紫式部
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紫式部(むらさきしきぶ、生没年不明)は平安時代中期の女性作家、歌人である。『源氏物語』の作者と考えられている。中古三十六歌仙の1人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。
藤原北家の出で、女房名は「藤式部」。「紫」の称は『源氏物語』の作中人物「紫の上」に、「式部」は父が式部大丞だったことに由来する。
目次
プロフィール[編集]
紫式部の本名は不明であるが、『御堂関白記』の寛弘4年1月29日(1007年2月19日)の条において掌侍になったとされる記事のある「藤原香子」(かおりこ/たかこ/こうし)との説もある[1]。但し、この説は仮定を重ねている部分も多く推論の過程に誤りが含まれているといった批判もあり[2]、仮定の域を出るものではない。
また生没年も伝わっていないが資料・作品等から寛弘5年(1008年)に30歳位と推測されるので、逆算して天元2年(979年)頃生 - 長和5年(1016年)頃没と推定されている[3]。
貴族ではめずらしいいわし好きであったという説話があるがもとは『猿源氏草紙』で和泉式部の話であり、後世の作話と思われる。
略伝[編集]
越後守藤原為時の娘で母は摂津守藤原為信女であるが、紫式部の幼少期に母を亡くしたとされる。同母の兄弟に惟規がいるほか、姉の存在も知られる。三条右大臣定方、堤中納言兼輔はともに父方の曽祖父で一族には文辞を以って聞こえた人が多い。
幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫日記』を著したというのが通説、家集『紫式部集』が伝えられる。
父・為時は30代に東宮の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人、式部大丞と出世したが花山天皇が出家すると失職した。10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国の受領となる。紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差がある山城守藤原宣孝と結婚し長保元年(999年)に一女・藤原賢子(かたいこ・けんし)(大貳三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かずまもなく宣孝と死別した。寛弘2年12月29日(1006年1月31日)より一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも同八年頃まで奉仕し続けたようである。
『詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠まれたものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。
藤原実資の日記『小右記』長和2年5月25日(1014年6月25日)条で「『越後守為時女』として皇太后彰子と実資の取り次ぎ役を務めた」との記述が紫式部で残された最後のものとなる。よって三条天皇の長和年間(1012-1016年)に没したとするのが通説だが、異見もある。
なお、伝・紫式部墓が京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残る。
現在、日本銀行D銀行券 2000円札の裏には小さな肖像画と『源氏物語絵巻』の一部分が使用されている。
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関=UNESCO)偉人暦に日本人として唯一人名を連ねている。
紫式部日記[編集]
人物評[編集]
同時期の有名だった女房たちの人物評が見られる。中でも最も有名なのが枕草子作者の清少納言に対する、(以下、意訳)
- 「得意げに真名(漢字)を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない」(「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」『紫日記』黒川本)、
- 「こんな人の行く末にいいことがあるだろうか(いや、ない)」(「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」『紫日記』黒川本)
などの殆ど陰口ともいえる辛辣な批評である。これらの表記は近年に至るまで様々な憶測や、ある種野次馬的な興味(紫式部が清少納言の才能に嫉妬していたのだ、など)を持って語られている。もっとも本人同士は年齢や宮仕えの年代も10年近く異なるため、実際に面識は無かったものと見られている。同輩であった女流歌人の和泉式部(「素行は良くないが、歌は素晴らしい」など)や赤染衛門には好感を見せている。
日本紀の御局[編集]
『源氏の物語』を女房に読ませて聞いた一条天皇が作者を褒めてきっと日本紀(『日本書紀』のこと)をよく読みこんでいる人に違いないと言ったことから「日本紀の御局」とあだ名されたとの逸話があるが、これには女性が漢文を読むことへの揶揄があり本人には苦痛だったようであるとする説が通説である。
「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべるものなりけり」
道長妾[編集]
紫日記及び紫日記に一部記述が共通の『榮華物語』には又、夜半に道長が彼女の局をたずねて来る一節があり鎌倉時代の公家系譜の集大成である『尊卑分脉』(『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』)になると、「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」と紫式部の項にはっきり道長妾との註記が付くようになるが、彼女と道長の関係は不明である。
主な作品[編集]
紫式部を題材とした作品[編集]
- 杉本苑子『散華 紫式部の生涯』
- (中央公論新社、平成3年(1991年)) 上 ISBN 4-12-001994-2、下 ISBN 4-12-001995-0
- (中公文庫、平成6年(1994年)) 上 ISBN 4-12-202060-3、下 ISBN 4-12-202075-1
- 三枝和子『小説 紫式部香子の恋』
- (読売新聞社、平成3年(1991年)) ISBN 4-643-91087-9
- (福武文庫、平成6年(1994年)) ISBN 4-8288-5702-8
紫式部学会[編集]
紫式部学会とは昭和7年(1932年)6月4日に東京帝国大学文学部国文学科主任教授であった藤村作(会長)、東京帝国大学文学部国文学科教授であった久松潜一(副会長)、東京帝国大学文学部国文学研究室副手であった池田亀鑑(理事長)らによって源氏物語に代表される古典文学の啓蒙を目的として設立された学会である。昭和39年(1964年)1月より事務局が神奈川県横浜市鶴見区にある鶴見大学文学部日本文学科研究室に置かれている。現在の会長は秋山虔がつとめている。
講演会を実施したり源氏物語を題材にした演劇の上演を後援したりしているほか以下の出版物を刊行している。
- 機関誌『むらさき』戦前(昭和9年(1934年)8月~昭和19年(1944年)6月)は月刊、戦後版(昭和37年(1962年)~)は年刊
- 論文集『研究と資料 古代文学論叢』昭和44年(1969年)6月~年刊 武蔵野書院より刊行
脚注[編集]
- ↑ 角田文衞「紫式部の本名」『紫式部とその時代』(角川書店、昭和44年(1966年))収録。なお、発表後にあった批判に対する反論を含めて「紫式部伝 その生涯と源氏物語」(法藏館、平成19年(2007年)1月25日 ISBN 4-8319-7664-5)に収録されている。
- ↑ 今井源衛「紫式部本名香子説を疑う」『国語国文』昭和40年(1965年)1月号 のち『王朝文学の研究』(角川書店、昭和50年(1975年)および『今井源衛著作集 3 紫式部の生涯』(笠間書院、平成15年(2003年)7月30日)に収録
- ↑ ただし生年については天禄元年(970年)説(今井源衛説)、天延元年(973年)説(岡一男説)、天元元年(978年)説(安藤為章・与謝野晶子説)などが混在し没年についても『小右記』長和5年4月29日(1016年6月6日)条にある父・為時の出家を近しい身内(式部)の死と結びつける説が有力であるが、長和3年(1014年)説を唱える岡一男説や光源氏が「太上天皇になずらふ」存在となったのは紫式部が寛仁元年(1017年)の敦明親王の皇太子辞退と准太上天皇の待遇授与の事実を知っていたからだとして同年以後の没とする山中裕説もある(参照:山中裕「紫式部の生涯と後宮」(書き下ろし)『源氏物語の史的研究』(思文閣出版、平成9年(1997年)6月1日) ISBN 978-4-7842-0941-5)。
関連項目[編集]
- 石山寺 - 源氏物語執筆の場所とされる
- 紫式部公園 - 越前国府のあった福井県越前市に建てられた
- 紫式部文学賞 - 京都府宇治市主催の女流作家のための文学賞
- 宇治市源氏物語ミュージアム
- ムラサキシキブ - 紫式部の名に由来する植物
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