百人斬り競争
百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、日中戦争初期の南京攻略戦時に、日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るかを競ったとされる競争である。この模様は、当時の大阪毎日新聞と東京日日新聞において報道されたが、この行為が事実か否か、誰を斬ったのかを巡って論争となっている。名誉毀損として訴訟問題としても発展している。
概要[編集]
この競争の模様は、大阪毎日新聞と1937年11月30日付けと12月13日付けの東京日日新聞(現在の毎日新聞)によって報道された。その報道によると、日本軍が南京へと進撃中の無錫から南京に到る間に、日本軍の向井敏明少尉(歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と野田毅少尉(歩兵第9連隊-第3大隊副官)のどちらが早く100人を斬るか競争を行っていると報じた。
1937年11月30日付けの東京日日新聞記事では、無錫-常州間で向井少尉は56人、野田少尉は25人の支那兵を斬ったと報じている。また、1937年12月13日付けの記事では、12月10日に記者と会った時のインタビューとして、すでに向井少尉は106人、野田少尉は105人の支那兵を殺害しており100人斬り競争の勝敗が決定できず、改めて150人を目標とする殺害競争を始めると報じている。
戦犯裁判[編集]
戦後、向井・野田両少尉は、東京日日新聞の報道などを基に南京軍事法廷において起訴され、死刑判決を受け、1948年1月28日に南京郊外で処刑された。
論争[編集]
その後この事件は忘れられていたが、1971年に本多勝一が書いたルポルタージュ『中国の旅』(朝日新聞連載、のちに単行本化された)でこの事件とその報道が取り上げられた。これに対し、イザヤ・ベンダサン(山本七平とされる)が百人斬り競争は「伝説」だとし、これに対し本多が反論した。その後、鈴木明が議論に加わった。更に、山本七平は『中国の旅』批判の一部として“100人を斬り殺すなど不可能”として議論した。これらの議論に対して洞富雄が批判を行った。
それ以来、南京大虐殺について虐殺「あった」派から「百人斬り競争」が言及され、大虐殺「なかった」派は『肯定論の非論理性』を指摘するという構図となっている。そもそも南京大虐殺は日本軍による組織的な事件とされていることから「百人斬り競争」をその事実肯定の根拠とするのは見当はずれとの見方もあり重要視されていない。
近年、本宮ひろ志の漫画『国が燃える』が南京大虐殺をとりあげ、この事件が事実かのような描写が含まれていたが、抗議を受けて謝罪と訂正がなされた。
争点[編集]
- 記事の性質 戦時中であったことから、東京日日新聞の記事は戦意高揚のための記事であり、その内容は創作ではなかったかと指摘される。この記事を書いた一人である鈴木二郎は『丸』1971年11月号において、実際に両少尉が人を斬ったのは見ていないが、両少尉の証言を基に書かれた記事であることを述べている。
- 日本刀の性能 日本刀で人間を100人斬ることは不可能だとの指摘がある。当時の日本刀は指揮官用の指揮刀としての性格が強く、人を一人斬っただけでも刃がガタガタになってしまうものもあったが、軍刀は将校の通常装備品として多数戦場に存在し、「百人斬り」に必要な本数を調達するのは困難ではなかったとも言われている。しかし、わざわざ「百人斬り」の為に必要な本数を調達する事は現実問題としてありえないとも言われている。
- この他に、百人斬り競争の存在を否定する根拠、肯定する根拠は以下の通りとなっている。
- 否定する根拠
- 当時向井少尉は手足を負傷しており、百人斬り競争に参加することは不可能であったという証言がある。
- 銃器が発達した近代の陸上戦闘では、白兵戦における個人の戦果を競うという概念はない。
- 向井少尉は砲兵隊の小隊長であり、野田少尉は大隊の副官であった。両者とも所属が異なり、最前線で積極的に白兵戦に参加する兵科ではない。さらに、兵科の違う二人が、相談して「何らかの戦果を競争する」ということは不自然である。
- 「大本営発表」にも見られるように、戦時報道は言うまでもなく、両少尉の証言は戦意高揚、武勇伝としてのものである。
- 戦時ではごくありふれた戦意高揚の武勇伝を、戦後南京大虐殺関連のプロパガンダの一環として悪用されたものであり、当時はもとより現在係争中の裁判に於いてもそれを裏付ける根拠が乏しく、法的にも事実であったとするに足る根拠が一切示されていない。
- 南京戦従軍当時の佐藤氏の従軍メモをもとにした回想記「従軍とは歩くこと」(偕行社『南京戦史資料集Ⅱ』掲載)と証言が事の真実を綴っている。歴史認識を覆す佐藤振壽氏の証言
- 否定する根拠
- 肯定する根拠
- 野田少尉と同郷である志々目彰は小学生の頃、学校で野田少尉が講演を行い、百人斬りの実行の話を聞いたことを月刊誌『中国』1971年12月号において証言している。
- 野田・向井両少尉と同じ大隊に所属していた望月五三郎の手記『私の支那事変(私家版)』では、百人斬りの一環として、向井少尉が無辜の農民を日本刀で惨殺したことを証言している。
- 当時の南京の状況や日本軍の状況を考えると、「百人斬り」の様な残虐行為があっても不自然ではない。
- 戦闘中の行為としてはおよそ不可能な行為だが、ほとんどは戦闘終了後の捕虜「処分」時に行われたと考えられる(志々目手記、望月手記にも示されている)。
- 少なくとも、戦時中は野田・向井両名とも事件を否定するような証言はしておらず、むしろ自分の故郷などで武勇伝的に語っていた。 また、大阪毎日新聞鹿児島沖縄版1938年1月25日付の記事では、故郷の友人に宛てた手紙が掲載されており、百人斬りの実行を記している。
- 戦時中の証言には、無抵抗の支那兵を投降させて殺害したとの本人証言があった。(志々目手記に記載)
- 肯定する根拠
訴訟[編集]
2003年4月28日、両将校の遺族が遺族及び死者に対する名誉毀損にあたるとして毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一らを提訴した。本裁判は、2005年8月23日、東京地裁において原告請求全面棄却の判決が出された。 この訴訟の過程で回想記や新聞記事など新たな資料が発見された。一審は、『両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である』(一審判決文114頁)と指摘した。 また、指摘された事実または評論が「一見して明白に虚偽であるにもかかわらず、あえてこれを指摘した場合」(109頁)を死者に対する名誉毀損の判断基準とし、その上で、本多勝一の著述が「一見して明白に虚偽であるとまで認めるに足りない」(116頁)と判断、60年余り前の記事を毎日新聞が訂正しなかったことについて先行する違法行為がなく、また、民法724条の除斥期間が経過している(117頁)として原告の請求を棄却した。
原告は控訴、2006年2月22日、東京高裁は一回審理で結審した。なお、控訴人が提出した第2準備書面の一部の陳述について、裁判長は内容不適切(裁判官侮辱)につき陳述を認めないとした。結審の後、控訴人側弁護士は裁判官の忌避を申し立てたが3月1日却下された。(結審後の申立てや訴訟指揮を理由とした裁判官忌避は通常認められない。)
原告側は上告したが同年12月22日、最高裁第2小法廷にて上告棄却、敗訴確定。
参考文献[編集]
百人斬り競争を伝える新聞雑誌記事[編集]
1937年(昭和12年)
- 『東京日日新聞』11月30日 「百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人」
- 『大阪毎日新聞』12月1日 「南京めざし快絶・百人斬り競争」
- 『大阪毎日鹿児島沖縄版』12月1日 「百人斬りの“波平”二百本の中から選んだ銘刀 田代村出身野田毅少尉」
- 『大阪毎日鹿児島沖縄版』12月2日 「同僚たちは新聞にも書かれる手柄をした 百人斬り念願野田少尉」
- 『大阪毎日新聞』12月4日 「百人斬り競争後日物語 八十六名と六十五名 鎬をけづる大接戦! 片桐部隊の向井、野田両少尉 痛快・阿修羅の大奮戦」
- 『東京日日新聞』12月4日 「急ピツチに躍進 百人斬り競争の経過」
- 『東京日日新聞』12月6日 「“百人斬り”大接戦 勇壮!向井、野田両少尉」
- 『大阪毎日新聞』12月7日 「百人斬り競争の二少尉 相変らず接戦の猛勇ぶり」
- 『大阪毎日新聞』12月13日 「106対105 百人斬り競争の向井、野田両少尉 血染の秋水輝かに南京入り」
- 『東京日日新聞』12月13日 「百人斬り“超記録”向井106-105野田 両少尉さらに延長戦」
- 『大毎小学生新聞』12月13日 「弱冠ながら昭和『孫六』こゝにあり 百人斬り競争に関町の歓声」
- 『鹿児島新聞』12月18日 「百人斬り名選手野田毅少尉」
- 『大阪毎日鹿児島沖縄版』12月25日 「二百五十三人を斬り今度千人斬り発願 さすがの“波平”も無茶苦茶 野田部隊長から朗信」
- 『日の出』1月号 柳川武彦「南京攻略戦の花! 報国百人斬り競争」
1938年(昭和13年)
- 『大毎小学生新聞』1月26日「千人斬りの誓い 斬りまくる二百五十三人 百人斬り競争の野田部隊長」
関連記事[編集]
(発表誌、著者、記事題名の順に記述)
- 『偕行』1970年7月号~1971年1月号連載 「野田毅兄遺言」
- 『丸』1971年、11月号 今井正剛「私はあの南京の“悲劇”を目撃した」
- 『朝日新聞』1971年、11月5日夕刊 本多勝一「中国の旅 23 第三部南京事件」
- 『月刊中国』1971年、12月号 志々目彰「日中戦争の追憶“百人斬り競争”」
- 『諸君!』1972年1月号 ベンダサン『九・朝日新聞の「ゴメンナサイ」』
- 『諸君!』1972年2月号 本多勝一「イザヤ・ベンダサン氏への公開状」
- 『諸君!』1972年3月号 ベンダサン「本多勝一様への返書」
- 『諸君!』1972年4月号 本多勝一「雑音でいじめられる側の眼」
- 『諸君!』1972年4月号 鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』
- 『諸君!』1972年4月号 ベンダサン「本多勝一様への追伸」
- 『諸君!』1972年5月号 ベンダサン『十一・広津氏の四原則と「中国の旅」』
- 『諸君!』1972年6月号 ベンダサン『十二・「百人斬り」と「殺人ゲーム」』
- 『週刊新潮』1972年7月29日号 古森義久「『南京百人斬り』の“虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中のかけ橋の花形」
- 『諸君!』1972年8月号 山本七平「[1]岡本公三を生んだ“日本軍内務班”」
- 『諸君!』1972年8月号 鈴木明「向井少尉はなぜ殺されたか」
- 『諸君!』1972年9月号 山本七平「②2・26事件青年将校と岡本公三の間」
- 『諸君!』1972年9月号 ベンダサン「十四・お祭りリズムと日本イズム」
- 『諸君!』1972年10月号 ベンダサン『最終回・さよなら「天秤の世界」』
- 『諸君!』1972年10月号 山本七平『③「戦場のほら・デマ」を生みだすもの』
- 『諸君!』1972年12月号 鈴木明「向井少尉はなぜ殺されたか・補遺」
- 『諸君!』1972年11月号 山本七平『④「トッツキ」と「イロケ」の世界』
- 『歴史評論』269、1972年11月 洞富雄『軍隊教育に培われた青年将校の精神構造--「百人斬り競争」は「事実」であったか「語られた事実」であったか』
- 『諸君!』1972年12月号 山本七平「⑤ジャングルを出るということ」
- 『諸君!』1972年12月号 鈴木明「南京・昭和十二年十二月」
- 『諸君!』1973年1月号 山本七平『⑥「王様より王党的」な民間人』
- 『諸君!』1973年2月号 山本七平「⑦煽動記事と専門家の義務」
- 『諸君!』1973年3月号 山本七平『⑧すべてを物語る「白い遺髪」』
- 『毎日新聞』1973年3月23日夕刊 平野謙『「南京大虐殺」のまぼろし』書評
- 『諸君!』1973年4月号 山本七平『⑨不安が生みだす「和気あいあい」』
- 『諸君!』1973年5月号 山本七平『⑩「親孝行したい」兵隊たち』
- 『文藝春秋』1973年5月号 鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし(第四回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作品)』、『書評』
- 『諸君!』1973年6月号 山本七平「⑪精神的里心と感覚的里心」
- 『週刊読書人』1973年5月28日 『「南京大虐殺」のまぼろし』書評
- 『諸君!』1973年7月号 山本七平「⑫戦場で盗んだ一枚のハガキ」
- 『諸君!』1973年8月号 山本七平『⑬「日本刀神話」の実態』
- 『諸君!』1973年9月号 山本七平「⑭白兵戦に適さない“名刀”」
- 『諸君!』1973年10月号 山本七平「⑮S軍曹の親指」
- 『諸君!』1973年11月号 山本七平「⑯戦場の内側と外側」
- 『諸君!』1973年12月号 山本七平『⑰軍隊での「貸し」と「借り」』
- 『諸君!』1974年1月号 山本七平「⑱陸軍式“順法闘争”の被害者」
- 『諸君!』1973年3月号~1974年2月号連載 山本七平「ある異常体験者の偏見」
- 『諸君!』1974年2月号 山本七平「⑲捕虜・空閑少佐を処決させたもの」
- 『諸君!』1974年3月号 山本七平『⑳「時代の論理」による殺人』
- 『諸君!』1974年4月号 山本七平『(最終回)最後の「言葉」』
- 『正論』2000年3月号 鵜野光博(聞き書き構成)・向井千恵子『「無実だ!」父の叫びが聞こえる 南京戦百人斬りの虚報で処刑された向井少尉次女が慟哭の告白』、『「百人斬り競争」の虚報を証明した野田少尉の手記』
- Bob Tadashi Wakabayashi "The Nanking 100-Men Killing Contest Debate: War Guilt Amid Fabricatioed Illusions, 1971-75", The Journal of Japanese Studies Vol.26 No.2, Summer, pp.307-340
- 『産経新聞』2001年5月12日東京朝刊 古森義久『米国人歴史学者が論文 日本軍南京攻略 「百人斬り」やはりねつ造』
- 『産経新聞』2001年6月18日東京朝刊 「“百人斬り”で処刑された野田毅少尉 新たに発見された手記」
- 『正論』2001年8月号 鵜野光博『「百人斬り競争」の虚報を証明した野田少尉の手記』
- 『週刊金曜日』2002年8月2日(422号) 「ボブ・若林正、狡猾な引用をされた例として」
- 『諸君!』2003年9月号 向井千恵子「裁かれる百人斬り捏造報道」
- 『正論』2003年7月号 稲田朋美『「百人斬り」大虚報に頬かむりしてきた朝日・毎日の報道責任』
- 『季刊中帰連』2003年27号(冬号) 『南京「百人斬り競争」と歴史の事実』
- 『週刊金曜日』2003年12月12日(488号) 渡辺春己・笠原十九司・鈴木千彗子「南京大虐殺の百人斬り競争をいま裁判沙汰にする背景は何か」
- 『正論』2003年12月号 亜羅健一「名誉回復のその日まで」
- 『歴史地理教育』666、2004年3月 鈴木千慧子「〈百人斬り競争〉訴訟はなぜ起こされたか 」
- 『週刊金曜日』2004年4月23日(505号) 星徹『「百人斬り競争」を裏づける新資料を発見!』
- 『週刊新潮』2004年7月22日 『[特集]南京大虐殺「100人斬り訴訟」が暴いた大新聞の「歴史的ウソ」』
- 『週刊金曜日』2005年2月25日(546号) 笠原十九司『「国が燃える」削除・修正問題と南京事件』
- 『戦争責任研究』50、2005年冬季 小野賢二「報道された無数の〈百人斬り〉」
- 『世界』2005年11月号(no.745) 熊谷伸一郎『歴史修正主義との闘い 検証 南京事件・「百人斬り」訴訟--問われる戦後責任・報道責任』
- 『政経研究』第四十二巻第一号、第四号( 日本大学法学会) 秦郁彦『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実 (一)(二)』
単行本[編集]
- Hugh Byas,"The Japanese Enemy : his power and his vulnerability",New York Knopf,1942(邦訳は『敵国日本』刀水書房、2001年、pp.89-90)
- John B. Powell,"My Twenty-five Years in China",The MacMillan Company,1945, pp.305-308
- 洞富雄『近代史の謎』人物往来社、1967.10
- 洞富雄『南京事件』新人物往来社、1972.5
- 鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』文藝春秋、1973.3
- 山本七平『ある異常体験者の偏見』文藝春秋、1974.5
- 洞富雄『「まぼろし」化工作批判 南京大虐殺』現代史出版会、1975.8
- 山本七平『私の中の日本軍 上、下』文藝春秋、1975.11-12
- 本多勝一編『ペンの陰謀』潮出版、1977.9
- 本多勝一『中国の旅』朝日文庫、1981.12
- 洞富雄『決定版・南京大虐殺』徳間書店、1982.12
- 本多勝一編『殺す側の論理』朝日文庫、1984.5
- 巣鴨遺書編纂会『復刻 世紀の遺書』講談社、1984.8、野田pp.1-8・向井pp.40-42・谷寿夫pp.50-1・田中軍吉pp.82-83
- 胡菊蓉『中外軍事法廷審判日本戦犯 - 関於南京大屠殺』南開大学出版、1988
- 本多勝一『南京への道』朝日文庫、1989.12
- 南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』青木書店、1992.10 (チャィナ・ウイークリーレビュー 1938年1月1日号記事、pp.538-540)
- 南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 2中国関係資料編』青木書店、1992.10 (「南京軍事裁判資料」pp.290-364)
- 鈴木明『新「南京大虐殺」のまぼろし』飛鳥新社、1999.10
- 南京事件調査研究会『南京大虐殺否定論 13のウソ』柏書房、1999.10
- 板倉由明『本当はこうだった南京事件』日本図書刊行会、1999.12
- ジョシュア・A・フォーゲル編『歴史学のなかの南京大虐殺』柏書房、2000.5