黙秘権
黙秘権(もくひけん、英語:Right to remain silent)とは、法律用語のひとつ。
目次
概要[編集]
自己にとって不利益かどうかを問わずに、刑事事件の捜査段階ないし取調べにおいて「自己の意思に反して供述をする」ことを強要されず(刑事訴訟法第198条第2項)、また、自己にとって不利益かどうかを問わずに、刑事訴訟において、「終始沈黙し、又は個々の質問に対し陳述を拒むことができる」権利(刑事訴訟法第291条第3項,同第311条1項)をいう。
自己に不利益な供述を強要されない権利、すなわち、自己に刑罰(またはより重い刑罰)が科される根拠となりうる事実に関する供述を拒否できる権利である「自己負罪拒否特権」、「自己帰罪拒否(特)権」(日本国憲法第38条第1項)より広い概念である。大日本帝国憲法下の旧刑事訴訟法(大正刑訴法、明治刑訴法、治罪法)では認められておらず、被告人や被疑者は裁判所や捜査機関の尋問に対して真実を供述する義務があると解されていた。
日本の刑事裁判においては、第一回公判で人定質問を終え、起訴状朗読が終わった際、罪状認否に先立って、必ず裁判官は被告人に対し大要以下のように黙秘権の告知を行う。(刑事訴訟法第291条第3項)
- 「これから、今朗読された事実についての審理を行いますが、審理に先立ち被告人に注意しておきます。被告人には黙秘権があります。従って、被告人は答えたくない質問に対しては答えを拒むことができるし、また、初めから終わりまで黙っていることもできます。もちろん、質問に答えたいときには答えても構いませんが、被告人がこの法廷で述べたことは、被告人に有利・不利を問わず証拠として用いられることがありますので、それを念頭に置いて答えて下さい」
なお、人定質問の段階から黙秘することも学説上認められていたが、最大判昭和32年2月20日において、氏名については黙秘権の保障が及ばないことが判示されたケースもある。とは言え、起訴された者が、不法滞在外国人であったり、他の犯罪嫌疑で指名手配等を受けていた者で、人違いで起訴された場合などでは氏名についての黙秘権の保障が及ばないかどうかについては争いがある。
黙秘権を行使したことをもって、処罰やその他の法律上の不利益を与えることはできず、判例上、黙秘の事実自体をもって事実を不利益に推認することは許されないとされている。
捜査機関・検察側による“有罪である”とする論拠に対して、被疑者自ら積極的に“無罪である”とする論拠を示そうとすると、その後に捜査機関・検察側が提出する論拠によっては嘘ではなくても辻褄が合わなくなって、供述を訂正したり撤回したりして心証を悪くする結果となったり、被疑者の予想に反して主張した事実を裁判で不利な事実と指摘され、不利になる可能性がある。しかし、被疑者が黙秘権を行使すれば、そのような展開になる可能性をなくすことができる。
ただ、黙秘によって被告人側の反論が法廷に顕出されない結果、検察官立証を崩すことができず、被告人にとって不利な認定をされてしまう可能性があることまでは否定されていない。黙秘権を行使したことにより、不利な事実を隠したのではないかと邪推されて釈放・保釈がされにくくなることがある。また、黙秘権はあくまでも事実認定に関することであるため、有罪認定された際には情状面について「反省の姿勢が見られない」として黙秘せずに容疑を認めて反省した場合よりも刑が重くなることもある。
黙秘権があるとしても黙秘せず供述するよう「説得」することは否定されていないため、実際には黙秘を貫くことは至難の業であり、黙秘している事実が他の証拠から裏付けられたことで口を開いたり、中には捜査機関の強引な取調べの前に屈してしまう場合もあるとされている。黙秘を貫くような被疑者としては、過激派などがあげられる。新左翼系の救援連絡センターは、黙秘を貫くことが、警察・検察・裁判官に対抗する「簡明かつ最も有効な手段」としている。これらの中には、氏名不詳のまま嫌疑不十分で釈放された者もいるが、口を開く前に自殺した例もある(例:連続企業爆破事件の齋藤和など)。
民事訴訟では民事訴訟法第159条第1項で「口頭弁論において相手方の主張した事実を争うことを明らかにしない場合には、原則として、その事実を自白したものとみなす」と擬制自白の規定があり、反論せずに黙秘することは相手方の言い分が通ることを原則としている。
刑事における黙秘の類似例として、戦時国際法に規定される捕虜の権利がある。捕虜は、氏名・階級・生年月日・認識番号を伝える義務があるが、それら以外の情報については述べない権利がある。
黙秘権に批判的な見解[編集]
黙秘権は巨大な権力を持つ行政機関から弱い個人である被疑者を守る目的があるが、それは真実の解明・真犯人の特定、円滑・迅速な捜査や処罰の要請、被害者感情と相容れない場合がある。城丸君事件では被害者と最後に接触して被害者の遺体を密かに所持して最重要人物と目された被疑者が逮捕、起訴されたが、黙秘権を行使し続けた結果、重大な犯罪で被害者を死なせた疑いが強いが殺意については合理的な疑いが残るとして殺人罪の無罪が確定した。この事件では被告人が黙秘権を行使し続けたために被害者の死の真相が明らかにならなかったとして、被害者遺族に同情的な見解がある。 被告人が終始黙秘を続けた和歌山毒物カレー事件の第一審でも、同事件の被害者の会を中心に、黙秘権行使に反対する署名運動が展開された。同事件第一審判決は、黙秘の事実は事実認定の資料になっていないことを明言した上で、黙秘権の趣旨並びに正当性を説明する異例の言及を行っている。
被疑者が終始黙秘権を行使したことにより、却って被疑者が起訴されて不利益を受けたと評価されかねない事例もある。
イギリスでは1994年に黙秘権の一部を制限する立法が行われた。具体的には、被疑者が警告(caution)の下で取調べを受けているときに、その当時の状況において言及しておくことが合理的に期待され得た事実について言及しておらず、かつ、後の公判で抗弁としてその事実に依拠した場合には、「黙秘によって判決に不利に働く可能性がある」ことを告知し、その上で黙秘をした場合は裁判所や陪審は被疑者に不利益に推認することを可能とする、との規定である。こうした条項の下では、被疑事実について捜査機関が説明を求めた場合、黙秘による不利推認可能性の告知をした上でなおも被疑者が黙秘権を行使し続けた場合、裁判所・陪審は、黙秘権行使の事実を有罪方向に推認して、悪い心証を形成することも許されることになる。
一方、こうした不利益推認を許す条項は国際人権規約(自由権規約)第6条に違反しているという見解もあり、ヨーロッパ人権裁判所では同条項の効力が問題になることがある。
万引男はなぜ頑強に「身元黙秘」を貫いたのか?70日間「氏名黙秘」、裁判官は「あなたが誰か分からんが」と罰金20万円を宣告(2014年6月)[編集]
「名前を教えてもらえませんか」。
裁判官や弁護人が繰り返し氏名を問うても、男には“のれんに腕押し”だった。スーパーで甘いものが中心の食品24点を万引したとして窃盗罪に問われた男の公判が2014年6月、大阪地裁で開かれた。
男は4月に現行犯逮捕され、約2カ月間勾留されていたが、素性を一切明かさないまま罰金20万円を言い渡された。前科がない万引犯にとっては異例の厳しい判決となったが、男は「家族に迷惑がかかる」と“厳刑”リスク覚悟で黙秘を貫いた。捜査当局や裁判関係者を振り回し、数々の謎を残して社会復帰を果たしたが、以後の身の振り方を知る者はおらず、知る術すらない。判決を読み終えた裁判官もこう説諭するしかなかった。「あなたが誰なのか少し分かりませんが、犯した罪をよく考えるように」
「あなたに名前を言わない権利はないんですが…」
6月6日、大阪地裁の603号法廷。初公判の人定質問で、裁判官は困惑しきった様子で黙りこくった男と対峙していた。法廷では被告に黙秘権がある。だが、昭和32年の最高裁判決は、氏名は黙秘権に含まれないとの判断を示していた。裁判官は硬軟織り交ぜて男に氏名を答えさせようと試みるが、男が発する言葉は「言いたくない」のひと言だった。
男は貸与されたとみられる緑色の上下つなぎの作業服を着用。白髪頭から60代ぐらいにみえるが、弁護人ですら正確な年齢は把握できていない。開廷表の被告名は「氏名不詳」とされた。
男は初公判で、あっさり起訴内容を認める一方、被告人質問ではあいまいな回答に終始。再犯に及ばないよう家族の監督を得られるのか、生活に困らない程度の経済基盤があるのか、といった弁護人や検察官の質問にも、非協力的な態度を見せた。
「住む家はあるのか」という問いには「あるけど言わない」。「面倒を見てくれる人はいるのか」には「おるかも分からんし、おらんかも分からん」。そして、繰り返し聞かれる氏名については「家族に迷惑がかかるので言いたくない」。
しびれを切らした裁判官が「家族にどんな迷惑がかかるのか」と問いただしても、「私の中でバレると困る」と意味不明な言い分で応戦。さらに、「名前を言わないことで不利益を受けても仕方がない」とまで開き直った。
4日後、裁判官は「氏名の黙秘は正当といえず、真摯に罪に向き合っているとはいえない」として、男に求刑通り罰金20万円を言い渡した。ただ、罰金額については、約2カ月にわたる勾留期間を1日当たり5千円に換算して算入し、すでに支払いを終えているとした。
結果、釈放となった男だが、逮捕時の所持金は24円しかなかった。弁護人は判決後、「これからどのように生活していくのか心配」と話したが、男のその後を知る者はいない。
男に振り回されたのは裁判関係者だけではなく、捜査関係者も同じだった。
男は4月3日、大阪府東大阪市のスーパーで、食品24点(3081円相当)を万引したとして大阪府警布施署に現行犯逮捕された。盗んだのは、大福餅や抹茶羊羹といった甘い物が中心。さつまいもなど調理が必要な食材もあった。万引が発覚しないよう、16円のうどん1玉はレジを通していたという。
上着のジャンパーのポケットにひたすら食品を詰め込むという大胆な手口。当然、店内の防犯カメラには犯行の様子がはっきり写っていた。逃れようのない証拠を前に、男は捜査員に「腹が減っていた」と素直に犯行を認めたが、素性を明かすことだけは激しく抵抗した。
身分を証明する所持品はなし。指紋を採取しても、前科がないため身元の特定には至らなかった。取り調べでは、普段公園で寝泊まりをしていることまでは聞き出せたが、公園の場所は「忘れた」。職業や家族関係も「ノーコメント」で基礎捜査は難航した。
唯一の手がかりは逮捕時に撮影した写真。同署はこれをもとに生活保護の受給の有無を周辺市役所に照会したりもしたが、受給の事実がないため、やはり身元は割れなかった。結局、男は逮捕から約20日後、「氏名不詳」の被告として、起訴状に写真を添付される形で起訴された。
今回のように被告の氏名や住所が判明しないケースは、過去の安保闘争など社会運動が盛んだった時代に多く、現在は当時に比べればかなり少なくなったとされる。ただ、刑事手続き上の支障はほとんどない。
例えば、起訴状は通常、被告を特定するための情報として、被告の氏名、生年月日、本籍、住所、職業が記載される。だが、刑事訴訟法は「被告の氏名が明らかでないときは、人相、体格その他被告を特定するに足りる事項で被告を指示することができる」とも規定。このため、写真を添付する形での起訴が可能になる。
さらに、裁判官は初公判で、出廷した人物と起訴状の人物が同一と確認しなければならないが、起訴状に添付された写真と実際の人物を照らし合わせ、間違いがないと確認さえできれば支障はない。
とはいえ、氏名を名乗らなければ被告は一定の不利益を被ることになる。
捜査関係者によると、万引の初犯で、被害も少額の場合、被害弁償すれば書類送検され不起訴に終わるケースがほとんど。仮に逮捕されても起訴猶予となるのが一般的だ。今回のように、身柄を長期間拘束されることは極めて異例という。
さらに、氏名不詳だと拘置所では物品の貸与が受けられないことも覚悟しなければならない。実際、男は被告人質問で「眼鏡も本も貸してくれなかった」と不満げに供述した。
男は社会復帰したらどのように生活するのか公判で問われ、「何とかせなあかん気持ちはあるけど、具体的には…」と言葉を濁した。弁護人は「被告は天涯孤独で、家族がいても没交渉だったのかもしれない」と同情的な感想を述べる一方で、「心から反省をしていれば名前は言えたはず」と、男の態度への違和感も口にした。
裁判官も男の態度を不安に思ったのか、判決を読み終えた後、「あなたが誰なのか少し分かりませんが、自分の犯した罪についてよく考えるように」と説諭した。ただ、そんなメッセージにも男は表情を変えることなく法廷を去った。