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'''宮内庁'''(くないちょう、英訳名:''Imperial Household Agency'' )は、[[日本の行政機関]]の一つ。[[皇室]]関係の国家事務、[[天皇]]の[[国事行為]]にあたる[[外国]]の[[大使]]・[[公使]]の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、[[御璽]]・[[国璽]]を保管する。
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'''宮内庁'''(くないちょう、英訳名:''Imperial Household Agency'' )は、[[日本の行政機関]]の一つ。[[皇室]]関係の国家事務、[[天皇]]の[[国事行為]]にあたる[[外国]]の[[大使]]・[[公使]]の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、[[御璽]]・[[国璽]]を保管する([[宮内庁法]]第一条)。[[内閣府設置法]]および[[宮内庁法]]により、内閣総理大臣の管理に属する機関として内閣府に置かれている。
  
 
== 沿革 ==
 
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宮内庁は、[[天皇]]に近侍した古代からの[[官職]]をその淵源とする。日本最古の歴史書とされる『[[日本書紀]]』の[[天武天皇]]9年([[680年]])の条には「宮内卿」「宮内官大夫」の官職が記述され、[[686年]]([[朱鳥]]元年)の条には天武天皇の葬送に際して「宮内事」を誄(しのびごと)したとあり、天武天皇の時代には原型となる官職が形成されたと見られる。その後、[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年)に定められた[[大宝令]]官制に至って、後の八省の一つとなる'''[[宮内省]]'''(くないしょう、みやのうちのつかさ)に類似した組織が定められたとされる。
 
宮内庁は、[[天皇]]に近侍した古代からの[[官職]]をその淵源とする。日本最古の歴史書とされる『[[日本書紀]]』の[[天武天皇]]9年([[680年]])の条には「宮内卿」「宮内官大夫」の官職が記述され、[[686年]]([[朱鳥]]元年)の条には天武天皇の葬送に際して「宮内事」を誄(しのびごと)したとあり、天武天皇の時代には原型となる官職が形成されたと見られる。その後、[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年)に定められた[[大宝令]]官制に至って、後の八省の一つとなる'''[[宮内省]]'''(くないしょう、みやのうちのつかさ)に類似した組織が定められたとされる。
  
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[[1945年]]([[昭和]]20年)の終戦の際には、宮内省は、1官房2職8寮2局のほか、[[内大臣府]]、[[掌典職]]、[[御歌所]]、[[帝室博物館]]、[[帝室林野局]]、[[学習院]]など13の[[外局]]と京都事務所を持ち、職員6,200人余を擁する大きな組織となっていた。その後、宮内省の事務を他の政府機関に移管もしくは分離独立して機構の縮小を図り、[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]の[[日本国憲法]]施行とともに、宮内省から'''[[宮内府]]'''となり、[[内閣総理大臣]]の所轄する機関となった。宮内府は、宮内府長官の下、1官房3職3寮と京都事務所が置かれ、職員数も1,500人弱となった。
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== 外部リンク ==
 
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* [http://www.kunaicho.go.jp/ 宮内庁ホームページ]
 
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== 参考文献 ==
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2018年5月22日 (火) 13:04時点における最新版

日本の旗 日本の行政官庁
Go-shichi no kiri crest.svg 宮内庁
くないちょう
Imperial Household Agency .jpg
宮内庁庁舎
長官羽毛田信吾
侍従長川島裕
次長風岡典之
組織
上部組織内閣府
内部部局長官官房侍従職東宮職式部職書陵部管理部
施設等機関正倉院事務所御料牧場
地方支分部局京都事務所
概要
所在地東京都千代田区千代田1番1号
定員1,053人[1]
年間予算177億6,630万円[2]
 (2007年度)
設置1949年(和暦??年)6月1日
改称
前身宮内府宮内省
ウェブサイトwww.kunaicho.go.jp
予算関係法令沿革等
  1. 宮内庁長官、侍従長、東宮大夫式部官長及び侍従次長を除く。
  2. うち、宮内庁費109億4,203万円及び宮廷費62億2,364万円の計171億6,567万円は、公金として宮内庁が経理する。
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宮内庁(くないちょう、英訳名:Imperial Household Agency )は、日本の行政機関の一つ。皇室関係の国家事務、天皇国事行為にあたる外国大使公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽国璽を保管する(宮内庁法第一条)。内閣府設置法および宮内庁法により、内閣総理大臣の管理に属する機関として内閣府に置かれている。

沿革[編集]

宮内庁は、天皇に近侍した古代からの官職をその淵源とする。日本最古の歴史書とされる『日本書紀』の天武天皇9年(680年)の条には「宮内卿」「宮内官大夫」の官職が記述され、686年朱鳥元年)の条には天武天皇の葬送に際して「宮内事」を誄(しのびごと)したとあり、天武天皇の時代には原型となる官職が形成されたと見られる。その後、701年大宝元年)に定められた大宝令官制に至って、後の八省の一つとなる宮内省(くないしょう、みやのうちのつかさ)に類似した組織が定められたとされる。

明治維新後の1869年明治2年)7月8日には、古代の太政官制に倣い、宮内省が組織され、その長官として宮内卿に万里小路博房、宮内大輔に烏丸光徳が就任した。明治4年6月25日明以降は宮内卿徳大寺実則、宮内大輔に万里小路博房と入れ替わった。徳大寺実則は明治17年3月21日まで宮内卿であった。

1885年(明治18年)に内閣制度が創設される際には、従来の宮内卿に替わって宮内大臣が置かれたが、「宮中府中の別」の原則に従って、宮内大臣は内閣の一員とされなかった。このとき、内大臣宮中顧問官などの官職も置かれた。最初の内大臣は三条実美が就任し、宮内大臣は伊藤博文総理大臣が兼務した。次官は吉井友実である。

1886年(明治19年)には宮内省官制が定められ、2課5職6寮4局の組織が定まった。宮内省には内事課、外事課、侍従職、式部職、皇太后官職、皇后官職、大膳職、侍医局、華族局、御料局、調度局のほか、明宮御用掛、御芸場掛、御歌掛、内蔵寮、皇宮警察、図書寮、内匠寮、主馬寮、学習院、華族女学校などが置かれた[1]1889年(明治22年)には、大日本帝国憲法の公布とともに、旧皇室典範が裁定され、皇室自律の原則が確立した。1908年(明治41年)には、皇室令による宮内省官制が施行され、宮内大臣は皇室一切の事務につき天皇を輔弼する機関とされた。

1945年昭和20年)の終戦の際には、宮内省は、1官房2職8寮2局のほか、内大臣府掌典職御歌所帝室博物館帝室林野局学習院など13の外局と京都事務所を持ち、職員6,200人余を擁する大きな組織となっていた。その後、宮内省の事務を他の政府機関に移管もしくは分離独立して機構の縮小を図り、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行とともに、宮内省から宮内府となり、内閣総理大臣の所轄する機関となった。宮内府は、宮内府長官の下、1官房3職3寮と京都事務所が置かれ、職員数も1,500人弱となった。

1949年(昭和24年)6月1日には、総理府設置法の施行により、宮内府は宮内庁となって総理府の外局となり、宮内庁長官の下に宮内庁次長が置かれ、1官房3職2部と京都事務所が設置された。2001年(平成13年)1月6日には、中央省庁等改革の一環として内閣府設置法が施行され、宮内庁は内閣府に置かれた。

庁舎[編集]

宮内庁庁舎は、1935年(昭和10年)に建設された。「宮内庁」の表札等はない。明治宮殿が焼失してから今の宮殿が建設されるまでの間仮宮殿として用いられた。

  • 所在地:東京都千代田区千代田1番1(皇居内・坂下門の北側)なお、皇居全体が一地域「千代田」である。
  • 宮内庁内郵便局大正13年9月に開局する。現在は郵便局株式会社が設置する郵便局。宮内庁職員など関係者のみ利用可能。
  • 食堂:宮内庁職員・関係者・記者クラブ関係者が利用できる普通の職員食堂であるが、ここには御料牧場で生産された牛乳の自動販売機が設置されており、食堂を利用できる者であれば誰でも購入できる。瓶牛乳1本60円。

組織[編集]

内部部局(長官官房、3職、2部)、2施設等機関、1地方支分部局を設置する。宮内庁長官と侍従長(侍従職の長)は認証官

侍従職と東宮職はそれぞれ天皇一家、皇太子一家の側近奉仕という特質上、皇位継承があった場合、東宮職の職員は即位した天皇皇后について侍従職に移り、逆にもとにいた侍従職のほとんどの職員が、大行天皇皇后であった皇太后の側近奉仕をする皇太后宮職に移るか、新皇太子の側近奉仕をする東宮職に移る。

宮中祭祀を担当する掌典職は、「内廷」の職員であって、宮内庁や国の機関の職員(国家公務員)ではない。詳細は当該項目を参照。

幹部[編集]

  • 宮内庁長官
  • 宮内庁次長

内部部局[編集]

施設等機関[編集]

地方支分部局[編集]

長官[編集]

1947年の宮内府設置、1949年の宮内庁改称と日本国憲法の施行以来一貫して長官の職は認証官であり、その任免は天皇により認証される。尚、近年では旧内務省系官庁の事務次官あるいはそれに準ずるポスト(警視総監)の経験者が就任するのが慣例となっている。

歴代宮内府長官[編集]

氏名 在任期間 備考
1 松平慶民 1947年5月3日 - 1948年6月5日 叙・一級
2 田島道治 1948年6月5日 - 1949年5月31日 叙・一級

歴代宮内庁長官[編集]

  • 2001年1月6日の中央省庁再編施行とともに叙級制度は廃止
氏名 在任期間 備考
1 田島道治 1949年6月1日 - 1953年12月16日 引き続き一級
2 宇佐美毅 1953年12月16日 - 1978年5月26日 叙・一級
3 富田朝彦 1978年5月26日 - 1988年6月14日 叙・一級
4 藤森昭一 1988年6月14日 - 1996年1月19日 叙・一級
5 鎌倉節 1996年1月19日 - 2001年4月2日 叙・一級
6 湯浅利夫 2001年4月2日 - 2005年4月1日
7 羽毛田信吾 2005年4月1日 - 2012年6月1日
7 風岡典之 2012年6月1日 - 2016年9月26日
7 山本信一郎 2016年9月26日 -

次長[編集]

歴代宮内府次長[編集]

氏名 在任期間 備考
1 加藤進 1947年5月3日 - 1948年8月2日 叙・一級
2 林敬三 1948年8月2日 - 1949年5月31日 叙・一級

歴代宮内庁次長[編集]

  • 1950年6月1日以降、叙級なし
氏名 在任期間 備考
1 林敬三 1949年6月1日 - 1950年10月9日 引き続き一級
2 宇佐美毅 1950年10月9日 - 1953年12月16日
- 1953年12月16日 - 1953年12月18日 宮内庁長官による事務取扱
3 瓜生順良 1953年12月18日 - 1974年11月26日
4 富田朝彦 1974年11月26日 - 1978年5月26日
5 山本悟 1978年5月26日 - 1988年4月13日
6 藤森昭一 1988年4月13日 - 1988年6月14日
7 宮尾盤 1988年6月14日 - 1994年3月31日
8 鎌倉節 1994年4月1日 - 1996年1月19日
9 森幸男 1996年1月19日 - 2000年3月31日
10 湯浅利夫 2000年4月1日 - 2001年4月2日
11 羽毛田信吾 2001年4月2日 - 2005年4月1日
12 風岡典之 2005年4月1日 -2012年6月1日
12 山本信一郎 2012年7月1日 -2016年9月26日
12 西村泰彦 2016年9月26日 -

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  1. 内閣官報局『職員録(甲)』(官報第1419号付録),明治19年

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