ゲルニカ
この項目では、ピカソの絵画について説明しています。スペインの都市については「ゲルニカ (都市)」をご覧ください。 |
『ゲルニカ』(Guernika)とはパブロ・ピカソがスペイン内戦中に空爆を受けた町・ゲルニカを主題に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られたタピストリー作品である。
背景[編集]
スペイン内戦の最中の1937年4月26日、スペインのバスク国の小都市・ゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって空爆を受けた。史上初めての都市無差別空爆と言われている[1]。滞在中のパリでこの報を聞いたピカソは、かねて人民戦線政府より依頼されていた同年のパリ万国博覧会スペイン館の壁画として急遽ゲルニカを主題にこの作品に取り組み、6月4日には完成させる。
スペイン内戦はフランコ将軍の勝利により終結。この絵はロンドンなどを巡回したのちにヨーロッパの戦火を避け1939年、米国に渡りニューヨーク近代美術館に預けられる。第二次世界大戦後もフランコ将軍の政権下にあったスペイン政府はこの絵の返還を求めるが、スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはないとピカソは拒否した。ピカソは1973年この世を去る。フランコ将軍も1975年に没し、政体の代わったスペインとニューヨーク近代美術館との間にこの絵の返還交渉が再び始まった。1981年になってようやくスペインに返還され、現在はマドリッドのソフィア王妃芸術センターに展示されている。
ピカソは大戦後これと同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、そのひとつはニューヨークにある国際連合本部の国連安全保障理事会議場前に展示されている。
『ゲルニカ』は、その誕生からその遍路の間も反戦のシンボルであり続けてきた[2][3][4][5]。ただ、ピカソが後共産党員になったことや人民戦線との繋がりからピカソの義憤の象徴と解釈するのには異論もある。
作品[編集]
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1937年の作品は縦3.5m、横7.8mの大作である。キャンバスに工業用絵具ペンキによって描かれた。これが後に絵画としての痛みの要因となるが、大作にしては短時間(1ヶ月弱)で描ききれた(油彩よりも乾きが早く、作業効率も高い上にコストも安上がり)のである。当時の絵画としては珍しくモノクロームで描かれている。あえて血の色を見せなかったことが格別の効果を与えている。各部分の習作や、後のタピストリー作品は彩色が施されている。
死んだ子を抱き泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったようにいななく馬などが戦争の悲惨さを訴えている。全体の構成はキリストの磔刑図をイメージさせる。人間の目をした牛の顔や窓から室内に首を突き出す人物など奇妙な像もあり、さまざまに解釈されている。ピカソが好んで描いてきた闘牛やミノタウロスの神話などとの関連も指摘できる。なお兵士、動物以外の人物はすべて女として描かれている。
『ゲルニカ』完成以降、平和運動の象徴とされたピカソもそれ故に引き受けた朝鮮戦争をテーマとした作品では二番煎じの愚を冒している。スペイン内戦では祖国スペインへの愛憎も籠めてファシズムへの対決が制作への情熱ともなったのであろうが、朝鮮戦争は彼にとって遥かに遠いアジアの僻地としか思えなかったのかも知れない。ちなみに、この作品内の泣き叫ぶ女だけを独立した作品にした『泣く女』という絵がある。
注釈[編集]
- ↑ 第一次世界大戦ではロンドンが飛行船による爆撃を受けているが、規模の小さいものだった。ナチスによるゲルニカ空爆と同じ1937年の8月15日から南京が日本軍により空爆を受けている。
- ↑ ベトナム紛争末期の1974年にソンミの虐殺がらみで、米国にあったこの絵自身がテロに遭っている。赤いスプレーで落書きされたものだが幸いにワニスの上だったので、容易に消すことができた。
- ↑ スペインに帰ってからは、旧フランコ派とともにバスク独立運動(→ETA)にからんだテロが懸念された。最初のころは機関銃で武装した兵士に守られての展示であった。現在も防弾ガラス越しの観賞となる。
- ↑ 対イラク侵攻を控えた2003年2月5日にパウエル米国国務長官が国連本部で記者会見したさいに、背景にある『ゲルニカ』のタピストリーがカーテンで隠された。抗議で翌日カーテンが撤去されるという顛末があった。
- ↑ 現在、バスク地方ビルバオ出来たグッゲンハイム美術館と常設されているマドリッドの王妃美術館との間でゲルニカ所蔵の論争が起こり、相互にその正当性を主張して決着が注目されている。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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