワローズ)の4球団には勝利したが、広島以外の5球団には福岡時代を含め敗北した経験がある。またこの6球団すべてと対戦した事実を生かし、2011年の交流戦で「交流戦OB対決」と称して西武(投手)とセ・リーグ6球団(打者)のOB同士による始球式1打席対決を行った。
球団旗
球団旗の変遷
福岡時代
- 1950年 - 上が青・下が黄色のセパレート型。上に西鉄の社章。下に青字で「CLIPPERS」。
- 1951年~1972年 - 球団名変更に伴い「CLIPPERS」の部分を「LIONS」に変更。
- 1973年~1976年 - 「太平洋クラブライオンズ」時代のもの。上が青・下が赤のセパレート型、間に白の細い線。上には太平洋クラブの社章。下には白文字の筆記体で「LIONS」。
- 1977年~1978年 - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり「クラウンライターライオンズ」に、上が赤・下が青のセパレート型と太平洋時代のものとは上下反対に、中心の白線が太くなる。中心の白地に青文字で「CROWN LIGHTER」の文字。上に王冠と「C」を模したクラウンのマークが入った。白文字の筆記体で「LIONS」のロゴが大きくなる。
所沢時代
- 1979年~ - 西武鉄道が球団を買収し、「西武ライオンズ」に。ライオンズブルー(水色)が地色。中央に手塚治虫デザインの「レオマーク」。上に白文字で「SEIBU」、下に白文字の筆記体で「LIONS」。
ユニフォーム
ユニフォームの変遷
福岡時代
西鉄時代
- 1950年~1951年 - 紺に黄色の縁取りで「CLIPPERS」。グレーの縦縞に「FUKUOKA」のマークもある。西鉄ライオンズになってからロゴが「Lions」に変わった以外、変更点はない。1950年は帽子のマークは黄色の「N」と紺の「C」の組み合わせで、翌1951年はペットネーム変更により「L」となった。
- 1951年~1952年 - 濃紺で「LIONS」と書かれたロゴが登場。黄金期の象徴だった「NISITETU」マークが初登場。しかし、ストッキングの評判が悪くビジター用は1年で廃止。
- 1952年当時のユニフォームは、その後もしばらく二軍・練習用に使用された。
- 1952年~1954年 - ブルーグレーの縦縞を採用したユニフォームとなる。同時に、西鉄晩年まで使われていた「Lions」の飾り文字が登場。
- 1954年~1961年 - 黒色の帽子・ライン・レターを基調とした、後の西鉄黄金期を象徴するデザインが登場。また、胸ロゴ「Lions」はiの黒点が取れるなどのマイナーチェンジ、帽子マークは従来のNマークからNとLを重ねたマークに変更された(以来、NLマークは'60~'61年を除き、西鉄売却まで使用)。このユニフォームは日本シリーズから使用された。1958年シーズン途中からビジター用胸マークが「FUKUOKA」となった。1960年には袖番号が装着され、帽子マークはLの飾り文字になった。
- 1962年~1965年 - ホーム用のラインをWラインに変更。また、袖番号に変わり、球団史上初の胸番号を採用。また、ビジター用は、ラインが少し太くなった。
- 1966年~1970年 - ユニフォームにオレンジが登場(帽子マーク、ライン・レターの縁取り)。また、日本プロ野球としては1964年の大洋に次ぐ背ネームが採用された。
- 1971年~1972年 - パンツと袖口がWラインとなり、ワッペンのライオンが2本足に変更される。また、ビジター用の胸のロゴが1951年 ~ 1958年途中まで使用されていた「NISITETSU」マークに変更。これが西鉄最後のユニフォームとなった(なお、太平洋クラブライオンズ初年度の1973年春季キャンプ、オープン戦までは引き続き西鉄のユニフォームを着用していた)。
太平洋クラブ時代
- 1973年~1975年 - メインスポンサーが太平洋クラブとなり、ホーム用は帽子・上着(球団初のプルオーバー)・パンツ(球団初のベルトレス)に白を基調としたデザインとし、ビジター用には日本初の原色カラーのユニフォーム(上下ツートンカラーとしても日本初〔上は赤、下は白をそれぞれ基調としたデザイン〕)が登場。同時期に袖が赤いホーム用、ビジター用の上着がブルーというデザインも存在した。ホーム用は背番号の上に「TAIHEIYO CLUB」、ビジター用には「FUKUOKA」。帽子は、ホーム用が白地につばは青、ビジター用は青地に赤のつばと赤地に青のつばの2種類。帽子マーク・左袖に、太平洋クラブのシンボルマーク。
- 1976年 - 前期のものは最初で最後のアメフト風ユニフォーム。ベースカラーはワインレッドで、近鉄同様にラグランスリーブスタイルを採用。帽子マークは「L」と「T」の組み合わせ文字で、胸の真ん中に大きく番号が入った。しかし、「身売りへの準備」と勘ぐられるなどの悪評から後期は「Lions」のロゴが、ビジター用は「TAIHEIYO CLUB」のロゴがそれぞれ復活。いずれも背番号の上には選手名が入った。
クラウンライター時代
- 1977年~1978年 - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり、帽子も「C」と「L」の組み合わせ文字となって、白地に赤文字をベースとしたユニホームにモデルチェンジ。ビジター用はライトグレー地に赤文字となり「CROWN LIGHTER」の二段文字となる。ホーム用のみ、王冠と「C」を模したクラウンのマークが胸番号の代わりに入った(マークを使用しないビジター用にも胸番号はない)。なお右肩には引き続き太平洋クラブのマークが入り(若干の援助を受けていたため)、左肩には太平洋クラブ時代から使用されていた(帽子をクラウン仕様に変更)ライオンのイラストマークが入っていた。これが福岡のライオンズが着用した最後のユニフォームとなる。
所沢時代
- 1979年~2003年 - 球団名が「西武ライオンズ」となり細谷巖によるデザインに一新。西武黄金期を築いたユニフォームで、途中マイナーチェンジはあったが、基本デザインは2003年まで使用された。
- 帽子、アンダーシャツ、ストッキングがチームカラーのライトブルーとなり、袖、首、パンツに“太陽”と“草原”のイメージにより考案された赤、緑のラインが入る。
- 帽子は緑の楕円の中に手塚治虫テザインのレオマークがつき、下にLionsのロゴが刺繍される。ヘルメットは、これらのマークが直接プリントされ、さらに右側(左打者用は左側)にSEIBUのロゴが入る。
- 背番号、胸番号の書体がゴシック体になり、パンツは腰ラインの入っていないベルトレスタイプになる。
- ただし背番号「1」の書体については、秋山幸二のみ本人の希望で「_」の付いた書体が使用された。
- スパイクはつま先、踵部分が濃紺、それ以外は白でつま先側から青、緑、赤、のラインが各メーカーのデザインに沿った形で入る。紐は青。
- ホーム用は、上下白で、胸ロゴ、胸番号、背番号はライトブルー。左袖に西武百貨店のマーク(これもライトブルー)が入る。
- ビジター用は、上下ライトブルーで、胸ロゴ、胸番号、背番号は白。左袖にはLionsのロゴ(これも白)が入った。詳細は 1979年の西武ライオンズのユニフォーム を参照
- 1996年からのビジター用は、上着がライトブルーに白のラケットラインが入り、胸番号、背番号、胸ロゴに白の縁取りが入り、書体が高校野球型に、パンツが白になり、ライトブルーのラインが入る。また袖、首の赤、緑ラインが消える。同時にスパイクの色が白地にライトブルー(端部に緑と赤が付く)ラインになる。
- 2002年からのビジター用は、ホーム用と同じくナイキ社の製造になり、大幅にモデルチェンジされ、ビジター用の上着の正面がグレー、脇・背中がライトブルーになり、パンツがグレーになる。胸のネームと番号は、発表時は白だったが、公式戦時にブルーへ変更された。また、札幌、長野での主催ゲーム用にサード・ユニフォームも登場した。ホーム用をアレンジしたもので、ネームと番号の縁取りが黒。番号のロゴは、ビジターと同じものを採用。ビジター用とサード用の帽子からは、緑の楕円がはずされた(ヘルメットは、ホーム用と同じ)。なお、3種類とも右袖にプライド・ロゴ(赤・緑の2色のホームベース型にLionsのロゴと日本一の回数の8個の星をあしらったもの)が入る。
- 2004年~2008年 - 伊東勤監督就任を機に25年ぶりにホームのユニフォームに大幅変更。赤、緑のラインが消え、Lionsのロゴが大文字のLIONSになる。また、帽子の正面からLionsのロゴが消え、横にLIONSのロゴが入る。ビジター用の帽子もホーム用兼用となり、サード・ユニフォームは、廃止された。プライド・ロゴは、ビジター用のみとなる。
- 2009年~ - チームカラーがそれまでのライトブルーから「レジェンド・ブルー」と称する紺色に変更。また、「Lions」のロゴも一新されることが2009年1月1日、公式ホームページにて発表された。それに伴ってユニフォームのデザインも一新。基本デザインは西鉄ライオンズ時代のユニフォームデザインを踏襲しており、ホーム用は白地に紺の前掛けライン。左胸に「L」のイニシャルが付く。ビジター用はライトグレー地に紺の前掛けライン。胸に「Lions」の新ロゴと胸番号。ホーム用・ビジター用ともに、左袖には獅子がボールをわし掴みにするデザインの新球団ペットマークが、右袖にはLionsとほぼ同じ書体で「saitama seibu」の赤い文字が入る。また、帽子もレオマークから「L」の一文字に変更。
- スパイクは黒地に白のラインとなる。
- ただし、キャップを除きこのユニフォームの使用は開幕戦からで、初年の春季キャンプ・オープン戦時は、上が新デザインを踏まえた紺のオリジナル仕様練習着、パンツおよびヘルメットは昨年までのライトブルーの時代のものを使用。
- 2012年、県営大宮球場で行われるレギュラーシーズン公式戦3試合(4月14日・6月22日 - オリックス戦、8月23日 - ソフトバンク戦)で「大宮リミテッドキャップ」を着用する。キャップは、通常の帽子デザインをさいたま市大宮区の色・オレンジを使ってアレンジしたもの。空気坑・頭頂部のボタン・つばの端をオレンジ色に。なお、ユニフォームは通常時のものを着用。
二軍のユニフォーム
- 1976年 - 基本的に前年と同じものを使用。帽子は同年の一軍と同じくTLマークを入れたものを使用。
- 2005年~2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、帽子のマーク・ホーム用の西武百貨店マークが同社のマークに変更。ロゴもINVOICEとなる(書体は従来と同じ)。
- 2007年 - グッドウィルに変更。ホーム用は、一軍ビジター用のグレー部分と背中を白にしたもの(背番号のロゴは一軍ホーム用と同じ)が使用され、ビジター用は、一軍のものから首のラインをはずしたものがそれぞれ使用された。帽子マークは同社のものに変更。
期間限定ユニフォーム
- 2007年度は夏季特別企画として、7月10日から8月30日に主催ホームゲームで、試合日によりオリジナルで製作した特別ユニフォーム(フロント・わきの下の部分が水色、背中と肩の部分が白。胸ロゴの「LIONS」と背番号・胸番号は赤縁に白。背中にライオンの牙をモチーフにした赤い模様が入ったもの)と併用する形で、1979年~1996年まで使用されていたビジターユニフォーム(いわゆるライオンズブルー)の復刻版が登場した。
- 2008年度は交流戦限定ユニフォーム(肩から袖にかけての部分と脇からわき腹にかけての部分が白、それ以外の部分がライオンズブルー。右胸には所沢移転30周年記念ロゴのワッペン。肩の上には黒縁に白の☆。背番号の下に2008年のスローガン「No Limit!」をあしらう。)が登場したほか、6月~8月の主催試合と7月15、16日に「アサヒスーパードライ ライオンズ・クラシック」として西鉄ライオンズ時代のユニフォーム(ユニフォームのバージョンは1954年から1959年に使用されたもの)の復刻版が登場した。当時の親会社である西日本鉄道も後援として参加している。2009年の同シリーズではライオンズが所沢に移転してから2003年まで使用されたホーム用ユニフォーム、2010年の同シリーズでは太平洋クラブ時代初期のユニフォーム(1973年-1974年に着用した白赤のホーム用セカンドユニフォームで、背番号のネームがない1973年版)を、2011年の同シリーズでは西鉄ライオンズの初代ユニフォーム、2012年の同シリーズでは1961年の西鉄ライオンズのユニフォームを再現している。
- これらの復刻版のいずれにも左胸にスウォッシュマークが入った。このマークおよび、ヘルメットのスポンサー名は、セ・リーグのチームが主催の試合の際は、はずされる。
- 2012年、球団の親会社である西武鉄道の設立100周年を記念し、全国の小中学生からユニホームのデザイン案を募集。採用案がデザインされたユニホームを、8月に本拠地・西武ドームで開催される主催試合において着用する。
ユニフォームのスポンサー
- ヘルメット - JOMO ジャパンエナジー(2001年~2003年)→ピザーラ(2004年~2007年)→バイトルドットコム(2008年~2010年)→カナディアン・ソーラー(2011年~)
- ユニフォーム左胸 - ナイキ(ホーム用2001年~、ビジター用2002年~)
- パンツ左腰 - コラントッテ(2010年~)
応援スタイル
- ビクトリーフラッグと呼ばれる小旗が応援に使われる。使われるのはスターティングメンバー発表時、得点時、5回表攻撃前など。
- 得点時には球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」のBメロ〜サビが演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。演奏終了後他球団と同様に万歳三唱するが、その後「やったー」×3、「1・2・3・オー」と続く(1992年開始以来変更無し)。
- 勝利時には炭坑節が演奏される。
- 「かっ飛ばせー○○」の後に「Go!Go! Let's Go ○○」と続ける。ただし中村剛也の打席のときは、中村が本塁打を打った後は「おかわりおかわりもう一杯」になる。
- 応援のリードにバスドラムが用いられ、西武ドーム内で反響するため威圧感を与えている。
- 2004年までは関東での試合、関西での試合、九州での試合で選手の応援歌が異なっている為、2005年に統一されたとの発表があったが、福岡及び関西では異なる応援歌を打者一巡目や統一応援歌との交互応援など、地方では独自の応援がなされている。
- 福岡及び関西での応援歌は基本的に、黄金期の選手の応援歌を流用、又は、1990年代の地方専用応援歌を使用している。
- 1990年と2005年にほとんどの選手の応援歌の変更がなされている(1990年の変更は関東地区のみで九州では従前の応援歌のまま)。しかし、チャンスでの打席になると、その選手の変更前の応援歌や以前同じ背番号をつけていた選手の応援歌などが演奏されることもある。西武ドームで細川亨がチャンスで打席に立つと、伊東勤元監督の選手時代の応援歌が演奏されたこともある。2008年時点ではチャンステーマとして片岡易之及び中島裕之の打席で石毛宏典の応援歌、クレイグ・ブラゼルの打席でアレックス・カブレラの応援歌、ヒラム・ボカチカの打席でホセ・フェルナンデスの応援歌が使用されている。
- 2005年に選手の応援歌の一斉変更がなされる前は新しい応援歌がほとんどといっていいほど作られず、過去の選手の流用ばかりであった。投手の応援歌だったものを野手用に使う例も見られた。実際に2005年の応援歌変更の対象とならなかったアレックス・カブレラの応援歌はマイク・パグリアルーロ以降、ダリン・ジャクソン、ドミンゴ・マルティネスなど歴代の外国人選手に使用されていた曲(歌詞も名前部分以外そのまま)、和田一浩の応援歌は仲田秀司の曲の流用(歌詞は異なる)である。
- 主催試合ではオルガンの演奏が流れる。チャンステーマ1やチャンステーマ3は前奏があるため、そのオルガンに先行されて開始することがある。
- 5回の攻撃前に球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」が1コーラス演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。2009年までの交流戦では「白いボールのファンタジー」が代わりに演奏されていた。
- 7回の攻撃前には応援歌の「吠えろライオンズ」が演奏される。従前の応援歌であった「若き獅子たち」も相手投手交代の際等に使用される。ライオンズクラシック2010の期間中は太平洋クラブライオンズ時代の応援歌であった「僕らの憧れライオンズ」が演奏される。ライオンズクラシック2008・2011の期間中は西鉄ライオンズ時代の応援歌であった「西鉄ライオンズの歌」が演奏される。
- アウトテーマは原則的に使用されるが、バントアウトなどアウトを取っても相手が進塁した場合は使用しない。
- 以前はアウトが奪三振の場合はアウトテーマの後に「いいぞ、いいぞ、○○(投手名)」と続けていたが2010年7月27日の試合を最後に行われなくなった。このコールを始めた当初は三振以外のアウトの時もアウトの打球を処理した選手に対し(例-ショートゴロならショートを守っている選手にと言う具合に)このコールをやっていた。
- 7回攻撃前(ラッキー7)と勝利時にジェット風船を飛ばす。かつてはラッキー7では青色、勝利時は白色と色を変えていたが、現在は青で統一されている。また、ライオンズクラシック2010の期間中はユニフォームの赤色に合わせて赤色の風船を飛ばす。
- 平尾博嗣の応援歌は、本人は気に入っていないことが、ラジオ番組での赤田将吾選手の発言により発覚している。応援歌の一つとして定着してきていたが、2008年7月19日より新しい応援歌に変更された。
- 汎用の代打テーマは一応存在するが、専用の応援歌が無い野手は新人選手など数人しかいないうえ、近年は専用の応援歌のない選手が1軍の試合で活躍するとシーズン中でもすぐに専用応援歌が作成される傾向にあるため、滅多に演奏されない。2005年の変更の際には代打テーマも新規作成されたが翌2006年入団の炭谷銀仁朗以外に使われることが無く、2006年交流戦頃にそのまま炭谷の応援歌となった。それ以降2009年までは暫定的に一斉変更前の代打テーマを使用していたが、2010年から新しい代打テーマが作成された。
永久欠番
- 24:稲尾和久
- 引退後も1972年までは稲尾自身が監督として付け、1973年の福岡野球株式会社への売却時に稲尾が背番号を81に変更した事から欠番となった。当時球団は永久欠番とせず、「将来有望な選手が入団してきたら24番をプレゼントしたい」として暫く欠番とした後、1976年に古賀正明が着用した。その後、様々な選手が着用したが、2012年の生誕75周年を機に永久欠番に指定(同年は永久欠番指定が報じられる前から欠番となっていた)。
準永久欠番
- なし
過去の準永久欠番
- 3:大下弘
- 6:中西太
- 退団後の1970年から相応しい選手が出るまで欠番とされていたが、1973年に「もう新球団(福岡野球)になったんだからいいじゃないか」と、当時の監督・稲尾和久の推薦で菊川昭二郎が着用した。
- 27:伊東勤
- 2004年 - 2006年の3年間欠番。
- 32:ミゲール・デルトロ
- メキシコ帰国直後の2001年10月6日交通事故死。翌2002年の1年間欠番。
- 59:板沢峰生
- 1980年12月3日急性心不全で死去。翌1981年から1989年までの9年間欠番。
歴代本拠地
- 1950 - 平和台野球場、春日原球場(なお、平和台は西日本パイレーツ、春日原は西鉄クリッパースが専用球場と規定されていた)
- 1951~64 - 平和台野球場(1952年より正式なフランチャイズ制が敷かれる)
- 1965~72 - 平和台野球場、小倉球場(現北九州市民球場)
- 1973~78 - 平和台野球場(準本拠地として小倉球場、熊本市・藤崎台県営野球場)
- 1979~97 - 西武ライオンズ球場
西武球場の完全ドーム化は1999年。名称は第1期工事(スタンドに屋根を架設する工事)が完成した1998年に西武ドームに変更されている。
なお、西武ライオンズは本拠地の西武ライオンズ球場・西武ドームでの試合開催率が高く、特に1993年までの15年間では西武球場で全ての主催試合を行ったのが1982-86年と1989-93年の計10年間あり、それ以外の5年間も地方球場開催は平和台のみだったが、1994年以降は徐々に地方開催を行うようになった。特に2000年から2008年までの間は長野オリンピックスタジアムでの開催が毎年続けられたほか、1996年からは群馬県立敷島公園野球場でも2、3年に1回開催している。また、2008年からは埼玉県営大宮公園野球場でも毎年主催試合を行っている(参照:埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧)。
歴代監督
- 1950年 : 宮崎要
- 1951年 - 1959年 : 三原脩
- 1960年 - 1961年 : 川崎徳次
- 1962年 - 1969年 : 中西太
- 1970年 - 1974年 : 稲尾和久
- 1975年 : 江藤愼一
- 1976年 : レオ・ドローチャー ※1
- 1976年 - 1977年 : 鬼頭政一
- 1978年 - 1981年 : 根本陸夫
- 1982年 - 1985年 : 広岡達朗
- 1986年 - 1994年 : 森祇晶
- 1995年 - 2001年 : 東尾修
- 2002年 - 2003年 : 伊原春樹
- 2004年 - 2007年 : 伊東勤
- 2008年 - : 渡辺久信
※太字は優勝達成監督
- ※1 就任が発表されたが、病気のため来日することなく契約解除
歴代の球団歌
- 球団歌
- 「地平を駈ける獅子を見た」(作詞:阿久悠/作曲:小林亜星/歌:松崎しげる/1979年発表)
- 応援歌
「地平を駈ける獅子を見た」と同時期に発表された(同曲シングルレコード盤のB面に収録)応援歌「Let's Go Lions」(作曲・編曲:長戸大幸)もあるが、現在演奏される機会は少なくなっている。なお、ホームラン編集部制作の「12球団全選手カラー百科名鑑」(日本スポーツ出版社→廣済堂出版→廣済堂あかつき)では、各球団を紹介する際に球団歌を掲載するのが基本であるが、西武に関しては応援歌である「吠えろライオンズ」の方を掲載している。
- 福岡時代の主な球団歌
主なキャンプ地
- 宮崎県日南市南郷中央公園野球場(春季-A班、秋季)
- 西武第二球場(B班)
- 高知県立春野運動公園野球場(B班、2003年まではA班も)
過去のキャンプ地
チームスローガン
広岡監督時代
- 1982年:新風
- 1983年:闘球
- 1984年:鋭球
- 1985年:爽球
森監督時代
- 1986年:飛躍
- 1987年:前進
- 1988年:鍛える
- 1989年:魅せる
- 1990年:燃えて
- 1991年:雄々しく
- 1992年:初心
- 1993年:新たに
- 1994年:チャレンジ
東尾監督時代
- 1995年:感動のドラマがある
- 1996年:熱く、激しい感動。
- 1997年:Hit!Foot!Get!
- 1998年:夢へHit!Foot!Get!
- 1999年:栄光へ、Hit!Foot!Get!
- 2000年:Hit!Foot!Get! More Runs! 果敢に攻め、もっと得点を。
- 2001年:Hit!Foot!Get!栄光への挑戦
伊原監督時代
- 2002年:全力 To The Best
- 2003年:栄光へ全力!
伊東監督時代
- 2004年:挑戦はじまる。
- 2005年:挑戦ふたたび。
- 2006年:挑戦あるのみ
- 2007年:心を、ひとつに。力を、ひとつに。
渡辺監督時代
- 2008年:No Limit!
- 2009年:No Limit!
- 2010年:No Limit!2010 逆襲の獅子
- 2011年:No Limit!2011 勝利への執念
- 2012年:出しきれ!ライオンズ
マスコット
ライオンズのマスコットキャラクターは、以下の2体。詳しくは当該項目を参照。
- 同じく手塚治虫のデザイン。
- 当時オーナーの堤の提案で、行った所に畑が見える西武線沿線に虫プロダクションを置いていた手塚の意思が合致しての採用となった。もしこれが叶わなければ、球団名も「ライオンズ」から国鉄スワローズの様に、「1番早い車両を名前に使おう」と「西武レッドアローズ」になっていたかもしれない、という。
なお、福岡(クラウン→太平洋クラブ)時代は、黄色い顔のライオンをペットマークに使用[3]。また、西鉄時代もライオンをデザインしたペットマークを使用。当時のジャンパーの胸部にワッペンが張り付けられていた。
キーワード
オリオンズとの遺恨
戦後初の外地遠征
1961年5月21日、東映フライヤーズとの試合は戦後初の海外遠征試合としてアメリカの占領下の沖縄(1972年に日本本土復帰)で初めて開かれた。
14ゲーム差を逆転
1963年の西鉄は前半戦、南海ホークスに14ゲームの大差を付けられ3位に甘んじていたが、このシーズンのペナントレースは150試合制で行われたため、逆転の可能性が充分にあった。
後半戦に入って、西鉄の猛追がスタート。一旦4位に転落するも10月8日の時点で80勝57敗3分け(勝率.584)で首位に並んだ。その後も2チームのデッドヒートが続き、南海は10月17日、85勝61敗4分け(勝率.582)で全スケジュールを消化。後は西鉄の残り4試合に優勝が委ねられることと成った。
西鉄の残り4試合は全てホーム・平和台での近鉄戦。10月19日と20日にそれぞれダブルヘッダーによる4連戦。4連勝なら逆転優勝、3勝1敗なら南海と3試合制の同点決勝(プレーオフ)を実施、2勝以下だと南海の優勝となる。
西鉄はこの4連戦、19日の第1戦を17-5で大勝。続く第2戦も接戦の末3-2で制した。20日の第1戦、5x-4のサヨナラゲームで辛うじてものにした。西鉄の3連勝により、後は西鉄の逆転優勝か、それとも同点決勝かの2つに絞られた。そして第2戦。西鉄は若生忠男、安部和春の両投手の完封リレーで2-0の勝利。ついに西鉄は1958年以来5年ぶり5回目のリーグ戦優勝を決めた。これが福岡時代のライオンズとしての最後の優勝だった。この14.5ゲーム差の逆転は2011年現在日本プロ野球史上最大の逆転劇である。
変則ダブルヘッダー
1973年10月13日に開催された日拓ホームフライヤーズ対太平洋クラブライオンズ戦(後楽園球場)でのダブルヘッダー試合は、日程の関係で第1試合が本来の日拓主催、第2試合は太平洋主催で行われた。対戦チームは同じで主催のみが入れ替わるという珍しいダブルヘッダーだった。
球団の親会社
所沢移転以降、「西武」を名乗っているが、元々は西武グループの意味であり、直接の球団親会社は1978年に旧クラウンライターライオンズを買収した国土計画(後のコクド)、2006年の西武グループの再編時にはコクドを吸収したプリンスホテルであった。しかし、2008年から本格化している地域密着の強化を目的として、2008年11月21日のプロ野球オーナー会議において、球団の親会社を西武鉄道に変更することが承認された。
札幌ドーム
札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたことから、西武は2002年の開幕戦を、本拠地の西武ドームではなく札幌ドームで行った。
さらに西武は2003年から札幌ドームを準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを企画していた。ところが、2002年のシーズン開幕前に、当時東京ドームを本拠地にしていた日本ハムファイターズが2004年から札幌ドームを本拠地として使用する計画が明らかになった。上記の企画をしていた西武は一旦はこれに反対したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化が認められた。しかし結局2003年は、当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、2004年以降は、西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない。
2004年以降の東京ドームの試合
日本ハムは札幌移転の2004年以降も公式戦の年間数試合を、準本拠地として東京ドームで開催しているが、東京ドームでの西武との対戦に限っては、札幌ドーム移転前の2003年9月28日の試合を最後に行われていない。
しかし、日本ハム以外の球団との東京ドームでの試合は行われており、2005年より開始された交流戦および日本選手権シリーズでの巨人戦、さらに2007年5月19日・20日にオリックス・バファローズ対西武戦が東京ドームで開催されていた。このオリックス戦で西武は東京ドームでパ・リーグの球団と4年振りに対戦した。また、東京ドームで開催された2008年のアジアシリーズでは日本一を決めた西武が日本代表として出場した。2012年7月2日には福岡ソフトバンクホークス-西武戦が東京ドームで行われる。
お台場ドーム構想
当時屋外だったライオンズ球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなる事も多かった。そのため、ドーム球場を建設することになり、本拠地を所沢から都心である東京の台場に移転してドーム球場を建設しようという案が浮上した。しかし、当時既に東京都を保護地域とする球団が3球団[4]もあり、全ての球団の承諾を得る必要があり、さらに移転に対する地元所沢近辺のファンの猛反発、多額の建設費用の捻出、グループ企業の西武鉄道からの利用客減少への懸念の意見が出たため困難となり、ライオンズ球場に屋根をかけ、西武ドームが誕生した。
地域密着と球団名変更への動き
パ・リーグでは2004年に日本ハムファイターズの北海道への本拠地移転、2005年に新設球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが本拠地を東北地方に置き、いずれも地域密着の功績が実っていることから、2005年12月19日、地元・所沢市議会で球団名および球場名に「所沢」の地域名を冠するよう求める請願が全会一致で採択され、2006年1月20日に所沢市長が球団に要望書を提出した。これについて球団側は「球団名については地元密着、沿線密着の観点から今後、多方面に検討していきたい」とコメントしている。
2007年1月17日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、埼玉県知事に2008年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補だが、"武蔵国の西部"として地域名を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。また、2008年以降、さいたま市の埼玉県営大宮公園野球場で一軍の公式戦やクライマックスシリーズを開催する方針であることも伝えられた。
同年11月6日、2008年より「埼玉西武ライオンズ」と球団名を変更することをプロ野球実行委員会に申請し、2007年11月14日のプロ野球オーナー会議で承認され、球団名が正式に変更された。これにより、保護地域である埼玉県の球団であることを明確にし、地域密着を図る。
2008年にはレギュラーシーズン優勝のかかった9月26日の対日本ハム戦と日本一のかかった11月9日の対巨人戦で西武ドームで初となるパブリックビューイングを実施。優勝が決定した後には太田秀和球団副社長がファンにより胴上げされた。また、球団の所沢移転後としては初となる優勝パレードも所沢市や地元商工会の要望により11月23日に所沢市内で実施され、7万人のファンが沿道を埋めた。
西武ライオンズ憲章
2007年3月9日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手(社会人選手1人と大学生1人)に対するスカウト行動で、現金1300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたことがわかった。社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に“契約金の前渡し”名目で計6000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、更にはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行なわれていた事が判明した。
この裏金行為は太田社長が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。
2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦(楽天戦)に当たり、太田社長は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。
日本プロフェッショナル野球組織は5月29日、球団に対し制裁金3000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させる事、及び秋の高校生ドラフトでの指名は3巡目からとする事を処分として決定した。また事件発覚当時に楽天でスカウト部長を務めていた事件当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。
スカウトによる不正の教訓から、ファンに親しまれるチーム作りを目指す姿勢と責任ある行動を誓って8月26日に『西武ライオンズ憲章』を制定した。
飛行機の遅延で試合中止
2007年7月27日、選手やチーム関係者が乗る予定であった羽田発福岡行の全日空251便のジャンボジェット機(B747-400、JA8959)が機材の故障で出発が大幅に遅延となり、急きょ福岡Yahoo!JAPANドームでのソフトバンク戦が中止となるハプニングがあった。交通機関の影響により中止となったのは、2004年の日本ハム対ダイエー以来で、パ・リーグでは過去3度あるが、いずれも天候等の不可抗力によるものであり、飛行機の故障に起因する中止はセ・パ両リーグを通じてこれが初めてのことである。
この日、当該便は11時35分に出発予定で、一度はほぼ予定通りに駐機場を離れたのだが、直後に機材の不具合(フラップ関係の故障)が発覚し駐機場へ逆戻りした。結局修理に時間がかかることから使用機材を変更することになり、代替機[5]は札幌から到着した機材を使用することになった。チーム関係者は全日空に対し便の変更を強く要請したが、夏休みの週末であることに加え翌日から佐賀でインターハイが開催されるということもあり、後続便は全日空だけでなく各社とも満席で、かなわなかった。その間選手たちは出発ロビーで待たされ、代替機への搭乗が完了して再出発できたのは3時間半近く遅れた15時過ぎごろで、福岡に到着したのは16時45分ごろであった。パ・リーグの規定では「交通機関の遅延など、やむをえない理由で試合開始の2時間前までに球場へ到着しない場合、試合を中止することができる。」と定めており、この規定にのっとって中止が宣告された。
なお、この試合の振り替えは10月に行われている。
福岡時代の歴史の取り扱い
西武が本拠地を福岡から所沢に移転した後、2007年までは福岡時代の歴史を極力消す傾向にあった。
球団の公式記録は全て所沢移転後の記録のみが扱われて発表され、1950年の球団創立以来の通算記録は全く回顧されなかった。例として、ファンブックなどで国土計画の旧クラウン球団買収を「ライオンズ球団の誕生」と記述していたため、「福岡時代からライオンズを名乗る球団が存在したのに、新たに創設されたかのような記述はおかしい」と指摘され、この記述については「西武ライオンズ球団の誕生」と改めた。また、1986年のパ・リーグ優勝の際に発売された西武鉄道の優勝記念乗車券では「西武ライオンズは1986年度パ・リーグ公式戦優勝。4度目の制覇を達成することができました。皆さまのご声援ありがとうございました。」を全文とする感謝の意を示し、西鉄が達成した5度のリーグ優勝には触れなかった。ただし、マスメディアでは「西武として◎度目の優勝、球団創設からは(「西鉄時代を含めると」という表現などもあり)△度目の優勝」という報道がなされた。また、福岡時代に所属したが、所沢移転の前に退団して西武ライオンズへの在籍経験がない選手は球団OBと認められず、顕彰や始球式などは行われなかった。1962年限りで国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)へ移籍し、監督・コーチとしての西武在籍経験もない豊田は上記に該当する元選手の一人であり、ラジオ中継で西武贔屓の解説を続けながらも、現在の西武球団から自分の存在価値を認められない元選手は行き場や精神的故郷がないという球団批判を行っていた。このような扱いに対して福岡時代のファンの反発は強かった。
このような扱いであった福岡時代の歴史が、2008年以降変わった。
2008年より公式ウェブサイト内年表において、西鉄クリッパース結成を起点とする福岡時代の記述が追加され、2008年から掲載されるようになった、企業概要情報(公式サイトでは「球団概要」)のうち、創立年月日については「1978年10月25日」と記述されたが、2009年1月の更新で「1950年1月28日 西鉄野球株式会社として登記」「1978年10月25日福岡野球株式会社より株式会社西武ライオンズに商号変更」と記述されるようになった。
2008年は西武球団創設(所沢移転)30周年と西日本鉄道創業100周年が重なることから、6-8月の試合で西鉄時代のユニフォームを着用し、連動して福岡時代の歴史を回顧する「ライオンズ・クラシック」企画が豊田泰光による監修の下で展開された。西鉄時代のユニフォームは基本的に実施期間内の西武ドームでの主催試合で着用したが、西鉄時代の本拠地だった福岡(現在の福岡ソフトバンクホークス本拠地である福岡Yahoo! JAPANドーム)でも2試合着用した。これは2009年以降も継続されている。
グッズショップ
本拠地である西武ドーム以外に、埼玉県および西武鉄道沿線にオフィシャルグッズショップ『ライオンズストア』を展開している。グッズ販売のほか、ファンクラブ入会やチケット購入、各種優待チケット引換が可能。
- ライオンズストア フラッグス(埼玉県所沢市、西武ドーム横、ミュージアム併設)
- 大宮アルシェ(埼玉県さいたま市大宮区)
- 所沢ステーション(埼玉県所沢市、駅構内)
- 本川越ステーション(埼玉県川越市、駅構内)
- 西武池袋本店(東京都豊島区、西武池袋駅直結)
このうち、所沢、本川越は『西武観光』の跡地であるが、西武観光でもライオンズ戦のチケットを扱っていた。
放送
- ※かつては、TBSテレビやフジテレビでも放映権をもっていたほか、2006年はテレビ東京が1試合のみ放送した。但し、試合毎の個別契約のため、日本テレビを含めた4局の系列局で現在でも西武ドームの試合を中継することがある。
現在放送している番組
※2012年現在。
- ラジオ
- 文化放送ライオンズナイター(文化放送)- 平日(シーズンオフ含む)のラジオ放送
- NACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONS(NACK5)- 日曜日のラジオ放送(FMで唯一の試合中継)。土曜日はホームゲームのナイターのみ放送。
- ※ライオンズのラジオによる実況中継放送は、関東広域圏・埼玉県を放送対象地域としている、文化放送・NACK5の2局を合計して、4月から9月までの大半の試合が放送されている。ラジオ放送のない土曜・祝日のデーゲームも、一部のカードを除いて文化放送が公式サイトでWeb配信を実施している。
- テレビ
- TVSライオンズアワー(テレビ埼玉)- 地上波テレビ放送
- LIONS CHANNEL(テレビ埼玉)- 地上波テレビ放送(応援番組)
- スーパーベースボール(BS朝日)- BSテレビ放送
- TwellV プロ野球中継(BS TwellV) - BSテレビ放送(2010年より)
- プロ野球完全中継 出しきれ!ライオンズ(朝日ニュースター) - CSテレビ放送(2012年より)
かつて放送されていた番組
- プロ野球熱闘ライオンズ(BS朝日)- BSテレビ放送
- プロ野球まるごと中継 熱闘!BS11ナイター(BS11デジタル)- BSテレビ放送(2009年のみ)
- J SPORTS STADIUM(J SPORTS)- CSテレビ放送(2011年まで)
- レッツゴー!ライオンズ(TBSテレビ)
- はつらつライオンズ(テレビ埼玉)
福岡本拠地時代の番組
脚注
- ↑ この当時の巨人の主力選手の一人であった原辰徳は、「苦手を通り越してコンプレックス。トラウマ的なものさえ感じる」と、巨人監督として迎えた2002年の日本シリーズ直前の合宿地で印象を述べている。『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.86
- ↑ 2011年終了現在、日本シリーズの連覇はこの年の西武以来出ていない。同年ゴールデングラブ9部門中、西武は8部門独占。
- ↑ クラウンガスライターから太平洋クラブに身売りされた後も、同じデザインのキャラクターを(帽子のマークを変えて)使用。
- ↑ 読売ジャイアンツ、ヤクルトスワローズ、日本ハムファイターズの3球団。現在は日本ハムが北海道に移転したため、東京都を保護地域とする球団は2球団。
- ↑ 変更した機材はピカチュウジャンボ(JA8957)で、翌28日付の報知新聞には「ゲットだぜ代替ポケモン機」との見出しがあった。
関連項目
- 埼玉西武ライオンズ (ファーム)(旧インボイス、グッドウィル)
- 埼玉西武ライオンズの選手一覧
- 埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧
- BLUE LEGENDS(チアリーディングチーム)
- Lism - ホームゲームで発行されるマッチデープログラム。連戦毎に発行されるためMATCH CARD PROGRAMと表記される
- ときめきドットコム - 株式会社西武ライオンズが運営委託している、ライオンズグッズのインターネット物販会社
- 狭山不動尊 - 西武ドームに近くの毎年開幕前に必勝祈願を行う寺
- Lions Express - 本拠地のある埼玉と西鉄時代の本拠地・福岡を結ぶことにちなんで名付けられた高速バス路線。
- 埼玉ブロンコス - 所沢市を本拠地とするプロバスケットボールチーム。埼玉西武ライオンズと始球式などコラボレーション企画を展開する他、親会社西武鉄道も2010年よりオフィシャルスポンサーに就いている。
- プライドドリームス埼玉 - 埼玉県内のプロスポーツチームで結成された組織。
外部リンク
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