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2020年1月16日 (木) 00:04時点における最新版

本田 美奈子.(ほんだ みなこ、1967年7月31日 - 2005年11月6日)は、日本歌手女優である。2004年頃本田 美奈子から画数が31画となるよう名前の後に「.ドット)」をつける改名を行った。本名は工藤 美奈子(くどう みなこ)。

1980年代後半を代表するアイドル歌手であり、1990年代以降は主にミュージカルで活躍した。2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーに挑戦するなど、活躍した領域の広汎さでは日本の芸能史上出色の存在である。

生涯[編集]

1967年7月31日午前11時17分東京都板橋区上赤塚町(現赤塚)の成増産院で生まれ東京都葛飾区柴又に育つ。幼いうちに埼玉県朝霞市に移住。歌が好きで歌手になることを夢見ていた母の影響で幼い頃からいつも歌を歌っていた。小学校の卒業文集には「将来の夢は歌手」と書いていた。

中学生の時『スター誕生!』のオーディションを受け、決戦大会に進出したがプロダクションからのスカウトは受けなかった。1983年原宿で少女隊のメンバーを探していたボンド企画にスカウトされ芸能界に入る。社長の高杉敬二とはこの後ボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることになる。

当初の少女隊のメンバーという構想に反し、その歌唱力の高さを見込まれソロ歌手として活動することになる。1984年第8回長崎歌謡祭グランプリを受賞したことがデビューのきっかけとなった。翌1985年4月20日東芝EMIから「殺意のバカンス」でデビュー。4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」をヒットさせたほか、12月7日新人歌手としては異例の武道館コンサートを成功させた。同年の数多くの新人賞を受賞した。

1986年2月5日「1986年のマリリン」をリリースし大ヒットとなる。へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って本田の名を広く世間に知らしめた。同曲は今もって本田の最も有名な楽曲である。

1988年女性だけのメンバーによるロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成、シングル「あなたと熱帯」、アルバム『WILD CATS』などを発表した。同年9月11日SHOW-YAが企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『NAONのYAON』に出演。翌1989年秋に解散した。

1990年ミュージカルミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。1992年5月5日『ミス・サイゴン』日本初演。以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力を高く評価された。1992年第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞受賞。

1994年『屋根の上のバイオリン弾き』にホーデル役で出演。

1996年『王様と私』にタプチム役で出演。

1997年『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演。当時すでに日本初演の際にこの役を演じた島田歌穂が“世界一のエポニーヌ”と称されるほどの評判を得ていたが、本田もそれに劣らぬ評価と人気を獲得した。以後も繰り返しこの役で出演し、エポニーヌは本田の当たり役となった。

1998年エイズチャリティーコンサートで「ある晴れた日に(プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より)」を歌い、2000年3月20日サリン事件チャリティーコンサートではラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌った。同年6月19日シドニーオリンピックを記念して開かれたシドニーのオペラハウスでの日豪親善コンサートに服部克久の推薦により出演した際には「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」や「ある晴れた日に」を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。

同じく2000年10月13日にはデビュー15周年記念コンサート『歌革命』を開催、自身のシングル・メドレーのほか「天城越え」や「ある晴れた日に」などを歌った。

2002年『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。

2003年5月21日初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。

同年東宝によりシェイクスピアの戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために特に作られたものだった。

2004年地球ゴージャス制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。同年8月29日『N響ほっとコンサート』でNHK交響楽団と共演し「新世界」と「シシリエンヌ」を歌った。11月25日アルバム『時』をリリース。12月1日武道館での『Act Against AIDS』に出演、38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。

風邪に似た症状がなかなか治まらないため、2005年1月に病院の検査を受けたところ急性骨髄性白血病と診断され緊急入院。3回の化学療法による治療の後、5月に臍帯血移植を受け、7月末には一時退院できるまでに回復した。しかし2005年9月8日染色体異常が見つかり再入院した。11月3日肺に合併症を発し容態が急変、同年11月6日午前4時38分家族らの見守る中永眠した。37歳だった。法名は「釋 優馨(しゃく ゆうしょう)」とつけられた。

音楽[編集]

演歌ヘの志向[編集]

当初は演歌歌手志望で、事務所に持ってきたデモテープは演歌を歌ったものだった[1]。所属するボンド企画に演歌歌手を育てた経験がなかったためにアイドルとしてデビューすることになったものの、本人の強い意向で「殺意のバカンス」をデビュー曲とすることになったのはこうした志向によるものと考えられる。

またロックバンドを解散し再びソロに戻った頃には、新たな方向性として演歌歌手への転向が真剣に模索されていたと言われている。実際この時期に出演したテレビ番組では着物を着て演歌を歌った[2]ほか、演歌歌手として活動する方針であることがマスコミでも報じられており[3]、この計画はある程度具体化していたらしい。

この後にも「風流風鈴初恋譚」というオリジナル演歌と見做し得る楽曲を発表したほか、コンサートでは度々演歌の名曲をカバーしていた。結果的に演歌歌手として活動することはついになかったものの、演歌への志向は生涯を通じて本田の歌手活動に大きな影響を与えていたものと思われる。

海外ミュージシャンとの共演[編集]

元々は洋楽にはあまり詳しくなかったのだろうと見られている。ビートルズを知っているかと聞かれて「ずうとるびの反対」と答えたというエピソードもある(ただし本人は「ジョークで言ったの」と説明していた)[4]

しかしデビュー後は事務所社長の高杉に薦められてマリリン・モンローマドンナなど外国のスターの映像をくり返し見て演出の参考にしていた[1]。デビュー翌年の「1986年のマリリン」のヒットはその成果といえる。さらにこの年にはゲイリー・ムーアから楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした「the Cross -愛の十字架-」が制作された。

1987年にはブライアン・メイのプロデュースによりシングル「Crazy Nights」(カップリングは「Golden Days」)が制作された。本田は武道館でのコンサートでフレディ・マーキュリーの「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」をカバーしており、このコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてブライアンに送ったところ彼の方から申し出がありコラボレーションが実現した。このシングルの英語版はイギリスをはじめヨーロッパ20ヵ国でリリースされた(なおこの海外盤では「Golden Days」の方がA面扱いになっている)。

この年はさらにマイケル・ジャクソンの招待で訪れたロサンゼルスで録音した全曲英語詞のアルバム『OVERSEA』を発表している。このアルバムはアメリカでも発売された。このようにデビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていた。

影響関係[編集]

ミス・サイゴン』への出演をきっかけに訳詞を担当していた岩谷時子と懇意になった。岩谷は本田の歌手としての力量を高く評価し、かつてマネージャーを務めていた越路吹雪と重ね合わせて見ていたようである。この後本田は前述の「風流風鈴初恋譚」のほか、オリジナル曲としてはファンの間で最も人気のある「つばさ」など、岩谷からの詞の提供を数多く受けるようになる。後にクラシックアルバムを制作するにあたっても日本語詞の多くを岩谷が提供している。

また岩谷からくり返し思い出話を聞かされていたことから越路吹雪への強いあこがれを抱くようになった。アルバム『JUNCTION』では越路の代表曲である「愛の讃歌」と「アマリア」をカバーしている。

もう一人本田の歌手活動に大きな影響を及ぼした人物としてサラ・ブライトマンの名が挙げられる。インタビューなどでは度々サラへのあこがれを口にしていた。ミュージカルで大成した後クラシックの楽曲に取り組み、クラシカル・クロスオーバーというジャンルの隆盛をもたらしたサラの存在は、クラシックへの志向を強めていた本田の進路決定に際し道しるべのような役割りを果たしたものと思われる。

歌唱技術[編集]

本田は新たな活躍の場に挑むごとに音域や唱法のバラエティーを広げてきた。クラシックの楽曲を歌うことになった経緯については自身「ミュージカルでいろんな役をこなしているうちにそれまで出せなかったような声を出せるようになった」と説明していた。

『ミス・サイゴン』でキム役をダブルキャストで務めた入絵加奈子は当時本田が「裏声は得意じゃない」と話していたと証言している[5]。しかし『屋根の上のヴァイオリン弾き』のホーデル役はクラシックの声楽のような発声による裏声を求められる難しい役で、『王様と私』のタプチム役ではさらに高い音域を歌うことを要求されたが、トレーニングを積んで見事にこれをこなした。同時期に制作されたアルバム『晴れ ときどき くもり』にはファルセットを多用した楽曲も目立ち、「Lullaby〜優しく抱かせて」の間奏ではオペラ的発声による高音域のスキャットを披露している。


『屋根の上のヴァイオリン弾き』以来本田のボイストレーナーを務めてきた岡崎亮子は最初に会った時あまりに華奢な体つきに不安になったという。しかし背中をさわってみるとしっかりとした筋肉がついていたので大丈夫だと確信したと述べている[1][6]

1994年発表の「つばさ」には後半に10小節にわたって声を伸ばすロングトーンがある。この部分はファンの間で本田の歌唱力の粋として名高く、彼女をよく知らない聴衆を前にしたコンサートでもその実力のほどを知らしめるのに十分だった。その伸びやかな声を支えていたのはその強靭な背筋だった[6]


音域は最終的には3オクターブに達していた。これは例えば通奏低音パートも含めて一人で歌ったアルバム『時』所収の「パッヘルベルのカノン」に遺憾なく発揮されている。

しかも本田にはその広い音域を均質な響きの声で発することが可能だった。『レ・ミゼラブル』での共演以来公私ともに親しくしていた森公美子は、普通の歌手には存在する“チェンジ”と呼ばれる地声と裏声が切り換わるポイントが彼女の場合にはどこにあるかわからないと指摘している[6]

正規のクラシックの声楽のトレーニングを受けることなくソプラノ的な唱法を会得したという点では彼女が強くあこがれていたサラ・ブライトマンと共通している。しかしルバートポルタメントの多用などサラの歌唱には聴かれない特徴もあり、本田独自のスタイルと見做すこともできるだろう。


演奏家には何度演奏しても同じように演奏するタイプと、その場の感興に応じて表情を変化させていくタイプがあるが、本田は典型的な後者のタイプだった。一連のクラシックアルバムで編曲を務めた井上鑑は「彼女の場合はまわりが変わると、その変化を反映していくような感性を持っている」と語り[1]、プロデューサーの岡野博行は『AVE MARIA』の「ヴォカリーズ」について「テイクによって驚くほど様々な表情が生まれた」と述べている[7]。本田自身はミュージカルのロングランでもテンションが落ちない理由について「何百回やっても毎回違うからちっとも飽きない」と語っていた[8]

作詞・作曲[編集]

「愛が聞こえる」(シングル「勝手にさせて」(1989年5月31日発売)のカップリング)で初の作詞を手がけたのを皮切りに多くの詞を残している。結婚が決まった妹に贈った「あなたとI love you」(シングル「Fall in love with you-恋に落ちて-」(1995年11月6日発売)のカップリング)では作詞とともに初の作曲を手がけた。これを含めて生涯に3曲を作曲している。

人物[編集]

人柄[編集]

初期の活動の仕方はまさしく当時のアイドル歌手のスタイルそのものだったが、本人はアイドルと呼ばれるのを嫌っていた。デビュー曲も本人の強い希望でアイドル色の強い「好きと言いなさい」から大人の歌謡曲の雰囲気漂う「殺意のバカンス」に変更された。つねづね「アーティストでありたい」と口にするなど、しばしば事務所やレコード会社の描くイメージ戦略通りの姿を演じることを要求されるアイドル歌手の枠には収まり切らない言動が当初から目立っていた。若い時から自己の信念を確立していた人であったことが窺われる。

『ミス・サイゴン』への出演は歌手としてのキャリアだけでなく、人格の上においても大きな転機となった。大勢の人が力を会わせて一つの作品を完成させるという作業を通じて、人との協調性の大切さを認識するようになったと述懐している。生前親交のあった関係者は「決して人の悪口を言わない人だった」と口を揃える[6]


生涯子供を持つことはなかったが、とても子供好きであったことが知られている。姪や甥には「ママ」と呼ばせて愛情をそそぎ[9]、ファンクラブの会合にファンが子供を連れて行くと大喜びしていた。『ミス・サイゴン』の楽屋では子役で出演する子供たちを我が子のようにかわいがっていたというエピソードも伝えられている。

歌への情熱[編集]

舞台に生きる[編集]

東宝のプロデューサー、酒井喜一郎から『ミス・サイゴン』のオーディションの話を聞かされた時、初めは関心を示さなかったが全編歌で構成されたミュージカルであることを知ると目の色を変えて意欲を示すようになった。1990年秋に始まったオーディションの選考は数ヵ月にわたり、翌1991年1月13日にキム役に決定すると3月以降の全ての予定をキャンセルして公演に備えた。

開幕にあたっては「私は舞台では、演じないからね。生きるからね。強く生きてみせるからね」と抱負を語っていた[6]。この言葉にスタニスラフスキーの(おそらくは間接的な)影響を見ることも可能だろう。


ミス・サイゴン』の公演開始から一月ほど経った頃、本番中に舞台装置の滑車に右足を轢かれるという事故が起きた。そのまま一幕最後の「命をあげよう」までを歌い切ったが、舞台から下がった後靴を脱がせてみると骨が露出しているほどの大怪我だった。岸田敏志ら共演者にすぐに病院へ行くよう指示されたが本人は最後まで演じ切ると主張して譲らず、「(ダブルキャストの)入絵加奈子と連絡がついて今こちらへ向かっている」と言い聞かされて初めて安心したかのように泣き出した。

病院で診察を受けると足の指4本を骨折しており、19針を縫う重傷だった。全治3ヶ月と診断されたがリハビリに励み、誕生日の7月31日に復帰を果たした。

歌に捧げた人生[編集]

デビュー当初は「二十歳までに結婚したい」と語っていたこともあるが、実際には生涯独身を通した。いつの頃からか結婚への願望をふっ切るようになったようである。本田に妹のようにかわいがられていた高杉の娘、河村和奈は「私は歌と結婚したから今生では結婚できないの」とうれしそうに話していたと証言している[6]


アルバム『AVE MARIA』の収録を終えた後、ジャケット制作のためスタッフとの顔合せが行われた。その席で本田は「私はこのアルバムに命を賭けていますので、絶対に失敗できないのでよろしくお願いします」と挨拶した。


舞台には歌の神様がいると話し、いつも出番の前には舞台の天井を見上げて祈りを捧げていた[6]。2004年12月23日のクリスマス・コンサートではめずらしく舞台裏の様子を撮影することを許可していた。このため写真家の原田京子は誰もいない舞台で天井に両手を差し伸べて祈る本田の姿をとらえることに成功している[1]。これが一般の観客を前にしたものとしては最後のコンサートとなった。

復帰を目指して[編集]

本田の入院中に岩谷時子が銀座の路上で転倒し大腿骨を骨折する事故があった。この知らせを受けた高杉は本田の入院している病院に連絡を取り、岩谷はそこに運び込まれた。

恩師と同じ病院で入院生活を送ることとなった本田は岩谷を励ましたいと思ったが、彼女は無菌室から出ることができなかった。そこで本田はヴォイスレコーダーに歌を吹き込んで岩谷の病室に届けていた。この録音は三十数曲にも上り、一部はフジテレビの追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』で紹介された。


38才の誕生日の前日に一時退院を許された際、世話になった医師や看護師のためにナースステーションで「アメイジング・グレイス」を歌った。この時の録音は上記の追悼番組でフルコーラス流されたほか、2006年7月から一年間放送された公共広告機構の骨髄バンク支援キャンペーンのテレビコマーシャルでも使用された。

手記・歌詞に綴られた言葉[編集]

本田は数多く詞を手がけているほか折りにふれ感じたことを手記に残しており[10]、それによりその思想の一端を窺い知ることができる。

自然・平和への愛[編集]

自然が人の手により破壊されつつある現状には深い関心を寄せていた。「地球へ」と題する手記では子供の頃に朝霞に残る豊かな自然の中で遊んだ思い出を振り返りながら、人と自然との共生への祈りのような思いを書き綴っている。実生活でも自宅近くに市民農園を借りて野菜を作り、そこで近隣の人たちとの交流を楽しんだり、とれた野菜を仕事仲間と一緒に食べたりと自然とふれ合う暮らしを実践していた。

自ら作詞した「タイスの瞑想曲」(アルバム『AVE MARIA』所収)は平和への祈りの歌である。2004年にミュージカル『ひめゆり』に出演した際にプログラムに寄せたメッセージ[11]ではこの歌に言及しつつ、過去に悲惨な戦争を経験しながら今なお戦いを続ける人々がいることを憂え、平和の尊さを訴えている。そして身近にある小さな幸せを感じながら時を過ごすことの大切さを語りかけている。

小さな幸せ・時[編集]

この「小さな幸せ」は晩年の本田が好んで用いていた言葉であり、この言葉をタイトルにした手記も残している。日々の生活の中で当り前のようにそこにある小さな幸せに気づくことが大切だとくり返し述べていた。発病後一時退院を許されていた時に高杉と家の近くを散歩していて、蒸し暑さに不平を言う高杉に風を感じる幸せを教えさとしたというエピソードも伝えられている[1]

そしてこの言葉は「時」という主題への関心と結びついていたようである。最後のオリジナル曲となった「時-forever for ever-」は本田が岩谷に名前の一字をとって「時」というタイトルの詞を書いて欲しい、と発注して生まれたものであり、この歌はアルバムのタイトルトラックになった。このアルバムに収められたドヴォルザークの交響曲に自ら詞をつけた「新世界」や、本田の書き残した言葉を元に作られた追悼曲の「wish」も時を主題とした歌と見做すことができる。このように最晩年に時について歌いたいという強い意志を抱いていたことは、本田の到達点を理解する上で極めて重要な手がかりになると考えられる。

評価[編集]

受賞・ランキングなど[編集]

  • デビューした1985年には各種歌唱賞の新人賞を数多く獲得した。しかし賞レースの総本山ともいえる大晦日の『日本レコード大賞』(TBS)においては、新人賞は受賞したものの最優秀新人賞は受賞出来なかった(同賞を受賞したのは、TBS系テレビドラマ『毎度おさわがせします』に出演していた中山美穂)。
  • アイドル時代はヒットチャート上位の常連だったが、オリコンチャートで一度も1位獲得をしたことはなく、最高位は「HELP」「Oneway Generation」「孤独なハリケーン」の2位だった。アイドル時代の彼女の代名詞的な存在である「1986年のマリリン」は3位止まり。
  • 何度となく出演した『ザ・ベストテン』でも一度も1位を獲得したことがなかった。逝去後に『ドリームプレス社』で追悼特集が組まれた際には『ザ・ベストテン』のセットが使用され、最後に「アメイジング・グレイス」が9999点で1位として紹介された。
  • NHK紅白歌合戦』に出場経験がない。当時のNHKにとって“へそ出しルック”で腰を振りながら歌っていたのがマイナス要因になったかと思われる。またデビュー当時の所属事務所であるボンド企画が所属歌手の紅白出場にさほどこだわらなかったのも要因かも知れない(同社所属だった紅白出場歌手は松崎しげる杏里のみ)。
  • ゴールデン・アロー賞は上述の演劇新人賞のほか音楽新人賞(第23回=1985年度)、グラフ賞(第24回=1986年度)、そして芸能功労賞(第43回=2005年度)と計4度受賞している。芸能功労賞受賞時の享年38は、芸能功労賞の前身にあたる特別賞を受賞の松田優作(第27回=1989年度)の享年40(戸籍上は39)を下回る、物故者最年少受賞となった。
  • 1987年第4回ベストジーニスト賞一般選出部門、2003年第2回日本ゆかた大賞など、ファッション関係の受賞もある。
  • アルバム『アメイジング・グレイス』は本田の死後に売上が急上昇、オリコンの推定累計売上枚数は17万枚を突破、日本人が歌うクラシックアルバムとしては初のオリコン TOP10入り(7位)を記録した。『AVE MARIA』は22位、『』も39位まで上昇している。また同じ歌手のアルバムでポップスとクラシックの両方とも TOP10入りしたのも初のケースである。

逝去後の社会の反応[編集]

  • 葬儀で弔辞を述べた岸谷五朗やテレビ番組をかけ持ちして思い出を語った岸田敏志、通夜に参列した後会見で悲痛な思いを述べた南野陽子など追悼のコメントを寄せた著名人は枚挙に暇がない。海外ではブライアン・メイが彼女との思い出の写真とともに追悼のメッセージを自身のオフィシャルサイトに掲載した[12]
  • 逝去後の報道で「アメイジング・グレイス」を歌うライブ映像が繰り返し流されたことで、日本ではこの歌と本田の存在とが強く結びついて人々に印象づけられることとなった。この歌の作詞者ジョン・ニュートンの自伝「『アメージング・グレース』物語」(2006年12月7日、彩流社)を翻訳した中澤幸夫は「本田美奈子.さんがこの歌を広めたと言っても過言ではない」としている[13]
  • フジテレビ系列で追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』が放送された。これは本来は白血病からの復帰を前提として難病を克服した本田の姿を放送するために準備されていたもの。生前公私ともに親しくしていた岩崎宏美がナレーションを務めた。ほかに『たけしの誰でもピカソ』、『題名のない音楽会21』、『ミュージックフェア21』、『徹子の部屋』、『ドリームプレス社』などでも追悼特集が組まれた。
  • 彼女の公式ファンクラブは多数の要望により没後も存続することが決定し、今も会員数を増やしている。
  • 岩崎宏美がカバーアルバムのシリーズ第3弾『Dear Friends III』(2006年9月27日発売)に収録する曲目のリクエストを募集したところ本田の「つばさ」が圧倒的1位になり、このアルバムの終曲として収められた。岩崎はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演したアルバム『PRAHA』(2007年9月26日発売)にも本田への献辞とともに「つばさ」を収録している。
  • 2006年7月から1年間公共広告機構(AC)の骨髄バンク支援キャンペーンに起用された[14]。本田の逝去後骨髄バンクへの登録者数は増え続けており、目標としていた30万人に近づこうとしている。本田の若くしての急逝が大きく影響したものと見られている。
  • 幼少時代から亡くなるまで住んでいた埼玉県朝霞市は、本田の功績を称えて東武東上線朝霞駅の南口駅前広場に記念碑を建設した。これは駅前整備事業の一環として朝霞市の商工会議所の発案で企画されたもの。生誕40周年にあたる2007年7月31日に本田の母、所属事務所社長の高杉、親友の早見優らの臨席のもと除幕式が行われた。闘病中に書いた「笑顔」と題する詩と本田の写真のパネルがはめこまれ、「ありがとう。心を込めて... 本田美奈子」という言葉が刻まれており、ボタンを押すと「新世界」の歌声が流れる仕組みになっている。

交友関係・その他[編集]

  • 本田が出場した『スター誕生!』の決戦大会には同時に松本明子徳永英明が出場しており、松本がグランプリを獲得した。
  • 東京成徳短期大学附属高等学校(現:東京成徳大学高等学校)普通科から芸能界デビューのため堀越高等学校(堀越学園)に転校。同級生にいしのようこ岡田有希子長山洋子南野陽子森奈みはるらがいる。南野とは編入試験で席が隣同士になったのを機に親しくなり、以来終生の友情を結んだ。
  • 芸名は本田より先にデビューしてすでに名前を浸透させていた工藤夕貴と名前が被らないようにとの配慮と、世界的に活躍してほしいという意味を込め、自動車メーカーのHONDAに因んで付けたと言われている(当時MAZDAに因んで芸名をつけたとされる松田聖子の人気が絶頂だった)。
  • その工藤夕貴とは従姉妹関係にあるという噂があったが、工藤は本田の逝去後のマスコミ取材に対し「噂である」と否定している。
  • ミュージカル『十二夜』の作詞を担当していたのはアイドルとして同時代に活躍した斉藤由貴だった。
  • 2005年は本田のデビュー20周年にあたる年だった。それを記念してミュージカルの名曲を集めたアルバムの制作が進められていた。これに収録するため2004年12月27日に『マイ・フェア・レディ』の「踊りあかそう」と『十二夜』の「ララバイ」を歌ったのが最後のスタジオ録音になった。
  • 白鵬はファンからプレゼントされた本田のアルバム『アメイジング・グレイス』を愛聴している[15]。このことを知った本田の所属事務所は2006年の夏場所中に宮城野部屋を訪れて、この年の4月に朝霞市で行われた追悼展のグッズをプレゼントして激励した[16]

LIVE FOR LIFE[編集]

本田は急性骨髄性白血病のために入院中、同じ病気に苦しむ入院患者とのコミュニケーションや、ファンや仕事仲間からの応援メッセージにより励まされていた。そしてこの難病を克服して再びステージに立つことが同じように難病と闘う人へのエールとなると考えていた。

彼女の遺志を継ぐために、遺族や生前の友人、仕事で関わった関係者が白血病をはじめとする難病に苦しむ患者を支援するための活動として“LIVE FOR LIFE”(リブ・フォー・ライフ)を立ち上げた。この名前は「生きるために生きる」、「生きることそれ自体に意味がある」という晩年の本田の思想に基づいてつけられている。具体的には全国各地での本田の追悼イベントや公式サイトでオリジナルグッズの販売や募金の受け付けなどを行っている。2006年6月には骨髄移植推進財団と正式にパートナーシップを結び、骨髄バンクの普及啓発活動を支援することになった。

この“LIVE FOR LIFE”に関連したイベントのうち、特筆すべきものは本田の出身地である埼玉県朝霞市で行われた追悼展であった。これは現職の市長が陣頭指揮にあたり、“LIVE FOR LIFE”事務局・所属事務所などの企画協力によるもので、開催2日間(うち1日は朝霞市民のみ)で約5000人の観客を集めた。地元朝霞の人たちをはじめ、休日かつ入場無料ということもあり全国からファンが集まった。内容も生前の写真や衣装の展示のほか、約50分におよぶフィルムコンサートが行われた。

ディスコグラフィー[編集]

シングル[編集]

シングル[編集]

  1. 殺意のバカンス1985年4月20日
  2. 好きと言いなさい (1985年7月20日
  3. 青い週末 (1985年8月31日
  4. Temptation (誘惑) (1985年9月28日
  5. 1986年のマリリン1986年2月5日
  6. Sosotte (1986年5月1日
  7. HELP (1986年7月23日
  8. the Cross -愛の十字架- (1986年9月3日
  9. Oneway Generation1987年2月4日
  10. CRAZY NIGHTS / GOLDEN DAYS (1987年4月22日
  11. HEART BREAK (1987年6月22日
  12. 孤独なハリケーン (1987年9月9日
  13. 悲しみSWING (1987年11月25日
  14. あなたと、熱帯1988年7月6日
    • 「MINAKO with WILDCATS」名義。
  15. Stand Up~Full Metal Armor (1988年11月30日
    • 「MINAKO with WILDCATS」名義。
  16. 勝手にさせて1989年5月31日
    • 「MINAKO with WILDCATS」名義。
  17. 7th Bird "愛に恋" (1989年10月11日
  18. SHANGRI-LA1990年7月4日
  19. つばさ1994年5月25日
  20. ら・ら・ば・い~優しく抱かせて1995年5月10日
  21. 僕の部屋で暮らそう (1995年7月26日
    • TBS系『TICOS』主題歌。
  22. Fall In Love With You -恋に落ちて- (1995年11月6日
  23. shining eyes1996年7月21日
  24. 風のうた1999年11月21日
  25. Honey (2000年10月21日
  26. 星空2001年1月24日
  27. ナージャ!!2003年2月21日
  28. 新世界2004年5月14日
    • 生涯最後のシングルとなった。

非売品シングル[編集]

  1. おおらか~北国の空の下で~ (1994年12月24日)
    • 十勝イメージソング。1997年発売の「移りゆく時代 唇に詩 ~阿久悠 大全集~」というボックスのDISC14に収録されている以外は一切発売されていない。
  2. 素敵な明日のために - (1997年
  3. Get chance! (2000年)

ダウンロード[編集]

  1. 満月の夜に迎えに来て
    • コンビニエンスストアに設置されていたミュージックポッドという機械でMDへのダウンロードという形式でリリースされていた楽曲。2000年頃のリリース開始と見られる。数少ない本田の作詞作曲担当曲である。後に関西の「MUSE」というローカルアイドルによってカヴァーされている。没後に発売されたアルバム『優しい世界』で初のソフト化となった。
  2. 好きからはじめよう2006年11月6日
    • ファンクラブのテーマソングとして歌われている楽曲。没後にWEB限定販売されている。

アルバム[編集]

オリジナルアルバム[編集]

  1. M'シンドローム1985年11月21日
  2. LIPS (1986年6月4日
  3. CANCEL (1986年9月28日
  4. OVERSEA1987年6月22日
  5. Midnight Swing (1987年12月16日
  6. WILD CATS (1988年8月5日
    • 「MINAKO with WILDCATS」名義。
  7. 豹的 (TARGET)1989年7月5日
    • 「MINAKO with WILDCATS」名義。
  8. JUNCTION1994年9月24日
  9. 晴れ ときどき くもり1995年6月25日
  10. AVE MARIA2003年5月21日
  11. 2004年11月25日
  12. 心を込めて...2006年4月20日
  13. 優しい世界2006年12月6日

ベストアルバム[編集]

  1. MINAKO COLLECTION1986年12月20日
  2. Look over my shoulder1988年10月26日
  3. LIFE -Minako Honda. Premium Best- (2005年5月21日
  4. アメイジング・グレイス2005年10月19日
  5. I LOVE YOU2006年3月29日
  6. ANGEL VOICE ~本田美奈子.メモリアル・ベスト~2007年4月18日
  7. CLASSICAL BEST ~天に響く歌~2007年4月20日

ライブアルバム[編集]

  1. ザ・ヴァージン・コンサート1986年2月20日
  2. DISPA 19871988年1月25日

サウンドトラック[編集]

  1. パッセンジャー (1987年10月26日

その他[編集]

  1. ゴールデンベスト (1987年6月5日
  2. バラードコレクション (1989年6月7日
  3. best now (1989年9月13日,1990年11月14日
  4. SHANGRI-LA -BEST POP COLLECTION- (1990年12月12日
  5. Stand up -BEST BEAT COLLECTION- (1990年12月12日)
  6. Big Artist Best Collection (1994年12月7日
  7. TWIN BEST (1998年5月13日
  8. 2000 millennium BEST (2000年5月24日
  9. Golden☆Best (2003年6月25日
  10. NEW BEST 1500 (2005年8月24日
  11. CD&DVD THE BEST (2005年12月7日

CD BOX[編集]

  1. 美奈子・全仕事 (1987年8月5日)
  2. 本田美奈子BOX (2004年12月15日)

ビデオ / DVD[編集]

  1. The Virgin Live In Budokan
  2. DANGEROUS BOND STREET
  3. DRAMATIC FLASH
  4. DISPA 1987
  5. MINAKO in L.A.
  6. 勝手にさせて
  7. TROPICAL HOLIDAY
  8. TROPICAL HOLIDAY In HAWAI

参加作品[編集]

オムニバス[編集]

  1. TOKYO(1993年7月1日)
    • 都政50周年記念アルバム。2曲目「I LOVE TOKYO」で参加。

ゲスト参加[編集]

  1. JAZZ BREEZE-スイート・メモリーズ(2002年3月6日)
    • 西直樹のアルバム。7曲目「SWEET MEMORIES」にスキャットで参加。
  2. Glorius Voice(2002年7月3日)
    • 今井清隆のアルバム。6曲目「愛すること(『ロミオとジュリエット』より)」でデュエット。
  3. Beauty and the Beast-The Duets(2002年10月19日)

ミュージカル録音[編集]

  1. Miss Saigon -日本公演ハイライト盤- (1992年4月8日
  2. Miss Saigon -帝劇公演完全ライブ盤- (1993年5月19日
  3. 王様と私 -特別公演全幕ライヴ盤- (1998年2月18日
  4. 十二夜 -ハイライト・ライヴ録音盤- (2003年11月14日

トリビュート[編集]

  1. wish(2006年11月1日)
    • クラシックアルバムで編曲を担当していた井上鑑が本田の入院中に復帰第一作として提供していた楽曲。本田自身が作詞して歌う予定でいたが実現することなく世を去ったため、井上の呼びかけに応じて集まったミュージシャンが“INOUE AKIRA & M.I.H.BAND”の名義で追悼シングルとして完成させた。歌詞は本田の書き遺した言葉をもとに一倉宏が補作した。

舞台(ミュージカル)[編集]

  1. ミス・サイゴン キム役(東宝帝国劇場、1992年 - 1993年)
  2. 屋根の上のバイオリン弾き ホーデル役(1994年、1998年)
  3. 王様と私 タプチム役(青山劇場・帝国劇場)(1996年、1999年、2000年、2002年)
  4. レ・ミゼラブル エポニーヌ役(東宝・帝国劇場、劇場飛天中日劇場、1997年 - 2001年)
  5. ひめゆり キミ役(ミュージカル座、2002年、2004年)
  6. 十二夜 ねこ役(帝国劇場、2003年)
  7. クラウディア クラウディア役(日生劇場・大阪フェスティバルホール他、2004年)
  • 『レ・ミゼラブル』の2005年公演ではファンティーヌ役で出演を予定していたが病気のため休演を余儀なくされた。新たな代役は立てられず、同時にキャスティングされていたマルシア井料瑠美が本田の出演予定日を勤めた。
  • 『クラウディア』の2005年公演も同様に休演。こちらはプライベートでも親交のあった工藤夕貴が代役を勤めた。

出演[編集]

TVドラマ[編集]

TV司会[編集]

  • 大都会の遊び方(BS朝日)

映画[編集]

  • パッセンジャー -過ぎ去りし日々-(1987年)
  • ダンディーとわたし(1991年)
  • 実録日本ヤクザ抗争史 鯨道4 残侠譜 完結編(2001年)

CM[編集]

広告[編集]

  • 青葉台東急スクエア
  • 朝霞警察署
  • オートラマ
  • サッポロ かんぞう奉行

ラジオ[編集]

  • KIDS IN TOSHIBA かぼちゃークラブ(1985年5月1日 - 、ニッポン放送)
  • ラジオ DE ME HER アイドルナイトパーティー(1985年10月11日 - 、文化放送)
  • ジェミニ・ミュージックパートナー ときめいて美奈子(1985年10月12日 - 1986年4月5日、TBSラジオ)
  • とびだし美奈子とそれゆけおぼっちゃま(ニッポン放送)
  • Spirit of the radio with Minako(1989年4月1日 - 1990年4月1日)
  • 本田美奈子 Blue Spring Club(1996年、FM秋田・FM福井・FMとやま・FM中九州・FM青森・FM岩手・FM徳島・FM香川・FM鹿児島・FM新潟

書籍[編集]

  • 好きといって…
  • あぶない危ない少女
  • 果汁120パーセント
  • SPARKLING
  • 私・激(シゲキ)して -夏
  • その気になって -カッ飛んじゃおうゼ
  • BATHROOM ANGEL
  • CANCEL
  • WHAT'S
  • APPETIZER
  • SAIGON
  • 時間のない島
  • ボーカルスコア「AVE MARIA」
  • ボーカルスコア「時」
  • 本田美奈子.メモリアル
  • 天国からのアンコール vol.1 1986年のマリリン
  • 天国からのアンコール vol.2 2006年のマリリン
  • ボーカルスコア「心を込めて…」
  • 天に響く歌~歌姫本田美奈子.の人生

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 『天に響く歌-歌姫・本田美奈子.の人生』 ワニブックス、2007年
  2. 1990年4月22日放送の「ミュージックフェア
  3. 『スポーツニッポン』1990年11月1日
  4. TBSラジオ『C-C-Bのいたずらジャック・ポット』ゲスト出演の際のトーク
  5. 入絵加奈子ファンサイトに寄せられた入絵本人からのメッセージ
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 テレビ東京系列『誰でもピカソ』本田美奈子.追悼特集 関東地方などでは2006年11月10日、17日放送
  7. 『AVE MARIA』ライナーノートの岡野による曲目解説
  8. 2002年8月31日東京オペラシティで行われた『グラツィエ・コンサート』でのゲストの石井一孝とのトーク
  9. 『女性自身』2007年5月1日号
  10. 2006年1月22日山形交響楽団の有志によって行われた『本田美奈子.追悼 白血病撲滅チャリティーコンサート』で本田直筆の手記を印刷したパネルが展示されていた
  11. ミュージカル座のオフィシャルサイトの本田の追悼ページに彼女の舞台での写真とともに掲載されている
  12. 現在でも公式サイトの逝去当日の過去ログで閲覧可能
  13. 本日出版!「アメージング・グレース」物語 ― ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝
  14. 支援キャンペーン:本田美奈子.(公共広告機構公式ページ)
  15. 『スポーツニッポン』2006年1月14日
  16. 『サンケイスポーツ』2006年5月22日

外部リンク[編集]

関連項目[編集]