報道協定
報道協定(ほうどうきょうてい)とは、身代金目的の誘拐事件などが発生した場合に(人質の安全を確保するため)、警視庁や道府県警が、新聞・テレビ等のマスメディアに対して報道を一切控えるように求めることによって結ばれる協定のこと。
報道協定が結ばれた場合、マスメディアは事件に関する報道を一切しない代わりに、警察は入手した情報、捜査の経緯、過程をマスメディアに公表しなければならない。この状態は警察からの要請で仮協定が発効となり、警察本部と記者クラブの会議による本決定によって、報道協定が解除されるまで続けられる。 また記者クラブでは報道協定の連絡の際に記者室の黒板を使うことから「黒板協定」と呼ばれている。
報道協定が解除されるのは、以下の場合である。
- 人質が安全に保護された場合
- 人質の死亡が確認された場合
- 事件にかかわった犯人が全員逮捕された場合
- 事件が長期化した場合に、警察本部と記者クラブの会議の中で、解除を認めた場合
報道協定は、協定を結ぶ会場(原則として警察施設)へマスコミが入るのに、報道機関と特定されない車両を使う ・カメラ等の機材は目立たないように分解して搬入する、など制約が多い。これは犯人に動きを察知され、人質が危険な状態に置かれるのを避けるためである。報道協定に法的な拘束力はないが、協定を破るような事態となれば記者クラブ除名、または出入り禁止等の厳しいペナルティ、倫理上の非難等が想定されるため、各報道機関は協定に遵う。
近年、インターネットの普及に伴い、友人、親族等のマスコミ関係者から知りえた情報がBBS等に書き込まれるという問題が発生している。
導入の経緯[編集]
報道協定ができるきっかけとなったのは、1960年に東京で発生した「雅樹ちゃん事件」(実業家の息子が身代金目的で誘拐され殺害された)である。
この事件で、マスメディアは状況の細かい経緯に至るまで報道合戦を続けていた。その後、雅樹ちゃんは遺体で発見された。その後、犯人が逮捕され、事情聴取の中で、「報道により精神的に非常に追い詰められた」ということを明らかにした。
この事件は報道各社に深い反省を与え、その後1963年、吉展ちゃん誘拐殺人事件において初めて報道協定が結ばれ、1970年2月5日、正式に制定されたのである。
過去に適用された主な事件[編集]
過去に報道協定が結ばれた事件は2006年6月27日現在までに約60件ある。 以下に近年報道協定が結ばれた代表的な事件を列挙する。
- 吉展ちゃん誘拐殺人事件(1963年)
- 江崎グリコ社長誘拐事件(1984年)
- ハウス食品脅迫事件(1985年)
- 宮城新生児誘拐事件(2006年1月7日 - 1月8日)
- 渋谷区女子大生身代金目的誘拐事件(2006年6月26日 - 6月27日)
他の用法[編集]
報道協定といえば、上に詳述した誘拐事件に関する警察とマスコミの間で結ばれる協定のことをさすことが多いが、それ以外でも記者クラブにおいて結ばれる報道に関する協定全般を報道協定と呼ぶこともある。
代表例として、皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の際、婚約決定・公式発表までの間、宮内庁から報道各社に対して「統制」がかけられたとされる例がある。しかしこの際は、記者クラブに縛られない海外メディアの、ワシントン・ポストのスクープによって意味を成さなくなった。
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