神聖ローマ帝国
神聖ローマ帝国 | |
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独:Heiliges Römisches Reich 羅:Sacrum Romanum Imperium | |
800年または962年 - 1806年 | |
ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg [[|]] ファイル:Quaterionenadler David de Negker.svg [[国章|]] | |
国の標語 : | |
国歌 : | |
領土の変遷 領土の変遷 | |
公用語 | |
ドイツ語、ラテン語、イタリア語、チェコ語、オランダ語、フリジア語、フランス語、スロベニア語、ソルブ語、ポーランド語 | |
首都 | |
ウィーン(1483年-1806年) プラハ(1346年-1437年、1583年-1611年) | |
皇帝 | |
962年 - 973年 | オットー1世(初代) カール4世(第16代) フリードリヒ3世(第18代) カール5世(第20代) フランツ2世(最後) |
首相等 | |
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面積 | |
km² | |
人口 | |
1550年 | 17,000,000 人 |
変遷 | |
成立 金印勅書 ヴェストファーレン条約 滅亡 | 962年2月2日 |
通貨 | |
先代 | 次代 |
東フランク王国 | Flag of the Habsburg Monarchy.svgオーストリア帝国 Flag of Prussia (1803).gifプロイセン王国 Flag of the Confederation of the Rhine.svgライン同盟 |
注記: | |
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各国の歴史
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テンプレート:FixBunching 神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、{{#if:ドイツ語 | {{#if: | {{{表示言語名}}} | ドイツ語 }}: }}Heiliges Römisches Reich{{#if: | ({{{3}}}) }}, {{#if:ラテン語 | {{#if: | {{{表示言語名}}} | ラテン語 }}: }}Sacrum Romanum Imperium{{#if: | ({{{3}}}) }},{{#if:イタリア語 | {{#if: | {{{表示言語名}}} | イタリア語 }}: }}Sacro Romano Impero{{#if: | ({{{3}}}) }} , 800年/962年 - 1806年)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家[1][2]。1512年以降の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(ドイツ語:Heiliges Römisches Reich Teutscher Nation)である[nb 1][nb 2]。帝国の体制は皇帝の権力が諸侯によって弱められることにより、中世から近世にかけて変化した。最後の数世紀にはその体制は諸領域の連合体に近いものになっている。現在のドイツ、オーストリア、ベルギー、チェコ、リヒテンシュタイン、ルクセンブルグ、モナコ、オランダ、クロアチア、サンマリノ、スロベニア、スイス、フランス、イタリア、ポーランドを支配(連合国も含む)した。
概要[編集]
日本では通俗的に、962年ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により、カロリング朝的ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まるとされ、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している[nb 3]。しかし、ドイツの歴史学界ではこの帝国をカール大帝から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。すなわち、カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「ローマ帝国」期(800年-911年)・オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期(962年-1254年)・中世後期から1806年にいたる「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期である[3]。これは帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。
帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式を取っていたが、中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝)では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった[4][1]。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策)[5]。また、歴代の皇帝は「ローマ帝国」という名目のためにイタリアの支配権を唱え、度々侵攻した(イタリア政策)。当初、皇帝権は教皇権に対して優勢であり、皇帝たちは度々教皇庁に介入していた。だが、教会改革運動が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ、11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争は皇帝側の敗北に終わった[6]。この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている[1]。
1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも王権の影響力が空洞化する大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ[7]。14世紀のカール4世による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。この間、異なる家門の皇帝が続く、跳躍選挙の時代が続いたが、1438年に即位したアルブレヒト2世以降はハプスブルク家が帝位をほぼ独占するようになった[nb 4]。マクシミリアン1世治世の1495年から帝国改造が行われ、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる[8]。
16世紀のカール5世の治世に始まった宗教改革によって帝国はカトリックとプロテスタントに分裂し、宗教紛争は最終的に皇帝側の敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化されることになった。宗教対立は収まらず、1618年に三十年戦争が勃発してドイツ各地が甚大な被害を受けた。1648年のヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった[9]。しかしながら、その後プロイセンが台頭したことにより、諸侯のバランスは崩壊し、帝国はやがて機能不全に陥った[10]。
19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、フランスに従属するライン同盟に再編された。帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。
名称[編集]
古代ローマ帝国の後継を称し、その名称は時代とともに幾度も変化した。
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- 12世紀 - 神聖帝国
- 羅:Sacrum Imperium
- 13世紀 - 神聖ローマ帝国
- 独:Heiliges Römisches Reich
- 羅:Sacrum Romanum Imperium
- 1512年 - ドイツ国民の神聖ローマ帝国
- 独:Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation
- 羅:Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae
「神聖」(Sacrum)の形容詞は、1157年にフリードリヒ1世がドイツの諸侯に発布した召喚状に初めて現れる[11]。 元々、古代ローマ帝国やカール大帝のフランク王国の後継帝国を自称していた。フランク王国は西ローマ帝国の後継国家を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」は、(西)ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国である、ということを標榜していた。そして帝位にふさわしいと評価を得た者がローマ教皇によりローマで戴冠し、ローマ皇帝に即位したのである。しかしこの帝国は、「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のドイツからイタリアまでを領土としているもののローマは含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。
また、古代ローマ帝国の正統な後継国家としては、15世紀中期まではコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国(中世ローマ帝国)が存続していた。当然のことながら、東ローマ帝国側は神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、その君主が「ローマ皇帝」であることも承認しなかった(二帝問題)[12]。一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ皇帝のことを「コンスタンティノープルの皇帝」「ギリシア人の王」などと呼ぶようになっていた[13]。
時代が下ってナチスが政権を握ると、彼らは自らを「ドイツ第三帝国」と呼び慣わしたが、これは神聖ローマ帝国(ドイツ第一帝国)、ドイツ帝国(ドイツ第二帝国)に次ぐ第三のドイツ人帝国という意味である[14]。
領域[編集]
神聖ローマ帝国の領域は今日のドイツ(南シュレスヴィヒ (en:en) を除く)、オーストリア(ブルゲンラント州を除く)、チェコ共和国、スイスとリヒテンシュタイン、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクそしてスロベニア(プレクムリェ地方を除く)に加えて、フランス東部(主にアルトワ、アルザス、フランシュ=コンテ、サヴォワとロレーヌ)、北イタリア(主にロンバルディア州、ピエモンテ州、エミリア=ロマーニャ州、トスカーナ、南チロル)そしてポーランド西部(主にシレジア、ポメラニア、およびノイマルク (en:en) )に及んでいた。
帝国は当初、ドイツ王兼イタリア王が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。また9世紀末から10世紀にドイツ王に臣従していたボヘミア(現在のチェコ共和国)は1158年(または1159年)に大公から王国へ昇格し、帝国が消滅するまでその一部であり続ける[15][16]。
1032年にブルグント王国の王家が断絶すると、1006年にブルグント王ルドルフ3世とドイツ王(のち皇帝)ハインリヒ2世の間で結ばれていた取り決めにより、ハインリヒ2世の後継者コンラート2世がドイツ王・イタリア王に加えてブルグント王も兼ねることとなった[17]。ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。
13世紀半ば、皇帝不在の大空位時代を迎えて皇帝権が揺らぐとイタリアは次第に帝国から分離した[8]。ブルグントにはシャルル・ダンジューを初めとするフランス勢力が入り込んだ。イタリアの諸都市は実質的に独立を得ていき、のちにはやはりフランスが勢力を伸ばそうとした。皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するのであるが、それは北イタリアが再び帝国の一部となったことを意味するのではない。北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった[nb 6]。
また、1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)の結果、エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)のいくつかの都市がフランスに割譲され、スイスとオランダが独立した。この三地域は帝国から分離したのであり、北イタリアと同様、もはや帝国の制度外の地域となった。その後もフランスのエルザス=ロートリンゲンへの進出は続き、神聖ローマ帝国が消滅する1806年までにこの地域の全てが帝国から脱落することとなった。
歴史[編集]
カロリング帝国[編集]
西ローマ帝国復興[編集]
小ピピンの死後、イタリアのランゴバルド王国の国王デシデリウス は王女をカールの妃としてフランク王国からの脅威をとりのぞき、ローマ教会への影響力を強めて勢力挽回を図ろうとした。なお、ランゴバルドは、イタリア語では「ロンバルド」と呼び、ロンバルディア州、ロンバルディア平原の語源となった。770年、カールは王女と結婚したが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、773年、ローマ教皇ハドリアヌス1世(在位:772年-795年)がカールに援軍を要請するに至って、カールは義父にあたるランゴバルド王と対決することに方針を定め、妃を追い返してアルプス山脈を越えイタリアに攻め込んだ。翌774年にはランゴバルドの首都パヴィアを占領し、デシデリウス王を捕虜として「鉄の王冠」を奪い、ポー川流域一帯の旧領を握ると、みずからランゴバルド王となってローマ教皇領の保護者となった。さらに父王ピピンの例にならって中部イタリアの地を教皇に寄進した。
772年には、ドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族を服属させようとし、ウィドゥキントを降伏させたほか、10回以上の遠征をおこなったザクセン戦争をすすめ 804年には完全にこれを服属させ、今日あるドイツの大半を征服することで領土を拡大した。カールは、抵抗する指導者を死刑や追放に処し、フランク人を移住させるなどの方法で反抗をおさえた。
778年、カールはスペインのカタルーニャに遠征した。この時のカールの遠征を題材にしたのが『ローランの歌』である。ローランはカールの甥で最も危険な後衛部隊をひきいていたが、味方の裏切りにあいイスラム軍に包囲されてしまう。孤立無援のローランは助けを求めず、カールより賜った剣デュランダルで最後のひとりになっても戦った。このなかでカールは200歳を越す老騎士として登場する。
カールのスペイン遠征の成果により、後ウマイヤ朝のイスラム勢力を討ってエブロ川以北を占領して795年にはスペイン辺境領をおいた。北のフリース族とも戦い、西ではブルターニュを鎮圧して、東方ではドナウ川上流で土豪化していたバイエルン族を攻めて788年にはこれを征服するとともに、791年以降はドナウ川中流のスラヴ人(ヴェンド族)やパンノニア平原にいたアヴァールを討伐してアヴァール辺境領をおき、792年にはウィーンにペーター教会を建設している。アヴァールは、中央アジアに住んでいたアジア系遊牧民族でモンゴル系もしくはテュルク系ではないかと推定される。6世紀以降、東ローマ帝国やフランク王国をはじめとするヨーロッパ各地に侵入し、カール遠征後はマジャール人やスラヴ人に同化していったと考えられる[18]。
結果としてカールの王国は現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国の全土と、ドイツ、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの各一部に広がった。このことにより、イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、イングランド、デンマーク、スカンジナビア半島をのぞく全ゲルマン民族を支配してフランク王国は最盛期を迎えた。カールは、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。
さらに、住民を、キリスト教のアタナシウス派(カトリック教会)に改宗させてフランク化もおこなった。カールはまた、広い領土を支配するために全国を州に分け、それぞれの州に「伯」(Comes、Graf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えるとともにその世襲を禁じた[19]。荘園経営の指針として荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に巡察使(ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている。
しかし、征服化されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の封建化の進行を完全に抑えることができなかった。
カールは、800年11月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール、高位の聖職者、伯、兵士たちからなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇よりじきじきの出迎えをうけた。そして、サンピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、教皇はカールを大聖堂のなかへ導いた[20]。
800年12月25日の午前中のミサで、ペトロの墓にぬかずき、身を起こしたカールに、教皇レオ3世(在位:795年-816年)は「ローマ皇帝」(神により加冠されし至尊なるアウグストゥス、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治するインペラートル;serenissimus Augustus a Deo coronatus, magnus pacificus Imperator Romanorum gubernans Imperium)として帝冠を授けた[21]。このとき、周囲の者はみな、「けだかきカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳」[22]と叫んだという。なお、レオ3世は前年(799年)、対立する勢力に命を襲われ、カールのもとに逃げ込んだことがあった。カールの戴冠は、教皇をたすけたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。
ただし、この「戴冠」については教皇レオ3世とカールとの間には認識の差があり、アインハルトは「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サンピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカール自身の言葉を伝えている。コンスタンティノポリスの東ローマ帝国は、皇帝の称号を名乗るためには東ローマ皇帝の承認が必要であることを強硬に主張していたし、それは西欧世界においても伝統的な認識であった(そもそも、ローマ教皇が皇帝を任命するという慣習はそれまでにはまったくなかった。また古代の東西ローマ分割時代は、東西の皇帝は即位時に互いの帝位を承認し合っていた)。その意味で、カールの戴冠は東ローマ側から見ると皇帝称号の僭称にすぎないと見なされた。そこでカールは自らの皇帝称号を東ローマ側に承認させるための皇帝補任運動を繰り広げた。カールは、彼自身が東ローマの女帝エイレーネーと結婚することによって皇帝の称号を正式のものとするといった奇策も考えたが、これは実現することはなかった。東ローマ帝国では当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、女帝エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立[23]し、東ローマはカールの帝位を認めた。その代わりカールは南イタリアの一部と商業のさかんなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。ただ、この時にも東ローマ側としてはローマ皇帝(ローマ人の皇帝)はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみであるとしており、カールにはローマ皇帝ではなく、フランクの「皇帝」としての地位しか認めていない[24]。
ただ、そうだったとしても、西欧的立場から見るならば、これまでは地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っていた。ここでローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは、西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立[25]を象徴することでもあったとされている。
ローマ皇帝に即位したカール大帝はローマ教皇によって戴冠される伝統を開くことにより神聖ローマ帝国の先駆けとなった[26][1]。教皇による戴冠は16世紀まで神聖ローマ帝国にとっての重要な制度となった[27]。カール大帝の「ローマ帝国復興」(renovatio Romanorum imperii)政策は、帝国が消滅する1806年まで(少なくとも原理上は)帝国の公的な地位であり続ける。
帝国分裂[編集]
814年にカール大帝が歿すると、「兄弟間の連帯による統一というフランク的な王国相続の原理」[13]に従い、806年に「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)を定め、三人の嫡子、すなわち嫡男カール・ランゴバルド分国王ピピン・アクイタニア分国王ルートヴィヒを後継者とした。しかし、810年にピピンが、翌年には嫡男カールが父に先立って没したため、813年、ただ一人残った息子ルートヴィヒを共同皇帝とした。翌814年1月28日、カールはアーヘンにおいて死去した。彼の後を継いだルートヴィヒ敬虔王 (Ludwig der Fromme) は817年、「帝国整備(計画)令 (Ordinatio Imperii)」を発布。長男ロタール (Lothar) を共同統治者とすると共に、ロタールには王国本土を、次男ピピン (Pippin) と三男ルートヴィヒ (Ludwig) にはそれぞれアクィタニアとバイエルンとを与える分割統治案を定め、分権的統一王国の創出を図った。
フランク族には「領土相続権を長子のみに与えるのではなく、分割相続させる」という慣習が存在した。帝国計画令は、この分割相続の理念と統一国家維持の理念との妥協点を見出すために発布されたものであった。
しかし、823年に第2妃ユーディットとの間に末弟カール (Karl) が誕生すると、彼を偏愛する敬虔王はカールが不利益を被ることを避けるため、831年、国土分割的理念を新たな統治案に盛り込み、カールにも領土を与えることを決めた。
ロタールら3兄は、手中に収まるはずの領土が削減されたことに不満を募らせた。 リヨン大司教アゴバルト (Agobard) ら有力聖職者もこの案に反発した。統一王国の理念を奉じ、832年に3兄が敬虔王への反乱を企てた際には、これを支持。翌833年に敬虔王は廃位された。しかし、その後行われた3兄間の取引は決裂、更に834年に復位を果たした敬虔王は、なおもカールに有利な分割案に執着した。この相続争いは、838年にピピンが死去したことにより、一層激化した。
840年に敬虔王が薨去するに至って、領土を巡る兄弟の対立は頂点を迎えた。841年、フォントノワの戦い (Schlacht von Fontenoy) で3者は会戦。王国全土を領有せんとするロタールに対し、ルートヴィヒとカールは同盟を結び、ロタール軍を撃破した。更に翌842年、ストラスブールの誓約(Serments de Strasbourg(仏)、Straßburger Eide(独))で2人は同盟関係を再確認、国土の分割をロタールに迫った。こうした圧力の結果、843年8月10日にルートヴィヒとカールはヴェルダン (Verdun) において、王国を3分する案をロタールに呑ませた。ロタールの野望はここに潰えたのである。
ヴェルダン条約によってカロリング帝国 (en:en) はシャルル2世の西フランク王国、ルートヴィヒ2世の東フランク王国そしてロタール1世の中部フランク王国(イタリア、ロタリンギア、プロヴァンス)に分裂し、ロタール1世の帝位は保たれたものの東西両フランク王国に対する宗主権は失われた。ロタール1世が没するとロドヴィコ2世 (en:en) (ルートヴィヒ2世)が帝位を継いだが、870年のメルセン条約によって中部フランク王国は分割されプロヴァンスは西フランク領、ロタリンギアは東フランク領になり、皇帝ロドヴィコ2世にはイタリアと西ローマ皇帝の称号のみが保たれ、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型が形づくられた[28]。
875年に皇帝ロドヴィコ2世が死去すると西フランク王シャルル2世がイタリアに侵攻して帝位に就いた。881年にシャルル2世が死去するとルートヴィヒ2世の三男のアレマニア=イタリア王カール3世(肥満王)が西ローマ皇帝となり、その後、彼は遺領相続によって東フランク王と西フランク王を兼ねてカロリング帝国の再統一がなされた。しかし、カール3世にはこの時期にヨーロッパへ侵攻していたノルマン人、イスラム教徒そしてマジャール人に対処する力量がなく[29]、887年にカール3世は東フランク王を廃位されてしまい、翌888年に彼が死去すると帝国は分裂し、再建されることはなかった。年代記編者プリュムのレギーノ (en:en) は各々の領域は自分たちの身内(bowels)から小王(kinglet)を選出するようになっていたと述べている。東フランク王国ではフランケン、ザクセン、バイエルン、アレマニア (en:en) (シュヴァーベン)、ロートリンゲンが大公として発達し、部族大公制 (en:en) と呼ばれる[30]。
ルートヴィヒ2世の子バイエルン公カールマンの庶子アルヌルフが東フランク王に選出され(在位:887年 - 899年)、896年にはイタリアへ侵攻して西ローマ皇帝に即位している(在位:896年 - 899年)。カール3世の死後、教皇によって戴冠された皇帝はイタリアのみを統治する状態になり、この形式の最後の西ローマ皇帝がベレンガーリオ1世(在位:888年 - 924年)である。
911年にアルヌルフの後継者のルートヴィヒ4世(幼童王)(在位:899年 - 911年)が死去すると東フランクのカロリング家は断絶した。ロートリンゲンの貴族たちは西フランク王シャルル3世(単純王)を擁立するが、西フランクに併合されることを嫌った部族大公たちは、カロリング家と同じフランク族(フランケン族)のコンラート家(コンラディン家)のフランケン公コンラートが東フランク王アルヌルフの外孫に当たるということで、これを王に選出した(コンラート1世(若王))[31][32]。一般的にはコンラート1世の即位をもってカロリング朝の東フランク王国から、独自のドイツ王国へ転換したとされる[33]。コンラート1世はロートリンゲンを西フランクに奪われて統制勢力を弱め[34]、反抗する部族大公との抗争の最中に負傷し、918年に死去した。
オットー大帝の戴冠[編集]
コンラート1世は敵対していたザクセン公のハインリヒ(リウドルフィング家)を後継者に指名し、翌919年にフリッツラー (en:en) の会合でザクセン人とフランケン人によって新国王に選出され(ハインリヒ1世)、ザクセン朝(オットー朝 (en:en) 、リウドルフィング朝)が開かれた[35]。ハインリヒ1世はシュヴァーベンとバイエルンを臣従させると、ロートリンゲンに出兵して西フランク王国と戦い、921年に和議が結ばれ西フランク王シャルル3世はハインリヒ1世を同格の東フランク王(Rex Francorum Orientalum)と認めた(ボン条約)[36][37]。その後、西フランクが混乱状態に陥るとハインリヒ1世はロートリンゲンを奪回し、東方ではマジャール人に対する城塞を整備し、またスラブ諸族を制圧した[36][38]。933年にはマジャール人をリアデの戦い (en:en) で撃破し、解体しかけていた東フランク王国はハインリヒ1世の業績によって再統一がなされた[39]。ハインリヒ1世は929年に王令を出して次男のオットーを後継者に指名し、その際に王権と王国の単独相続を定め、フランク王国以来の均等相続の原則を否定した[40][41]。
936年にハインリヒ1世が死去するとアーヘンにおいてオットーが国王に選出され即位した(オットー1世)[42]。即位して程なく発生した異母兄と弟の反乱を平定すると、オットー1世は諸大公領を王族の支配下に置く体制を構築して国内を固めた[43][44]。また、部族大公を抑え込むためにオットー1世は教会勢力と結びつき、司教や修道院に所領を寄進して特権を与えて世俗権力からの保護するとともに、司教の任命権を握って聖職者の忠誠を受け、国家行政を聖職者に委ねた(帝国教会政策 )[45][46][5]。951年、オットー1世はイタリア王ロターリオ2世の未亡人アデライーデ (en:en) の要請によりイタリア遠征を敢行して敵対者ベレンガーリオ2世を駆逐した後にアデライーデと結婚し、彼女との婚姻関係に基づきイタリア王となる[47]。
このイタリア遠征の際に王息ロイドルフとの間に亀裂が起こり、953年にロートリンゲン公をはじめとする諸侯とともに大反乱を起こし、オットー1世は危機に陥った[48]。だが、ロイドルフの了解の元にマジャール人が侵入すると危機感を持った諸侯はオットー1世に臣従し、結束を強めたオットー1世は955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人に大勝して、その脅威に終止符を打った[49]。
960年、ベレンガーリオ2世により教皇領を侵害された教皇ヨハネス12世がオットー1世に救援を要請した。翌961年にオットー1世はイタリアへ遠征し、962年2月2日にローマにおいて教皇ヨハネス12世によりローマ皇帝に戴冠した(オットー大帝)。以降、皇帝はローマにおいて教皇の手による戴冠を必要とするようになる(イタリア政策)。この戴冠が一般的には神聖ローマ帝国の始まりとされる[2]。しかしながら、当時は「神聖ローマ帝国」(Heiliges Römisches Reich)なる名称は存在せず、オットー1世の戴冠によって新たな国家が誕生した訳でもなく、同時代の意識としてはあくまでもカロリング帝国からの連続としての教会の保護者そして西洋世界の普遍的支配者たる「ローマ皇帝」であった[50][51][52]。
中世盛期[編集]
ザクセン朝とザーリアー朝[編集]
10世紀後半から11世紀初めの時点で、東王国はいわゆる「ドイツ」ではなく、アレマニア、バイエルン、フランケンそしてザクセンといったゲルマン部族大公の連合であった[1]。
973年にオットー1世が死去すると皇后アデライーデとの子のオットー2世が即位した。即位から程なく発生した従兄弟のバイエルン公ハインリヒ2世の反乱を鎮圧すると続いて西フランク王ロテールと戦ってパリへ進撃した。皇帝権の拡大を目指し「至高なるローマ人の皇帝」(Imeprium Augustu Romanorum)の称号を用いたオットー2世は980年にはイタリア遠征を行うが、イスラム教徒に大敗を喫し、東方ではバルト・スラブ人の蜂起が起きた[53][54]。オットー2世は局面の打開を図るべく再度のイタリア遠征を企図するが983年にローマで死去した。
僅か3歳のオットー3世が後継者となり、母テオファヌが摂政となった。テオファヌはその任をよく果たして王国の安定に尽くした[55]。994年に親政を開始したオットー3世はイタリア遠征を敢行し、996年に従兄を教皇グレゴリウス5世となして皇帝に戴冠した。オットー3世は父以上に「ローマ帝国の再興」に意欲を示し、教皇と結合した世界帝国を目指して活動したが、1002年に22歳で死去した[55][56][57]。
オットー3世が未婚のまま死去したため、幾人かの候補者が名のりを上げ、駆け引きの後に唯一の男系のバイエルン公ハインリヒ4世がバイエルン、フランケン、オーバーロートリンゲンによって選出され(ハインリヒ2世)、その後国内を巡行してその他の諸侯の臣従を受けた[58]。ハインリヒ2世は「フランク王国の復興」を標榜してドイツ支配強化を打ち出し[59]、諸大公の力を抑制するとともに帝国教会体制を強化させ帝国統治の要となした[60][61]。また3度のイタリア遠征を行って1014年にローマで戴冠して、教会の守護者として教会改革に取り組んでいる[61]。
1024年にハインリヒ2世が子を残さずに死去し、ザクセン朝は断絶した。オッペンハイムに聖俗諸侯が参集してザーリアー家のシュパイエル伯コンラート(オットー1世の外玄孫)が国王に選出されザーリアー朝 (en:en) が開かれた(コンラート2世)。政治的連合体としての帝国はハインリッヒ1世やオットー1世など国王の個人的な影響力によって保たれており、公的にはゲルマン諸部族の選挙によって選出されるが、実際には彼らは後継者を指名できており、この王朝交代が「選挙」としての国王選出の最初の機会となった[62]。コンラート2世の時代に帝国はブルグント王国を併呑し、皇帝はドイツ王、イタリア王に加えてブルグント王も兼ねるようになった。また「ローマ帝国」(Imperium Romanum)の国名を公文書で用い始めている[63]。
1039年に後を継いだハインリヒ3世は地盤のフランケン公領に加えて、シュヴァーベン公領とバイエルン公領をも手に入れて王権の基盤を固め、更にボヘミア公を服属させて帝国の威信を高めた[64]。当時、聖職売買や私婚が横行するなどローマ教会は乱脈を極めており、教会紀律刷新を主張するクリュニー教会改革運動をハインリヒ3世は積極的に支持した[65][66]。ハインリヒ3世はイタリアへ遠征してローマ教皇庁に介入し、3人のローマ教皇(ベネディクトゥス9世、シルウェステル3世、グレゴリウス6世)を罷免して、教会改革派のドイツ人聖職者クレメンス2世、ダマスス2世、レオ9世、ウィクトル2世を次々と教皇位につけている[67]。
叙任権闘争[編集]
1056年にハインリヒ3世が死去し、僅か3歳のハインリヒ4世が即位して母アグネス (en:en) が摂政となるが王権は弱体化し、幼主は諸侯たちの政争の具となる[68]。1057年にドイツ人教皇ウィクトル2世が死去するとクリュニー教会改革派の教皇庁は帝国の関与を排してステファヌス10世を選出した[69]。次のニコラウス2世は教皇選挙から世俗権力の干渉を排除する教皇勅書を発して、皇帝支配からの脱却を図った[70]。そして、1073年に教皇至上権の確立(グレゴリウス改革)を目指すグレゴリウス7世が教皇に選出される。
一方、ドイツでは成人したハインリヒ4世が帝権の強化を企図して諸侯と対立していた[71](ザクセン戦争)。1075年、教皇グレゴリウス7世は俗人による聖職者叙任を禁止する教皇勅書を発した。俗権叙任は君主による各地域の教会支配と忠誠獲得の有効な手段であり、ハインリヒ4世はこれを拒否してドイツ司教に教皇廃立を決議させ、「ヒルデブラント(グレゴリウス7世の修道名)は(中略)教皇ではなく偽りの修道士である」と宣言した。これに対して、教皇グレゴリウス7世はハインリヒ4世を破門となし、その臣下たちの忠誠義務の解除を宣言する。
ドイツ諸侯は諸侯会議を開いて破門赦免が得られなければ国王を廃位すると決議し、ハインリヒ4世は自らに対する政治的支持がほとんどない事に気づかされた[72]。窮地に陥ったハインリヒ4世はドイツを出て、1077年に北イタリアのカノッサでグレゴリウス7世に赦免を乞う屈辱を強いられた(カノッサの屈辱)。
しかし、抗争はこれでは終わらず、反国王派ドイツ諸侯はシュヴァーベン公ルドルフ (en:en) を対立国王に選出し、教皇グレゴリウス7世もこれを支持して1080年にハインリヒ4世を再度の破門に処した。だが、この破門は効果がなくハインリヒ4世はクレメンス3世を対立教皇に立てて対抗し、シュヴァーベン公ルドルフに打ち勝って戦死させると、イタリアへ侵攻した。ローマは開城し、教皇グレゴリウス7世は亡命地のサレルノで失意の内に死去した。
教皇庁はウィクトル3世、次いでウルバヌス2世を立てて皇帝に対抗した。外交の名手教皇ウルバヌス2世は南ドイツと北イタリア一帯を味方に引き入れ、更にはハインリヒ4世の長男コンラートをも寝返らせた[73]。ハインリヒ4世はコンラートを廃嫡して次男を後継者としてドイツ国王に選出させるが(ハインリヒ5世)、ハインリヒ5世もまた教皇との和解を望み1105年に父を捕らえて幽閉してしまう[74]。ハインリヒ4世は脱出して息子と戦うが、翌1106年に死去した。
1122年にハインリヒ5世と教皇カリストゥス2世との間で皇帝は高位聖職者の叙任権を放棄し、授封権のみを留める内容(聖権と俗権の分離)のヴォルムス協約が結ばれて叙任権闘争は決着し、抗争は皇帝の敗北で終わった[6][75]。この結果、教会領は帝国権威の従属物ではなく、帝国政治体制における独立した諸侯と化すことになる[76]。
ホーエンシュタウフェン朝[編集]
1125年にハインリヒ5世が子を残さずに死去してザーリアー朝は断絶した。生前、ハインリヒ5世は協力的であった甥でホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世を後継者にと望んだが[77]、国王選挙で選出されたのはズップリンブルク家のザクセン大公ロタールであった(ロタール3世)。教皇との紛争は皇帝の不利となり、ロタール3世は重要な権利を放棄したと伝えられる[nb 7]。ロタールは教皇に献身的であったが[78]、イタリア遠征中の1137年に死去した。ロタール3世にも息子はなく、婿でヴェルフ家のハインリヒ10世(傲岸公)を後継者に望んだが[79]、国王選挙ではホーエンシュタウフェン家のコンラートが選出された(コンラート3世)。ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の対立はイタリアへ及び皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)の抗争が引き起こされ[80]、紛争は15世紀末まで続き、イタリア諸都市を分裂させている。
コンラート3世は1152年に死去し、甥のシュヴァーベン大公フリードリヒが国王に選出された(フリードリヒ1世赤髭王)。フリードリヒ1世の政策はイタリアに重点が置かれた。彼はこの地域における帝権の回復を目指しており、6度ものイタリア遠征を行っている。1155年にフリードリヒ1世は皇帝に戴冠し、以後「神聖帝国」(Sacrum Imperium)の国名を使用するようになった[81]。だが、南イタリアのノルマン人に対する戦役の際に教皇との対立が高まり[82]、ビザンツ帝国との関係も悪化した。フリードリヒ1世がイタリアにおける帝国の行政権を強化するために北イタリアのロンカーリャ で帝国議会を開催すると、ミラノをはじめとする裕福な諸都市からの激しい抵抗に直面した[83]。関係は悪化し、北イタリア諸都市はロンバルディア同盟を結成してホーエンシュタウフェン家に対抗した。新教皇アレクサンデル3世の選出は論争を呼び起こし、フリードリヒ1世は承認を拒否した。だが、皇帝軍は1167年にローマでの疫病で多数の死者を出して撤退を余儀なくされ[84]、そして1176年のレニャーノの戦い (en:en) で惨敗を喫したことにより、軍事的勝利が望めないと思い知らされた彼は1177年に教皇とのヴェネツィア条約 (en:en) を締結した。北イタリア諸都市との和解もなされたが、フリードリヒ1世はもはやイタリアでの計画を実行することは叶わなくなっていた。
フリードリヒ1世は従兄弟にあたるヴェルフ家のザクセン=バイエルン公ハインリヒ(獅子公)と対立するようになる。ハインリヒ獅子公はロンバルディア遠征への参加を拒否し、フリードリヒ1世は大敗した[85]。1180年にハインリヒ獅子公は裁判にかけられてザクセンとバイエルンを没収され、帝国追放に処された。
1190年、フリードリヒ1世は第3回十字軍の最中に死去した。彼の次男がハインリヒ6世として後を継ぐ。1186年には既にカエサルの称号を父から授けられており、事実上の後継者と見なされていた。1191年に皇帝に戴冠するとハインリヒ6世は南イタリアにあるノルマン王朝のシチリア王国の併合を企てた。彼はシチリア王グリエルモ2世の王女コスタンツァと結婚しており、グリエルモ2世が子を残さずに死去したために王位は彼女とハインリヒ6世に回るはずであった[86]。ハインリヒ6世は王位継承を主張したが、反ドイツ派がタンクレーディを擁立したため失敗した[86]。1194年にハインリヒ6世は南イタリアを制圧して、ハインリヒ6世とコスタンツァがシチリア王となった[87]。彼はドイツ王国の国王選挙制度を廃してフランスやシチリアと同様の世襲王国とする世襲帝国計画(Erbreichsplan)を提案するが、諸侯の抵抗に遭い失敗に終わった[88]。また、彼は十字軍による聖地奪回だけでなく、東方支配をも視野に入れた野心的な地中海政策も構想したが[88]、1197年に32歳で急死してしまい、彼の早世によって帝国に強力な中央集権を確立せんとする最後の試みは頓挫した。
ハインリヒ6世の息子フリードリヒ2世は1196年に2歳で既にドイツ王に選出されていたが[88]、幼少であった彼の王位は排除されて[89]当初はシチリア王とのみとなり、教皇インノケンティウス3世が後見人として摂政となった[90]。ドイツでは1198年の二重選挙によってミュールハウゼンでホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン公フィリップ、ケルンではヴェルフ家のオットー4世の2人の国王が各々選出され対立した。情勢はフィリップに有利に傾いたが、1208年に暗殺された。教皇インノケンティウス3世の支持を受けたオットー4世が1209年に皇帝に戴冠したが、シチリア王国に侵攻したため翌1209年に教皇から破門されてしまう[91]。
ドイツ諸侯はオットー4世の廃位を決議して、教皇インノケンティウス3世が支持するフリードリヒ2世を国王に選出した[92]。フリードリヒ2世は1220年に皇帝に戴冠するが、やがて教皇庁と対立するようになる[93]。フリードリヒ2世は1228年の第6回十字軍の際に教皇グレゴリウス9世の怒りを受けて破門されるが、破門の身でありながら(アイユーブ朝のスルタンアル=カーミルとの交渉によって)エルサレムの奪回に成功し、エルサレム王位をも手に入れて多くの人々を驚かせている。
フリードリヒ2世は帝国の勢力を大いに高めたが、その解体の主な契機をももたらしている。彼はシチリアにおいて公共事業や財政その他の改革によって革新的な国家建設に努める一方で、ドイツでは諸侯に大幅な特権を授与して大きな権限を与え、以降、王権がこれを取り戻すことはできなかった。1220年にドイツ司教との間に「聖界諸侯との協約」(Confoederatio cum principibus ecclesiasticis)を結び、1232年には嫡男ハインリヒの反乱に際して諸侯を味方につけるために「諸侯の利益のための協定」(Statutum in favorem principum)を発して、関税徴収請求権、貨幣鋳造権そして城塞構築権といった多くのレガリア(大権)を放棄して聖俗諸侯の特権を拡大させた[94]。これらの協定が中世後期の帝国における領邦国家形成の始まりとなる[95]。これらの特権の多くはこれ以前から既成事実化していたが、これによって法的な確認が与えられた[96]。フリードリヒ2世はアルプス以北のドイツ諸侯は各々の領地の経営を行い、自身はシチリア本国の経営に専念することを望んだ[97]。
フリードリヒ2世は教皇や北イタリア諸都市と紛争を起こすようになり[98]、 教皇はフリードリヒ2世を反キリストであると非難した[99]。最終的にフリードリヒ2世が軍事的に優勢となるが[100]、1250年に死去した。
この時期、東方では1226年にマゾフシェ公コンラト1世によってプロイセンのキリスト教化のためにドイツ騎士団が招聘された。修道会国家ドイツ騎士団国(Deutschordensstaat)は帝国と密接な関係を保っていはいたが、領域に属していたか否かは定かではない[101]。ホーエンシュタウフェン朝の皇帝たちが長期間イタリアに滞在している間にドイツ諸侯の勢力は拡大し、ドイツ農民や商人による東方移住が促された。東方移住やスラブ人地域領主との婚姻によって帝国の影響力はポメラニアやシレジアにまで拡大している。
大空位時代[編集]
フリードリヒ2世が死去した1250年(またはコンラート4世の死の1254年あるいはヴィルヘルム・フォン・ホラントの死の1256年)からハプスブルク家のルドルフ1世が国王に選出された1273年までの期間を統一国王の存在しない大空位時代(Interregnum)と呼ぶ[102][103][104]。
フリードリヒ2世の共治王に立てられていた次男のコンラート4世が単独王になるが、反皇帝派は1246年にテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペを対立王に立てており、翌年に彼が死ぬとホラント伯ウィレム2世(ヴィルヘルム・フォン・ホラント)を選出して対抗した。1254年にコンラート4世が死去してヴィルヘルム・フォン・ホラントが唯一のドイツ王となった。その後、コンラート4世の遺児コッラディーノと異母弟マンフレーディもシャルル・ダンジューとシチリア王位を争って殺されており、ホーエンシュタウフェン家は断絶している。1254年にヴィルヘルムは「神聖ローマ帝国」(Imperium Romanum Sacrum)の国名を初めて用いた[105]。だが、ヴィルヘルムはその2年後の1256年のフリースラント遠征中に戦死してしまう。
1257年の二重選挙が空位期の長期化をもたらした。この選挙の際にマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ライン宮中伯(プファルツ)、ブランデンブルク辺境伯、ザクセン大公、そしてボヘミア王といった、後に選帝侯(Kurfürst)と呼ばれるグループが現れた[106]。
当初、プファルツ、ケルンそしてマインツの3人の選挙人(主に教皇派)はヴィルヘルムの後継国王としてコーンウォール伯リチャード(イングランド王ヘンリー3世の弟)に投票した。しばらく後に4人目のボヘミアもこの選択に加わった。しかしながら、その数ヵ月後にトリーア、ブランデンブルクそしてザクセン(主に皇帝派)そしてボヘミアがカスティーリャ王アルフォンソ10世に投票する。ボヘミアの二重投票によりドイツに二人の国王が並び立つことになった。
アルフォンソ10世はスペインに留まり一度もドイツに入ることなく、リチャードもまたほとんど不在で国王がドイツにいない状態が長期化した[107]。この大空位時代に帝国の秩序は乱れ、諸侯は特権獲得と領域形成を強固にして、より一層自立した統治者と化した[108][109]。また、この時期、ドイツ西部で諸侯の勢力伸張に対して都市の利益を守るためのライン同盟が結成されるといった現象が起こっている[110][111]。
中世後期[編集]
跳躍選挙[編集]
1272年にリチャードが死去すると、弱体な君主を望む諸侯の思惑から現在のスイス北西部と上ラインの小領主に過ぎないハプスブルク家のルドルフ1世が国王に選出された[112][113]。ボヘミア王オタカル2世がルドルフ1世への臣従を拒否して戦争になり、1278年のマルヒフェルトの戦い (en:en) でルドルフ1世が勝利し、この結果、ハプスブルク家は後に地盤となるオーストリアとシュタイアーマルクを獲得している[114]。
ルドルフ1世の死からカール4世即位までの時期はすべての国王選挙で異なる家門が選出されており、跳躍選挙(Springende Wahlen)と呼ばれている。帝国西部へのフランスの進出によって旧ブルグンド王国への影響力が衰えた[115]。この影響力の衰退はイタリア(主にロンバルディアやトスカーナ)にも及んだ。
1291年にルドルフ1世が死去するとハプスブルク家の勢力伸長を警戒した諸侯は世襲を認めず、ナッサウ家のアドルフを国王に選出した[116][117][112]。だが、アドルフは1298年に廃位されてしまい、再びハプスブルク家の国王が選出されてルドルフ1世の子のアルブレヒト1世が即位するが、1308年に一族の者によって暗殺されている。
代わってルクセンブルク家のハインリヒ7世が国王に選出された。皇帝権の再建を企図する[118]ハインリヒ7世は1310年から1313年にかけてイタリア遠征を行い帝国のイタリア政策を再興した。ハインリヒ7世は1312年にフリードリヒ2世以降初めてローマで皇帝戴冠をなしたが、1309年に教皇庁はローマの政争から逃れるために南フランスのアヴィニョンへ動座しており(アヴィニョン捕囚)、教皇ではなく枢機卿の手で戴冠されている[119]。
教皇と帝国の間のキリスト教社会自体の支配を巡る対立はルートヴィヒ4世の治世に再燃している[120]。1313年にハインリヒ7世が死去すると諸侯は二つの党派に分裂してハプスブルク家のフリードリヒ(美王)とヴィッテルスバッハ家のバイエルン公ルートヴィヒが選出され、8年の戦争の後にルートヴィヒ4世が勝利したが、進取的で権威主義者の教皇ヨハネス22世はこの状況を利用すべく、教皇の認可のない「バイエルン人ルートヴィヒ」の国王選出を無効であると宣言した[121]。ヨハネス22世は教皇は皇帝が不在の間の帝国のイタリア地方における代理人であると主張し、ナポリ王ロベルトをトスカナの代官に任命する。ルートヴィヒ4世は上訴を行い、国王権力の独立を主張して教皇の異端を告発し、これに対しヨハネス22世は破門で応じた。1328年、ルートヴィヒ4世はイタリア遠征を敢行してローマを占領し、パドヴァのマルシリウスの人民主権論『平和の擁護者』を理論根拠に教皇ではなくローマ人民の名で皇帝に戴冠した[122]。皇帝と教皇の紛争はフランシスコ会士オッカムのウィリアムや同会聖霊派の清貧論争や教皇世俗支配問題と結びつき、神学と政学の論争を引き起こしている[123]。
紛争が長期化した1338年、6人の選帝侯がレンスで会議を開き、選帝侯による選挙によってのみ国王は選出されると議決して、教皇からの承認の必要性を拒否した(レンス判告)[124][125]。ルートヴィヒ4世はこれを受けて帝国法「リケット・ユーリス」(Licet iuris)と皇帝命令書「フィデム・カトリカム」(Fidem catholicam)を発布して、教皇絶対権を否定し、選挙によって国王に選出された者が直ちに「真のローマ王にして皇帝」になると規定した[126][127]。
1346年、チロル伯爵領での強引な家門拡大策で教皇から破門を受けたルートヴィヒ4世は廃位され[128]、ルクセンブルク家のカール4世が選出された。カール4世は即位に際して教皇にかなりの譲歩を行い、1355年にローマで皇帝戴冠を行った[129]。中世後期の皇帝たちは帝国ドイツ部分の統治に専念するようになり、自らの領地の利害をより重視するようになっており[1]、ボヘミア王でもあるカール4世はその典型であった[130]。
1356年、カール4世は国王選出の際にほとんど必ず発生して帝国の威信を傷つけてきた紛争を避けるために金印勅書(bulla aurea)を発布した。帝国初の基本法と見なされるこの勅書によって7人の選帝侯による選挙方式が定められ、国王は過半数の得票で選出されて直ちに皇帝になると見なされ、これによって教皇の介入を排除することができた[131][132]。また、選帝侯領の世襲制と領地不可分が確認され、裁判権や関税権、貨幣鋳造権などの諸特権が認められた[131][132]。その他、帝国議会(Reichstag)の成文化、私闘(フェーデ)の禁止や諸侯の利益に反する都市同盟の結成の禁止なども含まれている[133]。
カール4世の時代にヨーロッパの人口の3分の1が犠牲になったとされる黒死病(ペスト)の大流行が発生している[134]。ドイツでは1350年に発生し、14世紀末まで断続的に続いた[135]。この際にドイツ各地で宗教的集団ヒステリーによるポグロム(ユダヤ人虐殺)が発生して多数のユダヤ人が犠牲となり、カール4世はこれを阻止しえず、却って助長することまでしている[136][137]。
この時期、商人ハンザから都市ハンザが成立し(ハンザ同盟)[138]、やがて北ヨーロッパにおける巨大勢力へと成長することになる。1241年に結成されたこの同盟はハンブルク、リューベック、リガそしてノヴゴロドを含み、15世紀には200におよぶ都市が加盟していた[139]。当時、ハンザ同盟は主要な政治的アクターとなっており、デンマークと戦って勝利しバルト海における覇権を認めさせるまでになっていた(シュトラールズントの和約)[140]。同時期、シュヴァーベン公に併合されることを恐れた諸都市がシュヴァーベン都市同盟 を結成している。シュヴァーベンはライン川とドナウ川が合流し、アルプス山脈を通ってポー川流域につながるヨーロッパ全域を結ぶ中心地に位置していた。カール4世は世襲工作の資金調達のために自ら金印勅書に違反してまで、この同盟を許して諸侯を憤慨させている[141]。
1378年にカール4世は死去し、息子のヴェンツェルが国王に選出されたが、諸侯と対立して1400年に選帝侯たちによって廃位されてしまう[142]。代わってヴィッテルスバッハ家のプファルツ選帝侯ループレヒトが国王に選出された。効果的な統治を行うには彼の権力基盤は弱体でありすぎ、加えてヴェンツェルは王位を失うことを認めていなかった[143]。
1410年にループレヒトが死去するとルクセンブルク家最後の皇帝となるハンガリー王ジギスムント(ヴェンツェルの異母弟)が選出された。当時、1378年の教会大分裂(シスマ)による政教問題が持ち上がっており、ジギスムント即位の時点で3人の教皇が鼎立する異常な状態になっていた。ジギスムントはシスマを解消すべく介入し、1414年にコンスタンツ公会議(1414年-1418年)を開催させた。公会議によって3人の教皇いずれもが廃位・辞任させられ、新たにマルティヌス5世が選出されてシスマは除去された。しかし、この公会議でボヘミアの教会改革派ヤン・フスを異端者として火刑に処したことで、フス派が武装蜂起しフス戦争(1419年-1436年)を引き起こすことになった。ジギスムント(1419年からボヘミア王を兼ねる)は1431年まで5回にわたる十字軍を派遣するが連敗を喫した[144]。宗教戦争はフス派の内紛により過激派タボル派が壊滅したことで終結するが[144]、ジギスムントの地盤であるボヘミアは荒廃し、ルクセンブルク家の手から離れた[145]。
1437年にジギスムントが死去するとルクセンブルク家の帝位は終焉した。帝位はハプスブルク家へ渡り、帝国が消滅するまで同家が事実上独占することとなった[nb 4]。
帝国改造[編集]
ハプスブルク家はスイス誓約同盟 (Eidgenossenschaft)との戦争(1315年のモルガルテンの戦い 、1386年のゼンパッハの戦い )に敗れて発祥の地は事実上失ったが、東方では家領を増やしてオーストリア公領、シュタイヤーマルク公領、ケルンテン公領、クライン公領 (en:en) 、チロル伯領を獲得していた[146]。また、ルドルフ4世(建設公)の時に特許状を偽造して「大公」(Erzherzog)を自称し、カール4世に黙認させている[nb 8]。
1437年、ジギスムントの娘婿でハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト2世が選出されるが(ボヘミア王とハンガリー王も相続[147])、僅か1年ほどで急死してしまう。代わって従兄弟のシュタイヤーマルク公フリードリヒ5世が選出された(フリードリヒ3世)。フリードリヒ3世は「帝国第一の就寝帽」[nb 9]と評されるほどの無能な人物だったが[148][149]、歴代最長の53年の治世となり、その長寿と婚姻政策の成功によって結果的にハプスブルク家発展の道を開くことになった[150][151][152]。フリードリヒ3世の治世に帝国の領域をドイツに限定する意味で、国名に「ドイツ国民の」(Deutscher Nation)を付け始めている[153]。
1453年にコンスタンティノープルが陥落してオスマン帝国の脅威が迫るとフリードリヒ3世は帝国会議を開いて諸侯に戦費調達を要請した。諸侯はこの機会に帝国裁判所 (en:Reichskammergericht) の設置を要求したが、皇帝に不利な内容だったため彼はこれを拒否している[154]。1455年、フリードリヒ3世はローマで皇帝戴冠をなし、彼がローマで戴冠式を挙行した最後の皇帝となった。
1457年にオーストリア公、ボヘミア王、ハンガリー王を兼ねるアルブレヒト2世の子のラディスラウス・ポストゥムスが死去し、オーストリアはハプスブルク家が確保したが、ボヘミアとハンガリーはその手から離れた。
1474年に史上初の国際アドホック刑事裁判として知られるブルゴーニュ戦争のペーター・フォン・ハーゲンバッハ の公判が神聖ローマ帝国で行なわれ、ハーゲンバッハは指揮官の責任 の罪状で法的に有罪とされ、斬首刑に処された[155]。
1485年にはハンガリー王マーチャーシュ1世がオーストリアへ攻め込み、ウィーンを占領される事態に陥る。救援を要請したフリードリヒ3世に対して諸侯は嫡男ブルゴーニュ公マクシミリアンへのドイツ王譲位を要求し[154]、翌1486年、マクシミリアンはドイツ王(ローマ王)に即位した(マクシミリアン1世)。1493年にフリードリヒ3世は死去してマクシミリアン1世が単独統治者となる。
マクシミリアン1世は亡妻ブルゴーニュ女公マリー(1482年没)の遺領相続を主張してフランス王ルイ11世と敵対していた。彼は単独統治開始直後の1494年にミラノ公女ビアンカ・マリア・スフォルツァと再婚し、ミラノ公国の支配を巡って当時イタリア半島に侵攻していたフランス王シャルル8世との戦争状態に入った(イタリア戦争)。
翌1495年、マクシミリアン1世はヴォルムスで帝国議会を開催して諸邦の代表に対して軍資金だけでなく、帝国税の導入と兵士の提供を求めた。当時、解体しつつある帝国に新体制を構築しようとする動きがあり、この改革の基本的な考えは、主にニコラウス・クザーヌスによって提唱された皇帝と帝国等族 (en:en) との政治的協調論に基づいている。マインツ大司教ベルトルト・フォン・ヘンネブルク (en:en) を中心とした代表たちは一般帝国税(Gemeiner Pfennig)の導入には基本的に同意したが、同時に諸改革案を提案し、マクシミリン1世は妥協してこれに同意した[154]。その後、1500年のアウクスブルク帝国議会、1512年のケルン帝国議会でも改革が決議された。以下の骨子のこれらの諸改革を一般に帝国改造(Reichsreform)と呼ぶ。
- 永久ラント平和令(Ewiger Landfriede)の制定 :帝国に単一の法体系を確立して武力行使の合法性を独占(Gewaltmonopol des Staates)し、封臣間の政治的争いを解決する手段としての私闘(フェーデ)を禁止する。
- 帝国最高法院(Reichskammergericht)の設置:上記に関連する機関としての帝国全領域における最高裁判所で、帝国行政府の長としての皇帝個人から管轄権を分離していた。マクシミリアン1世はこれと並存する帝国宮内法院 (en:Reichshofrat) を1497年に設置して対応した。帝国裁判所はフランクフルト・アム・マインに置かれ、1523年にシュパイアーへ移転し、最終的に1693年にヴェッツラーに落ち着いた。
- 帝国統治院(Reichsregiment)の設置:扱いづらく旧態依然としており、これまで充分な影響力を持ち得なかった帝国会議(Reichstag)に代わることを意図した帝国行政府。20人の聖俗諸侯と帝国自由都市の代表からなり、皇帝の財政と外交を司る。当初、マクシミリアン1世は自らの権力の制限を拒否しており、諸邦がランツクネヒト(傭兵:Landsknecht)を彼に提供することに同意した後に開かれた1500年のアウクスブルク帝国会議まで承認しなかった。しかしながら、その僅か2年後の1502年に廃止されている。
- 帝国クライス(Reichskreise)の設置:クライス議会(Kreistage)を有する6管区(1512年以降は10管区)。クライスは元々は1500年から設立された帝国最高法院の選挙区を意味し、1512年に治安維持機能が付与され、各管区は永久ラント平和令の施行や徴税そして軍隊の編成をより効率的に管理運営することを目的とした。
しかしながら。新しい法令が普遍的に受け入れられて新裁判所が機能し始めるのには、なお数十年を必要とした。
1508年、マクシミリアン1世はローマでの教皇の手による戴冠を受けることなく皇帝を称し、以後、皇帝はローマでの戴冠を必要としなくなる[156]。1512年のケルン帝国議会から「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)の国名が公文書で用いられ始めた[157]。
近世[編集]
カール5世の世界帝国と宗教改革[編集]
16世紀に入ったこの時期、フランス、イングランド、スペインでは中央集権化が進められていたが[158]、既述の通りにドイツでは逆に諸侯の特権が強化される傾向にあった。
マクシミリアン1世は嫡子ブルゴーニュ公フィリップ(美公)をカスティーリャ=アラゴン(以後スペインと記す)王家の王女フアナと結婚させ、1500年に二人の間に嫡子カールが生まれた。カールは父フィリップの死去(1506年)によってブルゴーニュ公(領地はブルゴーニュの一部とネーデルラント)を継承し、1516年には母方の祖父のスペイン王フェルナンド2世の死去により、祖父の有していたスペイン王、ナポリ王、シチリア王等の称号を継承する。母フアナとの共同統治であったが、フアナは精神障害のために政務が執れず[159]、実質的にはカールの単独統治となった(スペイン王カルロス1世)[160]。
1519年に父方の祖父である皇帝マクシミリアン1世が死去した。カールはフランス王フランソワ1世との選挙戦に勝ち、皇帝に選出された(神聖ローマ皇帝カール5世)。1526年には弟のオーストリア大公フェルディナント1世がハンガリー=ボヘミア王位を継承しており、こうしてハプスブルク家はスペイン、ドイツ、ネーデルラント、ナポリ=シチリア、サルデーニャ、オーストリア、ハンガリー=ボヘミアそして広大なスペインの新大陸領土を治める「普遍的君主制」[161](monarchia universalis)に君臨することになった。だが、ドイツではカール5世の治世に神聖ローマ帝国の解体を決定的にさせる事態が生じる。
カール5世が神聖ローマ帝国を統治し始める以前の1517年にマルティン・ルターがヴィッテンベルク大学で発表した『95ヶ条の論題』が宗教改革の発端となった[162]。ローマ・カトリック教会の大きな財源となっていた贖宥状の効力に疑義を呈するこの論題は活版印刷の普及もあってドイツ各地に広まって大きな反響を呼び[163]、事態を憂慮した教皇レオ10世はルターにローマ出頭を命じるが、ルターは領主であるザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)の庇護を受けてこれに応じなかった。ドイツ内のアウクスブルクとライプツィヒで行われた異端審問でルターは教皇庁側と決裂した[164]。1520年にルターは『ドイツ貴族に与える書』、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』を発表し(三大宗教改革論)、これに対して教皇庁はルターに破門を通告する勅書を送って自説の撤回を迫る。ルターはヴィッテンベルクの公衆の前で、この勅書を燃やして答えた。
1520年にカール5世はヴォルムス帝国議会を開き、先代マクシミリアン1世から引き継いだフランスとのイタリア戦争のために諸侯に妥協し、帝国統治院の再設置を承認させられた[165]。この帝国議会にルターが召喚されて審問を受けたが、彼は断固たる態度で自説の撤回を拒否した[166][167]。カール5世はヴォルムス勅令 を発してルターを帝国追放に処して著書を禁圧したが、ルターはフリードリヒ賢公に匿われ、ヴァルトブルク城で新約聖書のドイツ語翻訳を成し遂げた[168]。
ヴォルムス帝国議会が終わるとカール5世はスペインへ帰国し[169]、以後約10年間もドイツでは皇帝不在となる[170]。1525年のパヴィアの戦いで皇帝軍はフランス王フランソワ1世を捕虜とする大勝をおさめ、カール5世は北イタリアからフランス勢力を駆逐できた[171]。フランソワ1世は不利な内容のマドリード条約の締結を余儀なくされたが、解放され帰国するとこの条約を反故にしてしまい[172]、戦争はなおも継続し、更にスペインを脅威と感じた新教皇クレメンス10世がフランスに加担する事態まで生じる[173](第二次イタリア戦争)。この戦争の最中の1527年に皇帝軍による「ローマ劫掠」が発生し、ヨーロッパ精神世界に大きな衝撃を与えた[174][175]。
一方、ドイツでは1521年から1524年にかけてルターの福音主義は大きく広がり[176]、ルターの支持者たちは独自解釈を始めて過激な改革運動が各地で引き起こされた[177]。また、スイスではチューリッヒ市のフルドリッヒ・ツヴィングリが宗教改革運動を主導し、更にはより急進的な再洗礼派が現れてスイス諸州や南ドイツに波及している[178]。1522年に宗教改革運動に乗じて地位回復を図った騎士階層が蜂起して騎士戦争が起こったが、短期間で諸侯連合軍に敗北した[179]。続いて、1524年から急進的な宗教改革を唱えるトマス・ミュンツァーらに主導された農民層が各地で蜂起してドイツ農民戦争が勃発する。農民たちは農奴制の廃止や司祭任免権の要求といった「12ヶ条の要求」を掲げた[180][181]。ルターは当初は農民、諸侯双方を非難したが、やがて諸侯の側に立ち農民反乱軍を激しく非難している[182][183][179][184]。統制を欠いた農民反乱軍は短期間で鎮圧され[179]、7-10万人が殺された[183]。
農民戦争鎮圧を通して諸侯の権力は強まり[185]、以降ドイツにおける宗教改革は諸侯に主導される[179]。宗教改革は諸侯にとって教皇庁の支配から逃れられる政治的経済的メリットがあった[186]。1528年までにドイツ騎士団、ヘッセン方伯、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯、マンスフェルト伯などの諸侯、そしてストラスブール、フランクフルト、ニュルンベルクといった諸都市がルター派になっていた[187]。ヘッセン方伯フィリップ1世やザクセン選帝侯ヨハンを中心とするルター派は教会改革を要求し、1529年のシュパイエル帝国議会でヴォルムス勅令の実施が重ねて決定されると、ルター派の5人の諸侯と14の帝国都市が「抗議書」(Protestatio)を提出し、これにちなんでルター派をはじめとする教会改革派はプロテスタントと呼ばれるようになった[188]。
この時期、オスマン帝国の脅威が神聖ローマ帝国へ迫っていた。1396年のニコポリスの戦いでハンガリー王ジギスムント率いる対オスマン十字軍が大敗を喫して以降、オスマン帝国はバルカン半島の支配を固めており[189]、1520年に即位したスルタン・スレイマン1世はヨーロッパ進攻を開始した。彼はまずハンガリーを攻撃してベオグラードを奪取し、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を戦死させる決定的勝利をおさめた。その後、カール5世の弟フェルディナントがハンガリー=ボヘミア王を継承したが、ハンガリーは中部のオスマン帝国占領地、西部のフェルディナントの支配する西ハンガリー王国そして東部は対立王を立てた現地諸侯にと各々支配され、いわゆる三分割時代となった[190]。1529年にオスマン軍はウィーンを包囲する(第一次ウィーン包囲)。ウィーンは陥落を免れたが、この後もカール5世はオスマン帝国との戦いを強いられ、フランス王フランソワ1世がオスマン帝国と結んだためにより困難なものとなった[191][192][193]。
ローマ劫掠後、フランス王フランソワ1世はイングランド王ヘンリー8世と盟約を結んでナポリへ侵攻したが、ジェノヴァが離反したため遠征は失敗に終わった[194]。フランスの形勢が悪化すると教皇クレメンス10世はカール5世と講和を結び、イングランド王ヘンリー8世もフランスを見離し始める[195]。1529年にカンブレーの和が結ばれ、フランスはイタリアにおける権益を放棄させられた[196]。イタリアにおける覇権を確立したカール5世は、1530年にボローニャにおいて教皇の手による皇帝戴冠式を挙行し、彼が教皇による戴冠を受けた最後の皇帝となった[197]。
アウクスブルクの和議[編集]
同年、カール5世は約10年ぶりにドイツ入りをし、宗教解決のためのアウクスブルク帝国議会を開催した。ルター派は弁証書としてフィリップ・メランヒトン起草による「アウクスブルク信仰告白」を提出したが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった[198]。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた[198]。
翌1531年に弟フェルディナンドをローマ王に推戴させて後継体制を固めるとカール5世は広大なハプスブルク帝国の統治のためにネーデルラント、ブルゴーニュへと居を移し、またオスマン帝国の脅威にも対処せねばならず、1535年には地中海を渡りチュニスにまで遠征している[199]。1536年にフランス王フランソワ1世がミラノ公国継承を主張してイタリアに侵攻し、イタリア戦争が再開した[200]。
一方、プロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された[201]。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した[201]。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協し(ヴィッテンベルク一致信条)、プロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった[201]。カトリック諸侯の側もニュルンベルク同盟を結成し、プロテスタントに対抗した[202]。
この時期、スイスでは新しい動きが起こっていた。1536年にプロテスタント神学の基礎と評価される[203]『キリスト教綱要』を著わしたフランスの神学者ジャン・カルヴァンが亡命生活中に立ち寄ったジュネーヴで教会改革に参与していた。カルヴァンは教会改革を強力に指導し、教会規則を定めて平信徒も加わる長老制を創始する[204]。彼の30年近くにわたる神権政治により、ジュネーヴは福音主義の牙城となり、カルヴァン派はやがて一大勢力に成長することになる[205]。
1544年にフランスとのクレピー条約 (en:en) が締結されるとカール5世は一転ドイツ国内の問題に専心するようになった[206](オスマン帝国とは1547年に講和)。1546年にはルターが死去し、同年、プロテスタント陣営の盟主ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ(寛大公)の一族であるザクセン公モーリッツが選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた[207]。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた[208]。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、ミュールベルクの戦い (en:en) でシュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「アウクスブルク仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフト(職業団体)が宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した[209]。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、嫡男フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した[210][211]。
このような情勢の中、プロテスタントから「マイセンのユダ」と呼ばれたザクセン選帝侯モーリッツが1552年にフランスと結んで反旗を翻して、インスブルックのカール5世を急襲する[212]。カール5世は敗北し、パッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年のアウクスブルク帝国議会で、アウクスブルク宗教平和令が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある」(cujus regio, ejus religio)という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した[213]。ただしこの時点ではカルヴァン派・ツヴィングリ派・再洗礼派などは異端とされ、信仰の自由から除外された[214]。
また、同帝国議会で発布された帝国執行令(Reichsexekutionsordnung)は帝国クライスの役割の詳細を定め、フリードリヒ3世の時代からの一連の帝国改造運動を完了させた[215]。同令によって帝国クライスがラント平和維持を担いクライス台帳に基づき、帝国等族の兵役分担を定めることになった[216]。またクライスが帝国最高法院判決の執行を担うことになる[217]。皇帝が自らの責務を果たす能力がないことを示したため、平和維持の名目のもと、今や皇帝の役割は帝国クライスが引きうけることになった[218]。
翌1556年、カール5世は弟ローマ王フェルディナンドに帝位(皇帝フェルディナント1世)を、嫡男フェリペにはスペイン王位(スペイン王フェリペ2世)をそれぞれ譲位し、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルクとスペイン・ハプスブルクとに分かれることになった。カール5世の内政および外交政策は最終的に失敗に終わった[219]。
宗派対立[編集]
この時期、ルター派はザクセン選帝侯とブランデンブルク選帝侯[nb 10]をはじめとする北ドイツ一帯に広まっており、帝国領域外ではドイツ騎士団も改宗してプロイセン公国が成立し、デンマークとスウェーデンもルター派を導入している[220]。一方、カルヴァン派は西部に浸透し、プファルツ選帝侯が改宗した。諸侯の数では依然としてカトリックが多かったが、人口ではプロテスタントが圧倒していた[221]。
フェルディナント1世はプロテスタント諸侯に対して融和的な施策を取り[222]、1560年代前半まで大きな軍事的紛争を起こすことなく帝国を統治した。1564年にフェルディナント1世が死去すると、彼の息子マクシミリアン2世が皇帝になり、父と同様にプロテスタントの存在と時々の妥協の必要性を受け入れていた[nb 11]。スペインに対するオランダ人プロテスタントの反乱(八十年戦争)では帝国は中立を守っている。だが、この宗教融和は「単なる休戦」に過ぎなかった[223] 。
1570年代からイエズス会を尖兵とする反宗教改革がドイツに浸透し始めており、各地でカトリック勢力によるプロテスタント弾圧が行われた[224]。これに対して、プロテスタント勢力はルター派と西部ドイツに勢力を広げるカルヴァン派とが対立しており、カトリックに対して統一行動が取れない状態になっていた[225]。1577年に選帝侯であるケルン大司教ゲプハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルク (en:en) がカルヴァン派の女性と結婚するために改宗を表明し、これに反対して大司教罷免を強行するカトリック諸侯とのケルン戦争 (en:en) が勃発するが、ルター派の多いプロテスタント諸侯はこれを傍観している[226][227]。
プロテスタントに寛容な[nb 11]マクシミリアン2世が1576年に死去すると、頑迷なカトリックである彼の息子ルドルフ2世[228]は父の政策を廃棄して帝国宮内法院と帝国最高法院の判事の過半数にカトリックを任命する[229][230]。帝国諸制度は次第に麻痺化し[230]、1588年には既に帝国最高法院が機能しなくなっていた[231]。16世紀初めにはプロテスタント諸邦はもはやカトリックによって独占的に運営される帝国宮内法院を認めなくなり、事態はさらに悪化した。同時期、帝国クライスの選帝侯や諸侯は宗派によって集団を形成するようになっていた。1608年のレーゲンスブルク帝国議会は閉会宣言なく終了し [232]、カルヴァン派のプファルツ選帝侯とその他の出席者たちは皇帝が彼らの信仰を認めなかったために退席している。
同年、プファルツ選帝侯フリードリヒ4世を盟主に6人の諸侯がプロテスタント同盟(Protestantische Union)を結成した[223]。その後、その他の都市や諸侯もこの同盟に加入する。当初、ザクセン選帝侯と北部諸侯は加盟を拒否したが、後にザクセン選帝侯も同意している。これに対して、翌1609年にカトリック諸侯がバイエルン公マクシミリアンを盟主とするカトリック連盟(Katholische Liga)を結成した。連盟は帝国におけるカトリックの優位を守ることを目的としていた。帝国諸機関は麻痺状態となり、戦争は不可避となった[233]。
一方、皇帝ルドルフ2世はプラハに引きこもって神秘諸術に耽る状態で、事態に対処する能力を持たなかった[234][235]。ルドルフ2世は不満を持った弟・マティアスと争って1608年にハンガリー王位を奪われ、ボヘミア・プロテスタント等族の支持を得るためにプロテスタントに信仰の自由を与える「勅許状」を出すが、マティアスに軟禁され1612年に死去した[236][237][nb 12] 。
帝位を継いだマティアスは宗教対立の仲裁を試みるが失敗に終わり、ボヘミア王位を従弟のシュタイアーマルク公フェルディナントに譲らざるをえなくなる[236]。
三十年戦争[編集]
三十年戦争関係地図 | |
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プロテスタント多数派国・領邦 スペイン・ハプスブルク オーストリア・ハプスブルク ①1620-1623:ボヘミアとプファルツ選帝侯の敗北。 |
ボヘミア王となったフェルディナント2世はイエズス会の教育を受けた厳格なカトリックであり、ルドルフ2世の「勅許状」を反故にしてボヘミアのプロテスタントに迫害を加えた[238]。1618年、弾圧に反抗するボヘミア貴族がプラハ城に押し掛け、フェルディナントの代官2名と秘書官を城外に投げ落とす事件を起こした(プラハ窓外投擲事件)。この事件を契機にボヘミアで大規模な反乱が発生し、シレジア、ラウジッツそしてモラヴィアといったこれ以前からカトリックとプロテスタントに分裂していたボヘミア全土に広がる。1619年に皇帝マティアスの死去により、フェルディナント2世が皇帝に選出されるとほぼ同時にボヘミア貴族はカルヴァン派のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世(冬王)を新国王として迎えた[239]。
フェルディナント2世はカトリック連盟のバイエルン公マクシミリアン1世のみならず、カルヴァン派を憎むルター派のザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の支持をも受けて反撃に転じた[240]。1620年にプラハ郊外で行われた白山の戦いでボヘミア反乱軍はティリー伯ヨハン・セルクラエス率いる皇帝軍に大敗を喫した。プファルツへはスペイン軍が侵攻し、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は没落して反乱軍は事実上瓦解した。ボヘミアではプロテスタントに対する徹底的な弾圧が行われ[241]、15世紀のフス派以降、プロテスタント諸派の勢力が根強かったこの国[242]を再びカトリックへ引き戻すことを確実にした[nb 13]。
この事態にプロテスタントであるデンマーク国王クリスチャン4世が戦争への介入を決意する[nb 14]。クリスチャン4世は反ハプスブルク政策を取るフランスの宰相リシュリュー枢機卿の仲介により、プロテスタントのイギリス、オランダそしてスウェーデンとの対ハプスブルク同盟(ハーグ同盟)を結んだ[243]。デンマーク軍は1625年に帝国へ侵攻し、フェルディナント2世は窮地に陥る。皇帝を救ったのがボヘミア貴族で資産家でもあるアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインであった。彼は5万の傭兵軍を集めて皇帝に提供し、皇帝軍総司令官に任命された[244]。一方、プロテスタント陣営内では内部不和が生じており、デンマーク軍と別れたプロテスタント諸軍はヴァレンシュタインに各個撃破されてしまう[245]。1626年、クリスチャン4世はルッターの戦いでティリー伯に大敗を喫した。以降、デンマーク軍は劣勢に陥り、1629年にリューベックの和約 が締結されてデンマークは戦争から脱落した。
軍事的優位を確保したフェルディナント2世は帝国議会を無視する態度に出るとともに、3月6日に「復旧勅令 」(独:Restitutionsedikt)を布告して宗教改革以来、プロテスタントに没収された教会財産の返還を命じた[246]。復旧勅令の過激さとフェルディナント2世の絶対君主的な振る舞いはプロテスタント諸侯のみならず、カトリック諸侯からも反発を受ける[247][248]。皇帝軍を支えるヴァレンシュタインは強引な軍税徴発によって諸侯から憎まれており、彼らはヴァレンシュタイン罷免を強硬に要求し、フェルディナント2世もこれを受け入れざる得なくなった[249]。
ポーランドとの戦争に勝利したスウェーデン王グスタフ2世アドルフは1630年に帝国への介入に乗り出した。グスタフ2世アドルフはフランスと軍資金援助を含んだベールヴァルデ条約を結び[250]、軍制改革によって近代的徴兵軍となっていたスウェーデン軍を率いてポンメルンに上陸する[251]。当初、ザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯をはじめとするプロテスタント諸侯はスウェーデンへの加担を躊躇っていたが、皇帝軍総司令官ティリー伯によるマクデブルク略奪が起こるとスウェーデンとの連合に踏み切った[252]。グスタフ2世アドルフはブライテンフェルトの戦いとレヒ川の戦いで皇帝軍を連破してティリー伯を戦死させた。スウェーデン軍はバイエルンの首都ミュンヘンを陥れる。
再び窮地に陥ったフェルディナント2世はヴァレンシュタインに皇帝軍総司令官復帰を要請し、ヴァレンシュタインは皇帝から有利な条件を引き出した上でこれを承諾した[253]。グスタフ2世アドルフとヴァレンシュタインとの決戦は1632年のリュッツェンの戦いで行われた。戦闘ではスウェーデン軍が勝利したもののグスタフ2世アドルフは戦死しており、事実上の痛み分けで終わった[254]。その後もヴァレンシュタインは皇帝軍総司令官の地位に留まり隠然たる勢力を保っていたが、独自に講和を行おうとしたため、1634年にフェルディナント2世から反逆を疑われ、暗殺されている[255][256]。
国王を失ったスウェーデン軍は、なおも宰相兼摂政であるオクセンシェルナの元でドイツに留まり戦争を継続、プロテスタント諸侯とハイルブロン同盟を結び、皇帝軍と対峙したが、1634年のネルトリンゲンの戦いでスペイン軍を投入した皇帝軍に敗れた。この敗戦で打撃を受けたザクセン選帝侯をはじめとするプロテスタント諸侯の大半は翌1635年に復旧勅令の撤回を条件とするプラハ条約を締結して皇帝に帰順した[257]。これによって孤立したスウェーデンは窮地に陥るが、プラハ条約発表直前に、これまで間接的な参戦に留まっていたフランスがスウェーデンとベールヴァルデ条約の更新を行い、スペインおよび皇帝に対する本格参戦に踏み切った[258]。1637年にフェルディナント2世は死去して嫡男フェルディナント3世が帝位を継承した。戦争はなお10年以上続き、決定的な戦闘こそなかったものの戦況は次第にフランス、スウェーデン優位に傾き、スペインは国内事情の悪化から介入を続ける余力を失い、帝国諸侯も脱落し始める[259]。一方スウェーデン軍は、背後を脅かすデンマークを撃破し(トルステンソン戦争)、北方での地位を安定させると、今度はボヘミアへ侵攻した。フランス軍もロクロワの戦いでスペイン軍に勝利し、皇帝やカトリック諸侯を追い詰めて行った。
1642年にリシュリュー枢機卿が死去し、それから5か月後にフランス王ルイ13世も死去しており、僅か4歳のルイ14世が即位してマザラン枢機卿が宰相となった。マザラン枢機卿は戦争終結に動き、一方のスウェーデンも親政を開始した女王クリスティーナの元で皇帝との和平交渉の末、1648年にミュンスター講和条約およびオスナブリュック講和条約(総称してヴェストファーレン条約)が締結されて戦争は終わった。
同条約により、カルヴァン派が公式に容認され、領民は領主と異なる信仰を持つことが認められた(ハプスブルク世襲領は除く)[260]。全ての領邦には選帝侯と同等の領邦高権(Landeshoheit:国家主権に近い権利)が与えられ、帝国に敵対する同盟を結ぶことができないなど依然として幾つかの制約はあったが外交権まで加わっていた[260][261][262]。また、バイエルン公が選帝侯に加えられている。一方、皇帝の権限は帝国議会によって大きく制限されることになる[260]。
加えて、事実上の独立状態にあったスイス連邦と北ネーデルラント(オランダ)が帝国から離脱した[261]。フランスはエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)を獲得、スウェーデンは西ポメラニアをはじめとする北ドイツの領土を獲得して戦後における大国の地位を確保した(バルト帝国)。
これらによって、皇帝の有名無実化と帝国の解体が決定的になったとして同条約は一般に「帝国の死亡証明書」といわれる[263][264]。しかしながら、近年のドイツ史学では統一された国民国家を到達点とする従来の歴史観から離れ、ヴェストファーレン条約によりドイツにおいては平和的な仲裁により宗派対立を解決する体制が確立されたとする研究もある[9](ヴェストファーレン体制)。
この戦争によって引き起こされた破壊の規模は歴史家の間で長い間論議されてきた[265]。従来はドイツ人口が30-40%減少し、経済水準が回復するまでに200年を必要としたとされてきたが、この見積もりについては現在では疑問視されている[266][267]。
近代[編集]
オーストリアとプロイセン[編集]
ハプスブルク君主国 を参照
ヴェストファーレン条約によって帝国は300以上の領邦国家と帝国自由都市の集合体となり[268]、その中には極めて小規模な領邦も存在していた。一方、ハプスブルク家はオーストリアその他の世襲公領とボヘミア王国、西ハンガリー王国との同君連合を統治し、このハプスブルク君主国における絶対主義国家形成へと向かう(オーストリア絶対主義)[269]。
1657年にフェルディナント3世が死去するが、皇位継承者だったローマ王フェルディナント4世は父に先立って既に死去していた。皇帝選挙ではマザラン枢機卿がハプスブルク家を排除してフランス王ルイ14世を将来の皇帝とすべく、中継ぎとしてバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアを推す動きもあったが、結局、フェルディナント3世の次男レオポルト1世が選出された[270][271]。しかしながら、この為にレオポルト1世は選挙協約で諸侯に対するより一層の譲歩を余儀なくされている[272]。
1663年にレーゲンスブルク帝国議会が開催されたが、この帝国議会は以降、議決も散会もされずに帝国が消滅するまで継続して「永続的帝国議会」(Immerwahrender Reichstag)と呼ばれるようになり、諸侯の使節会議と化してしまった[273][274]。
レオポルト1世の治世、帝国は度重なるルイ14世の領土的野心とオスマン帝国の脅威に直面している。1667年に始まった一連のネーデルラント継承戦争(帰属戦争、オランダ侵略戦争)でフランスはスペイン、ネーデルラントそして神聖ローマ帝国に戦いを仕掛け、ナイメーヘンの和約でスペインからフランシュ=コンテ、帝国からはフライブルク・イム・ブライスガウその他の領土を獲得し、その後、ルイ14世は東部国境地帯の「再統合」を推し進め、1681年にはシュトラースブルク(ストラスブール)を占領した[275]。
1683年、ルイ14世からの中立の約束を得たオスマン帝国が軍事行動を起こし、20万の兵力をもってウィーンを包囲した(第二次ウィーン包囲)[276]。オーストリア軍は包囲戦を耐え抜き、到着したポーランド王ヤン3世やドイツ諸邦の援軍がオスマン帝国軍を決定的に打ち破った。以後もオスマン帝国との戦争は16年に渡り続くが(大トルコ戦争)、1697年にプリンツ・オイゲン率いる帝国軍がゼンタの戦いで大勝して勝敗は決した[277]。1699年にカルロヴィッツ条約が結ばれてオスマン帝国はヨーロッパ領土の割譲を余儀なくされ、オーストリアはオスマン帝国領ハンガリーとトランシルヴァニア、スロヴェニア、クロアチアを獲得した[278]。
一方、ルイ14世はオーストリアとオスマン帝国との戦いに乗じて1688年にプファルツ選帝侯領へ侵攻して多大な被害をもたらした(プファルツ継承戦争)[279]。だが、フランスはオーストリア、ドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデンそしてイギリスが加わったアウクスブルク同盟諸国と敵対することになり、戦争は長期化して1697年に終結したが、フランスはプファルツのみならず、以前の戦争で獲得した領土の大半を放棄せざる得なくなった[280](レイスウェイク条約)。
この時期のスペイン王カルロス2世は生来病弱の上に子がなく、スペイン・ハプスブルク家は断絶しようとしていた[281]。レオポルト1世のオーストリア・ハプスブルク家、そしてルイ14世のブルボン家ともに有力な王位継承権を有しており[282]、スペイン王位継承を巡る対立が高まる中、カルロス2世はルイ14世の孫アンジュー公フィリップを後継者に指名した。1700年にカルロス2世が死去するとルイ14世はアンジュー公フィリップのスペイン王継承に同意するが(スペイン王フェリペ5世)、オーストリア、イギリスを初めとする諸国がこれに反対してスペイン継承戦争が勃発する。この戦争では帝国諸侯のほとんどが皇帝軍に加わったが、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルと弟のケルン大司教ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンがフランスに味方して皇帝軍と戦っている[283]。
ブレンハイムの戦いでオーストリア=イギリス軍はフランス=バイエルン軍に勝利するものの、戦争は膠着状態に陥り、1713年と1714年にそれぞれユトレヒト条約とラシュタット条約が締結され、各国がフェリペ5世の王位を承認する見返りにスペインが多くの領土を割譲することで終わっている[284]。オーストリアはスペイン領ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャを獲得した。レオポルト1世は戦争中の1705年に死去しており、ルイ14世も戦争終結から程ない1715年に死去した。
この時代、聖俗諸侯領では絶対主義化が進行していた[285][286]。フランスやオスマン帝国の脅威を受けていた中小領邦はその存立を守護する存在としての帝国国制を必要としていた[287]。特に西南ドイツでは帝国クライスが地域自治機関として機能しており、クライス議会が活発に活動し、クライス軍制はその防衛機能をある程度だが果たしている[287]。
ハプスブルク家のオーストリアがフランスやオスマン帝国との戦争を行いつつ大国としての地位を固めている間に、帝国内ではブランデンブルク=プロイセンが台頭し始めていた。1618年にプロシア公領とブランデンブルク辺境伯領との同君連合が成立したホーエンツォレルン家のブランデンブルク=プロイセンはフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)の治世にヴェストファーレン条約によって東ポメラニアを獲得し、戦後はポーランド王国の影響力を排除するとともに等族との対決に打ち勝って絶対主義に基づく統治体制を構築していた[288]。この間に大選帝侯は、スウェーデンの影響力を排除して海上にも進出した(ドイツ領黄金海岸)。そして、1701年、フリードリヒ1世はスペイン継承戦争でオーストリアに味方する見返りに帝国領域外での戴冠の承認を受け「プロイセンの王」(König in Preußen)を名乗る[289]。次代のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王)は軍制改革を実施してプロイセン王国を軍事国家となさしめた[290]。
この時期、プロイセン=ブランデンブルク以外にもザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世がポーランド・リトアニア共和国の王位(アウグスト2世)をハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒがイギリス王位(ジョージ1世)をそれぞれ帝国領域外で獲得している。
スペイン継承戦争と並行して東方では大北方戦争(1700年 - 1721年)が行われており、スウェーデンと北方同盟諸国(ロシア、ザクセン=ポーランド=リトアニア、デンマーク=ノルウェー:後にプロイセン、ハノファー=イギリスが加わる)とが戦い、ザクセン選帝侯領やスウェーデン領ポメラニアなど帝国領域も戦場になった。カール12世率いるスウェーデンは、攻勢に出てバルト海沿岸諸国を圧倒するも、ロシア国内での大敗を機に優位を失った。長期化した戦争は、ロシアがポーランドまで影響力を伸張し、さらに帝国内での影響力を失ったスウェーデンの最終的な敗北に終わった(ストックホルム条約の締結により、ハノーファー選帝侯やプロイセン王国が帝国北部において勢力を拡大した)。勝利したロシアのツアーリ・ピョートル1世は1721年に皇帝(インペラトル)を名乗り、ロシア帝国が成立した。スウェーデンはバルト海世界の覇権を失い、ロシアが代ってヨーロッパの列強の一角として浮上した(ニスタット条約)。ロシア皇帝は東ローマ皇帝の後継者を主張しており[291]、1453年に東ローマ帝国が滅亡して以来、約300年ぶりにキリスト教世界に二人の皇帝が並び立つこととなった。
ヨーゼフ1世の短い在位を経て1711年に即位したカール6世は対外戦争によってハプスブルク家の領土を拡大したが、唯一の男子が夭逝して女子しか子がなく、この為、カール6世は皇女マリア・テレジアを後継者とすべく国事詔書(Pragmatische Sanktion)を出し、諸国にこれを認めさせるために多くの外交的・領土的な譲歩をしている[292]。
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マリア・テレジア(左)とプロイセン王フリードリヒ2世(右) |
だが、1740年にカール6世が死去するとフランス王ルイ15世、プロイセン王フリードリヒ2世(大王)を初めとする諸国がマリア・テレジアのハプスブルク家世襲領継承に異議を唱えオーストリア継承戦争が勃発した。また、帝国法は女子の皇帝を認めておらず、このためハプスブルク家はマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンの皇帝選出を目論んでいたが、選出されたのはフランスと結んだバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(ヴィッテルスバッハ家)であった[293]。1742年にカール・アルブレヒトは神聖ローマ皇帝カール7世として即位し、彼が1437年に即位したアルブレヒト2世以降、唯一のハプスブルク家以外の皇帝である。だが、即位の直後にバイエルンの首都ミュンヘンをオーストリアに占領され、カール7世はフランスの支援が十分に得られないまま各地を転戦するうちに僅か3年の在位で1745年に死去した[293]。オーストリアとバイエルンとの和議が成立して次の皇帝にはマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが選出された(神聖ローマ皇帝フランツ1世)。1748年にアーヘンの和約が成立してマリア・テレジアはハプスブルク家世襲領継承を承認させることに成功したが、シュレジエンをプロイセンに割譲せねばならなかった(シュレージエン戦争)。
英明な君主であったマリア・テレジアはオーストリアの内政改革を進める一方[294]、シュレジエンを奪回するべく外交を展開してロシア、ザクセンそして長年の宿敵だったフランスとの同盟を成立させ対プロイセン包囲網を構築した(外交革命)[295]。1756年に勃発した七年戦争でイギリスと同盟したフリードリヒ2世は圧倒的な国力の差にもかかわらず幾つかの戦いで勝利して持ちこたえるが、1761年にはイギリスの援助が打ち切られ苦境に陥った[296]。だが、1762年にフリードリヒ2世の信奉者だったピョートル3世がロシア皇帝に即位するとロシアは戦線を離脱し、フリードリヒ2世は危機を脱した[297]。オーストリア、プロイセンそしてザクセンとの間で1763年に締結されたフベルトゥスブルク条約により、プロイセンはシュレジエンを確保してヨーロッパの列強にのし上がる。これがドイツの覇権をめぐるオーストリアとプロイセンの対立の始まりとなった(ドイツ二元主義)[297]。
フランツ1世は1765年に死去し、後を継いで皇帝に即位した嫡男ヨーゼフ2世は母マリア・テレジアとハプスブルク君主国の共同統治に入った。マリア・テレジアとヨーゼフ2世は啓蒙的諸政策を実施して、オーストリアにおける「啓蒙専制主義」を確立した[298]。
1780年にマリア・テレジアが死去して単独統治に入ったヨーゼフ2世は宗教寛容令や修道院の廃止、死刑制度の廃止といった急進的な啓蒙諸改革(ヨーゼフ主義)を実施するも、反発を受け治世の晩年にはその大部分の撤回を余儀なくされている[299]。
オーストリアとプロイセンは1772年にポーランド分割を行って領土を拡張させており、ヨーゼフ2世は更にバイエルン選帝侯領獲得を企て、1777年にバイエルン継承戦争を起こすが、プロイセンの干渉によって一部の領土を獲得したに留まった[300]。ヨーゼフ2世は尚もバイエルン獲得を諦めなかったが、プロイセン、ザクセン、ハノーファーに諸小邦が加わって「帝国国制の維持」を掲げる「君侯同盟」(Fürstenbund)を結成し、ヨーゼフ2世の企てを挫折させた[301]。ヨーゼフ2世は1790年に死去し、弟のレオポルト2世が帝位を継承した。
フランス革命と帝国消滅[編集]
1789年にフランス革命が勃発した。当初、諸外国は武力干渉を控えていたが、1791年にフランス王ルイ16世とマリー・アントワネットの国外逃亡失敗事件(ヴァレンヌ事件)が起こると、皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世はフランスにおける王権復旧を要求する宣言(ピルニッツ宣言)を発し、これに対してフランス革命政府は宣戦布告で応じた(フランス革命戦争)[nb 15]。レオポルト2世は開戦直前に死去しており、フランツ2世が皇帝に選出された。
オーストリア=プロイセン軍はフランス軍に進撃を阻まれて反攻を受け、1795年までにフランス軍はオーストリア領ネーデルラントとライン川西岸を制圧し、プロイセンは戦争から脱落した[302]。オーストリアは戦争を継続したが、イタリアでナポレオン・ボナパルトに敗れ(イタリア戦役)、1797年にカンポ・フォルミオ条約の締結を余儀なくされた。同条約により、オーストリアはヴェネチアを獲得したものの、ミラノの放棄とオーストリア領ネーデルラントの喪失を承認させられた。
1799年に第二次対仏大同盟が結ばれて戦争が再開したが、ブリュメールのクーデターで権力を掌握したナポレオンがアルプス越えを敢行してマレンゴの戦いでオーストリア軍を撃破し、戦争は1802年のリュネヴィルの和約により終結し、フランツ2世はフランスによるライン川西岸地域の併合を承認させられた。
リュネヴィルの和約でナポレオンはフランス併合地域の代替地をプロイセンその他の諸侯に提供するよう要求し、これを受けて帝国は1803年にレーゲンスブルク帝国議会の代表者会議を開催して帝国諸邦の再編成を決議した(帝国代表者会議主要決議:Reichsdeputationshauptschluss)。これによってマインツ大司教以外のすべての聖界諸侯領の俗界諸侯領への併合(世俗化 (en:en) )および小規模領邦国家と帝国都市の廃止と大諸侯領への編入(陪臣化)が進められ、西南ドイツに新たな幾つかの中規模国家が成立した[303]。また、プロイセンは北西ドイツの領土を獲得している。
1804年5月18日、フランス共和国政府は元老院令を発して共和国を世襲皇帝に委ねると宣言し、ナポレオンはフランス皇帝(Empereur des Français)を称した[304](戴冠式は12月2日)。フランス皇帝は神聖ローマ皇帝やロシア皇帝と異なり、もはや古代ローマ帝国との理念・歴史的関連性を持たない皇帝である[291]。これに対して、フランツ2世はハプスブルク家世襲領と皇帝の称号を守るべく、8月11日に神聖ローマ皇帝とは別のオーストリア皇帝(Kaiser von Österreich)を称した(オーストリア皇帝フランツ1世)[305]。
1805年に第三次対仏大同盟戦争が始まった。オーストリア主力軍はウルムでナポレオンの罠に陥って降伏し、フランス軍はウィーンを占領した。フランス軍は追撃を行い、アウステルリッツでフランツ2世とロシア皇帝アレクサンドル1世の率いるオーストリア=ロシア連合軍と会戦して勝利した(三帝会戦)。プレスブルクの和約でオーストリアはヴェネチア、チロルの割譲とバイエルン、ヴュルテンベルクの王国、バーデンの大公国への昇格を認めさせられる。
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最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(左)と退位宣言書(右) |
中小帝国領邦はナポレオンを「守護者」とすることを決め、1806年7月にバイエルン、ヴュルテンベルクを初めとする帝国16領邦がマインツ大司教ダールベルクを首座大司教侯とするライン同盟を結成して帝国脱退を宣言した。
ここに至り、フランツ2世は8月6日にドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)退位と帝国の解散を宣言する。
朕はライン同盟の結成によって皇帝の権威と責務は消滅したものと確信するに至った。それ故に朕は帝国に対する全ての義務から解放されたと見なし、これにより、朕とドイツ帝国との関係は解消するものであるとここに宣言する。
これに伴い、朕は帝国の法的指導者として選帝侯、諸侯そして等族その他全ての帝国の構成員、すなわち帝国最高法院そしてその他の帝国官吏の帝国法によって定められた義務を解除する。
– フランツ2世のドイツ皇帝退位宣言―1806年8月6日(全文は左記リンク)
ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の消滅後もオーストリア皇帝、ハンガリー王としてオーストリア=ハンガリー帝国を、第一次世界大戦の敗北により瓦解するまで統治し続けた。
ナポレオンの敗北により始まったウィーン体制により、1815年にオーストリア、プロイセンを含むドイツ諸邦39カ国によって構成されるドイツ連邦が成立した。ドイツ統一を巡るオーストリアとプロイセンの対立は19世紀後半まで続いたが、1866年の普墺戦争でのプロイセンの勝利によってドイツ連邦は解体され、翌1867年に新たにオーストリアと南ドイツ4カ国を除いた北ドイツ連邦が成立した。
オーストリアを除くドイツ諸邦が統一されるのは、普仏戦争でプロイセンと南北ドイツ諸邦がフランス帝国に勝利し、プロイセン王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿で皇帝に即位してドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich)が成立する1871年1月18日のことである。
国制[編集]
神聖ローマ帝国は今日の国々のような高度に中央集権化された国家ではなく、等族と呼ばれる王[nb 16]、公爵、伯爵、司教、修道院長及びその他の統治者に支配される数十の(最終的には千以上の[306])領邦に分かれていた。また、皇帝に直接支配される地域もあった。皇帝が単純に法令を発布して、帝国全域を自律的に統治しえた時代は存在しなかった。皇帝の権限は様々な地方領主たちによって厳しく制限されていた。
中世盛期以降、神聖ローマ帝国は帝権を排除しようと抵抗する地方諸侯との不安定な共存政策に特徴づけられる。フランスやイングランドなどの中世の諸王国と比較して、皇帝は自らの統治する領土を十分に支配する力を獲得し得なかった。反対に、皇帝たちは廃位を避けるために聖俗領主たちにより一層の権限を授与することを強いられた。このプロセスは11世紀の叙任権闘争に始まり、1648年のヴェストファーレン条約でおおよそ完了している。幾人かの皇帝たちはこの自らの権力の弱体化を食い止めようと試みたが、教皇や諸侯によって妨げられた。
皇帝[編集]
皇帝はドイツ王国[nb 17]、イタリア王国、ブルグント王国(1032年以降)の3つの王国の統治者であった。これはカロリング朝フランク王の正式な称号が「フランク人、ランゴバルト人、ローマ人の保護者」であった伝統を引き継いでいる。皇帝となるためには、その人物はまず3つの国王としての戴冠式をそれぞれ別の場所で行い、その上で、教皇により「ローマ皇帝」に戴冠された。
帝国の重要な特徴は選挙王制である[307]。9世紀以降、ドイツ王は国王選挙によって選ばれており、この時期、彼らは最も有力な部族(サリ=フランク (en:en) 、ロートリンゲン、リプアリ (en:en) 、フランケン、ザクセン、バイエルンそしてシュヴァーベン)の5人の指導者たちによって選出されていた。ただし、中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝、ザリエル朝、ホーエンシュタウフェン朝)では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった[308]。ハインリヒ3世は皇帝戴冠式を挙行するまでの7年間、ローマ王(羅: Rex romanorum; 独: römischer König)を称しており、以降、皇帝予定者はまずローマ王を称するようになった[309]。また、皇帝の存命中に後継者をローマ王に選出させることもあった[310]。
大空位時代以降においては選挙原理が働くようになり、ドイツ王国内の主要な公爵や司教たちがローマ王を選出している。1356年にカール4世は金印勅書を発布して7人の選帝侯を定めた。皇帝候補者たちは票固めのために選帝侯たちと選挙協約(Wahlkapitulation)を結んで特権面での譲歩を約束させられた[311][312]。
選出されたローマ王は名目上は教皇による戴冠を受けねば「皇帝」を名乗ることができなかった。多くの場合、国王たちは他の責務に時間を取られて皇帝戴冠には数年を要しており、しばしば、彼らはまずは北イタリアの反乱や教皇本人との不和を解決せねばならなかった。1508年にマクシミリアン1世が教皇から戴冠されることなく「皇帝」を称してからは、後期の皇帝たちは「ローマ皇帝に選ばれし者」(Erwählter Römischer Kaiser)の体裁を取り、教皇による戴冠を省略してドイツ王=ローマ王に選出された時点で皇帝を名乗るのが慣例化した[156][313]。教皇によって戴冠された最後の皇帝は1530年のカール5世である。
皇帝=ドイツ王の権力所在地[編集]
帝国は特定の首都を持たず、中世初期から中世盛期の皇帝=ドイツ王は王国を巡り、その時々の皇帝の所在地で宮廷会議や教会会議そして法廷の開催や授封といった行政を執り行う、「旅する王権」(Reisekönigtum)の統治方式を取っていた[314][315]。
しかしながら、帝国統治の中心は全土に隈なく所在する訳でもなく、ザクセン朝、ザリエル朝の諸王はハルツ山地周辺のプファルツに王宮を造営して国王支配領域を形成しており、ゴスラーの歴史都市はそのひとつである[316]。また、オットー3世以降は帝国内の司教管区も一時的な政庁として活用するようになっている[317]。ホーエンシュタウフェン朝は権力基盤のシュヴァーベンに加えて、ザーレ・ウンストルート川流域やライン・マイン川流域、ライン川上流域に国王支配領域を形成した[318]。
大空位時代以降は諸侯の自立性の高まりにより、国王支配領域を形成することはできなくなり、皇帝たちは各々の家門の領地から帝国の統治を行っている[319]。フェルディナント2世(在位:1619年-1637年)以降はハプスブルク家所領のウィーンが恒常的な宮廷所在地となった[320]。
封建制[編集]
初期のドイツ王は部族大公(Stammesherzog)によって選出されていた。部族大公はフランク王国によって征服統合されたゲルマン諸族で、フランク王から大公(duces)の官職を任命された者たちである。フランク王国の部族大公は8世紀頃に解体されたが、カロリング朝末期に復活し、ザクセン大公、フランケン大公、バイエルン大公、シュヴァーベン大公そしてロートリンゲン大公が確立した[321]。部族大公は12世紀末まで帝国における主要な役割を果たしている[322]。
オットー1世に始まる帝国教会政策により、三王朝時代の皇帝たちは大司教、司教、修道院長を任命して所領を寄進し、特権を与えるなど彼らとのレーエン(知行制・封建制)的な絆を結び、教会を帝国の制度基盤となした[5][323]。ザクセン朝とザリエル朝の皇帝たちは大公領、辺境伯領、伯領はレーエン的なものではなく官職として扱おうとしていたが、ロタール3世(在位:1106年 - 1137年)の時代に帝国の封建化は発展し、12世紀から13世紀のホーエンシュタウフェン朝の時代にレーエン化が進められて部族大公領が解体され、国王を最高封主とする帝国国制の封建化が完了した[324]。
12世紀末の時点で聖界諸侯の他に以下の20の世俗諸侯がいた[325]。
- 大公:バイエルン、ザクセン、シュヴァーベン、ロートリンゲン、ブラバント、オーストリア、ケルンテン、シュタイアーマルク、ボヘミア
- 辺境伯:ブランデンブルク、マイセン、ラウジッツ
- 方伯:テューリンゲン
- ライン宮中伯、アンハルト伯
帝国等族[編集]
帝国領邦の数は相当数に及び、18世紀末の時点で領邦高権を有する領邦314、自立権力を有するその他の帝国騎士領は1475家に上った[306]。これら小邦(Kleinstaaten)の幾つかは飛び地を含む数平方マイルの規模しかなく、そのため帝国はしばしば「パッチワーク」(Flickenteppich)と呼ばれた[326]。皇帝と直接的な封建関係を結んで帝国封(Reichslehen)を授封された者は帝国等族(Reichsstände)と見なされた[327][328]。帝国等族は以下のものである。
- 選帝侯。金印勅書によって定められたマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ライン宮中伯(プファルツ)、ブランデンブルク辺境伯、ザクセン公そしてボヘミア王。三十年戦争後にバイエルン(1648年)とハノーファー(1692年)が加わっている。1777年にライン宮中伯とバイエルンが統合され、帝国最末期の1803年の再編でケルン大司教とトリーア大司教が除かれ、ザルツブルク、ヴュルテンベルク、ヘッセン=カッセル、バーデンが選帝侯に加えられた[329]。
- 大公、公爵、伯爵または帝国騎士(Reichsritter)といった世襲貴族に統治されている領地[327](俗界領邦)。
- 大司教、司教または修道院長といった高位聖職者に統治されている領地(聖界領邦)[330]。一般的に司教領では、この一時的な領地はしばしばより広い教区と重なっており、司教に聖俗両方の権力を与えた。マインツ大司教領、ケルン大司教領、トリーア大司教領がその事例である。
- 皇帝直轄の帝国自由都市(Freie Reichsstadt)。
1495年ヴォルムス帝国議会の時点では選帝侯7、聖界諸侯(大司教4、司教46、修道院長86)、俗界諸侯(公爵24、伯爵その他の領主145)、帝国自由都市83となっている[331]。
帝国議会[編集]
帝国議会(Reichstag/Reichsversammlung)は神聖ローマ帝国の立法機関であり、その起源は皇帝が諸侯に重要事項を諮問する宮廷顧問会議(Hofrat)や大空位時代の選挙人集会であり、1356年の金印勅書によって成文化された[332][333]。帝国議会は三つの部会に分かれている。
第一部会である選帝侯部会(Kurfürstenrat)は1273年に現れ、ローマ王選挙権を有する選帝侯によって構成される[334]。
第二部会の諸侯部会(Fürstenrat)は1480年に成立したもので、その他の諸侯や帝国伯によって構成される[329]。諸侯部会は二つの「議席」に分かたれており、一つが世俗諸侯、もう一つが聖界諸侯である。高位諸侯は個人票を持ち、その他の伯や高位聖職者は地域別に分けられた集合票になっている。各々の集合票は1票扱いである。18世紀半ばの時点で個人票は100票(俗界諸侯65、聖界諸侯35)、集合票は高位聖職者2票、伯4票となっている[335]
第三部会が帝国自由都市の代表によって構成される都市部会(Städtetag)であり、シュヴァーベンとラインの二つの集合票に別けられる。各々の集合票は1票扱いである。帝国議会への自由都市代表の出席は中世後期から一般的になっていたが、彼らの出席が公式に確認されたのは1648年のヴェストファーレン条約以降のことである[336]。都市部会は他の部会と対等ではなく、この部会がキャステングボードを握ることを防ぐべく、他の二部会の決定が下された後に意見を求められる形式になっていた[335]。1521年には87都市が出席権を有していたが、都市の衰退などの事情により1803年の時点では3都市に激減している[335]。
帝国裁判所[編集]
帝国の司法機関としては皇帝が主催する宮廷裁判所(Hofgericht)が存在していたが、15世紀の帝国改造運動の一環として司法改革が求められた。フリードリヒ3世は司法は皇帝のレガリア(大権)であるとして改革に抵抗していたが[337]、マクシミリアン1世は諸侯、等族の要求に妥協をし、1495年に永久ラント平和令を施行させる機関として専門の法律家による帝国最高法院(Reichskammergericht)が開設された[338][339]。だが、マクシミリアン1世はこれに対抗すべく国王/皇帝の裁判所である帝国宮内法院(Reichshofrat)をウィーンに開設しており、帝国には2つの最高法廷が存在することになった。
帝国最高法院はフランクフルトに開設され、その後、ヴォルムス、アウクスブルク、ニュルンベルク、レーゲンスブルク、シュパイヤー、エスリンゲン (en:en) 、再びシュパイヤーへと移転した。アウクスブルク同盟戦争の際にシュパイヤーが破壊されたため、裁判所はヴェッツラーへ移転し、1689年から帝国が消滅する1806年までここに所在している。
両裁判所は通常の刑事、民事訴訟は扱わない上訴の最上級法廷である[340]。帝国裁判所は諸侯間や諸侯と帝国等族との係争を私的な武力行使(フェーデ)ではなく法的手続きによって解決することを目的としており[341]、制度は1670年代頃に定着して帝国の平和維持や宗教対立の緩和に一定の役割を果たしている[342]。
帝国クライス[編集]
帝国改造の一環として、1500年に6管区の帝国クライスが設置され、更に4管区が1512年に設置されている。クライスは帝国最高法院陪席判事の選出、平和維持と防衛の分担調整、貨幣制度の監督、そして公共平和の維持を目的とした帝国内諸邦のほとんどを含む地域行政単位である[343]。各々のクライスはクライス会議(Kreistag)の名で知られる独自の議会とクライス内の問題を調停する1-3人のクライス公示事項担当諸侯(Kreis Ausschreibender Fürst)を有していた[344]。
バイエルン・クライス
シュヴァーベン・クライス
オーバーライン・クライス
ヴェストファーレン・クライス
フランケン・クライス
ニーダーザクセン・クライス
ブルグント・クライス
オーストリア・クライス
オーバーザクセン・クライス
クールライン・クライス
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全ての領域が帝国クライスに含まれている訳ではなく、ボヘミア王の領土 (en:en) 、帝国騎士領や帝国内のドイツ騎士団領地などの小邦[345]、そして、スイス、北イタリアの帝国諸侯は除外されている。
評価[編集]
18世紀フランスの思想家ヴォルテールによる「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」との神聖ローマ帝国評は特に有名であるが[346]、17世紀の法学者プーフェンドルフも帝国を国家論の規則に外れた「妖怪に似たもの」と評した[347][348]。また、帝国解散の新聞記事を読んだ日のゲーテの素っ気ない日記も当時の人々の帝国に対する無関心ぶりを示す例として知られる[349]。一方で、18世紀後半のドイツ法学者ピュッター (en:en) は帝国の法維持機能を積極的に評価し、その国家性を強調している[350]。
ドイツ帝国が成立した19世紀中盤以降のドイツ歴史学界は権力国家志向であり、中央集権化に失敗してナポレオンに敗れて消滅した神聖ローマ帝国を民族を分裂させドイツの利益を守りえなかった政治的無能と断じ、これに対して権力国家を構築してドイツ統一を成し遂げたプロイセンを擁護するプロイセン中心主義的解釈を取って来た[351]。ナチス・ドイツの経験と第二次世界大戦の敗戦によって、権力国家概念は信用を失ったが、神聖ローマ帝国が近代国家への転換に失敗した体制であるとの解釈は続いた[352]。
1960年代から西ドイツの歴史学界で従来の集権的な国民国家を唯一の歴史的選択肢とはしない神聖ローマ帝国に対する修正主義的なアプローチが出始めた。1980年代以降、この修正主義的解釈は活発化し、その主な論旨は帝国の構造を皇帝と諸侯とに二元主義的に理解せず、帝国議会、帝国裁判所、帝国クライスなどの多様な構成員からなる帝国諸制度の相互作用や法共同体としての側面を考察することである[353][354]。
この修正主義的再評価から、帝国がヴェストファーレン条約以降まったくドイツで宗教戦争が起こることなく新旧両派が共存できたのはなぜか、あるいは小国に分裂したのであればなぜその小国群のほとんどが帝国崩壊まで命脈を保つことが出来たのか、といった疑問に答えるためにマクシミリアン1世に始まる帝国改造を指摘する者もいる[nb 18]。帝国改造によって皇帝権力から独立した司法制度と、帝国クライスを単位とする軍隊制度が創設されたため、宗教対立などの紛争は裁判所において解決が図られ、対外戦争に対しては一致して対応することも可能になったという主張である[nb 18][nb 19]。
また、ヴェストファーレン条約についても否定的側面のみでは捉えず、以後150年に渡り領邦の独自性を維持しつつドイツの完全な分解を防ぐ法共同体を構築した役割、更には今日に続くドイツ連邦制の基礎になったと評価する見方もある[355][356]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ TeutscherはDeutscherと同じ意味を持ち、後年にはHeiliges Römisches Reich Deutscher Nationという表記もなされた。
- ↑ 1804年の皇帝称号変更命令では「ローマ=ドイツ帝国」(ドイツ語:Römisch-Deutschen Reiche)、1806年8月6日の神聖ローマ帝国の解散詔勅では「ドイツ帝国」(ドイツ語:Deutschen Reich)とも表現される。ただし皇帝の称号は終始神聖ローマ皇帝(ドイツ語:Erwählter römischer Kaiser)である。
- ↑ たとえば、山川出版社の受験参考書である『詳説 世界史研究』はカール大帝の帝権を「西ローマ帝国の復活」、オットー大帝の帝権以降を「神聖ローマ帝国」とし、両者の断絶を想定している。しかしながら、おなじ山川出版社による専門的な概説書『世界歴史大系 ドイツ史』では、オットーの帝権はカール大帝のフランク・ローマ的な帝権を継承したものであることが強調されており、オットーの帝権がカロリング的支配者の伝統に位置づけられている。
- ↑ 4.0 4.1 例外はオーストリア継承戦争中に短期間在位したカール7世(ヴィッテルスバッハ家)のみ。
- ↑ ドイツ語の Reich は「帝国」を意味し、ラテン語の imperium に対応する概念である。
- ↑ 北イタリア諸邦は帝国クライスに属さず、帝国議会にも出席していない。ただし、近年の研究では帝国と帝国イタリアとの結びつきについて再評価も行われている。ウィルスン(2005),p.105-108
- ↑ 実際にはロタール3世はヴォルムス協約で認められた権利を行使している。成瀬他(1997a),p.213
- ↑ ルドルフ4世は5通の特許状に添えて証拠として提出した手紙の差出人をカエサルとネロとし、偽書であることをあからさまにしてカール4世を暗に恫喝している。菊池(2004),pp.201-208
- ↑ ドイツ語ではErzherzog(オーストリア大公)とSchlafmütze (寝帽/眠たがり屋)を語呂あわせしたReichserzschlafmutze。ウィルスン(2005),p.33
- ↑ 1613年にブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントはルター派からカルヴァン派に改宗している。成瀬他(1997b),p.48
- ↑ 11.0 11.1 マクシミリアン2世はルター派に近い信仰を持っていた。成瀬他(1997a),pp.474-475
- ↑ ルドルフ2世とマティアスの争いはグリルパルツァーの戯曲「ハプスブルク家の兄弟の諍い」(Ein Bruderzwist im Hause Habsburg)に描かれている。
- ↑ 2001年時点のチェコ共和国の宗教は無宗教(59%)に次いでカトリック(26.8%)が多く、プロテスタント諸派は2.1%と少数派になっている。CIA - The World Factbook
- ↑ クリスチャン4世が参戦した直接的な動機は王子のハルバーシュタット司教職就任を皇帝に拒否されたことである。菊池(1995),pp.75-76
- ↑ ピルニッツ宣言の時点では諸国はフランスへの武力干渉に否定的で、文面的には直接行動断念を表明したものだったが、フランス革命政府はこれに過剰に反応した。成瀬他(1997b),p.133
- ↑ 帝国内で「国王」の称号を許された諸侯はボヘミア王のみである。その他の国王の称号を有する諸侯は帝国領域外の王国の統治者である。
- ↑ 当初は東フランク王国の政体を踏襲し、一般にはフランク王国やドイツ王国、正式にはローマ帝国と呼ばれていた。「ドイツ人の国家」という概念は後年に生まれた。
- ↑ 18.0 18.1 概説書としては、成瀬治、山田欣吾、木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史1』や、ピーター H. ウィルスン『神聖ローマ帝国 1495–1806』などが詳しい。
- ↑ ただし、この帝国改造運動は結局、成果はなかったと解説されることも少なくはない。【帝国改造運動】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)や【神聖ローマ帝国】(世界大百科事典巻14,平凡社,1988年)
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- ↑ 中国の柔然との同族説もあるが、確証はない。
- ↑ カールの死後は世襲化が進み、かえって地方の分権化をうながした。
- ↑ 印象的なこのローマ入城は、あたかもローマ時代の儀礼「皇帝到来」の再現のようであったという。
- ↑ 通常、これをもって「カールの西ローマ帝国皇帝即位」(在位:800年-814年)としている。強い政治力や軍事力をもたなかった当時のローマ教皇は、カールを西ローマ皇帝とすることで、はじめて東ローマ皇帝や、その支配下にあるコンスタンティノープル教会に対抗することが可能になったのである。ただし、半面、カールが整備された道路、統一された官僚群、常備された軍隊を欠いた状態で、広大な領土の統治するため、ローマ皇帝の権威とカトリックの教会組織を必要としていたことも事実である。
- ↑ 古代ローマ皇帝の理念は「キリスト教皇帝」に変質していたので、敬虔なローマ・カトリック教徒の最高の王者であれば、ゲルマン人であっても、カールが皇帝になることは差し支えなかったことをあらわしている。
- ↑ 東ローマ帝国との関係が悪化したとき、カールは、ハールーン・アッ=ラシード(アッバース朝全盛期のカリフ)とも提携して対抗しようとしている。なお、「シャルルマーニュの護符」はハールーン・アッ=ラシードより贈られたものと言われる。
- ↑ これは後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。
- ↑ それはまた、世俗権力と教権とが並立する独自の世界の成立でもあった。
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参考文献[編集]
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- 菊池良生 (2004) 菊池良生 [ ハプスブルクをつくった男 ] 講談社 2004 978-4061497320
- 菊池良夫 (2009) 菊池良夫 [ 図説 神聖ローマ帝国 ] 河出書房新社 2009 978-4309761275
- 坂井栄八郎 (2003) 坂井栄八郎 [ ドイツ史10講 ] 岩波書店 2003 978-4004308263
- 鈴本達哉 (1997) 鈴本達哉 [ ルクセンブルク家の皇帝たち ] 近代文芸社 1997 978-4773361957
- 成瀬治 (1978) 成瀬治 [ 世界の歴史〈15〉近代ヨーロッパへの道 ] 講談社 1978
- 長谷川輝夫、土肥恒之、大久保桂子 (2009) 長谷川輝夫、土肥恒之、大久保桂子 [ 世界の歴史〈17〉ヨーロッパ近世の開花 ] 中央公論新社 2009 978-4122051157
- 堀越孝一 (2006) 堀越孝一 [ 中世ヨーロッパの歴史 ] 講談社 2006 978-4061597631
- 森田安一 (1994) 森田安一 (『世界の戦争・革命・反乱総解説』収録) [ ドイツ宗教改革の戦い ] 自由國民社 1994
- 森田安一 (2010) 森田安一 [ 図説 宗教改革 ] 河出書房新社 2010 978-4309761459
- Albrecht (1998) AlbrechtDieter [ Maximilian I. Von Bayern 1573-1651 ] Munich 1998
- Angermeier (1991) AngermeierHeinz [ Das Alte Reich in der deutschen Geschichte ] Studien über Kontinuitäten und Zäsuren 1991
- Bryce (1968) BryceJames [ The Holy Roman Empire ] Macmilan 1968
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- Rovan (1999) RovanJoseph [ Histoire de l'Allemagne des origines à nos jours ] Paris 1999
- Schillinger (2002) SchillingerJean [ Le Saint-Empire ] Paris 2002
- Weyland (2002) WeylandUli [ Strafsache Vatikan. Jesus klagt an ] Weisse Pferd Verlag 2002
関連図書[編集]
- Karl Otmar Freiherr von Aretin, Das Alte Reich 1648–1806. 4 vols. Stuttgart, 1993–2000
- Peter Claus Hartmann, Kulturgeschichte des Heiligen Römischen Reiches 1648 bis 1806. Wien, 2001
- Georg Schmidt, Geschichte des Alten Reiches. München, 1999
- James Bryce, The Holy Roman Empire. ISBN 0-333-03609-3
- Jonathan W. Zophy (ed.), The Holy Roman Empire: A Dictionary Handbook. Greenwood Press, 1980
- George Donaldson, Germany: A Complete History. Gotham Books, New York 1985
- Deutsche Reichstagsakten
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- The constitutional structure of the Reich
- Das Heilige Reich (German Museum of History, Berlin)
- List of Wars of the Holy Roman Empire
- Deutschland beim Tode Kaiser Karls IV. 1378 (Germany at the death of emperor Charles IV.) taken from "Meyers Kleines Konversationslexikon in sechs Bänden. Bd. 2. Leipzig u. Wien : Bibliogr. Institut 1908", map inserted after page 342
- Books and articles on the Reich
- The Holy Roman Empire