安藤組

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安藤組(あんどうぐみ)は、株式会社東興業(あずまこうぎょう)の俗称。マスコミによって、名付けられた。業種は、不動産売買、興行、水商売の用心棒、賭博など。昭和27年(1952年)から昭和39年(1964年)12月2日まで活動した。社長は安藤昇。最盛期の組員は530人だった。

歴史 [編集]

昭和27年(1952年)7月、安藤昇が、東京都渋谷区宇田川町に、株式会社東興業を設立し、正式に登記した。 母体となったのは、三国人華僑ら一部の者が戦勝国民と称して都心の主要駅前の占拠し、闇市を取り仕切っていた事などの横暴に対して、引揚軍人不良などが寄り集まって対抗していた集団のうち、安藤昇が率いる愚連隊・「下北沢グループ」だった。専務には志賀日出也、営業部長には花田瑛一、参謀に島田宏が就いた。設立当時、幹部が13人、それぞれの幹部に属する準幹部が26人、直属配下が70人だった。主だった幹部は大卒か大学中退であり、「インテリヤクザ」の名を冠されもした。また、下北沢グループの流れをくむ組員が200人いた。組員には安藤組のバッジを配布した。安藤組のバッジのデザインは、黒地に、アルファベット「A」の文字を金色で浮き立たせたもので、幹部はそれを三重、準幹部は二重、他は一重の丸で囲んで区別した。幹部と準幹部は、グレーのベネシャンのスーツに、黒色のネクタイを制服とした。刺青や指詰めを禁止した。組員が使用する拳銃は、米軍用コルト45口径に統一した。上級者には絶対服従を徹底した。 第1次頂上作戦が展開される中、昭和39年12月2日、千駄ヶ谷区民講堂で「安藤組解散式」を行い、安藤組を解散した。「安藤組解散式」には高橋岩太郎が出席し、佐郷屋留雄が来賓として招かれた。

組織編制は時に流動的。反面、制約を嫌う不良青少年の支持をえた。初期の構成員に大学生が多かった。

宮崎学『不逞者』幻冬舎<アウトロー文庫>、1999年、ISBN 4877287345によると東興業の“東”は万年東一に因むとされる。

参考文献 [編集]



 歴代組長 [編集]

幹部・準幹部 [編集]

関連書籍[編集]

ビデオ[編集]

  • 『実録 安藤組 襲撃編』