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2013年8月28日 (水) 20:03時点における版
中川 昭一(なかがわ しょういち、1953年7月19日 ‐ 2009年10月3日)は、日本の政治家。
衆議院議員を8期務め、農林水産大臣、経済産業大臣、内閣府特命担当大臣(金融担当)などの要職を歴任した。
人物
自由民主党の衆議院議員として、初めは北海道第5区、小選挙区比例代表並立制導入後は北海道第11区から選出され、2009年(平成21年)の落選まで、連続8期を務めた。
その間、農林水産大臣、経済産業大臣、財務大臣、内閣府特命担当大臣(金融担当)などの閣僚経験を得たほか、安倍政権下では自由民主党政務調査会長のほか、集団的自衛権に関する自由民主党特命委員長を務めた。また、北朝鮮日本人拉致事件に関しては超党派の北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟の会長代行、党内では拉致問題特命委員長を務めた。
外交では親台派と知られ、中華民国総統であった李登輝とは懇意であった。中川が大臣に就任する際には李からの祝意が寄せられ、また中川は李を人間として慕っていた。
人物像
父親は、農林水産大臣や科学技術庁長官を歴任した中川一郎、叔父には元参議院議員の中川義雄がいた。尊敬する政治家としては、父・中川一郎のほか、かつてのイギリス首相、ヘンリー・ジョン・テンプルを挙げていた。
趣味は水鉄砲とサッカー、自宅で花を育てることであり、特技はテニスであった。政界きっての読書家としても知られ、自身のウェブサイトにも読書の感想を多く記していた。
2004年(平成16年)の、いわゆる『年金未納問題』では、中川が国会議員当選以来一度も年金保険料を納入していなかったことが明らかとなったが、議員年金には加入していた。
テレビの報道番組 『報道2001』(フジテレビ)には度々出演していた中川だが、同番組での注目度は高く、中川が出演する際には視聴率が上昇していたという。
経歴
生い立ち
1953年(昭和28年)7月19日、当時北海道開発庁に勤務していた中川一郎と、その妻・貞子の長男として、東京都渋谷区宮代町(現在の渋谷区広尾)に生まれた。本籍地は、北海道広尾郡広尾町。父一郎は、新婚間もなく東京に赴任していた。
昭一には口唇口蓋裂(兎唇)の障害があり、幼児期と大学卒業後の2回、形成手術を受けている[1]。
学生時代
新宿区立落合第一小学校から麻布中学校・高等学校に進学した。中学受験時、母・貞子は昭一を塾や家庭教師に頼らせず、参考書を用いての自学のみで合格させたという。麻布時代には、それまで行っていたサッカーを大学受験のために止めたが、心臓肥大を患うこととなった。家では護憲派の学者・宮沢俊義の話をし、父・中川一郎に憤怒されたことがあるという。
現役受験後には慶應義塾大学経済学部へ入学したものの約1年間で退学、高校卒業から2年を経た1974年(昭和49年)、東京大学文科Ⅰ類に再入学し、同大学法学部政治学科に学んだ。
銀行員時代
大学卒業後の1978年(昭和53年)4月、中川は日本興業銀行に入行、その後約5年間に渡って同行に勤めた。
父の急死政界入り
1983年(昭和58年)1月、自由民主党衆議院議員在職中だった父・一郎が自殺する。
中川は翌月、銀行を退職、同年12月に行われた第37回衆議院議員総選挙に、自由民主党の公認を得て北海道5区から立候補した。弔い選挙となったこの選挙には、父・中川一郎の側近として秘書を務めていた鈴木宗男も立候補、2人による後継争いは、マスコミから「骨肉の争い」と書き立てられた。
選挙の結果、中川はトップ当選し、自由民主党の公認が得られなかった鈴木も下位で初当選した。衆議院議員就任後中川は、石原慎太郎率いる自由革新同友会(旧中川一郎派)に所属、その後は清和会→ 亀井グループ→ 志帥会と歩み、農水系・保守派の有力議員としての地歩を築くことになる。
1992年(平成4年)夏には、党友組織 『自由国民会議』初代代表であり音楽家の黛敏郎と共に、宮澤内閣(当時)の官房長官・加藤紘一が企てた今上天皇の中華人民共和国訪問阻止運動の先頭に立った。
農林水産大臣
1998年(平成10年)に小渕内閣が発足すると、中川は農林水産大臣として初入閣し、その後小渕内閣第1次改造内閣まで同職を務めた。
父・中川一郎は初代・農林水産大臣であり、農林水産省の銘板も父の毛氈によるものであったが、大臣就任後に初登庁した中川は、その銘板に向かって一礼し、「しっかりやれって親父が言っているみたいだ」との感想を述べた。
経済産業大臣小泉改革
2003年(平成15年)5月に組閣された小泉再改造内閣で経済産業大臣に就任し、同職には2005年(平成17年)10月まで留まった。
同内閣では一連の小泉改革に貢献するとともに、大臣としてはメキシコやフィリピンとの自由貿易協定(FTA)締結などの成果をあげた。中川は小泉純一郎からの信頼が厚く、小泉からファーストネーム(「昭一」)で呼ばれる数少ない国会議員のひとりとなっていた。
他方、小泉が進めた郵政民営化には賛成しながらも、平沼赳夫をリーダーとする郵政民営化法案への相反組に対しても半ば同情的だった。中川と平沼とは、銀行員時代からの兄弟のような間柄であり、初めて選挙に立候補した際には応援に駆けつけた。また、中川は2003年(平成15年)、それまで自身が務めていた拉致議連会長職に後任として就任するよう、安倍晋三とともに平沼に三顧の礼をもって打診した経緯がある。
政調会長安倍内閣
2006年(平成18年)の自由民主党総裁選挙では、当時内閣官房長官だった安倍晋三を支持し、安倍総裁誕生の後には同党政調会長に就任した。
翌2007年(平成19年)、政府税制調査会会長・本間正明の愛人問題に際しては、「道徳の問題」と断じ、本間辞任への流れを作った。また、2007年度予算案の衆議院採決において、民主党は解任決議案を多発して抗戦、多くの自民党議員がこれを「大義なき抵抗」と批判したのに対して、中川は「民主党は、本当に採決を阻止したいならもっと徹底的に抵抗するべきだった」という主旨の講演を行った。
同年8月の安倍改造内閣人事ないし自民党役員人事では重要ポストへの起用が確実視されていた中川であるが、結果的には入閣や党重要役員への就任はなかった。
福田康夫政権下
2007年(平成18年)9月、首相・安倍晋三は健康問題等を理由に突然辞任、それを受けてた中川は、すぐさま麻生太郎“首相”実現に向けての活動を開始した。直後に麻生と会談して支持を伝え、総裁選立候補のための推薦人のひとりとなった。また、出演したテレビ番組では、当時流布されていた 『麻生クーデター説』を強く否定した。選挙戦では、麻生に同行し、他の応援議員らとともに東京・新宿駅前での街頭演説などにも参加したが、結果は対抗候補であった福田康夫が勝利し、同月福田康夫内閣が発足した。
同月、所属派閥の領袖であった伊吹文明が自民党幹事長に就任、中川が伊吹派(志帥会)会長代行を務めることとなった。その後中川は中曽根康弘らを講師として招いた政策勉強会を開催したほか、同年11月には、保守派の議員で集まる勉強会、『真・保守政策研究会』を設立するにあたってのまとめ役を務めた。この会への参加者の多くは直前の総裁選における麻生の支持者であり、翌年の2008年自由民主党総裁選挙において麻生が選出される原動力のひとつとなった。
また、同月、中川は東トルキスタンの人権活動家・ラビア・カーディルと会談し、中国による東トルキスタンとウイグル人弾圧に対する強い懸念を示している。
財務・金融担当大臣麻生内閣
2008年(平成20年)9月、首相・福田康夫は唐突に辞意を表明、2年連続での自由民主党総裁選挙が行われることとなった。直ちに中川は、福田政権下で自由民主党幹事長を務めていた麻生太郎への支持を明かし、所属派閥・伊吹派(志帥会)としても麻生支持が確認された。
選挙の結果、4人の対立候補を退けて麻生が当選、麻生内閣が組閣され、中川は財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融担当)に就任した。この頃、志帥会では、中川の兄貴分であった亀井静香や平沼赳夫が派閥から離れ、また、領袖の伊吹文明も総裁候補とは成り得なかったため、小泉内閣の5年間で一貫して党7役(広報本部長、組織本部長)や閣僚(経産大臣、農水大臣)として重用され、安倍政権では引続き党三役(政調会長)、さらに麻生政権でも財務・金融担当大臣を務めることになった中川が、同派では今後の総裁候補として最有力と目されるようになっていた。
翌年2月、中川はG7の財務大臣・中央銀行総裁会議出席のためにイタリア・ローマを訪れたが、この会議の後の記者会見における、呂律が回っていない、酩酊しているかのような姿が注目された。この様子は各メディアで大きく取り上げられ、猛批判を浴びることとなった中川は釈明を行ったが、3日後には大臣職を辞すこととなった(詳細は後述)。
議員失職と急死
大臣辞職から約半年後の2009年(平成21年)8月、第45回衆議院議員総選挙が行われ、中川は現職選挙区であった北海道第11区から再選を目指して立候補した。中川は謝罪回りに奔走するとともに、断酒宣言も行った。また、麻生や安倍らも応援のために選挙区入りし、対抗である民主党の農業政策や日本国旗への侮辱などを批判したものの、選挙結果は民主党候補の現職議員・石川知裕(翌2010年1月に政治資金規正法違反で逮捕)に敗れての落選であった。また、比例北海道ブロックにおいて惜敗率3位だった中川は、比例代表区での復活当選も得られず、議員失職した。同選挙では民主党が大勝して政権交代を実現、落選後の会見で中川は、「私には何の力もなくなったが、みなさんにご恩返しをしたい」と述べた。
翌月中川は、自身のウェブサイトで、「今後新たに決意を持って進んでいきます。発信していきます。『日本が危ない』から」と記したものの、健康は優れず、腰痛や風邪に悩まされるとともに、不眠症のため睡眠薬を服用する状況であったという。
同年10月4日、東京都世田谷区の私邸2階の寝室で倒れているところを、郁子夫人によって発見された。東京消防庁による救急搬送先で死亡が確認されたが、実際の死亡日時は発見前日の10月3日と推測されている。実際の死因の特定は行政解剖の結果待ちとなった。同月27日、新たに発足した鳩山由紀夫内閣の閣議において、中川に対する正三位および旭日大綬章の追贈を決定したが、その授与は同年10月3日付とされた。
死後
『産経新聞』は特集記事を組み、中川の死を悼んだ。
通夜と告別式は2009年(平成21年)10月8日・9日に東京都港区元麻布の麻布山善福寺にて自民党と中川家の合同葬として執り行われ、告別式では、自民党総裁・谷垣禎一[2]が弔辞を述べた。同16日には、北海道帯広市の北海道ホテルにおいて 『哀惜の会』が開催され、今上天皇より祭粢料(さいしりょう)が下賜されたほか、盟友であった麻生太郎が弔辞を述べた。さらに、憲政記念館では追悼集会が行われ、約3000名が出席したほか、四十九日の法要には親族、関係者など50人以上が集まった。
四十九日法要の喪が明けた同年11月28日、後援会組織 『十勝連合後援会』が解散を決定、他の地区後援会も順次解散・縮小することとなった。同年末、中川のウェブサイトには、支持者に対する感謝の言葉が郁子夫人の署名で掲載されたが、翌年同ウェブサイトから発表された 『故 中川昭一先生カレンダー2010』には、全国から大量の注文が殺到し、完売の後、追加受付が行われるほどとなった。
年表
- 1966年(昭和41年)
- 3月 - 新宿区落合第一小学校卒業
- 1969年(昭和44年)
- 3月 - 麻布中学校卒業
- 1972年(昭和47年)
- 1974年(昭和49年)
- 1978年(昭和53年)
- 1983年(昭和58年)
- 2月 - 日本興業銀行退行
- 12月18日 - 第37回衆議院議員総選挙にて衆議院議員初当選
- 1989年(平成元年)
- 6月 - 宇野内閣で農林水産政務次官に就任
- 1996年(平成8年)
- 11月 - 自由民主党副幹事長に就任
- 1997年(平成9年)
- 9月 - 自由民主党北海道支部連合会長に就任
- 10月 - 自由民主党総務会長代理
- 1998年(平成10年)
- 2001年(平成13年)
- 5月 - 自由民主党広報本部長
- 2002年(平成14年)
- 10月 - 自由民主党組織本部長
- 2003年(平成15年)
- 2005年(平成17年)
- 10月 - 第3次小泉改造内閣で農林水産大臣に就任
- 2006年(平成18年)
- 2008年(平成20年)
- 9月 - 麻生内閣で財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融担当)に就任
- 2009年(平成21年)
- 2月 - 財務大臣兼内閣府特命担当大臣および金融担当大臣を辞任
- 8月30日 - 第45回衆議院議員総選挙で落選し、議員失職
- 10月4日 - 死亡を発見される
政策
中川は、農政を中心に、郵政、電波、文教など幅広く政策に通じていた。
信条・政策を共有する国会議員である安倍晋三と麻生太郎の 『AA (ダブルエー)』は、中川を加えて 『ANA 』とも称された。さらに、平沼赳夫を加えて、『HANA (ハナ)』、または『花の会』、中川、麻生に菅義偉、甘利明を加えて、『NASA (ナサ)』とも呼ばれた。
農政
宇野内閣で農水水産政務次官、小渕内閣と小泉内閣で農林水産大臣を務めた中川は、典型的な農林族議員として知られた。
小泉政権下で経済産業大臣を務めた際にも、農業作物の輸出入にも関わる自由貿易協定(FTA)交渉に携わることになったが、ここでは農作物の輸入自由化に強固に反対する多くの農林族議員らの反発を抑えつつ、メキシコ、フィリピンとの協定合意に至るなど、大局的な見地からの政策を執った。
続く小泉改造内閣では農林水産大臣に横滑りし、引続きWTOの通商交渉を行った。同職に在職中にはBSE(狂牛病)問題にも直面し、2006年(平成18年)5月にはアメリカ農務長官(当時)マイク・ジョハンズと会談、アメリカ国内で牛検査体制を縮小・中止する動きを強く批判し、同国産牛肉の輸入再開に渡って日本側が要求する厳格な検査の継続を求めた。また、2008年(平成20年)5月にはアメリカを訪問し、農務長官(当時)エドワード・トマス・シェーファーとの会談では、同国産牛肉の輸入再開に対する懸念を示した。
2009年(平成21年)の衆議院選挙では、マニフェストに「日米FTA(自由貿易協定)の推進」と明記した民主党を批判、「民主党が政権を取れば十勝は壊滅する。それでもいいのか。これまで十勝を守ってこられたのは私だからだ」と訴えたものの、同党候補に敗れて落選した。また、同選挙の結果、民主党への政権交代が行われた。
経済
銀行勤務歴のある中川は、財政・金融に明るかった。小泉内閣での経済産業大臣や、麻生内閣での財務大臣兼特命担当大臣(金融担当)などを歴任し、住専問題や税制改正にも関わった。
経済産業大臣時代、政府系金融機関の統合問題では財務大臣(当時)の谷垣禎一とともに政策金融の重要性を訴え、首相の小泉純一郎、総務大臣の竹中平蔵(いずれも当時)と対立したことがあった。また、財界などが求める法人税減税には賛成の立場を取り、2兆円の法人税減税を提唱していた。
さらに、財務大臣職は、世界的な金融危機下となり、日本国内市場に対する危機回避策として、政府保有株の売却凍結・空売り規制強化・ドル供給オペ拡充・無制限のドル貸し出しなどを行った。
- 国際財政・金融
- IMFへの緊急融資
- 財務大臣就任後間もない2008年(平成20年)10月、先進7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議に出席した中川は、国際通貨基金(IMF)に新興・中小国向けの新たな緊急融資制度を設けることを提案、各国から高い評価を受けた。この「中川構想」には、ブラジルを始めとする中南米諸国が、これを歓迎することを公式に表明、その後実際にウクライナ、ベラルーシ、パキスタンが、「中川構想」に基づく緊急融資を受けることで救済された。
- 翌2009年(平成21年)2月にはアメリカの財務長官(当時)ティモシー・フランツ・ガイトナーと会談、同国が検討する「バイ・アメリカン条項」に懸念を示したうえ、保護主義の排除で一致した。続いて行われたG7会議では、各国間での保護主義的な施策への牽制が日本主導で行われ、特に同会議の開催国であったイタリアのメディアがそれを高く評価した。麻生内閣はIMFへの緊急融資について、「IMFが市場で資金調達をするための担保として米国債を提供し、日本政府は財政負担なしに利益だけを得られる」と説明した。
- 日本からの資金拠出と高評価
- 偏向報道
- 中国への警戒
2006年(平成18年)4月、当時の経済産業大臣で親中派である二階俊博による東アジア包括的経済連携協定(東アジアEPA)構想について、「これは中国の参加を想定しているが、2005年(平成17年)春に中国で起きた反日デモにおいて、一般人や民間企業が襲われたことの総括もできていない(状態では時期尚早)」と反対した。中川はまた、「日本は中国と経済連携協定締結の努力をするべきではない。なぜなら中国は日本国民の安全を保証できないからだ」とした。
同年6月、日本政府が凍結していた中国向け円借款の再開を決めたことについても中川は、「なぜ中国に対し、また援助するのか。正直言って分からない」と、親中的な政策に異議を唱えた。
外交・安全保障
外交や国家観においては保守本流を貫いており、北朝鮮による日本人拉致問題解決のための積極的な活動でも知られた。
- 対 中国
経済産業大臣時代、中国との東シナ海ガス田問題では法的・理論的根拠を崩さず、帝国石油に初めて試掘権を与えた。中国が要求した共同開発についても、日中中間線より中国側でも日本の試掘を認めることを前提にするよう再三要求した。
2007年(平成19年)、「日本は後20年もすれば、中国の省になっているかもしれない」と発言、北京オリンピックを契機とした軍拡路線・経済拡大路線を背景とする中国脅威論を唱えた。
また同年、中国首相・温家宝が来日したが、「日本のナンバー1が(中国に)行ったのに、中国のナンバー3が(日本に)来るというのは、おかしい」と、中国外交の非礼を批判した。
- 対 北朝鮮
中川は、拉致問題に早くから取り組んできおり、拉致議連の会長も務めていた。拉致家族会代表・横田滋は中川について、最も信頼する国会議員のひとりとして挙げていた。
1998年(平成10年)に北朝鮮がミサイルを発射、三陸沖に着弾させたことについて中川は、「相手(北朝鮮)はまともな国ではない。気違いだと思っている」と発言し、保守派の賞賛を受けた。また、北朝鮮による日本への核攻撃の可能性に関して、「普通はやらないが、あの国の指導者はごちそうを食べ過ぎて糖尿病ですから考えてしまうかもしれない」と、贅沢三昧をしている金正日を揶揄しつつ、その危険性を説いた。
2007年(平成19年)4月、拉致問題の国民大集会に出席した中川は、北朝鮮の不誠実な態度を激しく非難するとともに、日本独自で北朝鮮を「テロ支援国家」に指定することを可能にする法整備に言及した。これは、前任の国連大使・ジョン・ボルトンらが辞任後、北朝鮮に融和的な対応を始めたアメリカの転換に対応する発言とみられた。
2008年(平成20年)、雑誌の企画でジャーナリスト・田原総一朗、及び元外務審議官・田中均と鼎談した中川は、将来金正日体制が崩壊した後には衆議院に「北朝鮮復興委員会」を創設し、自らが委員長となって北朝鮮の復興・民主化を推進することに意欲を示した[4]。
- 北方領土
中川は、旧ソ連による北方領土侵略を、「20世紀最大の国際法違反」としていた。麻生太郎が外務大臣時代に「北方領土・面積二等分論」を唱えると、これを激しく批判し、外務省の暴走であるとした。中川は同領土問題に対し、「北海道の政治家として、絶対に譲れない一線。領土というのは2島と言ってしまった瞬間に、2島以上のものは返ってこない」と断じた。
- 核兵器関連
2006年(平成18年)10月、テレビ番組に出演した中川は、「非核三原則は国民との重い約束だ。しかし、最近の北朝鮮の核兵器実験の動向を受けて、この約束を見直すべきかどうか議論を尽くすべきだ」とのアドバルーン発言を行った。この発言に対しては、日本国内の一部政治家や反核団体からの非難、さらにアメリカ大統領(当時)ジョージ・W・ブッシュ(当時)が苦言を呈するに至った。これを受けて中川は釈明したが、同時に「非核三原則の下で核を持たずにどういう対抗措置ができるのか真剣に考えなければならない」と、関連議論の必要性を強調した。
中川の発言は、「北朝鮮が核を持てば日本も核武装するのではないか」との警戒を呼ぶともされたが、同月訪米した中川は、元副大統領・ダン・クエールや、元上院議員・トム・ダシュルら同国要人との会談においても、核拡散防止条約(NPT)や非核三原則の堅持を前提としながら、核関連議論の必要性については再度明言した。
2009年(平成21年)4月、北朝鮮によるミサイル発射の事実を受けて中川は、「純軍事的に、核に対抗できるのは核だというのは、世界の常識」と発言、改めて日本による核武装論議を促した。遡って、中川は2003年(平成15年)の時点から、「(日本は核武装を)状況によっては検討すべき」としており、核武装論議については2006年(平成18年)11月にも、「(北朝鮮が核実験を行った)この時期だからこそ提起することに意義がある」と述べていた。また、2007年(平成19年)に行われた、ジャーナリスト・櫻井よしことの対談においても、中川は核論議と海洋権益保護の必要性を強く訴えていた。
これら一連の核関連発言について中川は、「実際に日本の核武装化を目指しているわけではなく、あくまで非核三原則を守ることによって日本が得られる利益について議論しようとしているだけだ」とも説明している。背景には、「最近は、非核三原則に『言わせず』を加えた非核四原則どころか、『考えてもいけない』という非核五原則だ」と自身が指摘したように、国会において議論すらが封殺されている現状への危機感があった。
- その他 安全保障
2007年(平成19年)、日米同盟強化や国際貢献の観点からの武器輸出三原則緩和を訴えた。
同年、インドやオーストラリアとの連携を促進させるための議員連盟・「価値観外交を推進する議員の会」の設立に関与、首相(当時)安倍晋三の掲げた価値観外交の実現、及び中国の脅威に対抗することを目指した。
教育・歴史認識
- 教育論
教員免許の更新制度に関連して中川は、「日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモで騒音をまき散らしている」「(デモという)下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許剥奪だ」と、日教組の活動を強く批判していた。
- 歴史認識
1998年(平成10年)7月、従軍慰安婦問題に付いて、強制連行の事実の有無も不明であり、中学校教科書にその問題が記述されたことに疑義を呈した。
従軍慰安婦は日本による強制であったとする、河野談話についても反対しており、出演したラジオ番組で、「(河野洋平は)自虐的な方」、「外国なんか、嘘でも誇りを持って(話を)する。(日本政府が)真実と思われるものを封じ込めているのは納得できない」などとも述べていたほか、この談話の早期見直し・撤回の検討を繰り返し主張していた。
2007年(平成19年)12月、慶應義塾大学で講演した中川は、「原爆投下はアメリカが世界ナンバーワンの軍事力を持つための実験だった」と主張。さらに「我々は実験台にされた」としてアメリカに抗議し、場合によっては国会でも非難決議を行うべきという見解を示した。また、中川は「原子力船、あるいは原子力潜水艦を持つ、という議論が何で出てこないのかなあと、私は思っているわけであります」と切り出し、国内唯一の原子力実験船だった「むつ」が放射線漏れ事故を起こして以来、動力としての原子力を活用しようという動きが事実上なくなっていることを指摘。軍事目的の利用については否定しつつも、「原子力タンカー」の実現を訴えた。
その他 信条
- 靖国神社
靖國神社への参拝は毎年欠かさず、経産大臣、農水大臣の職にある際にもこれは同様であった。一連の政治家としての活動は、「親父の遺言」と、たびたび公言していた。
- 朝日新聞
中川は長年、朝日新聞との間に確執があった。それは1998年(平成10年)、農林水産大臣に就任した中川が、省内の会見場に日本国旗(日の丸)を掲揚したことを朝日新聞が批判したことに始まった。日本国旗に関しては2008年(平成20年)にも、閣議後の会見の場に国旗を掲揚した中川に対して、「国民の中には(国旗掲揚に)違和感を持つ人もいる」と、財務省記者クラブ・財政研究会の一部の記者が批判、それを中川が「世界に発信する場という認識で国旗掲揚は当然だ」と一蹴したことがある。
さらに朝日新聞は2005年(平成17年)、中川らが権力を持ってテレビ番組内容を改変させたと報道(NHK番組改変問題)、それに対して中川は当初、「公正中立の立場で放送すべきであることを指摘したのみ」と主張、最終的には「NHKが説明に来たのは番組放映後であり、放送内容の変更や中止には関与し得なかった」と説明した。
- ヤコブ病
中川は、歴史教科書問題をめぐる報道機関の態度を批判するなかで、「ヤコブ病で脳がスポンジ状態になっていて思考が停止している」と発言、それを薬害ヤコブ病訴訟の原告団から抗議され、後日謝罪している。中川はその後、その発言の責任をとる意味から、超党派の議員連盟会長に就任、薬害ヤコブ病問題を解決に尽力した。
人権擁護法案への反対
中川は、2002年(平成14年)に国会に提出された人権擁護法案に一貫して反対していた。
同法案は2003年(平成15年)に廃案とされた後にも燻ぶり続け、同じく同法案に強く反対していた安倍晋三が自身の政権下で中川を政調会長に起用したことには、同法の成立阻止という明確な意図もあったとされる。自由民主党は2006年(平成18年)10月、それまで同法案の議論を主導してきた同党・人権問題等調査会の会長職を中川に預け、これによって同調査会は事実上、その機能を停止した。
中川は2007年(平成19年)11月、前年の安倍内閣崩壊以降停滞していた保守政治再建のための会合を開き[5]、そこには元農水大臣・島村宜伸や、元経済産業大臣・平沼赳夫らも参加した。この会合で中川は、保守主義の大家であるエドマンド・バークの言説を引用、集団的自衛権の明確化や人権擁護法案反対を強く訴えた。この会合は同月、保守の勉強会 『真・保守政策研究会』として、会長・中川、最高顧問・平沼、議長・島村という構成で発足した。この会には50名以上の国会議員が参加したが、同法案の上程を懸念する意見が相次いだ。
従前より中川は同法案を、「第二の治安維持法」と批判しており、2008年(平成20年)には、「この法案が成立すれば、私や麻生さんはブタ箱行き」だとして、同法案上程阻止のため、国民運動を起こしていく考えを示した。同年、人権擁護法案上程阻止のための、『いわゆる "人権擁護法案" 再提出に対する要請受付国民集会』[6] に出席した中川は、同法案の危険性を改めて指摘、自身に寄せられる国民の声の中に賛成意見はただの1つもない点、また、同法案推進派議員が反対派に対して脅迫とも取れる発言をしていたことを明らかにした。
主たる所属議員連盟
- 北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟
- 日韓議員連盟
- 日本会議国会議員懇談会
- 日本の前途と歴史教育を考える議員の会
- 公共放送のあり方について考える議員の会
- 真・保守政策研究会
- 中国の抗日記念館から不当な写真の撤廃を求める国会議員の会
- 公共放送の公平性を考える議員の会
- 賃貸住宅対策議員連盟
政治資金
政治資金源のいくつかは、不適切であると捉えられ得る業者や業界団体からの政治献金であった。それらには、消費者金融業界の政治団体である全国貸金業政治連盟(全政連)からの献金や、入札に絡む虚偽報告で行政処分を受けた秋田県の建築会社社長からの個人献金などが含まれていた。
また、牛肉偽装事件で摘発されたハンナングループの団体や企業からの献金は、中川が農水相経験もあるいわゆる農水族であったことから、国会でも関連する質疑が行われた。
受賞・受章
- 2006年(平成18年)5月26日: フランス農事功労章(L’ordre du Merite agricole, Commandeu)受賞 - 日本人初の受賞* 2009年(平成21年)10月3日: 正三位に叙され、旭日大綬章を受章
その他の活動
2005年(平成17年)11月、慶應義塾大学の三田祭において、小池百合子とともに経済新人会主催の講演会を行った。
また、中川は2006年(平成18年)11月から『夕刊フジ』の、金曜日のコラムを隔週で担当していた。このコラムは過去、首相就任前の小泉純一郎や安倍晋三、厚生労働大臣時代の舛添要一なども執筆していた。
エピソード
中川秀直との関係
同じ苗字を持つ衆議院議員・中川秀直とは、安倍政権下において共に自由民主党・党三役を務めたこともあり、しばしば比較されたが、両者間での血縁関係は無い。また、中川秀直の政治思想は昭一のそれとは対照的で、経済政策においては増税を先送りする、いわゆる上げ潮派。対外的にも親中派とされ、靖国神社に代わる国立追悼施設の建設を持論としていた。また、中川秀直は昭一が強く反対した人権擁護法案を支持していた。
- 安倍政権
2006年(平成18年)、中川昭一の盟友である安倍晋三は自由民主党総裁に就任、昭一を同党の政調会長、中川秀直を同・幹事長とした。
当初は文部科学大臣就任が有力視されていた昭一であったが[7]、政治理念の多くを安倍と異にする中川秀直の幹事長就任が決定したことから[8]、それへの牽制を考えた安倍によって急遽、政調会長に据えられたとも言われた。
政調会長となった中川昭一は、北朝鮮政策に関する党内議論などを一任されたものの、安倍や昭一らとは理念が異なる中川秀直の幹事長就任は、その後の安倍政権運営の躓きの発端であったともいわれ、思想家の藤原正彦や政治評論家の屋山太郎などは「中川秀直を幹事長から解任すべき」と提言していた。郵政造反組復党問題に際して中川昭一は、造反組に反省と総括を要求する中川秀直と衝突、「まるで天安門事件のよう[9]」と評した。
飲酒にまつわるもの
自他ともに認める大の酒好きだったが、政界で重要な地位を占めるにつれて、酒癖のリスクを注意されることが増えた。中川はしばしば禁酒・断酒を宣言したが、長続きしなかった。重大な交渉を前に飲酒する癖が経済産業大臣時代を知る官僚によって告発されているほか、2009年(平成21年)の落選には同年の飲酒報道が大きく影響した。飲酒に関わる中川のエピソードとして、次のようなものが知られている。
- だるまの目を塗り潰す
- 第42回衆議院議員総選挙(2000年)での当選時、選挙事務所で酒に酔い、ふらふらとしながら万歳三唱している姿が放映された。また、だるまに目を入れる際には、墨の塗り過ぎから黒い涙のようにしてしまい、周囲を慌てさせた。
- 酔ったまま初閣議
- 2004年(平成16年)の内閣改造時、経済産業大臣からの離任会見後に外部で飲酒していたが、同職に再任されたことを知って慌てて官邸に戻った中川は、酔ったまま初閣議に臨んだ[10]。
- 酩酊での後援会挨拶
- 2005年(平成17年)夏、十勝管内本別町で行われた後援会パーティーに、中川は酩酊状態で登場した。呂律が回らないため、10分間を予定されていた挨拶は数分間で終了し、中川は同席していた地元の首長からたしなめられた[10]。
- 宮中晩餐会での騒動
- 演説での読み間違い
- 第45回衆議院議員総選挙
朦朧記者会見
2009年(平成21年)2月、G7の財務大臣・中央銀行総裁会議が、イタリア・ローマで開催された。同会議終了後、日本銀行総裁・白川方明と財務官・篠原尚之との共同記者会見に臨んだ中川だったが、その発言は呂律が回っておらず、あくびをし、表情は目が虚ろという状態であった。さらに中川は、言い間違えをする、質問した記者が見つけられずに「どこだ!」と叫ぶ、「共同宣言みたいなものが出ました」などと不明瞭な発言をするなどの異状を呈したことから、健康不安や酩酊などが疑われることになった。マスメディアはこれを、「深酒居眠り会見」などと報じた。
帰国後中川は、「(問題となった会見前にワインを)飲んだのをごっくんということであれば、ごっくんはしておりません。たしなんでいるんです。グラス一杯飲んでおりません」と説明した[14]。また、原因は、往路の機内における抗ヒスタミン作用を含む感冒薬[15]とアルコールの同時摂取[16]、あるいは風邪薬単独の大量服用であると説明されたほか、中川が当日、G7の公式行事を中座して、読売新聞記者や財務省職員らと飲食していた事実も後日判明している[17]。
この事態に対しては自由民主党幹部からも批判が出たほか、『読売新聞』がアメリカ人テレビ記者が自身のブログで行った皮肉交じりの批判を報じるなど、中川へのバッシングが加熱した。中川は緊急記者会見を開き、予算案及び関連法案の衆議院通過を待って大臣職を辞するとしたが、野党5党は中川に対する問責決議案を提出[18]、また、与党である自由民主党内や公明党からも速やかな辞任要求が出された[19][20]。さらに、野党側が予算審議拒否の姿勢を示すに及んだことから、結局中川は同日中に大臣職を辞した。
- バチカン美術館でのトラブル
G7における 『朦朧会見』の直後、中川らはバチカン美術館を約2時間観光したが、その際にも中川は美術品に触れる、柵を越えて警報を鳴らす、彫像・ラオコーン像の台座に座るなどの不適切な行動をとっていたことが報じられた。
これを受けて中川の事務所は、「体調が悪く、入ってはいけない区域に入ってしまい、警報が鳴ったのは事実」としたが、中川自身は 「非常に事実と違う」「(博物館を)案内してもらい、つつがなく終わったと思っていたらあの報道。(バチカン側も)全く警報機も鳴っていないし、私に注意もしていないとお怒りになっている」と報道内容を否定した。その後の日本政府による答弁書は、中川が同美術館で立ち入り禁止区域に入り、警報が鳴ったことを明らかにしている引用エラー: <ref>
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タグが不足しています。また、手先のことが好きで、趣味はそこらの木の箱などを材料にして家具を作ることであったという[21]。
- 弟
- 自家
- 妻 郁子(岩田剛の娘)
- 長女(フジテレビ報道局記者)
- 長男(学生)
- 他家
- 叔父: 中川義雄(政治家)
中川家の系譜
- 中川家
- 祖父中川文蔵は富山県西砺波郡福光町(現在の南砺市)の出身で、14歳の時北海道に渡り、北海道の中でもチベットといわれる道東の僻地を選んで開拓に従事した[22]。山奥の開拓地に移住した農民の出である[23]。後に広尾町議を務めた。祖母セイは山形県出身。
- 文蔵は、19歳で父を失った。以来、文蔵はたったひとりで一家眷族(いっかけんぞく)を養うことになった。ある時は田地田畑の作物が全滅し、また牛や馬が人手に渡ったことも一度や二度ではなかった。子沢山の文蔵とセイは一生懸命働いた。[24]。
- 村議となった文蔵はある時陳情のため札幌の道庁に出かけた。道庁の役人は、ろくに相手にしなかった。その時の口惜しさから、「お前は役人になれ」と一郎に命令し、両親思いの一郎は、父の命ずるまま役人になったという[25][26]。一郎は政界入りしてからは、要職を歴任したが、不慮の死を遂げた。
┏女 ┏中川昭一━━━━┫ ┏中川一郎━━━━┫ ┗男 ┃ ┗男 中川文蔵━━━━━╋中川正男 ┃ ┗中川義雄
関連項目
- 古賀敬章 - 東大法学部の同級生であり、中川の秘書を務めた
- 篠原尚之 - 財務官
- 玉木林太郎 - 財務省国際局長
- 越前谷知子 - 読売新聞社経済部記者
- 泉山三六 - 酒が原因で第2次吉田内閣の大蔵大臣を辞職
- 君塚直隆 - 歴史・政治学者。中川は君塚の著書をよく取り上げた
脚注
- ↑ 内藤國夫著『悶死 中川一郎怪死事件』140-141頁に「書くのにいささかためらいがあるが、偶然というか、不幸にもというか、昭一は兎唇の障害を持って誕生した。医学的には、遺伝のせいだけでなく、出産の事故でもあるのだが、貞子はこれを“中川一族の血”のせいと信じ込み、夫の一郎にあたりちらした。聞くところによると夫の父文蔵が家畜商をしていた、そのたたりだとまで言ったということである。中川昭一は幼児期と東大を卒業してからと二度にわたり、兎唇であることがわからぬよう手術を受けた。」とある
- ↑ 中川とは、麻布高校、東京大学法学部の同窓でもある
- ↑ ストロスカーン氏の『人類史上最大規模の融資』との言葉についてほとんど報道しないのは、怒りよりも先に、一種の不気味ささえ覚える。日本のマスメディアは、日本が世界的に評価されると、何か不都合でも生じるのだろうか。世界中の国々が日本に感謝し、謝意を表明したにもかかわらず、マスメディアはそれを完璧に無視した。挙句の果てに、中川氏の朦朧会見を、明らかな悪意に基づき繰り返し報道し、最終的に辞任に追い込んだのである。テレビ局などのマスメディアが、何らかの政治的意図に基づきIMFへの融資取り決めについて報じなかったならば、明確な放送法違反である。放送法第3条の2『政治的に公平であること』及び『報道は事実を曲げないですること』などに抵触している可能性が極めて高い: 三橋貴明 『ジパング再来 〜大恐慌に一人勝ちする日本〜』 p.17
- ↑ 中央公論(2008年2月号)
- ↑ 平成19年11月14日 東京都内のホテルにおいて開催された
- ↑ 2008年3月10日 憲政記念館において開催
- ↑ 時事通信や朝日新聞などは昭一の文部科学大臣就任内定を報じていたほか、政治評論家の末延吉正も昭一の文部科学大臣就任を予想していた
- ↑ 安倍は当初、麻生太郎の幹事長就任を考えていたものの、元首相・森善朗や中川秀直自身の横槍によって、それを断念したともいわれる
- ↑ 昭一は、「本当は文化大革命と言いたかったが、誤って天安門事件と発言した」としていた
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タグです。 「yomiuri1
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 後日、議事録の訂正に衆議院議院運営委員会の野党側の理事の了承も必要であるため訂正箇所を減らして再度要請した
- ↑ 衆議院-会議録 財務金融委員会 第171回第4号平成21年2月16日
- ↑ 衆議院予算委員院会における、民主党・枝野幸男の質問に対する麻生太郎の答弁
- ↑ 作家・佐藤優はこれについて、この釈明では海外メディアに「アルコール中毒」どころか「薬物」を連想させかねないため、釈明の意味をなさない恐れがあると指摘した 『東京スポーツ』 平成21年2月19日 佐藤優と鈴木宗男の対談
- ↑ 平成21年2月19日 第171回国会 予算委員会における玉木政府参考人の証言
- ↑ 平成21年2月17日提出 民主党、共産党、社民党、国民新党、新党日本の5党による
- ↑ 「(衆議院通過後の辞任というのは)わかりづらい」(塩崎恭久)、「即座に辞任すべき」(山崎拓)など
- ↑ 公明党・北側一雄は自民党幹部を訪ね、中川の即座の辞任を要請した
- ↑ 引用エラー: 無効な
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タグです。 「imai
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 今井久夫著『反骨の宰相候補 中川一郎』239頁
- ↑ 内藤國夫著『悶死 中川一郎怪死事件』73頁。
- ↑ 『反骨の宰相候補 中川一郎』240頁
- ↑ 『悶死 中川一郎怪死事件』74頁。
- ↑ 今井久夫 著『反骨の宰相候補 中川一郎』240頁に「村議となった文蔵はある時陳情のため札幌の道庁に出かけた。そこで受けた待遇が文蔵の頭にカチンときた。そのカチンが中川の運命を左右する。道庁の役人は、田舎の村議をまるで虫ケラの如く扱ったのである。その尊大な、威張り散らした態度に、文蔵は屈辱を覚えると同時に、ハラの底から怒りがこみあげてくるのを押えることができなかった。“よーし、この仇はとってやる”文蔵はそう決意する。そのためには文蔵は長男の一郎を一流の官吏に育てあげ、道庁の木っ葉役人どもを見返すほかはない。文蔵は中川に後事を托するような気持で中川の成長を見守り、その出世を期待する。…」とある
官職 | ||
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先代 | 財務大臣 第10代:2008年 - 2009年 |
次代 |
先代 | 特命担当大臣(金融) 第13代:2008年 - 2009年 |
次代 |
先代 | 農林水産大臣 第27代:1998年 ‐ 1999年 第41代:2005年 - 2006年 |
次代 |
先代 | 経済産業大臣 第3・4・5代:2003年 - 2005年 |
次代 |
党職 | ||
先代 | 自由民主党政務調査会長 第48代:2006年 - 2007年 |
次代 |
歴代の経済産業大臣(通商産業大臣) |
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通商産業大臣 |
稲垣平太郎 - 池田勇人 - 高瀬荘太郎 - 横尾龍 - 高橋龍太郎 - 池田勇人 - 小笠原三九郎 - 岡野清豪 - 愛知揆一 - 石橋湛山 - 水田三喜男 - 前尾繁三郎 - 高碕達之助 - 池田勇人 - 石井光次郎 - 椎名悦三郎 - 佐藤栄作 - 福田一 - 櫻内義雄 - 三木武夫 - 菅野和太郎 - 椎名悦三郎 - 大平正芳 - 宮澤喜一 - 田中角栄 - 中曽根康弘 - 河本敏夫 - 田中龍夫 - 河本敏夫 - 江崎真澄 - 佐々木義武 - 田中六助 - 安倍晋太郎 - 山中貞則 - 宇野宗佑 - 小此木彦三郎 - 村田敬次郎 - 渡辺美智雄 - 田村元 - 三塚博 - 梶山静六 - 松永光 - 武藤嘉文 - 中尾栄一 - 渡部恒三 - 森喜朗 - 熊谷弘 - 畑英次郎 - 橋本龍太郎 - 塚原俊平 - 佐藤信二 - 堀内光雄 - 与謝野馨 - 深谷隆司 - 平沼赳夫 |
経済産業大臣 |
平沼赳夫 - 中川昭一 - 二階俊博 - 甘利明 |
歴代の財務大臣(大蔵大臣) |
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大蔵大臣(大日本帝国憲法下) |
松方正義 - 渡辺国武 - 松方正義 - 渡辺国武 - 松方正義 - 井上馨 -松田正久 - 松方正義 - 渡辺国武 - 西園寺公望 - 曾禰荒助 - 阪谷芳郎 - 松田正久 - 桂太郎 - 山本達雄 - 若槻礼次郎 - 高橋是清 - 若槻禮次郎 - 武富時敏 - 寺内正毅 - 勝田主計 - 高橋是清 - 市来乙彦 - 井上準之助 - 勝田主計 - 濱口雄幸 - 早速整爾 - 片岡直温 - 高橋是清 - 三土忠造 - 井上準之助 - 高橋是清 - 藤井真信 - 高橋是清 - 町田忠治 - 馬場鍈一 - 結城豊太郎 - 賀屋興宣 - 池田成彬 - 石渡荘太郎 - 青木一男 - 櫻内幸雄 - 河田烈 - 小倉正恒 - 賀屋興宣 - 石渡荘太郎 - 津島壽一 - 広瀬豊作 - 津島壽一 - 渋沢敬三 - 石橋湛山 |
大蔵大臣(日本国憲法下) |
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財務大臣 |
宮澤喜一 - 塩川正十郎 - 谷垣禎一 - 尾身幸次 - 額賀福志郎 |