桑原武夫
桑原 武夫(くわばら たけお、1904年 - )は、日本の仏文学研究者。
経歴[編集]
京都帝国大学出身で、同大学でフランス文学の講師をしていたが、師弟関係の問題で東北帝国大学に転任[1]。
東北帝国大学時代[編集]
戦時中、東北帝国大学で教鞭を執っていたときに、大学総長からの依頼で、秘かにベトナム出身で、安南独立連盟の委員長だった人物の身柄を預っていたことがあった[2]。
1946年頃、同大学助教授[3]。この頃、鶴見俊輔が、同大学教授・土井光知に送った雑誌『思想の科学』の創刊号・第2号を読んで同誌を購読[3]。
京大人文研時代[編集]
1948年、京都大学人文科学研究所西洋部の主任教授に着任。このとき、鶴見を同研究所の助教授として招請した[4]。
- 鶴見は直後に東京工業大学の宮城音弥から同大学の助教授に誘われ、京大の話を断ろうとしたが、桑原は都留重人に依頼して京大の仕事を受けるよう、鶴見を説得した[5]。
- 鳥養利三郎総長が鶴見の就任に難色を示したとき、鶴見を人文研の研究院として採用し、1948年11月に同大学を訪問した米国の人文科学顧問団の通訳をさせ、総長が鶴見の採用を承服するようにした[6]。
1949年から、京大人文研でルソーについて共同で研究[5]。1951年6月に岩波書店から研究報告書を刊行した[7]。
1950年11月からはフランス百科全書の共同研究を始め、1953年10月までに研究会52回、検討会35回を開催し、1954年6月に岩波書店から『フランス百科全書の研究』を刊行した[8]。
ベ平連での活動[編集]
1965年8月14日夜から15日朝にかけて、ベ平連が企画した「徹夜ティーチ・イン 戦争と平和を考える」というイベントでは、鶴見俊輔・久野収とともに司会をつとめ、その後もベ平連の活動の後見役となった[9]。
1966年6月2-14日に、ベ平連がアメリカの平和・人権運動活動家・ハワード・ジンとラルフ・フェザーストーンを日本に招いて日本列島を縦断する講演キャラバンを開催したとき、京都での主催者の1人となり、講演を行った[10]。
1968年8月に京都ベ平連が3日間にわたり国立京都国際会館で「反戦と変革に関する国際会議」を開催したときには、松田道雄、奈良本辰也とともに会場使用の交渉を行い、会議初日に「歓迎の辞」を述べた[11]。
1976年9月に京都の法然院で発足した現代風俗研究会の初代会長を務めた[12]。
人物・評価[編集]
- 鶴見 (2004 )によると、桑原はゴシップ好きだったが、当人にとって致命的なゴシップは他所へ流すことがなく、口が堅かった[13]。
- 鶴見 (1988 )によると、桑原は「小事はこれを他に諮り、大事はこれを自ら決す」を信条としていた[14]。
付録[編集]
関連文献[編集]
- 鶴見 上野 小熊 (2004) 鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの』新曜社、ISBN 978-4788508873
- 鶴見 (1988) 鶴見俊輔「桑原先生のこと」岩波書店『世界』No.515、1988年6月、pp.220-223、NDLJP 3367072
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 黒川 (2018) 黒川創『鶴見俊輔伝』新潮社、ISBN 978-4104444090