英米系保守主義
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保守主義(Conservatism)とは一般には、フランス革命を全否定し、またその淵源となったルソー/ヴォルテール/エルベシウス/コンドルセらのフランス啓蒙思想をデカルトとともに排撃する思想である。英国のエドマンド・バークにより集大成された哲学・思想と定義される。さらに、このバークの影響がなかったにもかかわらずバークの思想と酷似し、フランス革命思想を排撃した米国の「建国の父」たち(ジョージ・ワシントン、アレクサンダー・ハミルトンなど)の思想を、バークのと総合して指す場合もある。
バークの『フランス革命の省察』(1790年刊)は、“保守主義の聖典(バイブル)”と呼ばれている。米国の保守主義は、ハミルトンらの『ザ・フェデラリスト』(1787~8年)やジョージ・ワシントンの『告別の辞』(1796年)、あるいはジョン・アダムスの著作やジョン・マーシャルの判決及びジェームス・ケントの『アメリカ法釈義』に代表される。
日本では戦後、国内の「革新」勢力に対抗するその対置概念として「保守」という非・翻訳語をつくったが、「保守」には“英米系保守主義”との共通性がほんどなく、本質的には大きく相違する。
日本の「保守」との混同や誤解をさけるために、保守主義のことを“英米系保守主義”と、“英米系”を附して称される。
バーク保守主義の概要[編集]
エドマンド・バーク(Edmund Burke、1729年1月12日 - 1797年7月9日)は、ダブリン生まれのアイルランド人。英本国の下院議員(1765~94年)。「保守主義の父」として知られる。主著は1790年の『フランス革命の省察』(原題:Reflections on the Revolution in France)。
バークは、無法と野蛮と血塗られたフランス革命に対抗すべく、文明の社会を保全する哲学を理論的に大成した。 “時効”と“偏見”、これこそはバーク哲学の基本概念のなかでも、最重要な二本柱である。
”時効の憲法”の擁護[編集]
- バーク保守主義は、記憶にも記録にもない、祖先から相続した古来からの“制度”を、祖先の叡智の堆積と考えて人間の理性や知力で改変など恐ろしくてできないと、それを宝の箱のように絶対的に保守して子孫に相続していく哲学である。自然に発展し成長してきた不可視的な“法(コモン・ロー)”や道徳、あるいは階級や国家、君主制度や貴族制度あるいは教会制度も、ある世代が自分たちの知力において改変することが決して許されない、“時効の憲法(prescriptive Constitution)”と見なされる。個人の自由/名誉/財産は、この“時効の憲法”を擁護するため、また、世代を超えて生命を得ている慣習・習俗や道徳の宿る“中間組織(家族、ムラ、教会コミュニティ等)”を擁護するため、守られるべきと考える。
理性の過信の排撃[編集]
- バーク哲学において、祖先の珠玉の叡智が巨大な山のごとくに堆積している、古来からの“制度”と比べ、人間の知力は、到底及ばない、矮小で欠陥だらけのものとの考える。“人間の不完全の哲学”といわれるものである。デカルト的な、人間の理性(知力)への過度な過信を傲慢なものとして根源的に危険視し、その排除・排撃を提唱するものである。個々の人間を多くの間違いを冒す不完全な存在とみなす、このような謙虚な人間観は、すでにヒュームの『人間本性論』で大成され、バークやハミルトン、そして二十世紀にはミーゼスやハイエクに継承された。その逆に人間の完全性を妄信するのがデカルト/コンドルセ/ルソー/コント/ベンサム/マルクス/レーニンらである。
文明社会の本質[編集]
- アダム・スミスで有名になった“神の見えない手”は、バークがはるか以前に駆使していた、バーク概念の一つである(『イギリス史略』)。バークは、人間の文明社会は、“幾世代にわたる無意識の人間の行為”で形成されたものであって、人間の知力で“設計”されたものではないと考える。“幾世代にわたる無意識の人間の行為”と“神の摂理”との共同作業によって開花し発展・成長した偉大なものが、文明の社会だと把握する。
社会の設計や計画の排撃[編集]
- 文明社会が人間の知力で設計されたものでない以上、文明の政治・経済・社会に仮に、人間の知力に基づく“設計”や“計画”が参入すれば、その破壊は不可避となる。結果として、個人の自由は押しつぶされ奪われると考えた。実際に、このバークの洞察と予見どおりに、フランス革命は、血塗られた無法地帯の阿鼻叫喚の巷となった。フル操業するギロチンに個人の生命を奪われ、革命権力の恣意に財産を奪われたのがフランス革命であった。人間の知力を文明の政治・社会の改変に適用させてはならないとの、バークの哲理は事実により証明された。
- 祖先の叡智を尊崇して保守したときのみ、個人の自由は高貴に燦然と耀く。さらに時代を経た1917年のロシアは、”市場”という自然に発展してきた制度を破壊して、代わりに、官僚の頭脳に万能の未来計算ができるとする、国家が需給を決定する計画経済を導入した。その結果、ソ連経済は散々たる結末を迎え崩壊に至った。これもまた、人間知力による社会の改変は必ず社会の破壊に至るとのバーク哲学に即した、バーク哲学においては自明の“世紀の大愚行”だった。
「偏見」の尊重[編集]
- バークの“偏見(prejudice)”論は、「理性に優位する偏見重視の原理」である。現実の文明的な政治社会における偏見(=非・理性)こそが、人間の理性や知力よりも、はるかに真実・真理を透視できると洞察したものである。例えば、君主を仰ぎ見て沸き出でる畏敬と尊崇の感情を元に王制を守らんとする、祖先とも共有する同じ感情、即ち国民一般の“偏見”に、バークは自由と道徳を擁護する偉大な機能を発見したのである。
「平等」「人権」「反信仰」の排撃[編集]
- バーク保守主義の哲学は、革命フランスの中核思想である「平等」と「人権」と「反信仰」を、断固として絶滅せんとする哲学である。「平等」は、法(=自由)と道徳とを縊死に至らしめる。「人権」は、個々の国民からその歴史や慣習の属性を奪い真善美を剥奪し、生物学的なヒトというべき“裸の人間(野蛮人)”もしくは“サイボーク的人間(ロボット)”に改造する。「反信仰」から生まれる社会には道徳は枯渇し、無限の殺戮にも良心の痛まない独裁権力に蹂躙される。これらのバークの慧眼は、フランス革命のジャコバン独裁下のギロチンの嵐だけでなく、後年のレーニン/スターリンの数千万人の自国民殺戮により証明された。自由を侵害する「平等」の教理との闘いこそ、過去220年間変わらない、“保守主義の精神”の清華である。
保守主義外交=全体主義の排撃[編集]
- バーク哲学は、外交においても明確である。一言で言えば、全体主義の国家の存在をこの地球上に許さないという“剣を抜く闘うイデオロギー”である。バークは、革命フランスを軍事力で制圧しジャコバン党の完全一掃(首謀者の処刑を含む)のための対仏戦争を提唱し続けた。これが“保守主義の戦う精神”である。 『フランス国民議会の一議員への手紙』(1791年)、『フランス革命情勢』(1791年)、『国王弑逆者政府との講和に反対する』(1796年)は、この関連論文である。
- “鉄のカーテン演説”(1946年3月)のチャーチルにしても、悪の帝国発言に代表される1980年代にソヴィエト連邦への強硬策を唱えたロナルド・レーガン米大統領やマーガレット・サッチャー英首相にしても、バークを継ぐ保守主義の戦う外交を遂行したものである。人智でつくられる「ルソー的な契約社会」のことである全体主義体制の国家は、法と自由と道徳と信仰を根絶させて文明社会を破壊する、“悪魔のような野蛮”以外の何者でもなく、戦争をもってしても絶滅させるべき、と考えるのが保守主義外交の精髄である。
米国保守主義の概要[編集]
「保守主義の冷凍庫」[編集]
- 現在の米国には、ヘリテージ財団/アメリカン・エンタープライズ研究所/フーバー研究所など、米国の政界に影響ある保守主義者が集結したシンク・タンクがいくつもある。一方、他の国にはそのようなものが全くない。これは米国の保守主義の国柄の表れである。米国保守主義は、バーク哲学そのものではあるが、バークを必要とせずに形成された建国時の基盤的イデオロギーである。バーク以前の、英国の中世ゲルマン的な法思想の「法の支配」や封建遺制の騎士道の倫理などを土台にして構築されたものである。
- 我が国では米国は民主主義の国として建国されたと教育され、信じられているが事実と異なる。米国は、「17世紀前半の古きよき英国を、国王なし貴族なしで実現する」保守主義を国家の理念として、18世紀末に建国された。民主主義は、国家にとっても国民の自由にとっても危険なものだがもはや時代において排撃できないが故に可能な限りデモクラシーに制限を課すことで妥協することとした。初代大統領ジョージ・ワシントン、初代副大統領ジョン・アダムス、初代財務長官アレクサンダー・ハミルトン(外交を事実上兼務)、初代司法長官エドマンド・ランドルフ、初代陸軍長官ヘンリー・ノックスが、みな揃って保守主義者であった。初代連邦最高裁主席判事もジョン・ジェイで保守主義者であった。初代政権内で保守主義者でなかったのは、トマス・ジェファーソン(国務長官)ただ一人であった。米国は“保守主義の冷凍庫”とよばれるが、このような建国の歴史を振り返ると、よくわかる。
朝鮮戦争の勃発と「バーク哲学」の流入[編集]
- 1950年、朝鮮戦争が勃発したとき、この共産主義との戦いのため、米国の知識人たちはバーク哲学をこぞって導入した。そして広範囲に受け入れられた。1950~3年の朝鮮戦争と1960年代のベトナムへの出兵・参戦は、米国における初めての“バーク外交“の実践であった。この朝鮮戦争時に流入したバーク外交と、建国以来の中世的騎士道信条と混交したものが、のち1981年からのレーガンによる「バーク/レーガンの保守主義外交」である。アメリカ兵の死の犠牲を惜しまず、独裁者や共産体制と戦う外交である。全体主義と戦う自己犠牲の精神は、国旗に対する忠誠心とともに、(占領行政に三千名以上に死者を出してもなお動じない)2003年春から4年に及ぶイラク戦争においても遺憾なく発揮されている。これらは、今でも米国保守主義の礎石であり発露となっている。
米国憲法の思想[編集]
- 米国保守主義は、1215年のマグナ・カルタに源泉をもつ。その理由は、マグナ・カルタをコモン・ローとすると共に近代法の原典とした、コークの『英国法提要』(1628~44年)と『判例集』(1600~59年)を根本思想として形成されているからである。十七世紀初頭のコークの法思想の核心「法の支配」を、十八世紀後半に継ぎ再生したブラックストーンの『イギリス法釈義』(1756~9年)は、米国建国の直前に出版され、直ちに建国の父たちの座右の書となった。これらは、コークの法思想が米大陸に植民した当時の英国人の血肉となっていたことを物語っている。米国憲法は、マグナ・カルタ以来のコモン・ローを成文化し、「法の支配」において個人の自由と財産が守られる国を実現すべく制定された。
- 事実上、米国を創ったアレグザンダー・ハミルトンは、右手にマグナ・カルタ/コーク/ブラックストーン、左手にヒュームで、自らの政治哲学を構築した。「あらゆる人間は悪人である」は後者の『人間本性論』の主旨のひとつだが、これに基づき米国憲法で“制限デモクラシー”を定め、国民投票を禁止したように、国民の直接政治参加を可能な限り制限した。コークの『判例集』から、米国憲法の司法の優位である、違憲立法審査権の制度が着想され、ハミルトンが理論化した。米国が、個人の財産の擁護に最大限の法的保護を与える政治となっているのは、まさしくマグナ・カルタを今も実際に“生きた憲法”としているからである。無意識であれ、「自由の大憲章」マグナ・カルタを、この二十一世紀にも掲げることにおいて、米国は「(真正の)自由の王国」であり続けている。
「結果の平等」の忌避[編集]
- 米国の建国において、「結果の平等」は自由を侵害するものとして徹底的に排除された。今なお憲法にある「平等」の字句は、リンカーンによる「(国民に対する)法的保護の平等」(修正14条、1868年)だけである。これとて「法の下の平等」の派生概念であって、「人間は平等である」の思想ではない。「人間は平等である」が米国社会で初めて登場したのは、1960年代のキング牧師の公民権運動からである。これを支持したのが暗殺されたケネディ大統領である。「平等」は今なお国民の大多数にとって、アメリカン・ドリームを障害するものとして忌避されている。
- 米国は「男女平等」に対して、「平等」反対と反フェミズムの思想から、それを忌避する国家である。1960年代から始まる、当時ウーマン・リブと呼ばれのちフェミニズム運動と呼ばれた米国の「男女平等」運動も、1970年代半ばに、米国の中産階級の婦人層の大規模な反撃の前に粉砕された。米国憲法には「男女平等」を意味する条文は皆無である。この反フェミニズムは米国建国以来の“家族重視”の思想が折り重なったものであり、実際にもレーガン大統領は、フェミニズム粉砕と家族の重視を選挙公約とした。
道徳と信仰の尊重[編集]
- 米国が建国にあたって、最も重視したのが、自由の根幹たる「道徳」と「信仰」である。これはフランス人権宣言を百八十度逆転したイデオロギーである。バークの獅子吼なくとも、フランス革命思想は米国に微塵も流入しなかった。ピューリタン革命以前に源をもつ、米国が古きよき英国より継承した固有思想の根づよさを物語る。この米国保守主義の核心をなす「自由、道徳、信仰」は、ワシントン初代大統領の『告別の辞』に理論的に凝集されている。
社会設計の拒絶[編集]
- 米国は、人智で社会を設計的に改造するデカルト的な思想を断固拒絶して建国された。このことは、建国時に多大な思想影響を与えたジョン・アダムスが書いた米国の古典『アメリカ諸邦連合憲法(国体)の擁護』(1787~8年)を読むだけでもよくわかる。フランス啓蒙思想を、粉砕する激しさをもって全否定している。この延長上に、計画経済的/全体主義的な発想はいっさい許されず、ベンサムもマルクスも米国に思想上陸できなかった。
欧米の主要な保守主義思想家一覧[編集]
エドワード・コーク エドマンド・バーク ウィリアム・ブラックストン(「法の支配」の集大成) アレクサンダー・ハミルトン アレクシス・ド・トクヴィル(フランスにおけるバーク哲学の継承、平等と人民主権批判) デイヴィッド・ヒューム ヤーコプ・ブルクハルト ジョン・アクトン ニコライ・ベルジャーエフ(「不平等こそ自由」の哲学) フリードリヒ・ハイエク(理性主義批判、設計主義的合理主義批判) ウォルター・バジョット(権威と権力の均衡・大衆批判・制度改革信仰批判) ホセ・オルテガ・イ・ガセト ハンナ・アレント ヨハン・ホイジンガ ル・ボン モスカ ヤーコプ・ブルクハルト マシュー・ヘイル バーナード・デ・マンドヴィル アダム・スミス アダム・ファーガソン ジョージ・ワシントン ジョン・アダムズ ジェームズ・マディソン バンジャマン・コンスタン ヴィルヘルム・フォン・フンボルト フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー ジョン・カルフーン ベンジャミン・ディズレーリ フョードル・ドストエフスキー ヘンリー・メイン ギュスターヴ・ル=ボン ガエタノ・モスカ アーヴィング・バビット ギルバート・ケイス・チェスタートン ウィンストン・チャーチル(全体主義及び共産主義への武力制圧) ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス T・S・エリオット クリストファー・ドーソン ピーター・ドラッカー マイケル・オークショット カール・ポパー(プラトン批判・ヘーゲル批判・知識社会学批判) レイモン・アロン ロバート・ニスベット ラッセル・カーク マーガレット・サッチャー ロナルド・レーガン
- ド・メストルやド・ボナールは、単なる過去復活主義者で保守主義とは異質である。
- ジョージ・オーウェル(倒置語法/ニュースピークの指摘)は、反ソにすぎず、社会主義者であり、保守主義者ではない。
- 学者と思想家は区別され、原則として単なる学者はこのリストには含まない。
欧米の保守主義思想家が排撃する近代以降の欧米思想家[編集]
デカルト(「人智主義」) ルソー(「平等主義」) スペンサー(「進歩主義」) ベンサム(理性主義・過去の憎悪・命令法学・レッセフェール) ホッブズ(君主主権論・人民主権論・社会契約論) ジョン・ロック(人民主権論) ジョン・スチュアート・ミル(イギリスの社会主義思想・進歩主義) チュルゴー / ディドロ (進歩主義) ライプニッツ ヴォルテール / ダランベール / サン・ジュスト / コンドルセ(「啓蒙思想」・教会の破壊・「平等信仰」・無神論・進歩主義・ユートピア思想) マクシミリアン・ロベスピエール エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス フランソワ・ノエル・バブーフ/ フィリッポ・ブォナロッティ(ルソーの礼賛・「平等主義」を核に社会主義を理論化) サン・シモン コント フランソワ・マリー・シャルル・フーリエ(「フランス社会主義思想」・進歩主義) ダーウィン(進化論・進歩主義) ベルグソン デューイ デューリング ヘーゲル(「理性」の絶対化、「進歩の宗教化」) フォイエルバッハ スピノザ デュルケーム カール・マルクス フリードリヒ・エンゲルス レーニン トロツキー スターリン プルードン /バクーニン/クロポトキン(無政府主義/歴史の憎悪) エルベシウス ゴドウィン プリーストリー ヒトラー オースチン ジェニングス イエリネック カール・シュミット ケルゼン トマス・ペイン フィヒテ ロバート・オウエン フロイト サルトル ニーチェ ハイデカー アドルノ/マルクーゼらのフランクフルト学派の社会学者たち ルカーチ/マンハイム らの知識社会学者たち フーコーらのポストモダン思想家たち バトラーらのフェミニズム思想家たち サイードらのポストコロニアリズム思想家たち
- この項目は、欧米の思想家を対象とするものであって、アジア・日本は別の項目においてまとめるべきである。
機軸を失う「保守」[編集]
- 戦後日本の「保守」とは、国会(衆議院)の三分の一以上を占める社会党・共産党による「日本の社会主義化・共産化」や「日米同盟を解消してソ連側につくこと」に対抗する勢力のことを指してきた。ところが、1991年末のソ連邦の崩壊によって、社会主義化やソ連の侵攻が現実から遠のくことによって、「保守」は基軸を失い、その実体は迷走的に混沌に浮遊して、今や定義すらほとんど不可能になった。
大東亜戦争にかかわる「保守」による自己弁明と詭論[編集]
- 日本の「保守」の中核を占めるのは、全く思想的なものから無縁の、日常の経済的な幸せを追求するいわゆるノンポリの大群を除けば、民族系の団体や論客たちである。彼らの主義・主張は、敗戦となって極東国際軍事法廷で裁かれた大東亜戦争の戦没者や従軍した元将兵の名誉を守ることに終始する。そのため、大東亜戦争が国益において容認されるべきか否かの問題については関心がない。南京事件/従軍慰安婦/百人斬りなど偽造された歴史への憤激という健全なものも一部あるが、それ以外はむしろ積極的に歴史を歪曲しても、大東亜戦争を自己弁明する無理筋な詭論となっている。
大東亜戦争の肯定は「反・保守主義」[編集]
- 大東亜戦争は三田村武夫の『大東亜戦争とスターリンの謀略』が明らかにしているように、歴史的にもスターリンや毛沢東が背後で大きく関与して起された戦争である。とすれば、大東亜戦争を肯定することは、反・共産党権力を絶対とする保守主義とは背反する。同様に、大東亜戦争は、保守主義が打倒すべき「敵」と考える、全体主義国家のヒットラーのドイツやムッソリーニのイタリアと三国同盟を締結し、加えて、最凶の全体主義体制で数千万人の自国民を殺害したスターリンのソ連と中立条約まで結んでの戦争である以上、それこそ「反・保守主義」の極みでなくて何であろう。
- また、国は逝きし祖先とまだ生まれていない子孫と現世代による「精神の協同体」である。その国は、すべての祖先の眠る墳墓をいだく固有の領土を土台とする悠久の建造物である。固有の領土を失った戦争は国に対する大叛逆行為である。それゆえ、樺太と国後・択捉島を失ったことにおいて、大東亜戦争は糾弾されねばならないし、その首謀者に対する死刑を含む処断は、日本国の存続の要諦である。さらに、ロシア(ソ連)の侵攻に対する日本の安全保障上最高の権益の地であった満洲の喪失も許されない。これらのことにおいても、大東亜戦争を肯定するものは、わが固有の領土や安全保障上の権益地の喪失を認めることになり、反・国家/反愛国の亡国主義(アナーキズムの一形態)を意味する。だから、「保守主義」においては大東亜戦争は全否定される。
- 大東亜戦争は、「保主主義の国」英米に対する日本の全面戦争である。この点においても、日本が「反・保守主義」の国であったことは自明である。
国家総動員法は「反・保守主義」[編集]
- また、日支戦争が始まったばかりで「早期講和」が世論の絶対多数であった1938年4月1日、近衛文麿内閣により国家総動員法が制定された。日本をスターリンの第一次五ヶ年計画に模した計画経済体制の国に移行させるべく、「軍隊への総動員」と間違われるように工夫されたものである。この法律に従い、価格等統制令/電力調整令/地代家賃統制令/賃金統制令など、日本のソ連化が“上からの革命”で強制されていった。保守主義は、ミーゼスやハイエクを持ち出すまでもなく、“自由市場の擁護”を、その要諦の一つとする。日本の計画経済化が目的の一つである国家総動員体制は、自由を擁護する保守主義とは正反対の、自己破壊的な外交政策である。それゆえ、保守主義は国家総動員法を断固排撃する。
「保守論壇」における女系天皇論という「反・保守主義」[編集]
- 日本の「保守論壇」と称されるものは怪しげである。2005年に小泉首相が女系天皇制度を強行導入しようとした際、『文藝春秋』『諸君!』『VOICE』は、『朝日新聞』や『世界』に組して、天皇制度の自然消滅に至る女系天皇制の支持に熱を上げた。実際にも、当時の月刊誌の編集長で天皇制廃止論者でなかったのは、たった一人『正論』だけだった。そればかりか、いわゆる「右翼」の大東塾や皇国史観の平泉澄の門下生から陸続と女系制(=天皇制廃止)論者が出た。一例をあげれば、神社本庁とも昵懇な田中卓(元・皇學館大學学長)は、自分の専門の古代史を曲解してまで女系天皇の制度化を吹聴した(田中卓論文は、『諸君』2006年3月号)。彼は、二千間の祖先から続く皇位継承の“法”を護持することよりも、それを逆に革命的に破壊する信条の持ち主だった。平泉澄を私淑する小堀桂一郎も、立法的には女系制度と同じになる、皇族に養子や女性宮家の導入を提唱して皇統二千年間の慣習を全面破壊しようとした(小堀桂一郎の女性宮家/養子論は、『正論』2006年11月号、270頁)。
- 『VOICE』の編集長「吉野隆雄」、『諸君』の編集長「仙頭寿顕」は、『文藝春秋』の編集長「飯窪」とともに、過激な天皇制廃止論者であった。「保守論壇」というものは、実態としては消滅していると見るのが現実だろう。
- なお、小堀は「万世一系」の語源も見極めていない。小堀は水戸学からだろうとしている(『皇位の正統性について』、明成社)。さらに、「皇位の正統性」という奇語を造語したが、『神皇正統記』の「正統」を英語のorthodoxyだと誤読したらしい。わが国のこの偉大な古典は、英語に直すと『RIGHT IMPERIAL LINEAGE』であり、「正統」の意味はない。
- 小堀桂一郎は、女系天皇反対のリーダーを自認している。しかし、共産党に加担して女系天皇制度への革命を叫ぶ、田中卓/所功/高森明勅は、すべて小堀の友人でもある。小堀は彼らに対して一言に批判もしなかった。小堀にとって皇統断絶は、友人との訣別を冒してまで憂慮する価値はない程度の、どうでもいい些事であることが証明された。この田中卓論文の転倒したレトリックと古代史の歪曲は、日本では古代史/法制史/憲法学の専門力において中川八洋だけしか徹底的に反駁しえない。しかしながら、神社本庁など日本の民族系団体は、皇統護持問題より、田中卓との日頃の個人的な付き合いを優先するのだろう、中川には依頼しなかったようだ。各団体の機関誌にも商業雑誌にも中川の田中卓批判論文はみあたらない。
日本の「保守」はほぼ全員、「反・保守主義」者である[編集]
- このように見れば、靖国神社にしろ日本会議にしろ、日本の民族系の組織や団体や民族系論客は、「反・保守主義」を旗幟とすることがわかる。「反米保守」という奇怪な言語が日本にあることも、日本における、“保守主義の不在”を明らかにしている。保守主義の思想とは、“英米系保守主義”を意味しそれ以外はありえない以上、必然的に英米とは“思想の盟邦”とならざるをえない。また、保守主義の外交とは、全体主義と断固として戦うのであるから、英米と連携する外交以外にはなりえない。
- 軍事的・防諜的な国防を忘れて、日本周辺の軍事大国ロシアや共産支那の軍事脅威の現実を無視し、日本の亡国に直結する「自主防衛」を妄想する、即ち、国家の安全と存続をいっさい考えないのが、「反米保守」の正体である。戦後日本で「自主防衛論」者にソ連のKGB工作員がかなり多かったのは、この状況を傍証している。「反米」や日米同盟否定論は、愛国心を喪失した“反日の左翼”であって、この点でも「反米保守」は左翼の変種であり、反・保守主義である。
- 中川八洋は、国際的に通用する日本の国防にかかわる軍事専門家であり、日本核武装を学術的に研究している唯一例外的な研究者である。彼の主張には「反米」がいささかもない。現実の日本の地政学的な位置と国際環境、国内状況、これらの不利な情勢下で“健全な愛国”は、「親米」以外では成立しないことを踏まえているからである。一方で、中川八洋は、現状の自衛隊を肯定しているわけではない。法制上重武装の警察にすぎない自衛隊を、国際法上明確に国軍として位置づけると同時に、国民が国防の義務を負い、国に殉じた兵士の聖別、防諜の徹底、公務員からの唯物主義者・無神論者の追放、反日の憲法を改め日本の伝統および「法の支配」に基づいた憲法への改憲をも強く主張している。
- これらのことは、戦争放棄の憲法を改正し国防軍の設置と精強な軍事力を保有してもなお、長大な縦深をもつロシアからの日本の安全は充分でない。そのため背後に米国の存在なしには日本の国防は成り立たない。米国との同盟は、日本の存続にとって死活的な選択であって、他の選択は日本の消滅に必ず至る。国家安全保障において、地政学的に日米同盟は不可避である。そのため、絶えず米国との友情を確認しあう行為が必要であり、その一つとして、要請があれば必ず世界のどこでも米国とともに血を流すことを欠いてはならない、ということであろう。
- 国が存在して初めて、固有の領土である樺太と国後・択捉島を回復できるのであり、竹島や尖閣列島に対する周辺の国家からの領有権を拒絶できる。また、日本が祖先からの歴史・伝統ならびに文化をさらなる磨きをかけて子孫に相続させてゆく真正の自由と独立を享受できる。さらに、世界の偉大な国々からよきものを学び、それを日本の血肉とすることもできるのである。日本国という「血統の協同体」の永遠の存続は、謙虚かつ慎重に熟慮して、国民が血と汗と智慧を流し続けて初めて可能となる。
日本の数少ない保守主義者とは?[編集]
- 戦後の日本で保守主義者と目されるのは、三国同盟への反対はむろん、大東亜戦争に一貫して反対し続けられた昭和天皇を除けばわずかしかいない。政治家では吉田茂、知識人では『ビルマの竪琴』の著者である竹山道雄ぐらいである。福田恒存を含めるか否かはかなり意見が分かれるかも知れないが、定義的に少し難があろう。近年では、中川八洋を加えてもよいだろう。日本で初めてルソーとフランス革命を激しく批判し、“旧慣(古来からの慣習)の尊重”を立法の根幹に据えた、明治時代の法制官僚のトップである井上毅が、日本を代表する“保守主義の碩学”であるのは言うまでもない。明治以降、なかんずく戦後、日本には保守主義者がほとんどいないのが実情である。
- 古来からの制度・慣習の重視において国体(基本政体その他)を法制化した(明治憲法と皇室典範を起草した)井上毅は、フランスで法律学を学びドイツ統一(1871年)以前のドイツ諸邦の王制憲法を参考にし、英米憲法を直接研究したことはないが、その憲法思想は米国のハミルトンや英国のバークに近似している。ルソーを唾棄しフランス革命を全否定する基本においても、井上は両名と“思想の同志”であった。井上毅の思想の根幹は「旧慣の尊重」である。井上は、明治憲法と皇室典範の起草にあたり、記紀から近世に至る日本の法制に関する古文書を精読し、わが国固有の法思想を把握した上で、欧米の憲法の術語を駆使して成文化した。井上が唾棄するのは、バーク/ハミルトン同様、ハンス・ケルゼン的な人定法主義であり、井上の立法作業からデカルト的な「法制度の設計」は完全に排撃されている。明治憲法をプロイセン風と名づけるのは表層にすぎ、日本風である本質が忘れられている。この故に、国際的にも明治憲法は英国憲法型に分類されている。井上の思想は、彼の手になる『憲法義解』『皇室典範義解』においても簡潔かつ明確に述べられている。
- 中川八洋の原稿用紙1200枚に及ぶ「皇位継承三部作」(2005~7年)は、井上の『皇室典範義解』(1889年)を120年を経て平成日本に再生する意図をもって執筆された「第二の皇室典範義解」である。バーク・ハミルトン・井上毅に私淑する中川は、『国民の憲法改正』に見るごとく、基本においては明治憲法の復興を試みており、結果として「平成の井上毅」そのものになっている。
- また、教育勅語(1890年)の主起草者(従起草者は元田永孚)である井上毅の倫理・道徳重視はまさしくバークでありハミルトンである。教育勅語において、井上は「バーク/ハミルトンのクローン人間」といってよいだろう。中川の「倫理・道徳に満ちる国家」への“日本の再建”論も、その『教育を救う保守の哲学』で明らかだが、中川はその多くをハミルトンから学んでいる。
- チャーチル/レーガン/サッチャーの反共反ソ外交は、理論的にも精神においてもバークに依拠しバーク的な軍事的制圧を旨としている。日本でこの「バーク→チャーチル→レーガン/サッチャー」を思想的に継承しているのは中川八洋ひとりと見ざるをえない。むろん中川と吉田茂の反ロ主義は、小村寿太郎らに代表される明治外務省の伝統路線の系譜上にある。保守主義と「反共・反ソ・反ナチ」は不可分の関係にある。
- 中川の現代史とくにその大東亜戦争の研究は、昭和天皇がおもちであった大東亜戦争観を忠実に現代史の正史にせんとする作業とも見られる。昭和天皇は確かに「親英米/反アジア主義/反ロシア主義」であり、また強度の「反・社会主義」者であられた。2・26事件への武力弾圧の断固たる昭和天皇のご意志は後者の一例だし、『リットン調査団報告書』の全面受諾論/日独伊三国同盟への拒絶反応/対英米戦争開戦絶対反対/ポツダム宣言への深い信頼/沖縄防衛の米国委任論などは、昭和天皇の前者の「親英米」外交観を示すほんの一部に過ぎない。昭和天皇の吉田茂への信頼が吉田の親英米主義外交にあるのは言うまでもなかろう。反・社会主義の色が濃厚な『昭和の精神史』において2・26事件に対して排撃的な嫌悪感情を露にする竹山道雄はまた、日本人の中では稀有な「東京裁判準支持論」者であったが、1958年の論考「日本文化の位置」で見せた、竹山の「親英米/反アジア主義」は、昭和天皇のそれと通底するところが多い。
保守主義を学ぶための参考図書[編集]
- 岸本広司『バーク政治思想の形成』、御茶ノ水書房
- 岸本広司『バーク政治思想の展開』、御茶の水書房
- Russell Kirk,The Conservative Mind,Regnery,1953
- クリントン・ロシター『アメリカの保守主義』、有信堂、原著1955年
- S・Huntington,“Conservatism as an Ideology”, American Political Science,1957.注;邦訳がある。
- H・セシル卿『保守主義とは何か』、早稲田大学出版部、原著1912年
- 中川八洋『正統の哲学 異端の思想――「人権」「平等」「民主」の禍毒』、徳間書店, 1996年
- 中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』、中央公論新社[中公叢書]、 2002年
- 中川八洋『保守主義の哲学』、PHP、2004年
- 中川八洋『国民の憲法改正――祖先の叡智日本の魂』、ビジネス社, 2004年
- 中川八洋『悠仁天皇と皇室典範』、清流出版, 2007年
- ロバート・ニスベット『保守主義』、昭和堂、原著1986年
- アンソニー・クイントン『不完全性の政治学』、東信堂、2003年。原著1978年。
- このほか、P・ヴィーレック『保守主義ー―フランス革命からチャーチルまで』(日本外政学会、原著1956年)が翻訳されているが、上記の翻訳書に比すれば、内容的に劣る。スターリン崇拝の知識社会学者であるマンハイムの『保守主義思考』(ちくま学芸文庫)は、保守主義の全面打倒を信条とする視点からのもので、保守主義の歪曲も企図されている。丸山真男の共産革命の方法は、このマンハイムから最も強い影響を受けており、丸山はスターリン崇拝においてもマンハイムと同志であった。
- 反・共産党だけでは保守主義ではない。なお、戦後日本には尊敬できる人格的にも第一級の「反共」知識人が三名いた。小泉信三、福田恒存、林健太郎である。この三名は「日本の保守」の代表であるのは言うまでもないが、英米系保守主義者か否かといえば、その定義には当て嵌まらない。