二条城

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二条城(にじょうじょう)とは京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代である。

概要[編集]

京都市街の中にある平城で、京都観光の定番となっている。城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年にはユネスコ世界文化遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録された。

歴史・沿革[編集]

さまざまな二条城[編集]

日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは複数ある。当時の二条大路は朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。のちには、二条通に面していなくても将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。室町時代に平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、西院城があった。二条城と西院城を平安京の両城ともいう。

  1. 室町幕府第13代将軍・足利義輝の居城。
  2. 室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。二条通にはなかった。
  3. 織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。
  4. 徳川家康が京に滞在中の宿所として作った城。

現存する二条城は4の城である。1と2は同じ場所に作られたが連続性がない。2と3は同じものと見る説(広辞苑、平凡社日本歴史地名大系など)もあるが、『信長公記』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。1~3について「二条城」と呼ぶのは4.が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。この節では、近代の二条城である4.の前史として1から3までの「二条城」について略説する。

室町時代・安土桃山時代[編集]

「二条城」前史として、徳川家康以前の二条城について記述する。

足利義輝の二条城[編集]

旧管領斯波武衛家のあった室町勘解由小路(現在の上京区武衛陣町、平安女学院の辺り)に永禄2年(1559年)から翌年にかけて築かれた城郭で、義輝はここを幕府の本拠とした。しかし、防御能力強化工事中の永禄8年(1565年)、松永久秀三好三人衆に襲撃され、自ら刀を執って奮戦するも義輝は殺害され二条城は焼失した(永禄の変)。その後は義輝の菩提を弔うため、真如堂が建立された。現在は「此附近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸 遺址」と彫られた石碑が建っている。なお、所在地は二条通からは遠く離れている。

足利義昭の二条城[編集]

足利義昭は、織田信長の武力を後ろ盾として将軍に就任した後、六条本圀寺を居所としていたが、永禄12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けた。このときは京にいた信長家臣団、及び、義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の二条城のあった地を中心に、それをさらに拡張して約400メートル四方の敷地に二重の堀や三重の「天主」を備える城郭とした。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝島田秀満が任じられた。旧管領細川京兆家旧邸からは、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭はここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。

ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年(1572年)、義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌4年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治填島城において挙兵する(填島城の戦い)。このとき、二条城には公家日野輝資高倉永相、義昭の側近の伊勢貞興三淵藤英が守備のため置かれたが、信長軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって掠奪され、破壊されたと伝えられる。この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、築城中の安土城へ運ばれ、建築資材として再利用された。当時は「武家御所」「武家御城」などと呼ばれていた(この城が二条にあったとするのは「信長公記」永禄12年2月2日(1569年2月17日)条が初出か)。昭和50年(1975年)から53年(1978年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および二重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が京都文化博物館や西京区の洛西竹林公園内に保存されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木門内及び現二条城内に復元されている。現在は平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑が建っている。

織田信長・誠仁親王の「二条新御所」[編集]

織田信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館。

信長は天正4年(1576年)4月に京に滞在した際、二条の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する二条家の屋敷の庭の眺望を気に入った。二条邸(二条殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず登場する名所中の名所として広く知られていた。前住者の二条晴良・昭実(妻は信長の養女)父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徒して(『言経卿記』)空き家となっていたので、信長が上洛したときの宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて改修することを京都所司代の村井貞勝に命じた。翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条御新造」を京の宿所とする。天正7年(1580年)11月に、信長はこの邸を儲君誠仁親王に献上した。直ちに、誠仁親王と皇子の五の宮(後の邦慶親王)がこの「二条新御所」に転居した(なお、この際信長は五の宮を猶子としたとされており、これを正親町天皇の五の宮である誠仁親王にあてる誤解があるが、正しくは親王の五の宮が猶子となったのである)。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠主従はそれを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに京都所司代・村井貞勝とその子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は誠仁親王らを禁裏御所に避難させた上でここに籠城し、これを攻囲する明智勢と奮戦するが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰した。現在は両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。

現在、この二条御所は義昭の二条城跡に設けられたものとする説が広まっている。しかし誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから禁裏南方にあったと思われる。また本能寺の変に際して信忠が妙覚寺から移動したことから両所は近接していたことが推測できるし、山科言経が天正4年9月13日1576年10月5日)に「右大将家二条新邸を見物」、翌14日10月6日)には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出を目撃しているから(『言経卿記』)、明らかに別の場所にあったとすべきである。

羽柴(豊臣)秀吉の「二条第」[編集]

なお、羽柴秀吉も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人が逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天主もあったことから屋敷というより城という方が相応しかったのだろう。聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ普段は前田玄以が在城した。所在地は二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)町」を遺している。

江戸時代[編集]

徳川氏「二条城」の歴史について記述する。

創建[編集]

幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、慶長6年(1601年)5月から町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。慶長7年(1602年)5月に御殿・天守の造営に着工、翌8年3月に落成する。但し、天守は慶長11年(1606年)に完成。家康は慶長8年(1603年)2月に伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月に竣工間もない二条城に入城、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の慶長10年(1605年)に第2代将軍・秀忠が、元和9年(1623年)に第3代将軍家光が踏襲するが、第4代将軍・家綱以降は行われなくなった。

慶長16年(1611年)に、二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と秀頼の会見が行われるが、このとき家康は秀頼の成長ぶりに驚き徳川家の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣家を滅ぼすことを決意したとも言われている。そして慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発。二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。翌慶長20年(1615年)の夏の陣においては二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣が捕縛された。このため、古田織部は切腹、家財没収となる事件もあった。

元和2年(1616年)に家康が没した後、元和5年(1619年)から秀忠は娘・和子後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。このときの縄張(基本設計)は秀忠自らが藤堂高虎と共に行った(秀忠は2つの案から一方を最終選定しただけだが、将軍自らの縄張りであると高虎に持ち上げられたのだった)。翌元和6年6月18日1620年)、和子は二条城から行列を作り御所へ入った。

行幸[編集]

家光が将軍になり、秀忠が大御所となった翌年の寛永元年(1624年)から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。作事奉行には小堀政一五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。行幸は寛永3年9月6日1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽能楽の鑑賞、乗馬蹴鞠和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。秀忠死後の寛永11年(1634年)7月、家光が30万7千の兵を引きつれ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。

その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750年)には落雷により天守が炎上、焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。

二条城には、寛永2年(1625年)に将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。元禄12年(1699年)に二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。文久2年(1862年)閏8月には交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。

幕末[編集]

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庭園側から見た二の丸御殿

第14代将軍・家茂は文久3年(1863年)3月、朝廷の要請に応えて上洛をする。これに先立ち、文久2年(1862年)から将軍上洛を迎えるため、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。家茂は慶応元年(1865年)に再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。しかしここで病に倒れ、翌慶応2年(1866年)夏に死去する。二条城では幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定するが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやくその年の12月に二条城において第15代将軍拝命の宣旨を受ける。ただし、慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移したのは翌慶応3年(1867年)9月のことであった。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。このとき二条城には旗本を中心とする徳川家直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄永井尚志水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。

翌慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いが勃発。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役となっていたが、1月5日1月29日)に朝廷(新政府)の命を受けた議定徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置された。閏4月に太政官代は宮中に移転した。

近現代[編集]

東京奠都後の明治3年(1870年)に二条城は留守官の管轄下に置かれるが、明治4年(1871年)、二の丸御殿は京都府庁舎となる。明治6年(1873年)に陸軍省の所管に移された後、明治17年(1884年)に宮内省の所管となり「二条離宮」と改称した。翌明治18年(1885年)に京都府の新庁舎が完成したため移転した後、二の丸御殿の修理が明治20年まで行われる。

明治26年(1893年)から27年(1894年)にかけて、京都御苑の今出川門脇に位置する旧桂宮邸を本丸へ移築し、本丸御殿とする。大正4年(1915年)、大正天皇即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い南門や二の丸御殿の附属建物が増築される。昭和14年(1939年)に宮内省より下賜。それ以来「元離宮二条城」という名称となる。第二次世界大戦後、GHQの意向で二の丸北側にテニスコートが作られたが、昭和40年(1965年)に庭園に変えられた。

平成18年(2006年4月6日日本100名城(53番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

構造[編集]

立地[編集]

二条城はかつて平安京大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分のみであった。

縄張[編集]

縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が二の丸の周りは外堀が作られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの第一防御線として想定されていた可能性はある。

二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた磁石を普請の際に用いたためである。

将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。

建造物[編集]

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東大手門。奥に二の丸御殿を囲む築地塀が見える。
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二の丸御殿の「車寄」(右手前)及び「遠侍」

外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつある。正門は堀川通に面した東大手門である。南門は大正4年(1915年)に新たに作られたもので、この南門と西門は外堀を渡る橋が撤去されており使用されていない。また、北大手門も普段は閉鎖されている。この他に城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。

二の丸の中心的建造物である二の丸御殿は、東大手門から見て正面の右斜め前方向に建つ。御殿は築地塀で囲まれていて、唐門は塀の南側にある。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」(くるまよせ)が見える。二の丸御殿は手前から順に「遠侍」(とおざむらい)、「式台」(しきだい)、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」(くろしょいん)、「白書院」(しろしょいん)と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっている。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園がある。遠侍の北側、白書院の東側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物がある。

本丸の御殿は御所の北にあった旧桂宮邸を明治26年(1893年)から27年(1894年)にかけて移築したものである。こちらは普段は非公開であり、春と秋に期間限定で公開されている(耐震性の不足が判明したため平成19年(2007年)春を最後に公開を中止)。本丸御殿の南には、洋風庭園がある。

天守[編集]

創建時の天守は、『洛中洛外図屏風』に城の北西部分(現在の清流園の辺り)に五重の天守として描かれている。この天守は、家光の代に行われた寛永の大改修において淀城に移築された。これに代わり、新たに作られた本丸の南西隅には前年に廃城となった伏見城の天守が移築された(したがって、短い間だけ2つの天守が並び立っていた時期があるということになる)。この五重の天守には、取付矢倉と小天守が付属する(複合式天守)。天守は寛延3年(1750年)に落雷で焼失して以来、再建されなかった。現在は、天守台のみが残る。

庭園[編集]

二の丸御殿庭園[編集]

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二の丸御殿庭園を北西方向より。右側手前が亀島。左が蓬莱島。

別名「八陣の庭」。小堀遠州の代表作として挙げられることも多い桃山様式の池泉回遊式庭園(中心に池を配し、その周りを歩いて鑑賞する庭園)である。池には3つの島が浮かぶ。池の中央やや北よりにもっとも大きい蓬莱島があり、その北に亀島、南に鶴島がある。亀島は亀の形に、鶴島は鶴の形に石が組まれている。蓬莱島は亀島と共に見えるアングルからは鶴の形に、鶴島と共に見えるアングルからは亀の形に石が組まれていて、常に鶴亀の一組を表現する趣向となっている。池の北西部には、二段の滝がある。池の南に広がる芝生の部分は、寛永の行幸の際には行幸御殿が建てられていた場所であり、こちら側が庭園の第1正面となる。第2正面は東(大広間)側、第3正面は北(黒書院)側という三正面式の設計。

本丸御殿庭園[編集]

本丸御殿が移築された後に作庭が始まり、明治29年(1896年)に完成した洋風庭園。日本庭園と異なり、池や枯山水ではなく、芝生と植樹を中心とした回遊式の庭園である。

清流園[編集]

二の丸の北大手門付近に昭和40年(1965年)に作られた和洋折衷庭園。

遺構[編集]

移築(現存)[編集]

文化財[編集]

世界遺産[編集]

古都京都の文化財を構成する17の歴史的建造物の1つとして、世界文化遺産に平成6年(1994年)12月に登録された。

国宝[編集]

  • 二の丸御殿:昭和27年(1952年3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定。
    • 遠侍及び車寄
    • 式台
    • 大広間
    • 蘇鉄之間
    • 黒書院(小広間)
    • 白書院(御座の間)

重要文化財[編集]

城が宮内省から京都市に移管された後の昭和14年(1939年10月28日に上記二の丸御殿の6棟とあわせて全24棟が国宝保存法に基づく「国宝」(旧国宝)に指定され、昭和19年(1944年)に4棟が追加指定された。その後、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行に伴い、旧国宝はすべて重要文化財として指定されたものとみなされることとなった。

  • 本丸御殿(旧桂宮邸)
    • 玄関
    • 御書院
    • 御常御殿
    • 台所及び雁之間
  • 二の丸御殿
    • 唐門
    • 築地
    • 台所
    • 御清所
  • 城門
    • 東大手門
    • 北大手門
    • 西門
    • 櫓門
    • 鳴子門
    • 桃山門
    • 北中仕切門
    • 南中仕切門
  • 隅櫓
    • 東南隅櫓
    • 西南隅櫓
  • 土蔵(米蔵)
    • 土蔵(二の丸御殿台所北)
    • 北西土蔵
    • 南西土蔵
  • 東南隅櫓北方多門塀
  • 二条城二之丸御殿障壁画:昭和57年(1982年6月5日指定。954面。

史跡[編集]

二条城の外堀を囲む道路も含めて、二条城全域が昭和14年(1939年11月30日に「旧二条離宮(二条城)」の名で史跡に指定された。

特別名勝[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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