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2008年1月23日 (水) 17:04時点における版
ジロ・デ・イタリア(Giro d'Italia)とは毎年5月にイタリア全土を舞台にして行われるプロロードレースである。1909年から開催されている。主催はイタリアのスポーツ紙『ガゼッタ・デロ・スポルト』等を発行するメディアグループ・RCSの関連会社であるRCSスポーツ社。
「d'Italia」は「di Italia」の結合形であること、「デ」と発音される前置詞がイタリア語に存在しないことなどから「ジロ・ディ・イタリア」または「ジロ・ディタリア」という表記も見られる[1]。通称は「ジロ」。
目次
概要
毎年5月に約3週間かけて行われるステージレースで、コースは毎年新たに設定される。「イタリアを一周する」という表現がされることもあるが、各ステージは地理的には連続していないことも多く、 サルデーニャ島やシチリア島など島でのステージもある。ステージ数は通常21。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされている。
総合成績1位の選手には「マリア・ローザ」と呼ばれるピンク色のジャージが与えられるほか、スプリント賞、山岳賞、インテルジロ賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。
賞金総額は年によって上下するが、2004年の場合で約133万ユーロ。配分は各ステージ25位までの勝者に支払われる金額が合計47万4000ユーロ。総合優勝者15万ユーロやインテルジロ賞13万ユーロなど各賞の合計が62万3000ユーロ。チームへの賞金が合計23万3000ユーロとなっている。
特徴
ツール・ド・フランスに比べ勾配の厳しい坂を登る山岳ステージが多いため[2]、上りを得意とするクライマーが活躍する機会が多い。1990年のクラウディオ・キアプッチや1995年のトニー・ロミンゲル、1998年のマリアーノ・ピッコリのように、厳しい山岳コースが設定された年は山岳賞はおろかスプリント賞すらクライマーが獲得してしまうこともある。 また、平坦ステージであってもゴール直前だけ上り坂であったり、ゴールまで1kmを切ったところに急カーブが登場するなど危険かつ癖のあるコースレイアウトがしばしば採用される。
また5月のアルプスはまだ雪の中であり、選手は坂だけでなく厳しい寒さや悪天候とも戦うことになる[3]。そのためイタリア人からは「ツール・ド・フランスが世界最大のレースなら、ジロ・デ・イタリアは世界最高のレース」と評される。
イタリア人選手の多くがこのレースをシーズン中の最大目標としており、歴代優勝者に占めるイタリア人の割合も多いことはもとより、この10年間の総合優勝者は皆イタリア人である。国際化が著しく、優勝者の国籍も多様になる傾向があるロードレースの世界においてこれは非常に珍しいケースである。
歴史
第1回大会は1909年に行われ、ミラノから出発し、合計走行距離は2,408kmだった。8区間で争われ、優勝選手の平均走行時速27.26kmだった。1915年から1918年までは第一次世界大戦により中断されている。
1933年は17ステージ・合計3,343kmで行われ、この時はアルフレッド・ビンダが通算5回目となる優勝を飾っている。
1941年から1945年までは第二次世界大戦により再び中断。1947年は19ステージ・合計3,843kmで行われ、この時はファウスト・コッピが2回目の優勝を果たした。以後もコッピの活躍は続き、1953年には史上2人めの5回目の優勝を達成している。
1970年代前半はエディ・メルクスの独壇場となり、1972年~1974年には3連覇を達成。1974年は、史上3人目となる5回目の優勝に加えてツール・ド・フランスと世界自転車選手権プロロードレースも制覇しており、史上初のトリプルクラウン達成を遂げた。
1980年代前半はベルナール・イノーが3回の優勝を遂げている。また1987年の優勝者ステファン・ロッシュは史上2人目のトリプルクラウン達成者となった。
1990年代に活躍した選手としてはミゲル・インドゥラインとマルコ・パンターニがあげられ、インドゥラインは1992年と1993年、パンターニは1998年にツール・ド・フランスでも優勝してダブルツールを達成している。
2004年は合計走行距離3,423.9km、20区間で行われ、参加選手169名のうち140名が完走した。総合優勝は22歳の新人ダミアーノ・クネゴ。ジルベルト・シモーニのアシストとして働く予定だった彼がステージ4勝をあげて総合優勝するとは誰も予想しておらず、大きなニュースとなった。
2005年はパオロ・サヴォルデッリとシモーニの争いとなり、終盤シモーニが猛追するも結局サヴォルデッリが2002年以来2度目の優勝を飾った。2006年はイヴァン・バッソが他を寄せ付けない強さで、2007年はダニーロ・ディルーカが堅実なレース運びで総合優勝を遂げている。
各賞とリーダージャージ
数種の賞が設定されており、リーダージャージと呼ばれる各賞に応じた色別のジャージがある。 前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手がそのジャージを着用する権利を手にいれる。マリア・ローザ
ピンク色のジャージ「マリア・ローザ」は総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マリア・ローザ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マリア・ローザ」着用の権利をもっている選手がジロの総合優勝者となる。色の由来はレース主催者のガゼッタ・デッロ・スポルトの紙面がピンクであるため。
マリア・チクラミーノ
シクラメン色のジャージ「マリア・チクラミーノ」は「スプリント賞」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算され、スプリントポイント1位の選手が「マリア・チクラミーノ」着用の権利を得る。1966年に初登場。
マリア・ヴェルデ
緑色のジャージ「マリア・ヴェルデ」は「山岳賞」に対して与えられる。登り坂の勾配と長さに応じて点数が設定された[4]山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手1位の選手が「マリア・ヴェルデ」着用の権利を得る。1933年に初登場。
マリア・アッズーラ
青のジャージ「マリア・アッズーラ」は「インテルジロ賞」に対して与えられる。各ステージの中間に設定されたインテルジロポイント地点の通過順位に応じてインテルジロポイントが加算され、インテルジロポイント1位の選手が「マリア・アッズーラ」着用の権利を得る。1989年初登場[5]。
マリア・チクラミーノと似た性格を持つが、長距離をこなした後のスプリントや山岳コースでは勝ち目の無いトラックレース出身のスプリンターが狙ってくることが多い。また、上位数名にしかポイントが与えられないため、コンスタントにポイント争いに勝利しないと獲得は望めない。そのため、前述のようにクライマーが獲得してしまうことのあるマリア・チクラミーノよりもスプリント賞としてのステータスは高い。
マリア・ビアンカ
白のジャージ「マリア・ビアンカ」は「新人賞」に対して与えられる。年齢25歳以下の選手が対象となり、各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マリア・ビアンカ」着用の権利を得る。
1976年に初登場。1994年以来消滅していたが、2007年に復活した。
そのほかの賞
特別なジャージはないが、総合成績・山岳・スプリントなどすべての賞で上位にいる選手に与えられる「敢闘賞」やファウスト・コッピの名を冠した賞で、その年の最大標高の山岳を1位で通過した選手に与えられる「チマ・コッピ」などの賞がある。また、総合成績トップのチームに与えられる「スーパーチーム」、進路妨害や危険行為、ドーピングなどの不正行為がもっとも少ないチームに与えられる「フェアプレー賞」などチームを対象にした賞も設定されている。
歴代総合優勝者
- 第4回のみ総合優勝はチームに与えられた。
日本人選手
日本での放送
日本では2002年よりJ SPORTSにて全ステージの中継が行われている。2006年から生中継が実現した。
脚注
- ↑ イタリア語に近く発音するなら「ジロ・ディターリア」となるが、それだと「イタリア」の発音が曖昧になってしまうため、日本語ではスペイン語を基にした「ジロ・デ・イタリア」と表記されることが多い。
- ↑ 2007年は第17ステージで距離10km、平均斜度11.9%、最大斜度22%というゾランコン山への登り坂が設定された。これはツール・ド・フランスで有名なラルプ・デュエズと比較して距離こそやや短いものの、平均斜度は1.5倍、最大斜度は約2倍となっている。
- ↑ 1956年にはモンテ・ボンドーネで猛吹雪が発生し40人以上がリタイア。1988年にはガビア峠で吹雪となり、ゴールした選手が次々に倒れる事態となった。また1995年にはガビア峠で雪崩が発生、先行するキャラバン隊が巻き込まれ、コースが短縮になるなどの事件が発生している。
- ↑ かつては同一カテゴリーの山には同じポイントが配分されていたが、純粋なクライマーでないにもかかわらず序盤から飛び出してコース前半の山岳ポイントを狙う逃げ屋対策として、近年ではコースの最後に置かれた山岳ポイントに限り倍の点数が与えられるなどの補正が行われることがある。
- ↑ 2007年は中止
外部リンク
- 公式サイト - イタリア語、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語で閲覧可能
- 歴史等紹介ページ(フランス語)
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